「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

なんとか記念日

2009-02-28 18:24:50 | その他
 そろそろ時期的にお出ましの頃と予期しておりましたが、勤務日の夕刻、携帯電話にブログ仲間からの着信多数有り・・・・。

 遠野を扱うブログの草分けのおひとりで、現在の遠野プロガーが事あるごとに集う源である宮城のたみっちょさん(ふしぎの里・遠野を行く)が来遠中とのことで、おやびんや笛吹童子さん、一如姐御さまからも連絡があったようでしたが、まことに残念至極、当直の為、歓迎ぶれんどの召集に応じること叶わず・・・・涙

 そういえば、新年会でも勤務日の為、参加できず・・・そして今回も・・・今年は小生個人としては、まだメンバーの方々との宴は皆無と言っても過言ではない・・・


 おそらく、もし小生も今回参加していたら、最後はカルビでも焼いて楽しかった宴を振り返って飲み直しなんていう場面もあったかも・・・そんな悔しい思いを吹き飛ばすように、明番となった本日、嫁さんと末娘と共に花巻に用足に行き、昼は・・・・笑










 ランチメニューでの焼肉セットと盛岡冷麺をいただく・・・いわば焼け食い・・・・笑・・・でも今回も美味しかった・・・(花巻・大門にて)


 次回の集まりこそは参加したいと念願しております。




 さて、2月28日は、2○年となる結婚記念日であーる。
 結婚披露宴では、親類や近所の方々、礼服やスーツに結婚式用である新品の黒光りするゴム長靴でステージに上がり、皆で日本舞踊もどきを踊る姿が今でも鮮明に覚えております・・・笑
 正午に始まった宴が夕方6時近くまで・・・当時としては普通だったと思います。

 嫁さんが21歳、小生26歳・・・あれから○○年・・・紆余曲折もありましたが、今年もこうして記念日を意識できるということで、これから二人で街場に行って乾杯することにしております。

 翌日は勤務でもありますから、早めに帰還となりそうですが、途中から義妹が参加予定でもあり、どうなることやら・・・・でも締めにカルビや冷麺は食べませんよ・・・笑
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阿修羅堂調査と坂牛氏

2009-02-26 14:12:39 | 歴史・民俗
 平成21年2月某日、遠野における郷土史、民俗分野で活躍されるお二人が、土淵町にある阿修羅堂調査を行うということで、及ばずながら小生も同行したいと手を挙げておりまして、この程、日程等の調整が成り共に訪ねて参りました。




 お二人とは・・・笑・・・ぶれんど歴史民俗班の「“about” blog」のaboutさん、そして「遠野なんだり・かんだり」の笛吹童子さん・・・・時折中年探偵団として遠野市内の史跡やら寺社の共同探訪をしております。






阿修羅堂・・・土淵町水内


 今回もaboutさんの下準備のおかげ様で、別当さんの立会で見学できるとのことでしたが、別当さん宅のご主人が風邪で寝込んでいるということで、鍵のみお借りしてお堂に向いました。


阿修羅像



 遠野では珍しい阿修羅堂、といいますか東北各地でもかなり珍しいのではないのか?
 阿修羅(アシュラ)とは帝釈天と戦いを繰り広げ、その戦いぶり等からなりふり構わず奮闘する姿を「阿修羅の如く」とか、争いが絶えない場面、凄惨な場面を「修羅場」といわれる語源でもある。

 
 ということで、阿修羅堂の建立等を残される棟札等から解明、さらに関わった人物等を確認すること、また伝えられる謂れから現地調査で何かを得るといった内容でもありますが、なかなか難しいということは否めないものでもあるようです。




 確認できる棟札では明和3年(1776)が一番古いものでしたが、同年代かとは思いますが、左端が一部欠けた古そうな棟札もあり、欠損部分に何か文字が入っていた可能性が高く、かなり残念な思いでもありました。





 後に別当さんの奥さんが加わり、伝承等をお聞きしながら、それぞれ妄想やら推測を巡らせて有意義な時間を過ごすことができました。

 ちなみに木食上人の足跡があったという言い伝えやら、このことを調べに来られる研究者が多いというお話も伺うことができましたが、地元に居ながら阿修羅堂の存在は知っていても今回が初めての訪問であったこと、もっと地元学に眼を向けなければと反省しております。





