日本史大戦略 Side-B 附 東国を歩く会 ~関東・東北の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【クラブツーリズム】2017年は1年かけて東北の古代・中世史の講座を開催します!【旅の文化カレッジ】

2016-12-06 23:03:32 | 八王子・東京・西関東の歴史
 まずは最近お気に入りのYouTubeをチョロッと。

 大好きなサカナクションの新曲「多分、風。」



 YMOの「君に、胸キュン。」と同じ点の打ち方がにくいです。

 シンセのバッキングが私の曲で良く聴かれるものと同じテイストで、「あれ、これって俺が作ったっけ?」と思っちゃいましたが、同じ趣味の人は出てくるものも一緒なんですねえ。

 YMOといえば、高橋幸宏も参加しているMETAFIVEから「Musical Chairs」



 カーラヂオで初めて聴いたときに「おー、YMO!」と思わずニヤニヤしながら車を運転していました。

 さらにMETAFIVEをもう一曲、「Don’t Move -Studio Live Version-」



 ついで、当時「ポストYMO」と言われたURBAN DANCEのヴォーカル・成田忍の「DEAR FUTURE」



 ・・・みたいな。

 ところで話は全然変わりますが、今年は新宿のクラブツーリズムにて古代東北のエミシについて、合計3回話す機会をいただきました。

 東京開催であっても東北の歴史に興味があって受講していただけた方が思いのほか多く、予想を超える参加者の多さに感激しました。

 そのため、性懲りもなく私はクラツーさんに企画を持ち込み、来年(2017年)は1年かけて全12回の座学をやらせていただけることになりました。

 クラブツーリズムが発行している「旅の文化カレッジ」12月号に掲載されています。



 こちらが拡大!



 興味のある方は、クラブツーリズム公式サイト内の詳細ページをご覧ください。

 第3回まではすべて催行が決定していますので、すでに申し込んでいただけた方はどうぞご安心してくださいね。

 それと、ありがたいことに上記のような講座はぜひ東北で開催して欲しいという声が二三聞こえてきています。

 今すぐは難しいですが、将来は東北で話したいですし、むしろ話をさせていただくことが可能でしたらどうぞ稲用までご連絡ください。

 ツアーに関してはクラツーの専属という立場ですが、講演・講座に関しては日本中どこでもやらせていただきますよ!



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【葛飾北斎ツアー下見その3】予想以上に面白かったため時間がかかってついに日没【両国界隈】

2016-12-04 14:01:18 | 八王子・東京・西関東の歴史
 前回の記事にもチョロッと書きましたが、私は1998年に「偏重頭脳発表会」というホームページを立ち上げ、その中の一コーナーとして、主に東北の城館跡のルポルタージュを紹介する「奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)」を設けていました。

 その後、当該ホームページは「奥州城壁癖」の方がメインとなってホームページ自体の名称もそれに変更し、二百箇所以上の城館跡を紹介するに至ったのですが、特に2004年のGWには、9泊10日で岩手・青森の城館跡探訪を強行実施し、そのとき岩手・青森の仲間たちから多大な協力を得ることができました。

 そしてそのときの調査旅行の際、遠野のとらねこさんが調整をしてくれて、八戸のたぬさん、「近世こもんじょ館」の工藤先生とともに、紫波町の中野さんにも来ていただき盛岡にて飲み会を実施したのです。

 その調査旅行の9日目には、中野さんのお父さまが岩手県九戸村の郷土史研究家(『九戸村史』を執筆)である古館先生を紹介してくださり、古館先生からはマンツーマンで九戸村の館跡を案内していただくことができました(それより前、古館先生は『天を衝く』を執筆中の作家・高橋克彦先生も案内されています)。

 そんなこともあり、その日の夜は中野さんのご実家に招いていただき大変な歓待を受け、翌日の最終日は紫波へ戻る中野さんの車に乗せていただき、紫波町にある高水寺城などの城館跡を一緒に見た後、盛岡駅まで送っていただいたのです。

 それ以降、中野さんとリアルに会うことはなかったのですが、今回上京するということで連絡を下さり、昨日は中野さんも以前から興味があったというたかお食堂にて飲み会を実施することにしました。

 さらに午後の時間が多少空いているということでしたので、たかお食堂の夜の部がオープンするまでの少しの間、私がガイドで探題がツアコンをして八王子駅周辺の歴史めぐりを催行したのです。

 もとより、中野さんは八王子には縁がなく、したがってあまり興味がないことだと思いますが、八王子と奥州は少しは歴史的なつながりがありますので、それを紹介したくて完全な「おせっかいツアー」を催行したわけです。

 そして2時間半ほど歩いた後はたかお食堂へ入って3人で打ち上げをしました。

 中野さんとは12年ぶりの再会だったのですが疎遠な感じはなくて、懐かしい話や近況報告などもできてとても楽しく、また紫波の郷土史研究を続けていらっしゃるということで、そういった地域密着型の話はとくに面白かったです。

 胎蔵界と金剛界とか、おそらく探題は「???」だったと思いますが楽しい話でした。

 中野さん、また上京した際にはぜひ高尾にお立ち寄りくださいね!

