「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

春の陣二日目

2007-04-29 17:24:57 | 遠野
 ちょっと冷え込んだ朝、空模様は薄曇りといった感じ、そんな中、遠野館跡めぐり春の陣、二日目を開催・・・・といってもご案内する館跡は実は準備していなくて、松崎町の横田城でお茶を濁すつもりでおりました。

 館の他にも遠野らしい風景とか、今時期見られるものとのリクエストもございましたので、まずは貞任高原の水芭蕉群生地へ・・・・。


 あまり関係ないけど、人生もこの遊歩道のように少し曲がっていても先が見えるほうがよいのか、それとも先がみえなくて何が起こるかわからないのがよいのか・・・・カメラを構えながら少しだけ考えてしまいました・・・笑





 もう一本の遊歩道をご年配の方々の団体さんがやって来る。
 カメラを構える私に一人の方が声をかけた「にいちゃん、この花、なんていうんだ」・・・・思わず絶句・・・深読みといいますか他に草花があると思い、思わず「知りましぇん」・・・「そっか~」の声・・・・此処は水芭蕉群生地、そのことをわかってやって来たと思うが、この花はなんていうのは、ないだろうに・・・汗


 さて、昨日のお昼は元祖ジンギスカン



 八戸のI氏との懇親会後の〆は


 遠野で長崎ちゃんぽんですか・・・I氏・・・汗
 でもそれなりに美味かったでしょ・・・。

 某企業の面々が飲み会だったようですが、弟が勤めている会社、○○のおにいさん、兄貴・・・親不孝で会った方々全てが弟の会社の上司、同僚達・・・恥ずかしかったです・・・・笑


 さて、懇親会の席で酔いに任せて、今回探訪した上宮守の石倉館、宮守氏との関係を力説、歴史的に語られる宮守氏の居舘「宮守館」との関わりやら、一方を見ても始まらない、ここは宮守館もみなければみたいな話しになるとI氏、「明日は是非に宮守館に挑戦しましょうの声」・・・・遠野訪問の度に宮守館跡のある山野は目にするも、比高170メートルという聳えるような山野、一度探訪経験の私もしばらくはいいかな・・・と思うほど、ましてやI氏もご遠慮申し上げますと言っていた館でもあります。

 その館跡探訪が実現の方向になるとは夢にも思っておりませんでした。
 この宮守館探訪が今回の最後を飾り、しかもメインとなるとは・・・・・。


 山頂主郭の石積土塁


 館跡近くの御宅の女性に声を掛けると、先日も3人が来て、館跡を見ていったとのこと、さらに昨年は10人は訪ねて来ているとのことで、結構調べに来る方々が多いとか・・・・これはまさに驚愕の事実、館跡を調べているのは遠野では自分ひとりか、良くても数人程度と考えていたし、県内、全国の城館ファン、マニアだってそうは探訪しに来ないだろうと考えていただけに驚きと、負けてはいられない、しかし、どこか仲間が居て嬉しいの複雑な心境でした。

 いずれ、石倉館と宮守館の宮守氏・・・・その考察を近々エントリーしてみたいと考えてます。

 辛いと思われた山登り、割と楽といいますか、それほどにもなくクリア、I氏共々古の宮守氏居舘「宮守館」堪能いたしました。


 石倉館跡がある上宮守方面の山野・・・中央の木々がないところは、かつての館跡とされる神成館


 ラストを飾る昼食は・・・・

 五右衛門ラーメン


 実は昨日に引き続きジンギスカンもいただきました・・・笑


 かくして春の陣2007は終了、7月に当方の八戸訪問、ブロガー写真展でのI氏の遠野再訪、そして初冬の頃の冬の陣2007とI氏との交流はますます充実されるものと思います。

 二日間ご苦労様でした。ありがとうございました。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

07遠野館めぐり春の陣・壱

2007-04-28 17:57:33 | 遠野
 スッキリと晴れ渡った遠野路、世間でいう黄金週間がはじまり、遠野も本格的な観光シーズン到来、それと農作業も本格派といったところでもあります。

