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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

上じぇんごの舘(菊池一族縁の舘・上郷青笹)

2005-11-28 14:17:42 | 歴史・民俗
 11月28日は、亡き親父の命日、午前中は墓参り、とりわけ良い事があるでもないが、健康でなんとか暮していること、家族もそれなりに仲良く暮していること、このことの報告と感謝を込めて墓前にて手を合わせて参りました。

 あれから4年、早いものである。アル中でしかも50代後半には隠居と称して、第一線から退き、毎日何をするでもなく、寝てばかりいた親父、そんな親父のようにはならないぞ、と固く誓っておりましたが、親父亡き後は地域との付き合い、冠婚葬祭、何をしてなくてもこれらはきちんとこなしていた親父、社会生活を営むということは、まさに大変なことであると実感しております。


 さて、何か取り付かれた様に、晴間を待って、遠野郷内の菊池一族縁の舘跡調べを敢行、今回は青笹町中妻の丑舘(臼舘)と上郷町の板沢舘、刃金舘を踏破してきた。
 場所の特定はある程度完了していたが、山城ということで、今まで躊躇しておりましたが、ななんと思い切って山に入ってみると、どれもきちんと道が付いている、しかも山城めぐりに慣れたのか、それほどの疲労感もない、むしろ気持ちがいい、さほどの山登りも苦にならないというか、案外楽勝気分でもありました。
 
 さらに今回の三つの舘、どれも大当たり、すばらしい遺溝群、感動ものでもありました。
 また規模もまあまあ・・初冬の舘めぐりは前回の宮守関連も含めて、満足感と新発見がありたいへん充実しております。

 なお、宮守関連の舘跡は本編サイトへアップいたしました。
 併せて宮守菊池氏の考察もいたしております。興味のある方はこちら

画像は青笹町丑舘頂上、主郭からみた六角牛山と上郷町方面

 舘跡調べの後は、「ジェストモあべ」にて遅い昼食、なんともいえないネーミング、何か横文字の名にあべが名前のような感じがするでもないが、なんのことはない、遠野弁での「是非とも」が「じぇすとも」に・・・「あべ」はおそらく名前ではなく「行こう」が「あべ」ということだと思います。経営されている方がアベさんかもしれませんので、その辺は私は知りません。
 いずれ、遠野産の蕎麦を使った手打ち蕎麦、心地良い汗をかいた後でもあったのか、まずまず美味かったです。
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ネネ近況報告

2005-11-27 12:04:24 | 
 我家の飼猫、ネネ・・・・

 日中は朝から晩まで寝ている、そして夕方から家を抜け出して、夜遊び、帰宅は早朝で朝ごはんを食べたら即昼寝・・・もっとも猫は夜行性だから夜が活動時間かもしれないけど、人間の生活習慣に慣れ親しんだと思いつつも、やはり本性は失っていないかもしれない。

 外への感心は強かったと感じていますが、最近は隣のボス猫夫妻に追いかけ回され、出てもすぐ逃げ帰ってくる有様、しかし、どういう訳か昼夜逆転、玄関での出入りの隙に「あっと」いう間に外に飛び出す、飛び出したら最後、姿はみえなくなり翌朝までは帰ってこない。
 余程遊びまわっているのか、翌朝に帰ってくると寝てばかりいる、とにかくちょっとやそっとでは起きることもない。
 そこで、絶対外に出さないように試みますと、夜も寝ている24時間のうち、22時間は寝ているのではないだろうか。

画像は、どんなスタイルでも寝入るネネ
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遠野郷舘めぐり②・神成舘

2005-11-25 19:16:57 | 歴史・民俗
 先日、難攻不落とされる比高170メートルといわれる宮守舘を攻略したが、この宮守舘の前身、宮守氏が当初居舘としたとされる上宮守西風地区の神成舘を今回、調査してきた。
 宮守氏を語るには、主舘の宮守舘のみならず、この神成舘の攻略も必要不可欠でありますが、今回は、たまたま地権者の方が舘跡一部の畑で作業をしており、色々とお話を伺うことが出来、今まで舘跡と考えていた場所、地元郷土史家が建てた標柱の位置が一部舘跡ながら本来の舘跡の場所でないこと、さらに新たなる発見をした次第でもあります。
 詳細は本サイトにて後日掲載いたします。