 ところで、11月22日(火)にオープンしたすみだ北斎美術館は結構話題になっているようで、テレヴィ番組その他でたまに見かけることがあります。

 私もクラブツーリズムのガイドとして11月11日(金)・12日(土)の2回にわたって両国駅近辺の歴史歩きをしたあとにプレオープン期間の北斎美術館を見学してきました。

 そのため、それに先立ち11月6日(日)に両国界隈の下見に行っており、前回の下見報告第2回の記事から少し間が空いてしまいましたが、今日は下見報告の第3回目をお送りします。

 ※前回の記事はこちらです。

*          *          *


 国技館の前を通ってそのまままっすぐ歩くと回向院にぶつかります。



 回向院は1657年の明暦の大火、いわゆる振袖火事によって命を落とした大勢の人々を弔うために建てられたお寺です。



 そしてさらに大正12年には関東大震災が起きてしまい、そのときの犠牲者も供養しています。

 境内はL字になっており、入って左奥に行くと鼠小僧の供養墓があるのですが、その説明が山門脇にあります。



 たまたま少し前にテレヴィで鼠小僧についてやっており、それによると鼠小僧が盗んだお金を市民にばらまいたという話は残念ながら虚構だそうです。

 ただ、なぜ市民の人気を博したのかというと違う理由があるのです。

 それは、鼠小僧が盗みの対象としたのは武士の屋敷で、市民からすると威張っている支配者階級の鼻をあかしたということが喝さいを浴びた理由なのです。

 そしてなぜ鼠小僧がなかなか捕まらなかったかというと、武士の屋敷は意外なことに警備が手薄だったのです。

 というのも警備を厳重にして人を多く配置すると、幕府から謀反の疑いを掛けられる恐れがあったことと、武士はプライドが高いため、被害に遭っても被害届を出さないことが多かったそうです。

 ですから、鼠小僧が武家をターゲットにしたというのは非常にうまいやり方だったんですね。

 (※というのをたまたまテレヴィで見ていたおかげで、本番当日はそのまま受け売りで話すことができました。)

 近代的な建物。





 力塚。





 今は国技館は両国にありますが、江戸時代、相撲の興行が始まった当初は、この回向院の中に土俵があって興行が行われており、一番最初の国技館もここに造られたのです。



 国技館は移転を繰り返しているのでなかなか歴史を整理しづらいですね。

 私が子供のころは国技館は蔵前にあったためそれに対して何の疑いも持っていませんでしたが、もともと相撲の興行は両国で始まったものなので、現在のように両国に国技館があるのが本来的にはしっくりくるのかもしれませんね。



 ではここから西に向かい、隅田川に架かる両国橋へ行ってみます。

 さらに陽が暮れてきましたが、両国橋のたもとに到着。



 こういう石碑って豪華な感じがしますが、読みづらいし写真に撮っても・・・



 ここに⑤の説明板がありました!



 これだけ人が乗ったら橋が崩れると思いますがどうでしょうか。



 では次に移動しましょう。

 袋物博物館。



 両国にはこういう感じの小さな博物館が結構ありますね。

 今度は傘の専門店です。



 竪川に架かる一之橋のたもとには忠臣蔵関連の説明板があります。



 竪川。



 竪川には隅田川に近い下流から、一から六まで橋がありました。

 ちなみにここから東にある四ツ目通りは竪川の四之橋を渡っていることからネーミングされたんですよ。

 ⑧の説明板です。



 もうすっかり暗くなってきました。

 出羽海部屋。



 吉良上野介の標柱が出てきました。



 この稲荷神社の由緒は不明です。





 「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の屋敷がここにあったんですね。





 現在は小さな歴史公園のようになっていますが、実際の屋敷はもっと広く、別の場所に表門と裏門のあとに説明板が立っているので、その広さを体感することができます。







 ⑥の説明板はここに!



 ついで両国駅方面へ向かいます。

 「鬼平犯科帳」が好きな人はこういう説明は楽しいでしょうね。



 ⑦の説明板発見!



 先ほどは一之橋がありましたが、今度は二之橋です。





 北斎通りにやってきました。



 両国駅前の看板によるとこの辺が北斎生誕の地のはずなんですが、何も表示がないですねえ。



 と言っていたら、探題がスマホで調べてくれて、どうやら現在は別の場所に生誕の地があるそうです。

 そっちへ行ってみましょう。

 ここの「両国 東あられ」がそのようなはずですが・・・



 お!あった!