 ちょっとボケ画像ですが・・・・汗


 書かれている関係人物では・・・

 檀主 八戸弥六郎義顔(遠野南部家第7代当主・遠野領主)・惣奉行 坂牛新五左衛門 祐賜・御用懸寺社奉行用書 石川門治郎 昌秀・遠野懸合 川原木小兵衛 綱保・所代官 米内弥太夫 吉福・及川五右衛門 恒節・遷宮導師 花厳院・別当 千助(別当家)

 さらに別棟札には願主 中館十兵衛政福 

 まずは、前出の関係者7名ですが、八戸弥六郎義顔は遠野南部家の殿様で第7代当主、八戸家(遠野南部家)の分家である附馬牛八戸家から本家を継いだ殿様で、歴代の中でも名君の誉れ高き殿様と言われております。天明5年正月11日逝去(1785)。

 次に坂牛氏と石川氏、この二人については、後記で詳しく記しますが、遠野南部家中に見えない姓名であり、おそらく盛岡南部家の役人であろうという想像でしたが、やはり藩の役人であるようです。
 また、川原木、米内、及川は遠野家中の役人であるようです。

 さらに別棟札にある中舘十兵衛政福とは遠野南部家の家老加判役のひとりで、中舘本家ではなく分家の当主のようですが、中舘氏に関しては寛永11年の知行地を見ますと 中館勘兵衛 糠前村(青笹町)、細越村(上郷町)、佐比内村(上郷町)の五百石であり、土淵方面とは無関係であるようです。
 中舘氏分家で中舘金次郎70石、土淵村、東禅寺村(附馬牛町)、上栃内村之内(土淵町)があり、おそらくこちらの系譜ではないのかと思われ、その子孫では幕末の頃の支配帳には中舘十兵衛60石とあることから、分家である中舘氏であると推察されます。
 なお、弥六郎義顔時代の家老加判役には中舘勘兵衛照澄と中舘十兵衛政熙の二人の中舘氏が存在することから、勘兵衛は本家、十兵衛は分家といった立場であったものと思われ政福とは政熙だと思われる。
 よってこの阿修羅堂がある一帯は土淵村で中舘氏分家の知行地でもあったと思われます。



〇坂牛新五左衛門

 南部藩関連の書籍等や資料だと思いますが、案外目にしていた名でもあったような・・・そんな記憶が若干あったのは事実で、現地調査での棟札を見た際は遠野南部家中の人物ではなく、盛岡南部家中の人物と即反応しました。

 例のいつもの書籍「南部藩参考諸家系図」で調べますと・・・なかなかの人物だと判明、しかも遠野との関連も決して薄いものではないようです。


 坂牛氏とは工藤小次郎祐行、すなわち厨川工藤氏の末裔で、南部藩士307石の家柄(坂牛本家・坂牛伊右衛門祐豊家)
 新五左衛門はその分家の治左衛門家(祐豊二男)50石

 新五左衛門の才覚なのか、文官として優秀だったのか、もの凄い出世をしている人物である。
 
 盛岡第7代南部利視公時代、享保18年家督相続 50石
 盛岡第8代南部利雄(としかつ)公 宝暦7年2月 御勘定頭御側役兼帯 100石加増 計150石
 宝暦11年5月 寺社御町奉行 100石加増 250石
 
 この寺社奉行時代に遠野阿修羅堂と関わりがあったものと思われる。

 明和3年 御側用人 100石加増 350石・・・翌4年、大向伊織と改名 さらに150石加増 都合500石

 明和6年 側用人兼帯御花巻郡代
      坂牛姓に復姓 坂牛新五左衛門
      やんごとなき事情によりお役御免、家禄没収・・


 さて、50石から10倍の500石の大身と出世、尾去沢銅山を藩直轄として、盛岡中津川の橋脚架け替え工事、夕顔瀬橋の工事に手腕を発揮したことにより、太守である南部利雄の寵臣となったと伝えられている。
 
