「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

悶絶、天空の上郷瓜ヶ森館

2007-11-30 19:24:19 | 歴史・民俗
 本日も好天に誘われ、遠野市内の館跡めぐりを2箇所程実施。


上郷から早池峰山



○ 太田館・・・上郷町佐比内

 「遠野物語拾遺」130

 佐比内の太田館いう丘がある。
 昔、石田宗晴という殿様が住んでいたが、気仙から攻められて滅亡した。その時、館の主は白毛の馬に乗ったまま、丘の下の丸井戸という沼にはいって死にその甲につけていた千手観音も、共に沈んで沼の底にあるという・・・・。


 資料には館主を太田某とし、佐比内の産金、産鉄等の開発が始められた頃の館という考察がなされている。

 また、遠野物語拾遺に収録されている内容、地域に語り継がれた話でもありますが、石田と名乗る館主の存在も少し気になるところでもあります。
 近在には石田姓も散見され、この界隈の歴史に何かしら関連する雰囲気も感じられます。

 また沼の存在は確認できないが、伝承では沼の存在も語られ、御前沼であったという伝えと共に、沼から金塊が出たとか仏像が出たという話しも残され、遠野物語拾遺と重なる話でもあり、興味をそそられます。


 空掘跡



 さて、旧道(283号)のすべた峠手前に見える山野であるが、腰の強いトゲトゲの木々が多くて山野徘徊に難儀する。
 しかも最初の山頂らしき場所は空振り、隣のさらに高い山野に移動し、やっと館らしい痕跡を確認、北側に展開する5段の帯郭、東側に空掘跡を見つけたが、ほぼ資料の図面通りでもありました。

 杉林でしたが、少し山野が荒れ気味で、遺構等の確認にも難儀いたしました。

帯郭



太田館跡のある山野・・・画像では見えないが館跡は奥まっている。




○ 瓜ヶ森館(駒込館)



 館跡探訪で避けては通れない道・・・汗・・・それは比高が結構あり、見上げただけで「やめっかな」と思ってしまう高所にある館跡・・・・無論、熊公への恐怖やら「でんばず(スズメ蜂)」、蛇・・・と色々とありますが、やはり見上げただけで腰が引け、また今度と先延ばしにしてしまう館跡、これが一番かもしれません。

 今回、探訪した瓜ヶ森館は、旧道脇のかなり急勾配で高さも結構ある山野でもあり、またの機会・・・いやいや、なるべく考えないようにしていた館跡でもありました・・・・汗


 さて今回は・・・


 意を決して短期決戦で望み、画像の仙人側の一番きついルートを力攻めいたしました。

 まさに壮絶、木々やカルスト地形といわれる石等につかまりながら、急斜面を登る・・・正直、「馬鹿か俺は・・・」と思いましたよ・・・笑

 途中でよほど引き返そうと何度も思いましたが、今度は下るには余りにも傾斜がきつくて、かえって危険、辛かったけどそのまま登りきりました・・・大汗


 頂上といいますか平らな場所に行き着くと、地面に高さ10センチばかりの石が顔を出している。
 難なくまたいだつもりが、思いきりっ足が接触、蹴ったような感じになりましたが、接触して3秒後・・・「い・い・いでぇ~~・・・・」絶叫・・・左足の指に激痛が走る・・・・「あだだだだだ・・・・」思わずケンケンをしたら今度は右足の太もも裏が攣ってしまう・・・「いでででで・・・・」右足を伸ばそうしたら、そのまま転倒、仰向けになるもすぐ立ち上がり、まずは攣った足を治さなければならない、とにかく筋肉を伸ばすといいますか右足を伸ばして我慢、まさに悶絶、涙目になってなんとか耐え抜き、やっと回復するも少し違和感が・・・・今度は左足の指だっ・・・激しい痛みは治まったが、痛いには痛い、お母さん指・・・笑・・・を強打したが、隣の親指、中指に接触して腫れてきているのがわかる・・・なんか歩き難いも、此処まで来てなんともならず、びっこをしながら館跡探訪・・・・とにかく足指が「えんず、えずい」・・・・涙


 山頂


 結構平らな部分があって割と広い・・・こんなところまで登ってきて何もなければ、ほんとアホだな・・・と思いつつ、痛みも堪えてなんとか探訪・・・。


 帯郭


 山頂の少し高い部分を取り巻く5段の帯郭が展開されている。しかも結構立派でもある。

 山頂の段差



 標高562メートル、比高122メートル・・・山頂がある程度広いといっても館主一族等が生活できるような雰囲気にはみえない、水の便もそうだが、上り下りに難儀しそうでもある。

 独立したひとつの山野に見えるが実は東側の中腹で隣接の山野と尾根伝いに繋がっている、少し遠回りかもしれないが、この方面に通い道があったのだろうか?
 いずれ、四方は急斜面で空掘のような防御施設は不要と思われる。


 依然、左足の指付近が「えんずい」が少し慣れてきたようだ、痛みもだいぶ治まり、北西側の比較的緩そうなルートにて下山、一時は悶絶する場面もあってヒヤヒヤでもありました・・・・笑


 平清水神社


 瓜ヶ森館主は平清水某と語られ、小友平清水(長野)を領した平清水一族縁の武将といった雰囲気でもある。
 
 阿曾沼時代後半、上郷の平倉、板沢には本姓を菊池と称する一族が広く散見されている。
 平清水氏もまた菊池姓であるが、慶長年間の遠野の政変で鱒沢氏配下として一時的にこの館に詰めていたものか、以前から平清水氏の縁ある土地だったのか、或いは産金等の関係で金山開発に長けた平清水一族を上郷菊池一族の総意で入れていたものなのか?疑問は多々残りますが、平清水神社、そして清水の存在、語らぬ歴史はあってもその雰囲気は十分感じられました。


 こうこうと流れる清水・・・






 おまけ

 こってり、さらにこってりラーメン


 親父の身体にはあまり良くないと思いつつも、この界隈に来たということで、某ラーメン店に寄って食べてきました。

 そういえば29日の岩手日報夕刊に此処某ラーメン店が掲載されておりました。


 一度車で走りながら瓜ヶ森館の山野を見、このお店でラーメン食べながら、どうしようかと悩むも、熱いラーメンで大汗を掻いてしまい、どうせ汗掻くんだったらついでに・・・・そんな思いもあったんです・・・汗



 おまけ画像2



 間もなく夕暮れという場面でしたが、足指がうずきはじめましたので、帰宅いたしました。

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大楢館・柏崎館(土淵町)

2007-11-28 17:46:10 | 歴史・民俗
 雲が多かった午前中、嫁様も休みということで、街場の用足しに付き合うも、お昼頃から雲が消え青空が広がり出し、これは残り少ない館跡めぐりのチャンス到来とばかりに山野徘徊の承諾を得て・・・汗・・・何かあっても割と直ぐに帰って来れるよう近場の土淵町内の未踏の館跡を目指す・・・・。


○ 大楢館

 小烏瀬川沿いの要衝という位置づけながらも、伝承では奥の大規模城館の出城との考察がなされ、大規模城館とは角城館にほかならない。
 角城館の支城的役割と共に別な言い伝えでは「鐘衝場」とも呼ばれていたとか。

 角城館までは尾根伝いに往来が出来そうな雰囲気、北へ直線距離で500メートル程か?。

 いずれ、見張場的な館跡であったものと推察しております。



小烏瀬川・・・大楢橋から



 例の資料の通り、北側の尾根を掘で立ち切り、前面である南斜面に5段の帯郭を配しただけの単純でこじんまりとした館でもあります。
 しかし、川沿いの東側、谷となっている西側は急傾斜な斜面となっております。

 雰囲気は本宿館(大楢館から川沿いに南へ1キロ)と似ている。

背後の掘切




 ごじんまりしているが堀跡は結構立派でもあります。


 前面(南斜面)の帯郭


 帯郭というよりかつては空掘ではなかったか?そんな雰囲気もあります。







○ 柏崎館

 さてさて、土淵町内の館跡で一番気になっていた館跡、なかなか場所の特定に苦慮しておりました。

 別資料には、高室山を背後とする三角形の山・・・と記されており、これは「たかむろ水光園」辺りの山野に違いないと考えていた。

 となるとこの山・・・・画像中央の山



 しかし、町内の別な館跡探訪時に地元民から三角形の山なら「象坪山にきまっているべ」と言われ、確かに三角形の山であり、小烏瀬川沿いやら柏崎、本宿方面を見渡す絶好ロケーション・・・・しかも遠野ぶれんど仲間の山猫氏が象坪山を探訪した際の画像を見ると「愛宕社」が・・・・館跡と社、この関係からも象坪山が柏崎館であろうという線が濃厚となっておりました。

 昨冬、暖冬に誘われ小生も象坪山を探索、しかし、館跡と思しき遺構等は見つけられず、山口館を築いて柏崎館を去った館主・山口修理・・・山口地域との関連から館山は山口側の斜面か?そんな思いもあって、山猫さんの来遠時には是非に共に探訪を・・・・と確か約束していたような・・・・?

 その後、例の資料の一覧表をよく見ると地割は山口となっている。
 住宅地図を調べると水光園の背後辺りの雰囲気、さらに柏崎に住む同級生の情報によると集落共同墓地がかつての柏崎館跡で墓地造成で破壊したとのこと・・・・これですっかり頭の中が混乱、自分の中では幻の館跡「柏崎館」となってしまいました。

 
 2月に再度資料を確認、キーワードは古峰社、山猫氏来遠時に強力助っ人の笛吹童子さん、アバウトさんを加えての宝領探しで柏崎館跡とされる墓地近くの社も探訪、その際は館跡であった痕跡、古峰社もみえず、これはやはり水光園の近在に存在しているのではないのか?そんな思いが募る場面でもありました。


 さて、前置きが長くなりましたが、この度入手したさらに詳しい資料には、はっきりと、たかむろ水光園南東の三角形の山と記述されており、これは小生が当初怪しいと疑っていた山野である可能性が極めて強いものであり、むしろ確信へと変った次第でもあります・・・汗

 ということで、水光園入口の山口方面へ下る辺りの登口から山頂を目指しました。


 山頂


 資料には、水の便が悪く下方から水汲みに往来した道跡、古峰神の石碑が一柱有と書かれていたが、山頂は自然石が多くて、どれが石碑なのか見分けがつかず、それと、どうやら古峰社は柏崎の麓にあるようです。

 また遺構としては北斜面に7段の帯郭が残されていると記されているが確かに北斜面には、それとわかる段状の地形が確認できる。

 さらに西斜面(水光園)にも、5段程度の階段状の形状が確認でき、北側から取り巻くように繋がっている形状でもある。
 後の時代に付けられた林道にも思えるが、北側から辿れば帯郭とはっきりとわかる。
 おそらく近年にそのまま道として利用したのだろう・・・。

 また南斜面にも小さめの帯郭が2~3段確認できる。

北側の帯郭


西側(水光園)の帯郭



大岩といいますか大石が結構斜面にも点在している


 なんか名が付けられている石なのかは不明。



 ということで、結構苦慮していた柏崎館もなんとか探訪しましたが、何故に館主の山口修理は山口方面へ移動したのか?
 資料には遠望は利くが綾織、遠野方面からの風が真っ向に当り、それ故に北側を前面とした段丘を作ったのではないのか?と見解が述べられている。
 
 単に館主一族の生活地として適さなかっただけではなく、山口方面が重要な局面を迎えていた、その兆しがあったためと私は考えたい・・・・沿岸ルートの重要性、産鉄・・・色々と妄想も膨らみますが、今宵はここまでといたします・・・・笑




 おまけ・・・

 たかむろ水光園まで来たということは・・・・
 
 館跡探訪の後は当然ながら「湯っこ」で汗を流し「さぱっ」として帰りました
・・・笑


 北の空にオリンパスブルー



 付記・・・

 この晩秋、初冬シーズンの館めぐりをはじめて約2週間、6度の山野徘徊となりますが、味覚の秋で貯えられた小生のお腹の肉、かなり気になつておりましたが、山野徘徊のおかげかどうかはわかりませんが、かなり肉が落ちました・・・笑
 体重も3キロほど落ちました・・・・見た目は変わりなしですが・・・汗
 
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砂子沢の館跡

2007-11-27 18:08:23 | 歴史・民俗
 天気も上々ながら、風が強く冷たい、しかし、館跡探訪にはまずまずの天候でもあり、本日は綾織町砂子沢地区の館跡2箇所を探訪調査いたしました。


早池峰山

 駒木から・・・・。



 砂子沢地区の館跡としては・・・・
 館森・館・中沢山蝦夷屋敷・道明院・万蔵坊・鴨館・西門館と資料には示されている。
 この界隈では西門館のみ探訪調査を実施しておりますが、規模や遺構の残存度等を考えるに、今すぐ探訪しなくてもよい的な思いでもありました。

 しかし、例の資料を入手したことにより、この界隈の館跡をみておりますと、鴨館と万蔵坊(横内館)が、良い感じで図面に描かれており、風も強いこともあるので、里に近い館跡探訪ということにして出撃して参りました。


○鴨館

前景



館跡の一部



 図面によると北側から西、南を巻く空掘が2本あることになっているが、確かに確認しております。
 ほぼ図面通りでもありますが、山頂付近の帯郭的な平場等は確認できず、また空掘は2重であった。

空掘跡



 鴨館要図

「遠野市における城、館、屋敷跡調査報告書」掲載の図から転用。


 さて、砂子沢地区の住所表示は「みさ崎」であるが、この「みさ崎」内の鴨館も鳥の名が使われている。
 上記の資料をまとめあげたお二人の郷土史家もこの点に注目、さらに蝦夷時代の屋敷跡やら修験と思われる人物の屋敷跡、奥地の石上(石神)、さらに阿曾沼入部以前の土豪といわれるみさ崎氏・・・・知られざる歴史が眠っている雰囲気でもあります。

 また狭い一地域に7つの館跡、これもまた何かしらの歴史を伝えるものと思うところもあり、難しいですが、今後の課題として取り組むことになりそうです。
 
 と、言っても「何から、どのように、何を・・・」難しいかもしれません・・・汗




○万蔵坊(横内館)

 資料の図面、そして解説をみていると、もの凄い期待感が沸いてきた館跡でもありました。
 ひょっとすると遠野郷随一の館域面積を誇る大規模城館なのか?そんな思いが募る場面でもありました。

 まずは例の資料の図面を・・・・



 まずは国道396、遠野から来れば右に砂子沢横内へ入る道の上にみえる牧草地から山野に突入。
 まずは稲荷社を探すことから始めたが、入って間もなく杉林の中に鎮座しているのを発見。

 社の回りは段差が数段確認され、少し上方の小山には帯郭も確認できる。
 間違いなく館跡と判別いたしました。

稲荷社


 稲荷社の後方は比較的緩やかな山野となっているが、こちらも館跡と思える形状が確認できる。

 間もなく図面に記されているA部分の空掘と遭遇しますが・・・・



 すわっ・・・大きな空掘だっ・・・と一瞬目を疑いました。
 これは私が見た中では遠野で一番大きい空掘であると思いましたが・・・・どうもイマイチ雰囲気が・・・・しかし、資料にある通りのルートを辿っている、半信半疑のまま、さらに上方へ・・・・。


帯郭


 段差のある形状は割と確認できる、この帯郭部分は図面のA空堀が大きくギックラとカーブするところの間になるのですが、この辺から図面との違いが・・・・

 そして図面での空掘跡は山頂に向かってほぼ真っ直ぐに伸びておりますが、実際は図の点線のように蛇行といいますか、つづら折みたいになっております。

 この辺りから堀ではなく道ではないのか?と思い始めてました。



 見た目は立派な空掘なんですがね・・・・?

 結局、道跡?堀跡?を辿って図面のB地点の林道まで至る。

 おかしいと思いながらも、既に調査され報告されている内容でもあり、きっと山頂背部には図のように空掘は逆側に下っているに違いないと思い、斜面を横断して右側の空掘確認をする。

 確かに沢か掘か区別の付かない大きな溝が駆け下っている。
 この溝が山頂から巻くようにして下りて来ているものなのか?・・・本来は確かめるべきなのですが、かなりの高さの地点、流石に疲労困憊、しかも何か獣臭い、それと携帯電話を家に忘れて来てしまい何かの際に連絡が取れない・・・・不安が脳裏をよぎる・・・・大汗

 疲労困憊、いくら館めぐりでの山野徘徊を数多く経験しているとはいえ、続石に疲れた、間もなく山頂といった場面ながらも撤退といたしました。

 おそらく空掘は図の通りとなっているものと思います。
 でも、点線の通りなのですがね・・・・?

 余談ですがボブスレーのコースには、うってつけなんですがね・・・笑


 
 万蔵坊・・・

 修験関係の人物かと思いますが、堀(道)は大久保集落、聞称寺方面へ下っております、寺との関係はあるのか?・・・ただ万蔵坊の屋敷がこの館跡の中にあったという伝承のみ・・・


 いずれ堀跡なのか堀を利用した道なのかは不明ながら、この道跡が山頂から左右に下っていたとしたら、そして堀跡としたら、遠野でも有数な館域面積を有する大規模な館跡と成り得ます。

 ここに来て難しい館跡を探訪してしまいましたが、一人では再訪出来そうにありません。
 ですから、後回ではなく、資料の通りだと思います・・・・汗





 


おまけ


 中腹で出合った「鯱頭石」・・・笑


 
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七回忌

2007-11-25 18:56:56 | その他
 例年より早い寒波が嘘のような穏やかな日曜日、少し風はあるものの、小春日和な遠野でもありました。


我家から早池峰



 さて、本日は亡き父の七回忌法要を営みました。
 1年・3年・7年・13年・・・・とありますが、七回忌は身内だけということにして、菩提寺、我家族、私の弟、伯母二人の近親者のみ・・・・。


 親父は68歳で亡くなりましたが、親父の姉達は80歳前後と元気で過しております。
 今回は近親者のみでの法要ですが、13回忌は、他の親族もお願いして、少し大きく営みたいと考えております。
 おそらく、13回忌が親父と関った方々、同年代、伯母達が元気で顔を会わす最後なのかもしれない、不謹慎ながらそう考えておりますし、ひとつの節目でもあると思っております。



 親父が亡くなり、葬儀等を行った時は、小雪が舞い寒い日が続いてましたが、本日は穏やかな小春日和でお墓参りも楽でよかったです。


 お墓参りの後は会食、弟と二人でビールをチビチビ、小1時間で伯母達も帰り、こたつで弟と二人で寝入ってしまい、目が覚めたのが午後4時近く、いい天気ながらもったいない一日を過してしまいましたが、これも致し方なしです。



 目が覚めて、これもひとつの中毒か、日常的な行動でPCを開いてブログチェック・・・汗・・・・ネネが傍らにやって来て・・・・



 大人しいと思ったら・・・



 壁に反射した鏡の光に反応・・・・猫の行動はいつ見ていても面白いものです。




 おまけ

 遠くから客人が来遠・・・といっても義妹の知人ですが、そこへ夫婦で参入したのですが、嫁さんと義妹は金曜日から仙台に行っていて不在、今年3度目の長渕剛のコンサートへ・・・・土曜日帰宅してハバキ脱ぎも兼ねての宴・・・流石に疲れたのか、21時過ぎにお開きとなりました。

 一年に3度のコンサートといいますが、半年で3度なんです、二ヶ月に1度の割合となりますが、これも致し方ない・・・・です・・・汗




 値段はそれほどでもないのですが、限定期間にての出荷とかで、結構希少な芋焼酎・・・限定とか、希少とかに弱いのですが、でも美味かったです。
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戦慄!中沢館跡

2007-11-24 16:37:42 | 歴史・民俗
 本格的に城館探訪をはじめて4年、昨年に遠野市内にあるといわれる館跡を示した一覧表の資料を入手したことによって、現在確認される館跡のほとんどを机上では把握しているつもりでもあります。

 また、実際に探訪調査した館跡、約60箇所、まだ総数の半数にも満たない現状ですが、この資料によって知り得た知られざる館跡の中には、想像を遙かに超えるすばらしい館の存在も謳われ、実際に探訪してみると、確かにすばらしく鳥肌がでる場面も何度か経験している。

 花館(青笹町)を「圧巻」と私は表現しております。
 また、石倉館(上宮守)を驚愕と表現いたしました。
 いずれも遠野市外では、全くもって無名で、しかも市内でも館周辺の人達でさえ、知らないという館跡でもあります。

 しかし、本日探訪調査した館跡、「中沢館」(青笹町)を表現するならば、「戦慄」の一言です・・・・汗・・・・花館をはじめて探訪した時と同じ感動と驚愕、いやいや、戦慄とでも申しましょうか、何故に・・・・なんで・・・・この思いが募るばかりです。


 中沢館跡のある山野




 満を持して・・・・この表現も多用しておりますが、昨年辺りから早期に探訪しようと思うも、場所の特定ができなかった館跡でもありました。
 実際に現地の方からもお聞きして、山野に入ったのですが、どうやら私の勘違いか、道を間違えたのか、辿りつけず・・・でした。