 しかし生誕の地という一番大事な場所の説明板の文字が消えかかっているのはどうかと思います。

 また、生誕の地の場所が変わっているということで、結局はこの界隈の生まれは確かであっても、正確な場所まではわからないということなんでしょう。

 まあ、あまり細かいことは気にしないようにしましょう。

 と思っていると、探題が素早くおかきを買ってきました。



 「北斎揚げ」、350円+消費税です。

 塩がガツンと効いていて美味しいおかきですよ。

 (※本番当日はこのお店で時間調整をしたため、参加者の半数がお菓子を買ってくださり、お店の売り上げに貢献できて勝手に自己満足に浸っていました。)

 さて、以上で下見が終わりです。

 今日は探題がアシストをしてくれたお陰で下見もはかどりました。

 あとは本番を上手にやるだけですね。

*          *          *


 本番では1日目は26名、2日目は29名をご案内しました。

 私は北斎についての知識は貧弱なので、かなり雑多にいろいろな時代の話をしたため、参加された方によってはもしかしたら「もっと北斎の話をしてよ!」と不満があったかもしれません。

 その場合は済みませんでした!

 また、参加された方から逆に教えていただくこともあって、私にとってもとても勉強になった楽しい2日間でした。
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【初の「歴史歩き」回顧】もう17年近く前のことです・・・【東京都世田谷区探訪】

2016-12-01 21:52:52 | 八王子・東京・西関東の歴史
 私は小学生の終わり頃から歴史好きでしたが、お城に目覚めたのは1996年12月30日のことなのですでに24歳になっており、覚醒した場所は会津の鶴ヶ城でした。

 その後、少しは城めぐりをしていたのですが、城に絞らずにもっとジャンルを広めた「歴史歩き」をしたのはさらに遅れて2000年2月6日のことで、27歳の時です。

 歴史歩きをしようとしたきっかけは、その前年の4月10日に東京都世田谷区の世田谷城跡を訪れた時に世田谷区立郷土資料館を見学し、そこで一冊の本(厳密には2冊)と出会ったことによります。



 世田谷区教育委員会が出している『世田谷の地名』で、郷土研究家の三田義春さんが編しており、中には手書きによる渾身書き下ろしの地図が大量に載っています。



 元々地図が大好きな私は、この本を読んで道とか河道などに異様に興味を持ち、またこれ以降、国土地理院の地形図をコレクションするようになってしまったのです。

 当時は三鷹市牟礼のアパートに住んでおり、後北条氏の旧臣である牟礼の高橋氏および隣の世田谷区烏山の高橋氏の調査を始めたところであり、その関係で世田谷区の郷土史に興味を抱きました。

 そしてしばらく『世田谷の地名』に「首ったけ」かつ「ゾッコンLOVE」だったのですが、当時はプログラマーの仕事が面白く、また娘誕生の前後であったため、ようやく世田谷の歴史歩きを実施したのが上述したとおり2000年2月6日のことでした。

 『世田谷の地名』では世田谷吉良氏が詳しく説明されており、区内にあった世田谷城を含めた城や砦の解説も豊富なことから、それらをめぐってみたくなりついに満を持して出掛けたわけです。

 そのときに使っていたデジカメはこちら。



 リコーのDC-4Uという機種で、生まれて初めて手にしたデジカメです。



 大体この頃から、デジカメが一般に普及し始めました。

 というわけで、本日はこのカメラを片手に世田谷の歴史歩きをしたときを思い出して、当時の写真を羅列してみようと思います。

 私は1998年から「偏重頭脳発表会」というホームページを始めており、その中の1コーナーとして「奥州城壁癖(オウシュウジョウヘキヘキ)」があって、そこでは主に東北地方の城跡を訪れた時のルポルタージュを載せていたのですが、番外編で東京近辺の城跡も載せており、今日はその時の記事をほぼそのまま使いつつ、誤字の訂正を施したり若干の補遺をしつつ書いてみます。

 なお、探訪箇所の一部は当時記事にしていなかった模様で、今となってはもう思い出せません。

 さらに、写真の画質が今の水準からすると非常に悪いですが、17年前の普及型のデジカメの画質なので許してくださいね。

*          *          *


 と、その前に・・・



 これは近畿日本ツーリスト八王子営業所が発行する「八王子ジャーナル」の前号なんですが、来る12月11日(日)に私がご案内する滝山城跡ツアーが掲載されています。



 昨日H島さんが参加表明をしていただいたことで、本日無事催行と決定しました!

 しかし実は、内情を暴露しますと、本当は最低催行人数に達していないのです・・・

 それでも、八王子営業所のM井さんの英断で催行が付きました。

 M井さーん、ありがとー!

 俺はノーギャラでもいいよー!

 ・・・半分冗談。

 もちろん参加を表明してくださった皆さんにも感謝です!