 明和6年に失脚ととれる内容ではあるが、実は公文書偽装の罪とされるが、新五左衛門は、南部の人間ではなく、芸州(広島)或いは備中(岡山)の浪人といわれ、国許で罪を犯して出奔、流れて奥州に着き、なんらかの事情で坂牛家の養子となったと思われる。
 国許で同僚を斬り出奔、当時他領は国外との位置付けで他領で罪を問われるものではないが、唯一、仇討であれば許される事柄で、新五左衛門はこれを恐れて逃げていたということですが、太守利雄に従って江戸参勤に出向いた際に仇と狙う人物と遭遇、驚いた新五左衛門は南部藩重臣としての地位を利用して公文書を偽装して相手を呼び出して帰り討ちにしたとかで、これが発覚して家禄没収となったようでもある。・・・真相は不明。

 はじめ中野家に預けられたが、明和6年12月に八戸弥六郎に預けられ、遠野へ移送、鍋倉城内御馬屋の番所に幽閉されたが、後に遠野南部家重臣是川孫左衛門屋敷の座敷牢に入れられ明和7年牢死したと伝えられる。



〇石川門治郎 昌之
 
 石川六郎家 7駄3人扶持

 本家の石川家は300石、大崎氏家臣の石川郡主、高清水城主、石川内膳之末裔。




 蝉の抜殻発見・・・抜殻のようにとは言わないが、少なくても輝かしい実績の証拠として何かを残したといえよう・・・。

 
 遠野領の堂社に関わりが若干認められる坂牛新五衛門、その最後の地が遠野であったこと、今回の阿修羅堂を訪ねたことにより、その関係が判明といったところで、やはり郷土史分野は奥が深く幅もかなり広いとあらためて思ったしだいです。


なお、阿修羅堂本来の考察やら詳しい内容はaboutさん、笛吹童子さんのブログで後日エントリーされるものと思います。
 



 おまけ・・・ふたつ


 米田屋・・・中華そば


 
 久しぶりに米田屋の中華そばをいただきました。



 ネネ

 壊れてしまった居間のテレビ・・・ついに新しいテレビを買った・・・汗
 


 いつも違う雰囲気といいますか、テレビの色合いか?形か?ネネもテレビを観てご満悦の様子・・・笑

  
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酒場放浪記

2009-02-23 20:03:55 | その他
 毎週土曜19時30分からBSーiで放映されている「酒場放浪記」という番組が大好きで、ほぼ欠かさず観ている。
 吉田類さんが酒の肴を美味しそうに食べ、そして酒をこれまた美味しそうに口に運び喉に流し込む・・・何よりも訪問される酒場、居酒屋の雰囲気がなんともいえない、そのほとんどは首都圏の酒場であるが、田舎からほとんど離れたことがない小生、同級生や先輩後輩の大半が進学やら就職で遠野を離れた中にあって、都会生活の経験がないということで、今現在でも何か魅かれる思いがあります。



 酒場放浪記はこちら


 若い頃は酒が好きだということはなかったし、都会に出て行ったとしても、さほど酒場に関わったとか、何か強い思い出を残したかといえば、おそらくなかった可能性の方が強いかもしれませんが、この歳になり、何か魅かれる、都会の酒場が皆テレビのような内容であるとは思わないけど、それでも憧れる、いずれ首都圏方面に出かけた際は、あんな雰囲気に浸りたい、そんな願望みたいな何かがあるのだろう・・・とにかく静かにそして楽しく観れる番組という存在でもある。



 ということで・・・・







 以前、お江戸に出撃した際の未公開画像がありましたので、お題とはあまり関係ありませんが、ここでアップということで・・・・。




 迎撃くださった関東ぶれんどの皆様と・・・「かんぱ~い」


 そして、さらに魚介類が苦手ということで・・・・










 かなり時間が経過してしまいましたが、その節はたいへんお世話になりました。
 改めまして御礼申し上げます。
 「ありがとうございました」
 遠野へお越しの際は、いつもの如く楽しい宴としたいと思いますし、小生にできます最大限のおもてなしができたらと考えておりますので、よろしくお願いします。



 ついでにこちらは・・・いけふくろう西口界隈



 都内に暮らす愚娘(長女)を訪ね親子で乾杯・・・振り向いているのが長女・・・汗


 ホッピー


 酒場放浪記で、かなりの頻度で登場のホッピー・・・最近嵌りつつある・・・汗



 でっ、自宅でも・・・・



 昨年暮れに浦和の御仁からいただいたホッピー・・・ほとんど晩酌はしないもので、盆、正月、家の伝承行事等、そして気分的に今日は飲むかな的な日のみ・・・なんですが、本日は鍋料理でしたので、久し振りに晩酌をしました。
 ホッピーも数本残しておりましたもので・・・。