上記画像は神成舘一部から上宮守西風地区と主郭(右)を撮影

 この神成舘は、下記の画像にもあるように室町初期、三戸南部氏、南部守行が糠部(岩手県北、青森県)の軍勢を率いて遠野横田城救援に駆けつけ、この地で宿陣した場所と語られている。
 遠野へ攻め入った気仙勢が機先を制すべく横田城を囲みし軍勢の一部を差し向け、宮守在地の軍勢と共に南部軍に夜襲を敢行、南部勢は遠方からの遠征で疲れ、寝入ったところを急襲され散々に敗れて達曽部方面へ退却していったと伝えられております。



 それほど大規模でもなく、またよく残された遺溝群があるわけでもないが、旧宮守村の郷土史、史跡に対する姿勢は、標柱や案内板を含めて割りとよく整備されている方で私のような素人歴史家もどきにとってはたいへんありがたいものでもあります。また地元を知るという点では、子供達もいつも目にする案内板等があり、何気なくみている光景もいつしか、「あっ、あそこか、そういえばあったな」と将来思い出すこともあるきっかけとなるものでもあると思います。
 それにしても今日も山歩きで疲れました・・・。
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遠野舘めぐり・菊池一族編

2005-11-23 13:28:16 | 歴史・民俗
 まずは本題に入る前に・・・・
 22日夜、いつもブログでお世話になっておりますROMIさんからTEL、なな・・なんと伊達領から、こちらもいつもコメントいただき、遠野人の知らない遠野をご紹介しております、たま千代さんが来遠中とのお知らせ、急遽歓迎会を催し、親睦を深めました。
 それにしても、たま千代さんは、御淑やかな伊達美人でした・・ホント。
 ROMIさん夫人も南部美人でした。・・・・結構緊張しました・・・笑



 さて、この時期、遠野舘めぐり秋の陣と称して、遠野郷内の舘跡(城)をめぐって調査をしておりますが、まずは今回の主眼は、遠野郷内の菊池一族の舘をテーマに本格的な積雪となるまでに踏破と考えている。
 その第一弾として宮守の宮守舘を午前中に登城・・・比高170メートル、遠景を見ただけで腰砕けになる山城でもあります。
 事前調査で登り口を見つけておりましたので、その場所からいよいよ登城開始、しかし、這い上がるような急斜面、それでも正面突破となる登りよりは距離が短い、足が攣りそうになりながら、そして滑り落ちないようになんとか頂上に到達・・・苦しい後は、舘跡めぐりの醍醐味、数々の遺溝類、なかなかの舘である・・・詳しくは拙サイトにて後日アップいたします。
 いずれにしても本邦初公開の舘・・・お楽しみに・・・・。



ちなみに、板沢舘・刃金舘(上郷町)、臼舘(青笹町)といった菊池一族縁の舘を早期に踏破する計画です。
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元祖角助

2005-11-22 17:32:00 | 遠野
 風が冷たい、関東近辺が寒かったと感じて先週帰還したが、やはり北国、風の冷たさは話にならない、こんなくらいで寒いとは言っていられないが、しかし、紅葉だ、晩秋だ、と思ってる間に佇まいは冬、そして間もなく師走である。
「はえもんだなっすっ」



 
 さて、遠野郷八幡宮例大祭、遠野祭りでの駒木しし踊りの勇姿も記憶にまだ新しいところではありますが、今年は市合併記念と称して各地域の郷土芸能による競演会が27日、市民センターで開催されます。
 駒木しし踊りは、出場団体の一番最後の登場、今年の踊り収め的なことでもありますが、終った後は、関係者によりご苦労さん会が予定されております。

 今年後半は、遠野郷しし踊りでの駒木踊りの由来等を少し詳しく調べてウエブサイトにご紹介と目論んでいたが、なかなか手が回らず来年以降の懸案事項となりそうな感じでもあります。
 まあ・・それでもなんとか来年辺りはご紹介できるよう準備をしたいと思いますし、ご期待いただきたいと思います。

 タイトルの角助・・・・
 駒木村海上の角助、遠野郷しし踊りの創始者という位置付けの人物である。
 「遠野古事記」には駒木村の「覚助」が京都の帰りに京都近くで習い覚えてきたことが記されている。
 また「上閉伊郡志」には駒木村の角助が京都の帰り、遠州掛川(静岡県)において習い覚えてきたと記されている。
 その共通点は、「かくすけ」という人物が記されていることで、「かくすけ」なる人物が遠野郷しし踊りに何かしら多大な影響を与える人物であったことが伺えることでもありますが、いずれ駒木の海上で「覚助」という字の「かくすけ」さんは各家の系図、寺の過去帳では見当たらないといわれている。
 