 私はといえば、恒例となっている春の館跡めぐりを開催、今年も八戸からI氏をお迎えしての春の陣、3箇所をご案内、新たな発見もあり実りある館めぐりとなりました。


石倉館(宮守町上宮守戸草)の空掘跡



オリンパスブルーな空




 桜の開花はまだですが、いいお天気、びへ~も2尾目撃、春到来です。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空振りな日々

2007-04-27 14:50:11 | 遠野
 28日、29日実施予定の遠野郷城舘跡探訪、その下見的に市内を徘徊、未踏の館跡ひとつくらいもリストに入れてもよいかな、と思い、まずは青笹町瀬内の中沢館探し、六角牛神社入口付近で地元の方であろうご年配の男性に声掛けすると、小水内に通じる林道の左手が館跡と聞いたことがあるとのこと。

 しかし、途中で行き止まりだから気をつけろのお言葉も頂戴し、愛車を走らせるも、それらしい雰囲気は掴めず、再訪と共に次は山野へ分け入るぞ・・・の思いを残して、土淵方面へ・・・・。

 比較的探訪しやすいと前から考えていた西内館跡へ・・・・しかし、目印であるお稲荷さんが見つからない、しかも国道下から想像していた地形とはだいぶ雰囲気が違う、今一度資料に目を通すと水路跡や土台石、堀、山頂、原野に畑があることになっている。

 水路、畑、原野はその通りだが、堀やお稲荷さんがない、それと館特有の形状もほとんど確認できない。

 ここは職場の後輩の奥さんのご実家近くでもあり、情報は仕入れていたつもりであったが、出直しとなってしまった。

 次に沢の口館、こちらは比高110メートル、腰の塩梅が・・・・尻込みしてしまい、山口方面へ逃げ去るように向かってしまった。



 風が強い日ですが、天気もよく農家の方々の姿があちらこちらで見られます。

おっけったネゴ

(倒れた一輪車)・・・一輪車のことをネゴ車と言います。


ついでに「ぶれんど」で話題となった山口のホウリャウ



 そして附馬牛町の小出に車を走らせ、館跡探訪で花館探訪以後で実は一番気にしていた館跡「館石館」・・・・春の早い時期や初冬では積雪等で行きつけない可能性があり、探訪は今時期が最適と判断しての探訪となりましたが、遂に発見に至らず・・・・。

 何が気になるかといえば、大型段丘5段が残されているということ、しかも空掘や土塁も残されていると資料に記されていること、大型段丘といえばどれほど凄いのか是非にこの目で確かめてみたかったのですが、山々が連なる場所柄、林道徘徊だけでは見つかるはずもありません・・・・汗

 いずれ、早池峰への道を考えれば、中世の頃も道は猿ヶ石川沿いにあったと思うのですが、館もその近辺と考えてしまいがち、どうやら山深き場所にありそうな雰囲気、こちらはプー公に気をつけながら、是非に探し当てたいと思います。


 

 おまけ


 某所にこのほどオープン、凄いところに開店しましたが、私だったら一次会に此処でカラオケをして二次会は街のお店でまたもやカラオケ・・・かな・・・笑

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春探訪2007

2007-04-26 19:47:33 | 遠野
 雨上がりの朝、今日は晴れるかなと思うも、予報は雷雨とか・・・?ズバリ予報は的中、午前中には雷雨、雨降りとなったが、午後には雨が上がるも今度は強風、しかも風が冷たい、桜の開花もちょっと足踏み状態か・・・?