 そして締めは・・・・



 そう盛岡冷麺とカルビ・・・汗・・・飲みに行った場合ですよ。
 
 冷麺画像は「やまなかや」(花巻)・・・本日、嫁さんと用向きの為、花巻に出かけておりましたので、昼は盛岡冷麺をいただいたということです。


 
 そういえば最近、飲みに出ていないなあ・・・まっ、来月には送別会やら何かと飲会が多そうな季節到来、最後はほどほどに・・・となり、月が変われば今度は歓迎会・・・そして花見・・・これでもか・・と飲会が続きそうです・・・汗






 おまけ

 ご当地もの









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基本あっての応用

2009-02-22 21:54:35 | ファイヤー
 消防団員の初任教育訓練が、この程開催されました。
 この教育訓練は消防団に入団して5年未満の未教育の団員が対象ということですが、中には入団してすぐ火災等の災害現場出動やら消防操法競技会の操作員に選ばれたり第一線での経験を有する者もおりますが、大半ははじめての教育訓練という内容でもありました。











 何事にも基礎、基本は大事、消防の場合は災害等での難局では応用というものが、その打開となり得ることでもありますが、この応用も基本があってのこと、基礎がしっかりしていてのこと、訓練指導に当たった小生も、当り前のことながらもこうして基本というものにあらためて触れるということで、初心に還った思いでもありました。





おまけ

大雪の後ということで、春の訪れは少し遠ざかったかな?・・・という思いではありますが、雄猫が近所を歩きまわっているということで、猫にとっての春、恋の季節到来となっている。

 ニューハーフの我家のネネにも近所のボス猫が毎日のように顔を見せにくる。




 外で出くわしたら最後、ネネは追いかけ回され負け猫状態、大人しく家でのんびりしていた方が性にあっているようです。


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雪かき

2009-02-20 19:18:26 | その他
 当直明けとなる朝、未明から降雪となり、同僚達と早朝に除雪作業、積雪は4~5センチといったところで、雪も案外軽く難なく除雪作業が終わるはずだったが、作業する傍らからみるみるうちに雪が積りだす。
 一通りの除雪作業を終え、1時間半後の勤務交代時には、さらに10センチ以上の新雪が積もり、出勤してきた同僚に「今朝、除雪作業サボったな」の一声・・・冗談じゃないと一瞬「ムッ」とする。


 少し帰宅時間が遅かったが、帰宅すると家には誰も居らず、庭の一部を除き除雪した形跡がない・・・汗


午前11時頃






 積雪は約25センチ位か、この分だと、昼過ぎと夕方の2回の雪かき作業をしなければならない、さらに明朝も・・・ここに来て本格的な降雪、「まいったな~」・・・とため息がこぼれる。


 劇団ひとり雪かき・・・笑・・・少し小降りになるのを待ってから雪かきでもしようということで、こたつで暖をとっていると、ウトウトしだして、いつの間にか寝入ってしまう・・・汗

 眼が覚めたのが午後1時半過ぎ、外をみますと雪が止んでいるということで、早速雪かき作業開始・・・ところが雨が降っている為、雪が湿って重いのなんの・・・以前は小規模兼業農家でしたがトラクター等の機械は皆無、スノーダンプによる人力作業、それも自分一人で、しかも肩痛を抱えたまま・・・汗





 結局、雪かきが終わったのが午後4時半、途中から帰宅した母親も加わっての作業でしたが、かなり難儀した雪かきでもありました。
 




 猫の手も借りたいが本音ながらも・・・・「知らないニャー」的態度・・・


 雨も上がり、太陽が顔を出す場面もあって気温も上昇、屋根からの落雪も頻繁で、大汗掻きながらの作業、肩痛も再発の兆し・・・涙







 夕方からは強風を伴った小雨模様となっております。





 さて、夕方、某建設会社の方が我家を訪ねて来られた。
 謝罪に来たということらしいが、母親が対応し、小生はそのやりとりを聞いておりましたが、まずは謝罪される謂れがないといいますか、思い当たることが全くなかった。