 本当にありがとうございます!

 そして催行まではまだ日がありますので、ギリギリまで参加者を募集しています。

 精一杯ガイドさせていただきますので、興味のある方はどうぞ近畿日本ツーリスト八王子営業所までご連絡ください。

 042-656-5852






 では、本題に戻ります。

*          *          *


 プログラマーという仕事柄、夜型人間になっており、休みの日は昼前まで寝てしまうことが多いです。

 今日もゆっくり起床し、三鷹台駅から井の頭線に乗って渋谷方面へ向かいます。

 現在の世田谷区一帯を領していた吉良氏は、本城・世田谷城防衛のため、その周辺にいくつかの砦を築きました。

 そのなかで、まずは東方の守りのために築砦されたと思われる、三宿砦跡を訪ねてみます。

 池ノ上駅で下車。

 時刻はもう11時半。

 池ノ上駅があるあたりは標高約40mの台地上であり、駅前通りを南に向かって歩いていくと、すぐ代沢2丁目6番地あたりから長い下り坂になっています。

 この坂を下り終えたあたりには淡島通りが走っていて、このあたりはすでに駅のあった場所より15mほど低地になってます。

 淡島通りを横断してもう少し南に歩いてみると、北沢川に出ました。



 現在はもはや「川」とも呼べないほどの小さな流れになっていますが、往古は豊富な水量をたたえていたことでしょう。

 この橋を渡った先の台地上が三宿砦のあった場所で、その台地は西に走り、世田谷城まで続いています。

 私はこの橋を渡らずに、ここからすぐ東にある北沢川と烏山川が合流して名称が目黒川となる場所へ向かうことにしました。

 途中、目の前に急峻な崖が現れました。

 池上4丁目の崖地です。



 階段があるので登ってみましょう。

 崖上には戦没者慰霊塔が建っています。

 ここは非常に見晴らしが良いねえ。

 この崖地は、池ノ上駅方面から続く台地の突端部で、標高を三宿砦のあった場所とほぼ同じくし、北沢川を谷間に三宿砦と対峙できる場所です。

 西方向を見ると三宿砦や、世田谷城方面を遠く望むことができます。



 つづいて南西方向。



 そして南方向です。



 ここに敵が向い城を築いて居座った場合、三宿砦側からすると非常に気持ちの悪いこととなるでしょう。

 さて、崖地から降りて、北沢川の合流地点へ向かいます。

 合流地点についてみると、ここでは完全に水の姿は見えなくなっていました。

 失望。



 東京って、川にフタするんだね!

 写真中央の青い建物の手前から左が烏山川で右が北沢川に分かれていますよ。

 つづいて、気を取り直して砦のあった台地の麓を南側から回って、台地上に上がってみることにします。

 川もないのに「多聞寺橋」という交差点名が付いていますね。



 昔はここに烏山川が流れていたんですよ。

 今でも暗渠として地下を流れています。

 本日の最初の目的地である三宿砦は別名を多聞寺城ともいわれており、昔このあたりに世田谷勝国寺の末寺の多聞寺があったと伝えられています。

 多聞寺は江戸時代に廃寺になったといわれ、現在は墓地のみが残り、あとは小学校や幼稚園に「多聞」という言葉が残っているだけです。

 さて、坂を上ると、最高所のあたりに多聞小学校がありますが、おそらくこの辺りから後述する三宿神社のあたりまでが城地であったと思われます。

 現在は完全に宅地化されており遺構はありませんが、『世田谷の中世城塞』によると、明治42年の地図に土塁の跡が認められるということです。

 また、『日本城郭大系 5』にも、つい最近(左著出版は1979年)まで空堀の跡が残っていたと書かれています。

 さらにここから西の三宿神社を訪ねてみることにします。



 こんな看板もありますよ。



 境内にはボーイスカウトの少年や親子連れの人たちなどが沢山訪れており、かなり賑やかです。



 神社に隣接する墓地が昔の多聞寺の墓地でしょうか。

 少し大きめの墓石には宇田川家や石塚家と彫ってあります。

 地元の有力者の墓でしょう。

 三宿砦の名はほとんど資料に出てこないし、この砦で戦闘があったという記録もありませんが、 いざというときは本城から騎馬隊が台地上を一気に駆け参じて、守備にあたっていたことでしょう。

 ただ、吉良氏が北条氏に取り込まれた以後は、廃砦となった可能性もあります。

 今となっては、それらを明らかにすることはできませんね。

 以上、三宿砦の跡は見終えたので、更に西に向かって歩いてみることにします。

 三宿神社から北西方向に10分ほど歩いて、北沢八幡神社にたどり着きました。



 お、後醍醐天皇!



 野郎ども、千早ぶろうぜ!