 遠野の桜開花標準木は、法務局の桜だと何処かで聞いた記憶が・・・・確かに遠野の桜では結構早く開花していたような・・・・。







 間もなく、そう間もなくといったところ、光り輝く遠野の春、待ち遠しいです。


智恩寺方面

 真ん中の建物は旧図書館


 遠野館跡めぐり春の陣2007

 毎年春と晩秋或いは初冬の2回開催の遠野郷の城館跡探訪が今年も行なわれます。
 今年の春で6回目、4年目に突入ですが、メインの館跡は宮守町の石倉館、まさに知られざる館跡を地でいっているような存在、今年も中味が濃さそうです。
 


 遠野風の丘
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栃内善兵衛

2007-04-24 16:10:54 | 歴史・民俗
 栃内善兵衛(兵部)

 栃内館主、葛西領江刺出の盲目の兵法者。
 栃内地域の馬産に尽力し、遠野七観音のひとつ山崎観音は、善兵衛の産馬育成に関りがあったといわれ馬頭観音を祀っていたと伝えられる。
 弘治年間、綾織新里の西風館が葛西勢の夜襲によって落城、館主一族である西風館氏(宇夫方)が壊滅的打撃で衰退すると、西風館は栃内兵部に与えられ、栃内館は兵部の嫡子が継承、兵部は二男と共に西風館へ入り、西風館典厩と名乗ったと伝えられる。


 さて、阿曾沼興廃記やら阿曾沼家乗を本にして後世に書かれた郷土資料各種に概ね上記のような記述がされている。

 栃内善兵衛は別資料によると、葛西領江刺郡、岩谷堂城主、江刺氏の支族で天正18年、豊臣秀吉による奥州仕置で改易となった宗家葛西氏と共に主家江刺氏も没落、この時、遠野へ流れてきたとも伝えられる。

 遠野孫次郎(阿曾沼広郷)に仕え、栃内を治めたようでもある。
 慶長6年、遠野の政変では、駒木隼人盲目の軍師が活躍したと伝えられるが、駒木隼人はこの時、若干17歳といわれ、盲目の軍師が駒木隼人とは少し考え難い、盲目の兵法者と伝えられる栃内兵部と混同しての伝えなのか、やはり素直に考えれば盲目の軍師は栃内兵部その人なのかもしれません。

 その後の栃内氏については不明ながら、盛岡南部藩士には栃内家があり、やはり江刺氏族の出とされている。

 西風館典厩を名乗った栃内兵部、西風館姓は縁の人々か、それとも宇夫方氏の支流か?・・・・・。



 空掘跡か?

 天気も上々、土淵の栃内館が気になっていたので、山崎集落へ・・・・。

 館跡めぐりを始めた当初から栃内館は気にしておりましたが、実は未だに未踏の館跡だったのです。

 館跡は光岸寺後方の墓地のある山野か、以前近隣の方々2名に栃内館は何処かと訪ねたことがありましたが、二人とも知らないという返事、しかし、古館(ふんだて)という古名があって、古館という苗字の御宅もあるという、その御宅の背後の山が館跡ではないのか?・・・と逆に聞かれたりした記憶が蘇ります。

 以来、お寺さんの裏山が館跡とばかり思っていたが、本日、思い切って山野に突入・・・資料には確かに古舘の記述と熊野社、堀は林道になっていると書かれている。

 しかし、比高は結構ある、山頂までたどり着いたが館跡らしき形状も痕跡も皆無、隣接の山野も徘徊、こちらも何もなし、さらに南隣は角城館のある山野、これは完全な空振りということで断念。

 身も心もお疲れモードで下山して資料を再確認すると、比高は25メートル平山城と書かれている・・・・大汗・・・別場所であろう・・・・。

 そこで、2月に宝領社探しで訪ねた山崎の金勢様がある北側の山野も何かしら怪しい形状を確認してましたので、迷わずそちらへ・・・・上の画像、空掘らしき形状を発見、しかし、どこか林道っぽい、このまま登って行けば答えは出そうですが、この先は笹竹と藪、今回はとりあえず断念いたしました。



 おまけ画像

 今朝の松崎町光興寺から







 さらに山野徘徊中に出会った・・・・


 最初は二匹居ましたが、一匹は逃げ去るも、もう一匹はほとんど逃げない


 10mほどの至近距離でも逃げない、しばしの睨みあいが続きましたが、悠々と山の中へ消えていきました。


カタクリ


 山里にも春が訪れているようです。
 桜開花まであと僅か、待ち遠しいですな。

 
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

始動開始

2007-04-23 20:03:08 | 遠野
 遠野ぶれんど企画会議兼懇親会がこのほど行なわれましたが、8名のぶれんどのご参加をいただき、夜遅くまで、それこそ時間の経つのも忘れて、語り合い、そしてこの秋開催予定として写真展の開催を決定いたしました。