 その方曰く、今回の大雪での除雪作業を請け負っていますが、○○の菊池○○さんから会社に電話があり、除雪に関する苦情が寄せられたとのこと。
 かなり気合いを入れられた内容ということで、わざわざ家を探して謝罪に来たということらしいですが、その謝罪先が我家とのこと。

 電話の主が名乗った名前が、小生の父親の名だったらしい・・・地区には親父と同姓同名はおらず、間違いなく我家が該当することになりますが、親父は8年前に亡くなっている事実を伝え、また我家では苦情を申し入れたことはないと伝えました。
 また小生も母親も多少の弊害等は我慢する方で、しかも騒ぎたてる性格ではないもので、むしろ穏便にというタイプでもある。

 地域の誰かが小生の父親の名を語って苦情を入れたのは明らかではあるが、何のために・・・・それにしても他人に苦言やら意見を入れる時は、我名は語らず、他人の名を使うなど、なんとも女々しい・・・除雪等の今後の在り方等、改善してもらいたいという内容ながらも、これじゃ、自身の家の周りではなく我家の出入口が吟味され良くなる話、・・・
 何か我家にでも恨みでもあったのかなあ~・・・と思いつつも、今回のことは我家ではなく業者に何か含むものがあったものか?・・・いずれにしても、あまり面白い内容ではないことは確かでもある・・・
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あしざわ不動堂

2009-02-18 19:04:10 | 歴史・民俗
 ビリッと冷えた朝、さらに時折青空が見えるものの、雪交じりの寒風もあって、かなり寒いと感じた一日でもありました。


峠は吹雪模様・・・綾織町小峠



 さて、遠野では福泉寺や常堅寺を手がけた名工小原樗山の系譜として樗山の御子息、喜三氏の遠野での足跡を調べられている「遠野なんだりかんだり」主宰の笛吹童子氏が私の地元、松崎町駒木におけるふたつのお堂建設についてエントリーされておりますが、同氏により、そのひとつ菊池家のお稲荷さんは判明し訪問済みなようですが、もうひとつ、T家の不動堂、こちらも駒木にはその姓、一軒のみですから、こちらもある程度は近づく内容でもあるようです。


 現屋敷のお堂



 ちょっと前、福泉寺檀家役員の寄り合いの際に、檀家の古老にT家のお不動さんについて聞いてみますと、あしざわ(鷲沢)にあるお不動さんのことではないのか・・・とのこと、すなわち福泉寺境内の新四国八十八ヶ所霊場の最奥部に湧水を湛える池があり、さらに足沢とよばれる沢が流れている場所に、不動明王を祀り、不動堂も建っていたことを思い出す。
 まさにその場所とのことであるが、7~8年前にアップダウンが激しく、小路も狭いということで、八十八ヶ所霊場は、歩きやすいように整備され、最奥部に至らないルートに造り替えられた経緯があって、今は道もなくなり、お不動さんは別場所に遷され、お堂もなくなったと記憶しているが、これに関しては記憶が曖昧なので、気候がよくなったら現地調査か、作業にあたった寺関係者に聞いてみようと思っている。




 今回、家人の立会なしで訪問ということで、お堂の扉は開いていたものの、棟札含み中のものは確認はしていない。
 お稲荷さんが祀られていること、古い棟札数枚もあることは視認できましたが、同じ集落内、家人は幼馴染とはいえ、やはり他所の家のものを勝手に手にとるということはいかがなものかと思いとどまりました。


 さて、同集落で密かに情報収集をしましたが、今から10年位前のことなそうですが、新四国八十八ヶ所霊場の最奥部にあったお不動さんを現屋敷に遷し、お稲荷さんと合祀したようです。
 かつては福泉寺と隣接した場所にお不動さんがあったこと、このことはやはり確かだったようです。

 今回、画像は撮り忘れましたが、このお宅と至近を流れる大沢川との中間点に、共に移した石が立てられております。



※足沢(古地名)・・・鷲沢が訛ったものとの見解で、地元では「あすじゃ」と呼んでいる。




本日のネネ

 寒い日でもありましたので、暖かい部屋で寝ていてばかり・・・いつもの如くですがね・・・笑


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早春の味

2009-02-17 19:41:22 | 遠野
 研修との位置付けで、某ホテルにて研修会・・・。







 夕方、研修を終えて帰宅すると、食卓には早取ワカメの茎を煮たものに鷹の爪を入れ、ピリ辛としたもの、そしてヒジキ・・・。
 さらに早春の味、ばっけ(ふきのとう)・ばっけ味噌、これはほろ苦さが特にたまらない・・・。