 更にもう少し歩くと森巖寺という寺の前に出ました。



 実は私は寺にはあまり興味が無いのですが(註:これはこの記事を最初に書いた2000年の段階のことであり、現在ではまったくそんなことはありません)、なんとなく吸い込まれるように門をくぐりました。



 すると何というめぐり合わせか、この寺は結城秀康の位牌所として建てられたということです。



何の予備知識も持ち合わせることなく、偶然こういう「出会い」があると、非常に嬉しいですよね。



 結城秀康は徳川家康の次男で、結城家を継いだ人物です。

 兄信康に似て豪の者でしたが、惜しいことにその能力を充分に発揮する機会のないまま、34歳の若さで病のためこの世に別れを告げました。

 戦国好きな人の間では、家康の子供のなかで信康と人気を二分しているようです(贔屓かつ主観的な推測)。

 森巖寺を出ます。

 代田2丁目から南を見ると結構な下り坂になっており、谷底には北沢川が流れています。



 同じく代田2丁目から世田谷城跡のある南西方向を望みます。



 代田八幡神社に来ました。



 ついで、20分ほどテクテク歩き、世田谷八幡宮に到着。







 今度は幕末の大老・井伊直弼が眠る豪徳寺です。











 14時過ぎ、世田谷城の南側を守る烏山川(烏山川緑道)に来ました。



 (註:もうとっくにお昼を過ぎていますが、この日はどこでお昼を食べたのか覚えていません。)

 ついで、世田谷城の南側を守る弦巻砦に行ってみます。

 弦巻砦は代田砦と同様、実際に砦があったという証拠は無く、地理的な条件から『世田谷の中世城塞』の著者である三田義春氏が仮定した砦です。

 その場所には、現在弦巻神社が鎮座しています。





 地理的には、西から東に伸びる半島状の微高地で、北・東・南は川ないし湿地で守られています。

 北側を流れる蛇崩川は、地表面で見る限りではご覧の通り極めて細流となっています。





 このあたりには「釜屋畑」と呼ばれている区域があり、昔砦に詰めていた武士が炊爨したのでそう呼ばれたといいます。

 もし、この地に砦があったとしても、吉良氏が北条氏に取込まれてからは、南方の脅威がなくなったため、 廃砦となった可能性が高いですね。

 恐らく、こういった類の砦については、今後もその存在を証拠付けるのは至難のことでしょう。

 さらに20分ほど歩いて駒留八幡神社に到着。







 ところで、戦国時代、吉良氏の治める世田谷と北武蔵方面とを結ぶ道のひとつに「堀の内道」がありました。

 堀の内道は代田あたりでは現在の環七通りと重なっています。

 その堀の内道を伝って北から世田谷城が乗る台地への進入を試みる敵を防ぐためには、現在の斎田記念館の北側を流れる北沢川が防衛ラインとして適していますね。

 そこでまた砦の登場です。

 代田砦という名称は伝わっていませんが、斎田氏の屋敷跡について『世田谷の中世城塞』には「砦としたほうが適当なのではないかと」という記述があるため、ここでは勝手に代田砦と呼びます。

 なお、『世田谷の中世城塞』では、「筆者が勝手に考えているのみで何等の言伝えもあるわけではない」とも書かれているのでそれをご承知置きください。

 しかし、地理的な観点から、斎田氏の屋敷が砦としての機能を持っていた可能性を考えたいです。

 その斎田氏の屋敷跡へ行ってみましょう。

 上馬方面から環七通りを北へ向かって歩きます。

 東急世田谷線の若林駅のすぐ北側には烏山川が流れています。

 このあたりから北に向かってずっと上り坂です。

 烏山川から10分くらい歩くと、右手にファミレス「ガスト」がありました。

 このあたりが最高所ですね。

 そこからすぐ北にあるファミレス「フォルクス」の脇に歩道橋があります。

 歩道橋のすぐ北西にある齋田記念館が斎田氏の屋敷跡、すなわち代田砦のあった場所でしょう。

 しかし、ここの歩道橋がまったくもって都合がよく、砦に物見櫓があった場合のちょうど櫓の上から眺めた風景をイメージすることができます。

 歩道橋から南を見ます。



 今度は北を見ます。



 左手に見える白い建物が斎田記念館です。

 ところでこの歩道橋は柵が低くて、しかもかなり揺れるので結構怖いぞ・・・

 世田谷城の乗っかる台地へ登るべく、北方から敵が進軍してきた場合、このような眺めで敵勢を見下して迎撃をするわけですね。

 それでは北方から侵攻された場合を想定して考察してみます。

 砦から北側は下り坂になっていて、すぐ先に北沢川が流れています。

 往時はこの川の両岸は水田であり、この川ないし水田が北側の水濠の役目を負っていました。

 齋田記念館の北側まで降りて行って振り返ります。

 北から迫った敵はちょうどこんな感じで砦を眺めることになります(真中の木々が砦の位置です)。



 この川ないし水田を渡って砦に攻めかかる敵兵は、田に足をとられて思うように歩けないでしょう。

 もたもたしているうちに、砦から降り注ぐ弓矢によってやられてしまいますね。

 ちょうど、砦と水田の距離は100メートルほどで、攻め手は水田を何とか進んだとしても高地から低地へ向かって射られる矢によって殲滅されます。

 では、水田が乾いている季節なら容易に攻めかかれるのではないかと考えられますが、『世田谷の中世城塞』によると、 世田谷周辺の大部分の土は二毛作のできない黒土で、常に乾くことがなかったといいます。

 つまり、どう考えても攻める側は不利ですね。

 さて、代田砦は存在自体が確証できていないので、実戦で使われた記録などはもちろんありません。

 本城の世田谷城ですら、攻められたという記録は一度しかなく、天正18年(1590)の豊臣政権による北条攻めの際の世田谷城無血開城時に、もし代田砦が存在したとしたら豊臣方に明渡されたことでしょう。

 そもそも、戦国時代末期となると動員兵力が数千から数万となり、このような小さな砦では、用をなし得なくなっていたかもしれませんね。

 おっと時刻はもう16時20分・・・

 そろそろ暗くなりますね。

 最後に赤堤砦を見てみましょう。

 吉良氏の世田谷城周辺の城砦群のなかで、北方守備のために築かれたのが赤堤砦です。

 比定地は、善性寺説と六所神社と説とがあり、まずは善性寺に来てみました。





 善性寺は、世田谷4丁目の勝国寺の末寺で赤堤山と号する真言宗豊山派の寺院です。

 本尊としている不動明王像は、奈良東大寺開山の良弁僧正が関東に下った際にこの地で彫刻したものと伝わっているので、それが事実かどうかは別としても創建は相当古いと思われます。

 つづいて六所神社に来ました。



 もうすっかり真っ暗・・・





 『世田谷の中世城塞』では、地形的な理由と、善性寺のある土地が地元では「砦山」と呼ばれていることから、善性寺説を採っています。

 現在善性寺のあたりを歩いてみると、六所神社の周辺よりもこちらの方が高低差があり、また、善性寺の場合は当時は南・東・北を北沢川とその支流および水田で守られおり、その半島状の西側のくびれた部分を掘り切れば防御力が増大するところから、やはり善性寺のある土地の方が砦跡にふさわしいのではないかと思います。

 豪徳寺駅から善性寺に行く途中、今は暗渠となった北沢川を渡りますが、それが往時の砦南側の水堀の役目を担っていたのでしょう。

 『赤堤地誌』にも、善性寺のある場所から西側の地域を「赤土手の小山」といい、その高台に砦があったという伝承が書かれています (奈良時代の砦だという言い伝えもあるといいますが、それは俄かには信じがたいとも書かれています。ただし、良弁僧正の伝説とともに興味深い話ですね)。

 そして現在では鉄道工事などによって地形が改変され、小山の様相は薄れたとも書かれています。

 ちなみに、同書によれば、赤堤とは赤土の露出する土手の意味だといい、地元では「あかつつみ」と濁らないで発音するらしいです。

 世田谷の本城との距離は、現在の世田谷公園の中央までは直線で約1.1Kmあります。

 では、反対に何故六所神社の場所が砦跡といわれるようになったのか、そちらの方も興味が湧きますね。

 私が所蔵している各書の中で一番メジャーと思われる『日本城郭大系』には六所神社のあったところと書いてあるので、それを読んだ多くの人はそう思っていることでしょう。

 なお、赤堤砦について私が知りえた最も古い記述は、『世田谷城名残常盤記』記載の、石井正義氏の説(昭和4年11月)で、赤堤砦は世田谷城の搦手側の外郭にあたり、 赤堤村(当時)にその遺唱の存在を伝うとあります。

 さて、赤堤砦が常用のものであったか、臨時用のものであったかについてですが、一般的に考えると、通常は管理人程度のメンバーが常駐しており、 有事の際には、必要に応じて兵が詰めるという形であったのでしょう。

 そして、その主担当者は、『新編武蔵風土記稿』や『世田谷城名残常盤記』に書かれている、松原佐渡守ではなかったかと思います。

 しかし、現在のところ史料でこれを立証することはできません。

 近世以降の話としては、天正19年(1591)、服部左兵衛貞信が徳川家康より160石を知行され、陣屋が「砦山」に築かれたといいます。

 また同時に六所神社も創建されたということです。
 
 なお、『寛政重修諸家譜』によると服部貞信は伊賀の人で、もと呉服明神の神職でしたが、故あって山城国宇治田原に移ったといいます。

 天正10年(1582)の、徳川家康の生涯最大のピンチといわれる伊賀越えの際には、同族の服部半蔵らとともに家康の東行に尽力し、 遠江浜松に160石を知行されました。