 今後何度か集まりをもって早期に要綱等を決め、皆様方にお示しいたしまして、写真等の募集やら、準備に入る予定です。
 その際は、よろしくお願いします。


帰ってきた宝飯爺氏
 やはり画像遊びではこの人、宝飯爺さんがいなければクリープのないコーヒーといえます。
 今回はおとなし目、座敷親父さんとの釣りのコラボレーション、共に画像を撮ろうとしておりますが、いったい何を撮ろうとしていたのか・・・・笑


コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

館と宝領(沢の口)

2007-04-21 17:52:09 | 歴史・民俗
 今年2月頃から俄かに湧き上がった土淵町界隈の宝領社探し、同町には一応4箇所の宝領(法領)社が存在していた、としているという内容を基に、以前結成された怪しい中年探偵団メンバーが現在も個別で探訪、なんとか三箇所を突き止めたようでもあります。


 下栃内の宝領社(2007年2月某日、怪しい中年探偵団の面々)

 
 土淵の宝領社は下栃内、林崎、山口、山崎にあり、それぞれ古い館跡とかかわる伝説となっており、近くに用水路が掘られていることから、土淵開拓の守護神とも考えられる・・・・留場 栄「山人炉端話」

 他にも明神の使い蛇を御神体とする内容も伝えられるが、これらも頭の隅に置きながら、まずは土淵の館跡と宝領を私なりに考えてみました。


 遠野通いブロガーさん達が取り上げた土淵町林崎の宝領、まずはこの界隈の館跡を探索することが私の役目ではないのか、そんな思いがございましたが、雨天と急な呼び出しで出向くこと叶わず、しかし、一応の下調べは出来ております。

 宝領社が関係するものと思われる館跡は・・・

山口(山口館・大洞館)・下栃内(本宿館、別名西館)・山崎(栃内館)・林崎(沢の口館)となっている。

 今回は、最後の沢の口館の探訪ということになりますが、林崎地内の山野にその館跡は存在するようです。
 そして館下の麓には沢口姓の御宅が数軒あり、林崎の宝領と思われる場所の近所でもあります。

 沢の口といえば主に遠野では附馬牛町東禅寺地区の沢の口、そして松崎町松崎の沢の口が最初に思い浮かぶ地名でもある。

 そしてその共通点は、遠野七観音が置かれる地であり、附馬牛は七番長洞寺笹谷観音、松崎は二番松崎寺松崎観音の存在である。
 しかも寺屋敷とか寺沢と呼ばれる古名があり、古に寺跡があったとも伝えられる。(松崎沢の口には史実として遠野南部時代の江戸期に古寺はあった・孝安寺と祥雲寺)さらに、土淵林崎にも古寺跡があったとも伝えられる。

 沢の口という地名から沢水の取入口、飲料水や農業用水としての使用されただろう水に関ることが地名に反映されているという感覚はそのとおりであるが、古の寺跡との関係も何かしらありそうな思いもいたします。


 館跡関連の観点からすれば、大概の館跡に鎮座する社は、まさに館跡に後の時代に祀られたものという見方でもあり、無論、館神として館が機能していた時代に置かれたものもあるとも思いますが、この宝領に関しては、後の時代という匂いがするのは私だけでしょうか。

 確かに館はその地域の政治軍事を司り、富と権力の象徴だったことも伺えますが、それと同時に地域を治めるには信仰的な事柄も不可欠でもあります。
 館主一族やらその配下がどのような信仰を駆使したかは今後の課題でもありますが、宝領に関った遠野ぶれんどの皆様の見解のように、熊野信仰やらの修験が関連しそうなことでもあり、さらに修験者は技能集団、或いは特別な技能を有する人々で、中世期に遠野を訪れた修験の人々は鉱山師、土木技師といったこともあったと思われ、館を築くことにも長けていたこと、これもひとついえることかもしれません。