 ごはんがすすみますね・・・汗

 食材は皆、近所からのお裾わけですが、ばっけくらいはそろそろ自分で採ってきて食べなければ・・・・。





本日の曲  the bay city rollers i only ant to be with you →こちら

 ほろ苦い青春の1ページ・・・笑
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初大師09

2009-02-15 16:18:16 | 福泉寺・伝承等


 2月15日は初大師、私含み福泉寺の檀家さんはそれぞれの役目となり、参拝されます壇信徒さんの応対となりました。


 受付の任



 日曜日に重なったこともあり、また午前中は穏やかな日和でもあったせいか壇信徒さん方の出足が好調で、ここ数年では一番の人出となったようです。

 受付での集計では約700人、護摩焚きでのご祈祷を受けられ昼食をいただいて帰られた方々、約200人・・・・。
 
 ちなみに正月明けでの行開きでは遠野市外の信徒さん方、約80名前後、節分では遠野市内外の壇信徒さん及び厄歳の方々、約200名前後、そして今回の初大師が約700名ということで、年間を通じての行事では一番賑やかでもあります。


西門駐車場


 画像の雰囲気では積雪も少なく、早春といった感じですが、何故か初大師等のお寺さんの行事後に大雪が降るんですよね・・・笑。
 春間近ながらも、春と感じられるのは4月になるまでは油断できません・・・笑



○初大師

 真言宗開祖空海(弘法大師)入寂の日が3月21日といわれ、1月21日はその大師参りの新年最初の日と言うことで、初大師・初弘法と呼ばれる縁日。
 1月21日は旧暦であり、今年は2月15日となっている。




 人出はかなり多い雰囲気ですが、地域内で葬儀が一件、同集落内でさらに亡くなられた方がおられ、役員檀家の方々等で来られなくなった方もいて、受付含む役目全般で人出不足となり、少し難儀したようでもありました。

 また、役員の古老曰く、今年は昔に近い人出となり、びっくりしているが、我々の年代の人達の参拝がほとんどで世代交代が進めば信徒さんの数も激減するだろうな・・・との声・・・確かに後10年もすれば顔ぶれもガラリと変わり、このような賑やかな縁日となるのか・・・と確かに危惧されます。
 そういう小生も後10年・・・10年後も「わげもの(若者)」という位置付けなのだろうか?
 こういった行事も様変わりするんだろうな・・・なんて思ったりいたしました。
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当り外れ

2009-02-14 17:58:25 | その他
 一家にテレビは何台ありますか?・・・今の時代、なんともナンセンスな問いかけですが、家族が多いお宅では、子供部屋に、台所に、リビングに・・・そして寝室にも・・・なんてことも多々あると思いますが、我家においても3台程・・・。

 それほどテレビを観ているというものではないですが、やはりテレビは時の情報やら話題を得るには最も適した代物、毎週欠かさず観ている番組もありますからね・・・。


 ということですが、居間のテレビが完全にイカレテしまった。
 買って10年程ですが、買い替えを迫られている。
 反面、夫婦の部屋といいますか、家の建て替え前に買ったテレビ、こちらは19年選手であるが、至って元気でなかなか壊れそうもない・・・。







 
 実は昨年夏辺りから、そろそろ今流行りの薄型テレビでも・・・北京五輪は新しいテレビでを目論んでいたが・・・なかなかもう一歩が踏み出せないでいた。
 なんたってテレビは壊れていないし、もったいない・・・そんな気持ちで今に至っております。
 この話をしますと、当りが良かったんだと皆さんは言う・・・大概は10年も持てばそれなりに故障個所も出で来るもの、しかも我家ではもうひとつ、家の建て替えに合わせて導入したボイラー・・・・こちらもほぼ無故障で18年間稼働している。
 こちらも当りが良かったんだといわれる。

 別に大切に使用した内容ではないが、やはり当りが良かったと言わざるを得ないものかもしれない。
 買い替え等の費用が別家電等の購入に回せたということでラッキーだったかもしれませんね。

 いずれ、とりあえずテレビ1台を早急に買わなければ・・・・。




 
 今後のテーマ?




 母親の実家、屋号「檀那様」

 遠野南部家下級武士であった家系ですが、遠野南部家家老加判、工藤家に連なる一族であり、その遠野工藤氏を少し調べてみたいと常々考えていた。
 まずは母親の家系からとなりそうですが・・・・・。




 祖父が30年以上前に建立した先祖300年の供養塔

 
 八戸氏(遠野南部家)が八戸から遠野へ来たのが寛永4年(1624)、今から約380年程前の昔のこと。

 祖父が供養塔を建てたのが昭和49年(1974)、先祖300年では寛永4年の遠野入部では数値が合わない・・・というのも、てっきり母方の先祖は殿様と共に八戸から来たものとばかり考えていたが、宮城県内に住む叔父に聞いたところ、先祖は工藤家の分家筋らしいとのこと・・・これで少し納得はしたが、祖父が先祖の供養塔を建てた意味は、遠野での初代が亡くなってから300年ということなのかもしれない、そうなると当初言われていたように八戸から来た・・・これも当てはまりそうな・・・・。

 母親の実家、叔父宅とはいえ、小生は別家系の当主といいますか、人間でもあり、この分野に入り込むことはあまり好ましくないのではないのか?・・・そんな思いもあって母方の家系については、興味はあってもそれほど詳しく聴取もしてこなかったという経緯もありますが、我姓菊池と共にこちらの工藤姓も調べてみたい、そんな思いでもあり、今後このことに取り組めたらと考えております。
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氷筍09

2009-02-13 16:34:32 | 遠野
 某場所で見られる氷の造形である氷筍を今年も観に行って来ました。
 



 遠野プロガーの何人かは既に訪ねられた方々も若干居られるようですが、足跡を見ますと10人前後の先行者がいたという雰囲気。





 白い球体はオーブではありません・・・笑・・・雪です。


氷柱





氷筍






 洞窟の中に鮫の歯のような氷柱がある場所奥の氷筍から見たが、昨年よりは出来がいまひとつといった印象、さらに別洞窟へ移動・・・。





 こちらへは先行者3~4人といったところか?途中の洞窟に出来た氷柱と氷筍のみで大概の人は帰った雰囲気、むしろ最奥部の氷筍の方が見やすくて形もいいのですがね・・・。





 こちらは昨年と同じような印象ながらも、それでも少し少ないような・・・しかし、神秘的な造形は相も変わらずといったところでした。



 昨年、ブログ仲間達と何度か訪ね、ブログでご紹介した経緯がありますが、長年この氷筍等を静かに見守ってきた方々からブログ仲間に苦言が寄せられたとか、ブログで大きく取り上げたばかりに、多くの人々が見学に押し寄せ、氷柱に接触した為か、氷柱が途中から折れたり、全く以て遺憾の極みではありますが、確かにブログで取り上げたことにより、例年よりは多い見学者がいたことは事実と思われますが、2月末に独りで再訪した際にはほとんどの氷柱は落ちていたこと、あれは人為ではなく自然落下だと小生は判断しましたが、それでも静かに見守ってきた方々の努力があっての場所、特定の方々のみ知る、いわば「とっとぎ(とっておき)」の空間であること、あまり広げ過ぎてはいけないと反省もいたしました。

 とはいうものの、どっと人々が押し寄せる場所ではないこと、カメラを趣味にする方々やプロガー、氷の造形に興味を感じる方々、狩猟をする方々・・・来られる方々は限定される雰囲気もありますので、年に一度だけは個人的に観て来ました的にブログでご紹介させていただきました。


 なお、拡大画像は別家ブログ・・・こちら





 おまけ


 ドラゴンラーメン

 遠野の辛いラーメンとくれば、一般的に「五右衛門」そして次に「ドラゴン」とくるのではないでしょうか?

 ということで、ドラゴンの「みそドラゴン」をいただく・・・。






 今回は小辛をいただきましたが、辛い中にも甘みのあるスープがなんともいえません、野菜もタップリ・・・中辛でも良かったかな・・・と思いましたが、全身から噴き出る汗、スープまで殲滅間近でギブアップ・・・暑かったあ~・・・。
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