 その後、家康の関東への国替えに伴い世田谷に転封さて、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦にも参加しています。

 貞信の子貞富は、西福寺(赤堤3丁目。新義真言宗豊山派)を開基し、代々の墓所としましたが、その後子孫は駿河に転封となり、『赤堤地誌』によると、現在子孫は世田谷には存在しないということです(なお、西福寺開基については、『世田谷の地名』では、天正12年(1584)の西福寺文書を掲載し、服部氏開基説は誤りとしています)。

 さて、時刻は17時を過ぎすっかり暗くなってしまいましたね。

 2月の寒い中半日歩いて身体が冷えたので、そろそろ家に帰って温まるとします。
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【お城歩き】日本屈指の戦国城郭・滝山城跡で城攻めを仮想体験しませんか?【参加者募集中!】

2016-11-26 20:04:01 | 八王子・東京・西関東の歴史
 今はほとんどテレヴィジョンを見ないので知りませんが、私が小中学生の頃(30年以上前)は、毎日のように夜9時から映画を放送する番組がありました。

 私はそれが結構楽しみで、とくに戦争モノやホラーが大好きな、将来どんな大人になるか懸念されるような子供でした。

 結果、こんな大人になってしまい、「決して親のせいではありません!」と両親が恨まれないように関係者各位に気を配る毎日なわけですが、子供の頃は映画館にもたまにフラッと行っていました。

 なので子供の頃はおそらく映画好きな人の部類に入っていたと思いますが、それがどうしたことか、約20年前に行った「ベイブ」(豚が活躍する映画)を最後に映画館からは足が遠のいていたのです。

 ところが、探題が映画好きなこともあり、昨日は誘われるがままに「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」を新宿の映画館へ見に行きました。

 と、その前に新宿の「アカシア」という洋食屋で、ロールキャベツ&カキフライ定食を食べて腹ごしらえです。





 値段はファミレスとそれほど変わりませんが、やっぱりこういった専門店は一味違いますね。

 ついで、映画館に行きました。



 大都会にある近代的な映画館です。

 放映前にビールとポップコーンを購入。



 私は古風な人間なので、映画に行ったら反射的にポップコーンを欲してしまうのです。

 ただ、何しろ映画館に来たのは大人になってからは数えるほどしかないこともあり、実は映画を見ながらビールを飲むのは初めてなんですよ。

 映画を見ながらのビールはぬるくなってきても意外と美味しいですね。

 2時間ちょっとの放映時間でしたが、3D眼鏡を着用して見る作品で、最新技術を駆使した先進的な映像は20年前と比べると隔世の感があり、技術の進歩は凄いなあと頭が良い人たちの努力に感謝した次第です。

 私は自分一人では行動範囲がほとんど歴史関係のみに絞られてしまうので、このようにまったく自分とは違う趣味の人にいろいろな場所に連れて行ってもらうと、経験値が増えることも自覚できて、とても良い社会勉強になります。

 食べ物でも趣味でも何でもそうですが、食わず嫌いはいけませんよ。

 食べてみると意外と美味しいものは沢山ありますし、経験してみると意外と楽しいことは沢山ありますね。

 そして今日のお昼は、探題の家の近くにあってまだ一度も行ったことがなかったというスパゲッティ屋さんに行きました。



 探題は上の牡蠣のスパゲッティ(柚子胡椒味)を食べ、私はウニとイカのスパゲッティを食べました。

 私の方は見た目が地味なので写真は載せませんが、味は格別!久しぶりに美味しいスパゲッティを食べてご満悦でした。

 さて、以上、いやらしい食べ物の話ばかりして、まったく食い意地の張った奴だと私に対しての認識を深めたことと思いますが、こんな私でも、中世城郭をご案内してお城の楽しさを発信することに余念がないのです。



 この近畿日本ツーリスト八王子営業所が発行する「八王子ジャーナル」に、来る12月11日(日)に私がご案内する滝山城跡ツアーが掲載されています。



 あと少し参加していただける方がいますと無事に催行となりますので、もし興味のある方がいらっしゃいましたらぜひ近畿日本ツーリスト八王子営業所までご連絡ください。

 042-656-5852

 滝山城は、関東の戦国大名・後北条氏のナンバーツーである北条氏照の居城で、鉄砲普及前夜における戦国城郭の最高傑作と言えます。

 これは単に私が「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」に所属して滝山城跡の下草刈りなどに従事している(スミマセン、ここ数回私は刈りに行けてません!)から贔屓するわけではなく、私の歴史仲間の多くからも傑作と認知されている城なのです。