 宝領そのものは熊野信仰等から変形した形で江戸期に変革期を迎えたものか、いずれこちらも館跡探訪と共にいつかは取り組まねばならないものと思います。

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

壮観・大萩大館、小館

2007-04-19 18:53:54 | 歴史・民俗
 附馬牛町東禅寺地区内の館跡、第3弾は、昨年春から早めに探訪しようと心に思うもどうしても気乗りしないまま、春が過ぎ、秋が過ぎ、そして今年の冬は暖冬で、まさに好機だったのですが、この冬も流してしまいそれでも何処か心の中で気になる存在でもあった大萩の大館・小館探訪の巻です。

 4月になってから、本来は大館・小館を探訪する意気込みで大萩地区に乗り込むも、比高120メートルの大館跡がある山野を遠巻きにすると意気消沈、しかしタダでは帰れないということで、むしろこちらの方が謎の館である角地山を探索、見事一発で探し当て探訪、さらに桑原の旧大野館を探訪、山一つを間違えての山野徘徊の末、たどり着くというよくあるパターン・・・・。

 そしてこの界隈ラストを飾るには、やはり大萩の大館、小館しかあるまい・・ということで、意を決して山野に突入となりました。


 大萩、角地山館跡の山野から撮影


大萩大館

 それほど比高が高いとは思わないかもしれませんが、120メートル、やはり登りは辛かった・・・汗


土塁と空掘・・・北側

 
 感想・・・・。

 綾織町新里の西風館跡と似た館跡という印象。
 北側が正面と思われ、山頂直下の上部に3段の帯郭、空掘は山頂背部から東西それぞれ下っているが、東側からのものは中央部の帯郭下を横断するように(二重)通って西側の空掘と接続して竪堀となって下っている。

 さらに東部分にも三重の空掘が確認できる。

 そして壮観だったのは、山頂背部(南)の堀切、全部で大小合わせて五重の空掘が残されている。
 しかも主郭側の高さ(深さ)は遠野最大級、幅も大きいものでした。
 

 中央付近、東から西を横断する空掘


 主郭背部の堀切


 残念ながら西風館同様、空掘は藪や笹竹に覆われているが、一応4重の堀跡が確認できると思います。



 外側2本の空掘跡

 
 山頂からは北には薬師、早池峰が西には石上がみえる。




 空掘が見事、遠野でも数、大きさはトップクラス、今回探訪しての感想でもあります。
 山頂南側は数年前に伐採作業が行なわれ、木々が無い状態ですが、やはり他の山城同様、作業林道が付けられ、一部空堀跡やら帯郭といった遺溝が破壊あるいは拡張された形跡でもあります。


大萩小館


 大館の北東、隣接した山野であり比高50メートル


 東側に展開の帯郭

 背部の空掘跡は一部確認、林道となっている。
 北側斜面は牛の放牧地となっており、頂部平場の端から有刺鉄線が張り巡らされ探訪はしなかった。
 東側部分に4段の帯郭が残されている。


 大館と小館は、セットとして見るべきと思いましたし、大館が本郭、小館は支城や出城といった類ではなく、大館の二の郭(二の丸)であろうと考えております。

 


館主・大萩円源と館

 大萩円源、やはり阿曾沼氏関連では、館跡関連資料以外は聞かぬ人物でもある。
 古刹東禅寺至近の館跡でもあり、寺院縁の人物か或いは出家した武士だったのだろうか、しかし、館跡の構えは附馬牛町内では最大級であり、単なる交通軍事の要衝とそれ以外の何か重要な位置づけが隠されている感覚でもあります。

 築、使用年代は明らかに阿曾沼時代、しかも戦国という印象がかなり強く残る館跡であり、まさに遠野型規格そのままという構えである。

 西側の石上山と目線が同じような感覚、しかも手に取るように見え、空掘含み壮観な光景が広がる好印象の館跡でもありました。

 