 しかし「角助」という名、字を使う人物は海上に実在しており、駒木しし踊りの語られる由来でも「角助」と伝えられている。
 さらに角助の墓が存在しますが、この墓所はかつて角助屋敷といわれた場所で、角助のご子孫が住まいしていた住家があった場所とされております。
 明治の初年まで家は存在していたそうですが、火災により焼失、今はその墓所のみが当時の面影を偲ばせております。

 
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デジカメ2

2005-11-19 21:23:41 | その他
 野暮用で上京しておりましたが、彼の地も結構風が冷たくて寒いと感じました。
 もちろん岩手と比べようもございませんがね、今東京方面は紅葉の盛期直前といった感じ、岩手とは約1ヶ月の気候の差があるみたいですね。

 ということで、本題のデジカメ・・・新宿とか池袋といったところのカメラ専門店や電化製品の量販店を少しみてきたが、お目当ての一眼レフデジカメ、だいぶ絞りつつある。
 店員さんのお薦め、製品の説明も画像のオリンパスが結構評判がいいようだ、さらに前シリーズに比べてもスタイルもよく、手にした感じもしっくりとする。使い勝ってと値段もいい感じだとだいぶ傾きつつあります。
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朝の遠野駅

2005-11-15 08:06:44 | その他
 釜石線沿線から外れている地域に住んでいるので、列車に乗るということには縁遠い、そして車社会でもあるのでなおさらでもある。
 しかし、ここ3年、遠野駅での送迎が日常的で今まで知らなかった朝の駅の顔が若干見られたという点では少し視野が広がったかもしれない。

 北上市内の県立高校に通う長女も来春には卒業である。長いようで短い3年間、色々と多難な問題を抱えながらの高校3年間、あと数ヶ月で遠野駅通いも終わりを告げることだろう・・・。

 夕方や夜の遠野駅は、時折の飲会なんかではよく目にするし、トイレを拝借したり、売店で煙草を買ったり、宮守方面へ列車を利用して帰る同僚を見送ったりとそれほど別世界といった感じはしないのだが、朝の遠野駅はまた別の顔を覗かせているような気がしないでもない。
 朝6時30分前後、花巻盛岡方面へ向かう列車、釜石へ向かう列車、共に一番列車であるが、釜石M高校へは遠野市内から40名前後の高校生が通学しているという、また花巻、盛岡、北上へも同数以上の高校生が通学しているといわれる。それと車社会ではあるが、社会人でも結構列車通勤をされている方々も目にする、これは以外と考えていたより多いと感じたりもする。
 
 鉄路も廃れたといわれはじめてかなりの年月が経過しているが、往時に比べれば利用者こそ少なくはなっていると思いますが、それでも公共の足として健在である点、特に市外に通う高校生達にとっては欠く事のできない交通機関、今後も大いに活躍してほしい、何よりも遠野駅は遠野の顔でもありますから・・・・。

画像は朝の遠野駅前の様子・・・高校生が駅へと急ぐラッシュを過ぎてから撮影しましたので、閑散としております。

実際は駅前にはこの時間、駅へ子供達を送ってくる車が十数台数珠繋ぎとなって停車する光景がみられます。また自転車で急いでやってくる高校生もいて、結構活気があります。
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今も健在な古名

2005-11-12 13:16:04 | 歴史・民俗
 古名・・・特に田舎といいますか、在郷では未だに屋号や古名を使ってそのお宅なり地域を指すといったことが健在でもあります。
 ただ、これも今の若い世代には通じない、またかなり消えつつあることでもありますし、私自身、同地区の方々に言われても何処の場所を指しているのか、皆目見当もつかない場面もあったりします。
 以下では現在でもよく使われる古名、なかでも私がアソコだっ・・と把握している松崎町駒木地区の古名のいくつかを列記いたします。