 ※「余湖くんのホームページ」より「余湖図・滝山城」を転載

 「余湖図」で見る通り、滝山城は大変広い城なので、もしかしたら何となく行っても面白ポイントの多くを見れないかもしれません。

 そのため、滝山城に何十回も行っている私が今回は2時間半くらいの行程でもっとも面白い箇所を効率的にご案内したいと思っています。

 そしてそれと同時に、「なぜこの部分にはこういった構築物があるのか?」ということを含め、城を守る側と攻める側双方の視点や兵士の「気持ち」に思いを馳せつつ、戦国時代の「城攻め」の実態に迫ろうと思います。

 もう少しで募集が打ち切られてしまうので、もし今回滝山城跡で戦国の城攻めの実態を知りたいと思っている方はぜひ近畿日本ツーリスト八王子営業所までご連絡くださいね。



 042-656-5852

 それでは滝山城でお会いできることを楽しみにしております!




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【紅葉の高遠城】今年のクラツーおよび近ツーの座学がすべて終了しました

2016-11-22 18:13:29 | 八王子・東京・西関東の歴史
 今年は縁があってクラブツーリズムと近畿日本ツーリストの仕事をたくさんやらせていただきました。

 今年の座学は本日開催した、近畿日本ツーリスト八王子営業所主催の八王子の歴史講座で終了、残るは来月の外歩きのみです。

 本日来ていただいたみなさん、どうもありがとうございました!

 午前の八王子駅周辺の史跡講座は6名様!



 私のブログを見たという方がわざわざ埼玉から駆けつけてくださり、初対面の方々も多く、とても嬉しかったです。

 午後の八王子市内にある城跡についての講座は4名様!



 午前と午後、通しで受講していただけた方は3名もいらっしゃいました。

 午前と午後、合計3時間喋ったのは初めてで、カラオケで3時間歌いっぱなしでも喉が枯れない私が、なぜか午後の後半は声が枯れてきました。

 そう考えると、一日に何時限も話す学校の先生って凄いですね。

 毎回講座資料の作成は一夜漬けになってしまうのですが、今回は2本やるということで、先日の日曜日に丸一日時間を取りました。

 ところが終わらず、昨日は7時半に出勤して、19時間半の拘束でほぼ休憩がなかったため、26時半過ぎに帰宅したらバタンキュー、今日の朝も1時間ほどしか時間が取れず、午前の資料はバッチリできたものの、午後の資料はほとんどできませんでした。

 なので、白状しますと午後のうち1時間はアドリブでした!

 どうもスミマセン!

 でも、今年はたくさん講座をやらせていただいたので、そろそろフリートークもきちんとできないといけないと思っており、新しい技術を身に着けたいと思っています。

 さて講座終了後、今日は担当のM井さんが時間がなさそうでお話に付き合っていただけず、予定より早く高井戸探題の最寄り駅までやってきました。

 探題はまだ出先から戻ってこないので、それまでの間、駅前の居酒屋に入って、さっそく今日いただいたギャラでありがたくビールをいただいているところです。



 ところで先日、信州高遠へ日帰りで行ってきましたよ!

 探題が知人に会うということで雷電號を駆って行ったのですが、その方は元クラツーの方で、何と、私をクラツーに紹介してくれたT口さんと知り合いだったのです。

 その方が高遠にてフリーマーケットに出店しており、その会場に駆け付けたわけですが、そこに着くと探題も店を開きました。



 ネイルサロンだよ!

 で、探題が一生懸命働いている間、私は一人で高遠歴史探訪です。

 まずは高遠町歴史博物館。



 常設展・企画展ともに撮影禁止なので、ホールのみ。

 なつかしい車が展示してあります。





 かっちょいいー。



 ついで、以前から気になっていた高遠城へ。

 高遠城といえば、武田家滅亡の時に討ち死にした城主・仁科盛信が有名ですね。

 盛信は八王子の信松院の開基・松姫の同母兄で、いわずもがな、二人は武田信玄の子供です。

 松姫は信玄死後、高遠城に住んでたんですよ。

 というわけで、説明なしで写真連発という手抜き技・・・



 現在みることのできる遺構はほとんどが江戸期のものです。









 土塁!



 土塁を見ると当然登ります。

 そして空堀!



 空堀は広くて深いですよ。



 空堀があると当然降ります。



 堀底を歩いて幸せを実感。







 高遠城は桜で有名ですが、紅葉もなかなか良いですよ。

 所用が済むと、帰宅途中に新そばを賞味。



 贅沢な食事。



 すごく美味しかったよー。

 そして二人で取り分けた(8:2)親子丼がこれまたグッド。



 ついで、一升瓶に入って売っている長野のワインを購入し帰宅。

 というわけで、諏訪の先くらいだったら道路が混雑していない限り、とても近く感じますよ。

 また、信州方面に行ってみたいです。
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