 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コードネーム33

2007-04-18 17:14:50 | 
 久しぶりの青空、しかし、どこか輝きが物足りない、案の定、午後北の空から曇りだし時折雨がポツリポツリ。

 こんな日は午前中勝負・・・といっても館跡探訪ではない、雨で先延ばしにしていた7畝ばかりの畑の耕作をしなければならない。
 これでもかつては小規模ながらも農家でもあり、夏野菜やら秋野菜は自給がモットー、早速ティーラーと呼ばれる小型耕運機にて年一回の耕作を実施しました。


 昼を挟んで2時間の作業。


 さて、午後も早くに農作業も一段落、館跡のひとつも探訪したいところだが、足腰がだるい、ティーラーを洗浄して乾かしている間に、密かに話題となっている宝領社探しに土淵方面へ・・・・

 笛吹童子さんやアバウトさんは3箇所の内、2箇所は確認、残るは林崎か山崎にあるということらしいが、怪しい箇所は発見したが、また後日ということにして山口方面へ・・・・。


山口の水車小屋


 水車が勢いよく回ってました。

 定番風景の画像をゲット、天気が良ければな・・と思っていると・・・「ミャー・・」の泣き声・・・・汗



 「おっ、おでましでしたかスリスリちゃん」・・・・早速我足に絡みつきスリスリの洗礼、こちらもお返しとばかり喉元攻撃、まさにゴロニャン状態・・・・と思いきやっ・・・・。


 はやっ~・・・白濁酒特区スッケ号のボンネットに瞬間移動、しかしどこかよそよそしい・・・。


 今度は知らん振りかよ・・・・。

 前回同様、とっ捕まえてナデナデ攻撃すると暴れた・・・思わず手を離すと地面に・・・・


 「このスケベ親父、なにすんでぇ・・・」とフテブテしい顔・・・・。

 今日は愛嬌度数が足りなかったらしい・・・・笑

 ということで、33・・・スリースリー・・スリスリということに一応しました・・・・大汗



 おまけ

 帰宅すれば、我家の33はご覧のとおり・・・・。

コメント (16)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大野源左衛門

2007-04-16 14:26:49 | 歴史・民俗
鉛色の空、ポツリポツリと小雨も時折降り出す生憎の天気、先週中盤からなかなか青空が広がらない、今朝は高い山々の半分上は降雪があったようで、薄っすらと雪化粧をしておりました。


2007年4月16日 朝の天ヶ森


 さて、先週から附馬牛町の館跡探訪を少しずつ実施しておりますが、雨模様でなかなか山野に分け入ることは叶わず、しかし、大萩の大館と小館、そして古桑原館(別名旧大野館)だけはなんとしても早期に探訪したいと考えておりました。

 まずは桑原館、ここを見ておきたい、しかしながら場所の特定が不完全でして、附馬牛地区センターへ出向いてご教授をいただき、当初私が考えていた山野付近ながらも少しずれていることを確認、早速本日の午前中勝負として訪ねて参りました。

 教えられた御宅の裏山に突入、しかし、資料には比高90メートル、真っ向に石上山がはっきり見えるとある。
 
 確かに石上山は見えるも、比高は、せいぜい30m位か、雰囲気からして舘山とは思えないし、それらしい痕跡も皆無、北側に高い山野があるが南東側にもさらに高い山野がある。

 感覚からすれば、旧大野館というくらいだから、北側の山野が怪しいも、何故か足は南東側へ向かっていた。

 奥まった山頂を目指すも空振り、峰沿いに南東側へ、少し下る峰であるが、このまま行って空振りだったら、今度は戻るには登りとなり難儀するだろうな・・・なんて考えながら、折角来たのだから、見つけるまでは徘徊するぞの意気込みでそのまま歩みを進める。

 おっ・・・・あれは・・・ということで、土塁らしきこんもりした形状が・・・さらに堀切らしき形状もみえる・・・まさしく、ここが・・・・峰ふたつを越えてやってきたが遂に発見、まさしく館跡特有の地形が目の前に飛び込んできた。