小田沢(こたざわ・こたじゃ)蝦夷時代からの集落、駒木地区北の集落名
蟹沢(かにざわ・がんじゃ)沢蟹が生息する沢、小田沢集落の一地区
妻の神(さいのかみ・しぇのがみ)賽の神、道祖神、上駒木地区の上方を指す地名
中村(なかむら)阿曽沼舘があった集落、村の中心、現下駒木
中野(なかの)前野と上野の間、字名として残存。福泉寺から海上集落にかけての一      段高い場所(桔梗ヶ原)
前野(まえの・めの)阿曽沼舘前の野、愛宕社下の野(下駒木)
上野(うえの)中野の上方、海上集落の一部
八幡沢(はちまんざわ・はちまんじゃ)源義家の陣所があった場所の沢、海上
真立(まったつ・まったづ)山と猿ヶ石川が大きく湾曲する場所に沿った道、矢崎
落合(おちあい・おちあえ)猿ヶ石と小烏瀬の合流点
白崖(しらがけ)矢崎の崖崩れ
鍋越(なべこし、なべごす)この田圃の米を炊くと鍋いっぱいになる。豊田・
牛転し(うしころばし・べごころばす)この田圃の稲を牛で運ぶと牛が倒れる。収穫                 の多い肥沃な農地。
おいぬ洞(おいぬほら)狼が居た洞、上駒木
おぎょう(おぎょ)母子草が多い地、上駒木
猿沢(さるさわ・さるじゃ)猿に似た岩石があった地、上駒木・耳切山内
大柳(おおやなぎ、おやげ)柳の大木があった。小烏瀬川沿い、海上
足沢(あしざわ・あすじゃ)鷲沢が訛ったもの、鷲の生息地だった地、下駒木
太郎沢(たろうさわ・たらじゃ)上駒木で大沢川と合流する沢、沢の流域の古名

まだまだありますが、今回はこの辺で・・・・

画像は「真立」まったづ・・・松崎と駒木の境・・現自転車道真立橋
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初雪の火災予防運動

2005-11-09 11:33:54 | ファイヤー
 遠野の郷に初雪・・・。暦の上では一応冬、しかし佇まいは晩秋といった感じで、まだまだ山々は色はあせているものの紅葉の終盤といったところでもあります。
 
 ということで、9日~15日まで秋の全国火災予防運動が始まりました。もう既に暖房器具等のお世話になっておりますが、これからの季節は暖房器具が欠かせない季節でもあり、空気も乾燥するといったことで火災が起りやすい時期でもありますが、なんといっても火災は人災、必ず人間による過失やら手によることでもある災害ですので、皆さん一人ひとりが注意することによって防げるものでもあります。
 また消防団をはじめ婦人消防協力隊の方々には、正業の傍ら貴重な時間を地域の防火のためにご尽力いただく、まことにありがたいことでもあり、心からご苦労様と申し上げたいです。予防運動期間よろしくお願いします。

 そういえばもう十年以上も前の火災予防運動初日、初雪が降ったのですが、これが20センチ以上の降雪となり、市内各地での防火パレードに難儀した記憶がございます。私は小友地区を担当しましたが、時間に遅れるは、山間の枝道には入れないはで、途中で切り上げて帰ってきたことを思い出します。
 いずれにしろ、冬将軍の先陣部隊が来襲といったところ、本隊の到着までは例年はまだまだであるが、冬タイヤの準備を急がねば・・・そんな心境です。
 それにしても来年の4月まで、寒い季節が続くと思うと気が重いです。冬は冬でいいところもありますがね・・。

画像は初雪の高清水山の様子11月9日・午前
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長作堤防

2005-11-07 13:53:55 | 遠野
 昔の人は凄い・・・また世のため人のためになることを身銭をはたいて成し遂げる・・・今に暮す現代人に果たしてこれだけのことを成す人はいるのだろうか?・・・少なくても私はできない・・・。

 四戸長作・・・
 寛政7年(1795)土淵高室の農家に生まれる。水田5町歩を力耕して自給すると、横田村(遠野城下)の神明(六日町)に移り住み、水車小屋を立てて春米(臼で米、雑穀)を打って生計を営んだ。
 農業基盤安定を図る目的で、猿ヶ石川の氾濫を防ぎ、沃土を開墾して水田を増やすことを思いつき、まずは堤防を築くも脆くも水害で流出、時の領主に懇願して堤防工事を推し進め、ついに苦節9年、天保14年(1843)堤防が一応の完成をみる。
 長作が今に語られる人物としては、堤防建設に他ならないが、飢饉等で失業するもの、食い扶持を失ったものを雇用、三度の食事を与え、手間賃も支払うといった細民救済をも兼ねての事業でもあったこと、また監督的な立場ながら自らも額に汗し、共に労苦を分かち合ったということも語られている。
 この事業により猿ヶ石川の氾濫はなくなり、5町6反余りの荒地が新田となり、これらをすべて領主に献上、褒美としてすべて長作に下げ渡されたが、それでも普段から贅沢はせず、常に粗服をまとい農耕に勤しんで天寿を全うしたといわれております。(文久3年1863)永眠・71歳。

 四戸長作は本姓を高室と称するが、事業成功により名字帯刀が許されるに四戸を名乗る、後にご子孫は本姓の高室に復した。

画像は愛宕橋付近からみる猿ヶ石川と堤防
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