「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

蛍来い

2006-06-29 08:20:31 | 遠野
 「ほ・ほ・ほたる来い、・・・こっちの水は甘いぞ・・・。」

 妻の知人が先日、松崎町内で蛍探しをしたとか、しかし、見つけられず・・との話し、さらに我家の末娘も蛍そのものを見たことはないっ・・という・・・これはなんということか、確かに私自身も近年、蛍が乱舞する光景は久しくみていないということで、早速昨夜蛍探しに家族で夜行性行動をとって来ました・・・汗


 松崎町内ではないですが、あそこなら居るだろう・・と目星をつけていざ出発、「333・777・大当たり」一発で蛍に遭遇・・・・少し時期的には早いかなと思っていたが、蛍の乱舞こそなかったが、そこそこの光・・・まずは満足といったところでした。




 釣りのケミ蛍ではございませんよ・・・笑

 しかし、デジカメで蛍を撮影、ほんと難しかった・・・今後の課題でもあります。


 蛍・・・・
 家の前は水田地帯、幼い頃から今時期は蛍がよく見られ、それも半端な数ではない、とにかく乱舞、群舞・・・至る所で「ピカ、ピカ・・・」・・・日常的な光景でもあったので、全く珍しいとか凄いとは思わなかった。

 子供が小学生になった頃か、夏休みの行事なんかを決める話合いに地区公民館へ・・・その帰り道、蛙や虫の声はすれど、蛍が見えず・・・ほんと全くいないということに気づく、あれだけいたはずの蛍が・・・自然環境の変化に驚かされると共にそれまで全く考えや気づきもしない自分に腹を立てたりと・・・・。

 数年前、駒木妻ノ神の奥、沢沿いで数匹の蛍をみたこと・・・あの時、今はこんな山奥でなければ蛍は見られないのか・・・なんて思ったこともありました。

 最近は、蛍が飛び交う自然を守ろうとか、環境を作ろうといったことも盛んとなっている、おそらく蛍もまた数を増やしているのだろう・・・それにしても蛍がいる環境の保全というよりも作ろうということ、これも何か空しいことでもあるような・・・人間達が環境を壊しておいて、また私のようにしばらく気づいていない無関心さ、そして思い出したように登場・・・・これも仕方なしか、いずれ自然も守り伝える、より良い環境へと導く・・・これも必要である。




 今度は地元松崎町から蛍の姿をお届けしたいです。
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虎猫「つぎもうす」を行く

2006-06-28 15:20:32 | 遠野
 虎猫(とらねこ)附馬牛(つきもうし)を行く・・・・。

 今回は、小出~重端渓~中滝~和野(犬淵)の猿ヶ石川沿いのコースです。

 ブログでは、自分や家といった身近な日記的な内容及び地域の歴史のこと、民俗に関わることとか、そういった類な内容を織り交ぜながら遠野も紹介と考えていたが、最近は遠野発信のみならず遠野外の方々も遠野をご紹介、このことに影響されたのか、遠野市内の至るところを休日にはカメラを持参で走り回っている自分、無論毎日ではないが、本日は附馬牛町のほんの一部をご紹介・・・。


小出に用向きがありましたが、帰りは小出~中滝線を利用いたしました。
画像の木・・・なんの意味があるのかは不明です。
早池峰山関連か、鳥居に見立てているのか・・・?


重端渓(ちょうたんけい)・・・紅葉の頃はすばらしい景色だと思いますし、真夏に水遊び・・・これも面白いかもしれません。


和野から中滝・犬淵の別れ・・・・近年まで、中滝方面への入り口はコンクリートの壁が立ちはだかっていて、門みたいになっていたと記憶している・・・。今は片方にコンクリート壁が残されている。


附馬牛発電所の吊り橋・・・・重さ350キロ以下のみ・・・。
結構ゆれて面白かった・・・笑


附馬牛発電所

 小学校高学年の頃の遠足、ここ附馬牛発電所だった。
 駒木から和野犬淵まで・・・途中の上柳から和野までの猿ヶ石川の流れが凄くきれいで担任の先生と感嘆した記憶がある。
 発電所には職員が何人かいて、タービンとか稼動している機械等の説明を受けた記憶もあるが、今は建物脇の原っぱで弁当を食べたこと・・・それすらも記憶が薄い。