 山頂北部分の空掘跡

 背面の峰を断ち切る堀は一本のみ、そこから下る空掘は土砂の堆積等で消えかけてはいるものの、まずまず確認できる範囲、さらに石上山もはっきり見える、高さも山頂からはまさに比高90メートルといわれればそのとおりで、結構高い。


 帯郭

 山頂を取り巻く帯郭、南西側へ伸びる複数の階段状の形状も確認、雰囲気は土淵の本宿館そっくりでもある。


 主郭(山頂)下の帯郭


 う~ん・・・使われていた時代は?・・・戦国期には間違いなさそうでもあり、また眼下に広がる桑原地区や宿、大萩地区が手に取るようにみえる・・・。

 東禅寺方面からの街道、早池峰妙泉寺があった大出方面への道すがらの要衝といった雰囲気、これまた考察するには厄介な館跡でもありそうです。


 

 さてさて・・・・この桑原館の館主は、郷土資料によると桑原左近という武将と大野源左衛門の名が記されている。

 大野氏が居たとされる館は、実は小出方面への道すがらの大野地区に新館があったとされ、こちらは平城、屋敷とでもいいましょうか、ですから今回探訪した館跡は、古桑原館とか旧大野館と名が付けられている。

 桑原左近とは・・・まさに不詳といったところですが、今回のお題「大野源左衛門」も、その館主のひとりといわれている。

 大野源左衛門は、文禄、慶長の人ということになろうが、附馬牛領主、阿曾沼支族で重臣である火渡館主の火渡中務広家(玄浄)の家臣と伝えられている。

 慶長5年(1600)遠野の政変で、遠野主家で横田城主、遠野孫三郎(阿曾沼広長)は、鱒沢、上野、平清水氏等の謀反で遠野を失った。
 首謀者の鱒沢左馬助広勝は、遠野内の館主及び重臣等を横田城に集め、旧主阿曾沼広長の追放を宣言、さらに自分達の配下へ加わるよう説得をしたとされる。

 その多くはこの謀反に同意するも、附馬牛の火渡館主の火渡玄浄のみは、その非道を責め、罵り、席を立つと己の館である火渡館に軍勢を集めて立て篭もったとされる。

 火渡玄浄は再三の説得にも応じなかったため、遂に鱒沢、上野両氏は、火渡館攻めを下知、遠野勢の大軍が火渡館を攻撃、この時、玄浄の家臣、大野源左衛門は自慢の強弓をつがえて遠野勢多数を射殺、遠野勢の将兵が串刺しになる恐るべき強弓だったと伝えられる・・・・(ホントだったら凄まじい強さである)

 しかし多勢に無勢、城方の矢玉も尽き、火渡館の落城も時間の問題となるや、海岸方面の大族、大槌氏を頼って玄浄を落ち延びさせようと大野は、玄浄は切腹したということにして、その遺体は東禅寺に葬るとして玄浄を白布に包んで脱出を試みるも、敵兵に玄浄は白布ごと刺されて討ち死にと伝えられる。

 その後の大野源左衛門は、玄浄と討死にした家臣達の菩提を弔うため高野山へ行ったとも、東禅寺に玄浄の遺体を葬った後、修験者となったとも伝えられるもその後の事績は不明・・・・。

 そういえば、室町時代の宝徳合戦、葛西勢を率いて綾織谷地館の宇夫方氏を攻めた金成右京太夫政実を一矢の強弓で射斃した宇夫方郎党、大野十郎なる者、時代は違えど、どちらの大野も強弓の士、何かしら関連がありそうな感じもいたします。



 桑原館跡(旧大野館)


 お知らせ

 4月21日(土) ミニミニぶれんど開催

 予ねてからご提案しております遠野ブログ関連写真展に向けての打ち合わせ及び、遠野通い人さん達が連休に遠野にお越しになる際の歓迎ぶれんど会等の日時やら催物を事前に協議する集まりをいたします。
 無論、懇親会付きです。

 時刻、場所は前日までにお知らせいたします。
 または「遠野くさぐさブログ」でご確認願います。

 
 
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする