約15年前か?、当時、宮守村の出先に勤務していた時のこと、職場の研修の一環で郷土史関連の講義を受けたことがある。
その際の講師先生は当時、遠野物語研究所の研究員の方で鱒沢在住のТさん、60代半ばで宮守村関連の歴史と上鱒沢の鞍迫観音(白山神社)について語られたと記憶しております。
内容に興味を示していたのは小生ひとり・・・汗・・・何故に郷土史のような研修内容になったかは不明ですが、小生にとってはまさに楽しい一時でもありました。
講義も終わり質疑の時間、自分としても郷土史は好きというより得意分野と自負していたので、意気揚々で鱒沢氏のことを聞いたのですが、Тさんはカバンからハガキ大の薄い冊子を取り出して小生に進呈しますとのこと・・・。
資料の内容は、鱒沢館主で鱒沢左馬之助広勝没後4百年法要を鱒沢館跡麓の長泉寺で地元民よって執り行ったとの内容が記されていたものでした。
(長泉寺は鱒沢氏によって開基された寺院)
(そのいただいた冊子も大事に取っているはずですが資料に紛れて何処にあるのか行方不明・・・探し出せず・・・汗)
Тさんから語られた鱒沢左馬之助の最後、小生を試すかのように、その最後の場所について何かご存知ですか?の問い・・・。
おざなりですが語られる定説ということで釜石平田の戦いで討ち死にでは・・・と普通に、至極当然という気持ちで答えたのですが・・・(^^ゞ
Т氏から語られた内容は釜石ではなく気仙の平田・・・釜石は平田(へいた)ですが気仙は平田(ひらた)、その気仙の平田(ひらた)は住田町下有住の平田(ひらた)で、なので長らく云われてきた平田(へいた)の戦いは平田(ひらた)の戦いであるのは史実かと思います・・・とのこと。
当初、このじいさん何を仰せかと理解に少し苦しみましたが、釜石の平田ではなく合戦は住田の平田という場所で行われ、そこで鱒沢左馬之助は討ち死にしたということが理解できました。
Т氏は詳細は自身でお確かめ下さいとのこと・・・おそらく現地に出向いて調べればそれなりに何かしら掴むこともあるでしょう・・・とのこと。
まさに目から鱗・・・まっ大袈裟でしたが、それまでは遠野阿曽沼時代の歴史とかは遠野市史や阿曽沼興廃記等の資料、遠野内での内容のみでしたので自分の浅学、自己流というか思い込み優先での考察等、中でも机上での事が主だったので反省しきりでした。
ということで前置きが長くなりましたが・・・
その後、現地を訪ね、なんとか平田砦跡を探し出し、現地での伝承さらに地元の自治体史での記述からも平田の戦いとは気仙郡平田(ひらた)の戦い、平田合戦と確認した次第でもありました。
平田砦(外根岸館)跡
説明版が真新しくなっていた。
8年前に城館跡探訪ということで八戸在の同好の士、当時はТ九郎さんと名乗っておりましたが、その方と調査した経緯がありましたが、分け入った山野にこれといった遺構は確認できずでしたが、直線で1キロちょっと東側に位置する上有住城跡も訪ね、こちらの出城、支城という位置付であろうという伝承に納得というところでもありました。
久々にその看板の地をチラッとのぞいてみて、過去にも何度かブログで取り上げてはおりますが・・・
平田合戦とは・・・
慶長5年(1600)、遠野盟主であった遠野孫三郎(阿曽沼広長)は太守南部利直(三戸南部氏、後の盛岡南部氏)に従って遠野勢を率いて最上(山形)へ出陣する。
中央では徳川家康旗下の東軍と石田三成率いる西軍が激突する関ケ原の戦いが開戦しようとする情勢、東北地方では石田方の上杉景勝(会津)と東軍に属する最上義光(山形)が対峙、最上氏への応援に伊逹氏や南部氏といった奥羽諸氏が最上に出陣する。
遠野の阿曽沼広長が最上に出陣中に遠野の留守を預かった一族の鱒沢左馬之助広勝、広長の弟とも叔父とも語られる(おそらく叔父)の上野右近広吉、小友長野地方を領する平清水駿河景頼によるクーデターが勃発、遠野は鱒沢氏等の手に落ち、最上から帰陣する広長勢は遠野へ入ることができず、部隊を解散して自身は僅かな側近と共に妻の実家、舅の世田米城主、世田米修理広久の許に亡命したとされる。
このクーデターは南部利直の意に沿って行われたとも云われ遠野は完全に南部氏の勢力下に入ったと云われる。
慶長6年(1601)3月、気仙世田米に落ちた阿曽沼広長は、仙台の伊達政宗の後援を取りつけ、気仙勢を引き連れ遠野奪回のための軍を起こすと噂が立っていた。
気仙郡の浜田喜六(上有住城主)、笹木丹波(竹駒城主)、横田大学(横田城主)、紺野美作(下有住外館城主)、只野民部(越喜来城主)が加担、総大将は阿曽沼広長、旗頭が世田米修理広久、案内役で部隊長は浜田喜六の陣容であったという。
南部氏から遠野の盟主として認められた鱒沢広勝は、気仙の情勢を聞き及び、気仙勢の機先を制すべく・・・「気仙郡の境、平田といふ所え攻入、村々の在家へ火を付、鐘、太鼓を打鳴らし、鬨を作りて押し入りけり」(阿曽沼興廃記)
上有住城跡(住田八日町)
ちょっと古いですが上有住城跡レポ
鱒沢広勝率いる遠野勢は蕨峠から気仙に侵入・・・
今も当時も遠野中心部から気仙に抜けるには最も近距離のルート、戦禍に見舞われた平沢、新切集落は蕨峠麓の気仙側の集落であり、遠野勢がこの方面から攻入ったのは、ほぼ間違いないだろう・・・。
遠野勢は新切川沿いに下有住方面へ進軍、東部の平田砦へ兵力を集中させたことにより、平田砦の攻防戦が熾烈を極め、本城たる上有住城から浜田喜六が手勢を率いて迎撃にでるも伝承では鱒沢広勝の郎党、上台兄弟により落馬させられ、首を討たれたとされる。
地理的に平田砦の西方、約1キロか?現在は万福寺という寺院がありますが、その山野には外館城跡があり、当時の城主は紺野美作、紺野氏は遠野奪回軍の気仙勢の将でもある。
当然、異変を察知した外館城からも迎撃勢が出撃したと推測され、新切、根岸、十文字といった比較的狭い地域で戦闘が行われたという印象でもあり、遠野勢が下有住という限定された地域のみに押し込まれ、気仙勢に対して機先を制すといった目的は浜田喜六を討ったことと戦禍に見舞われた集落が焼け討ちされたという恐怖を植え付けたのみか?
しかし・・・
同年秋に遠野奪還に燃える阿曽沼広長率いる気仙勢は赤羽根峠を越え上郷平倉地域に攻入っているが、半年近く待たなければならないほど準備等に時が必要であったことが伺える。
赤羽根峠(上郷町)の戦い 1601年秋
樺坂峠(小友町)の戦い 1601年11月
と、平田の戦いと合せて3度の戦いが遠野勢と気仙勢の間に繰り広げられることになります。
世田米からの援軍も駆けつけ平田の戦いでの遠野勢は、しだいに劣勢となり地理不案内もあって気仙勢の反撃に合い、鱒沢左馬之助広勝、上台兄弟、従者の兵共に深沢に転げ落ちたところを気仙勢の鉄砲隊の餌食になって討たれたとある。
いずれ後の遠野関連の史料に鱒沢広勝の名は出てこないので、この戦いで戦死したのは史実なのかもしれませんね。
遠野市史には、この平田の戦いに関して釜石平田での戦いであろうと記しているが、ここ10数年か?気仙郡側の考察から先に記したように気仙郡平田(ひらた)の戦いであるとの指摘がされており、おそらく史実であろうと思われます。
遠野市でもいよいよ約40年ぶり?に遠野市史が編纂され、現代編からはじまり通史編での中世の阿曽沼時代関連は10年後位の刊行か?
阿曽沼時代に関しての見解、考察がどのように記されるのか、たいへん興味を覚えるものでもあります。
遠野周辺の伝承も含み各地域の史料も数多く検証され編さん作業に活かされることを期待したいと思います。
話変わって・・・
折角、住田町まで出かけたということで少しだけ足を延ばして五葉温泉まで・・・
実は今年初となる天然温泉でもありました。
地元たかむろ水光園とか釜石のシーガリアマリンホテルの日帰り入浴は何度か行ってますが、温泉は内陸ではなく沿岸方面の温泉とは、例年の自分の行動とはだいぶ違う方向となっております。
久々の温泉、短時間ではありましたが堪能いたしました?
でも、けっこう混んでいて本音はゆっくりできませんでした・・・(;^_^A