猿ヶ石川・・・・小学生の頃の遠足後は、高校生の時に釣りに来たのが2度目・・・雑魚の遊魚券を持っていないということで、誰かに密告されたのか、監視員のような古老の人物がやってきて注意を受けたが、何も釣っていなかったこと、これからはじめるといったことで、まだ未遂であると判断されてこのまま帰るのであればお咎めなし・・・・ということで、帰りました。

おまけ・・・


石灯篭の家・・・・。
画像に見えない部分にも石灯篭が・・・・どうみても石材店とか石屋さんにはみえない御宅、典型的な農家なのだが・・・・汗
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宿

2006-06-26 21:15:07 | 遠野
 遠野市内に宿(しゅく)と名がつくところ・・・ほとんどはバイパスやら道路が別場所に出来て交通の利便も移動・・・・ついでにその人々、交通機関の流れも移動・・・・今は僅かに宿場町的な佇まいが残されているのみである。


 遠野市内で一番通りが長い宿場町跡かもしれない・・・。


 木の橋・・・・小友ではございません。


 南部藩時代は、遠野領ではなく盛岡南部藩の直轄地であった。
 さてここはどこでしょう・・・・?
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夕暮れ時・・・・

2006-06-25 20:09:27 | その他
夕暮れ時はさびしそう


作詞/作曲 天野 滋


田舎の堤防 夕暮れ時に
ぼんやりベンチに すわるのか
散歩するのも いいけれど
よりそう人が 欲しいもの

あの娘がいれば 僕だって
さびしい気持にゃ ならないさ
まわりの暗さは 僕達のため
あの娘が来るのを 待っている
夕暮れ時は さびしそう
とっても一人じゃ いられない

 岩手県出身のフォークグループ「NSP」の昭和49年の曲ですが・・・当時中学2年生だったかな?・・・・校内放送とかでよく流されていたし、ラジオでもよく聞いていたし・・・無論・・・詩のワケはわからなかったし、堤防にベンチはなかったし・・・・でも、無性に子供心に好きな女子は今何をしているのだろう・・とか・・顔に似合わず考えたりもした・・・・汗


午後5時頃の画像


午後7時頃の画像

 まさに夕暮れ時はさびしそう・・・・薄暗い道を遠野中から駒木まで・・・さびしかった・・・汗

 ところで長男は中3ですが、淡い恋心とかそんな思いをしているのだろうか・・・クラブ活動が終って帰宅すると、ゲーム三昧・・・とても私の子供の頃とは環境も違うけど・・・・少しくらいは色っぽい話もあってもおかしくない歳なのに・・・・笑
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森林軌道・白岩~駒木編

2006-06-23 18:07:31 | その他
 相互リンクいただいております、yamanekoさんが大出の森林軌道跡について触れられておりますが、そのことに触発されたわけではございませんが、いつか機会があったら、かつて稼動していた森林軌道について、調べてみようと思っていた経緯もあり、今回、詳しくはございませんが、その軌道跡を訪ねましたのでご紹介いたします。

 なお、森林軌道は私の生まれる以前のものですが、その痕跡を見聞きした記憶と幼少の頃、何度となく乗った経験を持つ伯母から聴取した内容も含まれております。


森林軌道の始発点・・・旧営林署貯木場(上組町)

「森林軌道」
「昭和10年(1935)早池峰山麓薬師岳国有林の広葉樹(ブナ等)の伐採事業が開始されると伐木を遠野へ運搬するための森林軌道が敷設される。
 遠野~附馬牛大出間29.3km、レール幅76cm、遠野~附馬牛上柳間約1時間、上柳~大出1時間、大出~薬師岳山麓40分を要したようである。」


軌道跡・・・上早瀬付近


白岩地内・・・某コンビ二付近から


白岩地内・・・乗馬スクール付近から来た道を撮影


上画像の逆・・・鉄路は大出方面へ
おっ・・・線路が・・・笑


農協関連施設の西側・・・遠野方向を撮影


地域は土淵町か?谷地集落の手前・・・製材工場が数施設あった場所の西側

 軌道跡は上早瀬から白岩地区(八幡)までは色濃く残されておりますが、土淵町谷地から小烏瀬川を越えて海上までのルートが不鮮明でもあります。
 伯母の話によりますと、谷地からは水田地帯を通って小烏瀬川の福泉寺橋と大柳橋の間付近を越えて海上下へ至っていたとか・・・・。
 今はその痕跡を探し出すことはできない。

 「森林軌道
 乗務員は4名(運転手1名・制動係3名)他に保線担当5名、車両10両編成」

いよいよ駒木地区へ・・・・


 海上下から中野の丘陵下を通っていた・・。


駒木海上地内


上の・・つづき


下駒木地内


下駒木地内・・・旧駒木小学校西側

 海上地区においては、その軌道跡があった位置、雰囲気は十分に感じ取れますが、下駒木~上駒木は農地の基盤整備事業により、その痕跡は皆無に等しい現状です。
 画像に関しては、軌道跡の位置のみですが、基盤整備以前は私もその痕跡を記憶しております。

 「森林軌道は、早池峰登山客や沿線の住民達にも利用されたといいます。
 伯母も祖母に連れられ大出の早池峰神社にお参りに行ったり、附馬牛方面への用向きに利用したそうです。
 早朝、荷台が空でやって来る列車に手を振って止めていただいて乗車、帰りは満載した木材にしがみつくような姿勢で帰ってきたそうです。
 スピードが自転車を少し早くしたような速度だったため、遠野~大出間は一日一往復だったそうです。

 駒木地内、上柳~大出間は猿ヶ石川沿いに軌道が敷設されていたため、昭和22年、23年の台風、特に23年のアイオン台風では軌道が流される被害が甚大で、その復旧に係る費用は膨大ということで、森林軌道は上柳~大出・山元間のみとなり、上柳~遠野間は廃止され自動車等による運搬に切り替えられ、その後上柳~山元間も廃止された。

 」
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時を経て・・・100年

2006-06-21 13:11:46 | 福泉寺・伝承等
 まずは、本編サイトであるHP「遠野・松崎じぇんご弐」が開設満5周年となりました。
 開設当初は、画像が大きすぎて表示されないとか、文字の大きさを大にすると重なって読みにくいとか、逆に文字が小さくて読めないとか、画面の左端に頁が寄りすぎるとか・・・色々と問題点をご指摘いただいたり、郷土史関連の記事に対し、その出典は何か、史実と違うのでは、掲示板が荒らされたり・・・紆余曲折がございました。

 逆に郷土史や福泉寺関連にて、縁ある方々から情報やご連絡、ご教授いただいたり、また直接ご訪問を受けたり、私の方が出向いたりといった交流が持てたこと、数々の相互リンクをいただき、視野が広まったこと等、お訪ねくださる皆様のおかげでなんとか5年間続けてこれましたこと、この場にて感謝申し上げます。
 ありがとうございました。

 遠野市松崎町にこだわりながらも、遠野の歴史、民俗を主にローカル、マイナーな部分を今後もご紹介できたらと考えておりますので、今後共よろしくお願いします。



松崎町駒木字中野・・・通称宮洞の地

 さて、本題・・・・

 本編サイトでの今後の展開として、我家の菩提寺である福泉寺の開山に係る逸話等を物語風にアレンジした、その名も「福泉寺開山物語」をアップしようと準備中です。

 福泉寺開山には我先祖も何かと関わり、また開山以前の伝承にも度々先祖の名が登場し、福泉寺には最も縁深き家として今に伝えられております。
 
 福泉寺開山以前に、早池峰山にて3年間の修行の後、我家に滞在すること7年、我家の先祖家族にとっては大恩ある真言僧、島根県出身といわれる前川慶喜師が花巻市(石鳥谷)の五大堂光勝寺にて没して100年になろうとしております。

 また、福泉寺開祖である佐々木宥尊師の師匠として、当時の光勝寺住職、赤塚宥天師と共に宥尊師を見出したこと、これによって現在の福泉寺があること、我家があることに他ならない。


初夏の福泉寺境内

 本編サイトでは、菊池姓探訪、我家の伝説の謎解き、遠野阿曽沼氏の研究・・等、懸案事項が山積しておりますが、一番の懸案事項、念願は前川慶喜師の墓前に手を合わせること、このことが最大の望みでもあります。

 島根県出身、前川姓・・のみで情報は皆無、どのようにして辿っていったらよいのか皆目見当もつきませんが、唯一は石鳥谷の光勝寺のみ・・・光勝寺と福泉寺はいわば同派の兄弟寺のような関係、福泉寺を通じて近い将来訪ねてみたいと考えております。

 また、百年の時を経て、見ず知らずの私が訪ねて行って快くご遺族は迎えて下さるのか、また前川慶喜師が俗世にどっぷりと浸かりいい加減な人生を送る私を受け入れてくださるのか・・・心配事も多いのも事実です。
 
 まずは情報がほしいこと、島根県の何処へ行けばよいのか・・・没年は明治42年(1909)後3年で百年、亡き親父も生きてるうちに一度はと言ってましたが、なんとか親父の思い、私の思いを叶えたい、そう思っております。



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忘却

2006-06-20 19:42:04 | 遠野
 最近は妙に忘れっぽくなり、仕事にも多少の影響が出たりと少し悩みモード・・・他人にいわせれば気合が入ってないとか、やるんだという意識が欠如しているから・・・・なんて言われたりもしますが、決してそんなことはないと思いつつも、現実がそうだから弁解の余地もない・・・汗

 忘却とは・・忘れ去ることなり・・・



 上駒木・・・・蒼前神社の鳥居・・・・
 神社は馬の里が出来て道路も整備されたので、馬の里側からが便利であり、人々もその方面が正規の道と思っておりますが、以前はこちら側から集落の人々がお参りした名残を残しております。





 草地の中への忘れ物・・・ではないと思います・・・・というより置きっ放し・・・置いてある事さえ忘れたりして・・・・笑

 忘れ去りたいと思うことが結構多いのですが、それ以前に忘れてしまう・・・汗・・・本音は自分はまだ若いと思いつつも、しかし、忘れっぽいのが事実であるからこれまたなんとも言いようがない・・・。
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ほろ酔い

2006-06-18 20:01:59 | ファイヤー
 消防団の消防操法競技大会が開催されました。
 普段の訓練、練習成果を十分に出しきったチーム、思わぬトラブルで無念の涙をのんだチーム、伝統を引き継ぎ強豪の名に恥じない戦いぶりを見せたチーム・・・色々と泣き笑いはありましたが、なんとか天気も持ち、無事に大会が終了いたしました。



 今回は遠野市遠野消防団の大会、上位3チームずつ(ポンプ車の部・小型ポンプの部・・各々3チームずつ)が来る支部大会(釜石市・大槌町・遠野市・旧宮守)に遠野消防団代表として出場、これを勝ち抜いた優勝チームが県大会出場となる・・。

 今回の大会では地元松崎町の分団部が全て3位内に入賞、支部大会へと駒を進めた・・・各屯所やら宴会場で祝勝会、残念会、ご苦労さん会が催されたと思いますが、地元の指導にほとんど関わっていないためか、何処からもご招待が来ず・・・唯一、弟が選手として出場した部からお誘いが・・・軽く顔をだして懇親を深めてまいりました。
 
 二日連続のほろ酔い・・・たま千代さんをお迎えしての懇親の宴、翌日の(本日)消防団の大会にもお出ましいただき、遠野発信ブログ関係者数人が会場で偶然にも一同に会する場面もありました。

 流石に昼から飲んでいるので夕方には決まってしまった・・・少し落ち着いたのでブログの更新というわけです・・・でもまだほろ酔い加減です。

 本日のネネ


今日も無防備な格好・・・、これこそイナバウアー・・・。



あまりにもふざけた格好でしたので、つい手を出してしまった・・・無理やり起こしてしまった・・・。

 
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陸奥菊池氏の謎

2006-06-16 15:42:05 | 菊池氏

 以前にも遠野の菊池姓に関して少し触れたことがございましたが、郷土史関連にての花館(本編サイト松崎じぇんご弐)を妄想的ながらアップした際も、その考察は菊池氏を主に展開させた経緯がございます。

 遠野の菊池姓・・・・私も菊池を名乗っておりますが・・・。

 遠野では・・菊池姓は馬の糞・・・失礼・・・今時、馬の糞を探そうともそこら辺に落ちているものではない・・・笑・・・また、群衆に向かって小石でも投げれば菊池さんに大当たり・・・違ったらどうするんだ、佐々木さんに当たったらどうするんだっ・・・笑・・・。

 ということで、私の歴史関連の調べの中でも菊池姓に関する事柄に迫るということはひとつの懸案事項でもありますし、他の郷土史関連と並行しての調べながら今回、これまた妄想的ながら若干記述したいと思います。


遠野地方における菊池姓の方々が使用する代表的な家紋
「並び鷹羽」「丸に違い鷹羽」・・・並び鷹羽は菊池姓の本家とされる家が使用ということですが、この家紋を使う家は稀であるというか、極少ない。

 丸に違い鷹羽は、菊池家の分家が使用といわれるが、総じて遠野ではこちらの家紋を使用している。

 まっ、歴史的考察も必要ではありますが、民俗学的な調べも必要であり、一概にこれだっ・・というところまでは行き着いていないのが現実でもあります。

 さて、本題・・・・。

 伝説めいた内容ながら、菊池一族は九州肥後の名族、菊池氏(熊本県菊池市)が南北朝時代、南朝系の後胤やら公家の子息等を守って奥州下向と伝えられる。
 菊池一族の遠野への流入は八戸からとか、江刺からとか・・色々と説も存在するが、奥州市江刺区(旧江刺市)からの流入が今のところその可能性を導きだせる内容も存在し、何よりも江刺もまた遠野並み、いやっ、それ以上の菊池さんが多い土地柄、何かしら関連性はあるものと思っております。

 そこで、今回はまだまだ核心に迫る段階に至らずも、江刺関連からの考察を・・・。
 江刺の菊池氏といえば角懸(つのかけ)菊池氏、江刺の玉里地区をはじめ、結構江刺氏臣の舘主に菊池氏が居たことが語られている。
 その角懸菊池氏関連の系図「和賀立花系・菊池氏系譜」 の存在があるという。
 
 その系図に「武義」なる人物が記されている、没年は応永34年(1427)とされる。
 武義・・・菊池武義・・・以前何処かで目にしたような・・・そういえば「近世古文書館」に八戸関連でご教授をいただいたことがありましたが、その際に主宰の工藤先生から、八戸の櫛引八幡宮に奉納されている重文「唐櫃入白糸威肩赤同丸(からびついりしろいとおどしかたあかどうまる)兜、大袖付」の唐櫃に「菊地武義」の名が、おそらく最初に奉納した武将であろうということ・・・の情報をいただいたことがありました。


青森県八戸市 櫛引八幡宮


白糸威肩赤銅丸

 唐櫃にある菊地武義・・・池が地との違いはあるが、応永24年7月1日の日付が書き込まれているという・・・。

 詳しくは私はわかりませんが、もし八戸での菊地武義なる人物が江刺角懸菊池氏の祖、菊池武義なら・・・・甲冑を奉納した応永24年、没年の応永34年、どこか点で結ばれそうな、そんな考えも成り立つかもしれません。

 八戸から江刺へ・・・そして遠野へ・・或いは石巻~遠野~八戸(糠部郡)~江刺~遠野・・・・少し菊池姓の謎解きに自分としての動きがありそうな予感が・・・。


 おまけ・・・・気になるもの


 かなり以前から凄いなあ・・と思ってました。
 スパッと刈り込まれた際は、今にでも海原に漕ぎ出せそうな・・感じ・・。

 さらにおまけ・・・

 今日のネネ・・・。


 今日も日中はいつものポーズでお昼寝・・・。

 


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町場の橋

2006-06-15 15:21:35 | 遠野
 本日は、涙雨・・・。
 同地域内にての葬儀に参列・・・涙が止めどなく流れた・・涙 
 謹んでお悔やみ申し上げます。




 さて、遠野関連ブログでも結構取り上げられる桜木橋・・・・当初は何の橋のことを取り上げているのか、頭の回転が悪いせいか「ほでねがったす」・・・。
 
 そういえば線路に架かっている橋のようだ・・・・ひょっとして「太鼓橋」のことか・・・そして穀町の橋から遠野駅を眺めてみて、桜木橋は太鼓橋のことなんだと・・・遅ればせながらわかったしだいです・・・・大汗


 太鼓橋といえば材木町から親不孝通りを経て遠野駅への道・・・この逆のルートは過去に何度か通ったことがありますが・・・千鳥足で・・・笑・・。
 今でも趣のある通り、そして橋でもあります。

 しからば・・・・

 こちらの橋は・・・確か昔は太鼓橋のように湾曲にせりあがっていた記憶が・・むしろ太鼓橋とはこちらのことではなかったのかと・・思い違いです・・・桜木橋よりは通る機会がほとんどないが、連続放火事件があった頃は、大きなタンク車がこの橋を渡って線路の向こう側へ部署したとか聞いたことがある・・・今でも車は通れるようでもありますが、かなり怖い感じでもあります。



 私は渡れません・・・汗


 おまけ・・・




 ただのコンクリート橋ですが、「物見橋」です。

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