 今回、さらに入手した詳細な資料によって、ある程度の場所を絞り込むことができ、後は当って砕けろの思いで、「此処だろう」と思う山野に突入いたしました。

 見事、的中、山野に分け入って直ぐに空掘跡に遭遇、まさしくここが中沢館と確信した次第です。



 館跡、南側下部付近の空掘

 下部付近は空掘2本が横断、土塁も見事で、花館の西側部分を彷彿させる光景がみられる。

 土塁と空掘



 また、南東側はすり鉢状の形状が広がり、5段の帯郭が配置され、よく切岸され、見応えがあります。
 さらに南東側の峰を越えた部分も似た様な地形となっており、こちらにも帯郭が配置されている。

 
 帯郭の一部



 比高が93メートルと資料にあるが、結構な高さでもあり、一番最初の画像は下部付近であり、画像には写ってませんが、さらに上方に山頂があります。

 下部、中腹部分は花館と石倉館を併せたような印象の館跡と感じましたが、上部に行くに従って、その造りは花館に近い内容と徐々に感じ始めました。



 山頂下部の帯郭



 山頂下部には大小5段の帯郭が配置されているが、南向きに配置されている。
 さらに上の画像部分から南東側に帯郭が延び、南東側の峰にも張り巡らせてあり、L字を逆の形にした形状でもある。

 ここで詳しくその形状やら造りを記述しても、伝えきれませんので、詳細は本編サイトにて・・・ということで・・・・。


 山頂

 南北12メートル、東西7メートルと、かなり狭い、主郭は2段ほど下った社がある部分と推測しております。


 山頂下の稲荷社


 資料の図面をみると、かなり下部に鎮座しているものと思っていたが、山頂近くの平場にあった。
 駒形様も祀られているとか?いずれ、この場所に至るには結構きつい斜面を登ってこなければならないが、地元民のみ知る、参道があるかもしれませんね。

 今回、小生は、館跡の遺溝をゆっくり見ながら、堀底を歩いたり土塁に上がったりで、比較的楽に山頂に行き着きましたが、上からただ見ていると、かなり険しいです。


 背後の堀切


 3重堀を確認、深さもかなりあって遠野規格型に相応しい構えでもあります。

 館全体では空掘6本と判別しましたが、さらなる調査が必要でもありますし、今回は2時間程度の探訪でしたが、半日居ても全てを回りきることは出来ないものと考えております。

 資料を作成されたお二人の郷土史家も、図面では南東側部分が空白で、おそらく回りきれなかったか、見落とした可能性があります。

 今回は早歩きにて、一応館跡の全てを見たつもりではありますが、それでも上からのぞいただけとか、省いた部分もありました。

 とにかく今年探訪した部分では規模、遺溝の残存度、配置等が良好で、途中から戦慄するような思いがいたしました。
 
 いつ、だれが、なんのために・・・・遠野郷でも大規模な館跡、さらに花館や石倉館、西門館にもどこか似ている造り、事績やら伝承もほとんど伝えられていないという現実、これを考えればなおさらその思いが募るばかりです。



 稲荷社


 修復等が必要な社ですが、どうやら現役なようです。


 ここでも戦慄いたしました・・・・。







 権現様と金勢様が祀られております。

 
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宮代の山野徘徊

2007-11-23 15:56:43 | 歴史・民俗
 松崎町宮代といえば、近年は東洋大学との交流とかでグリーンツーリズムの先進地域として名を馳せておりますが、史跡的には元八幡宮が鎮座しており、かつては遠野の中心たる位置付けだったかもしれません。

 しかし、これらだけではないこと、以前から宮代に知られざる館が眠っていること、このことは承知しながらも、伝安倍時代とかで遺溝がない館跡だろうとタカをくくっておりましたので、そのうちに・・・・こんな感じておりました。

 
 さて、この度入手した資料によれば、図面的にはかなり高感度な館跡に見受けられる、まずは松崎町内の館跡の充実を図るべく、突撃して参りました。


宮代館(仮称)



 考え付く山といえば、この山野が思い浮かびますが、まさしくこの山野が館跡でもありました。

 館跡下の知り合いを訪ねるべく、空地に愛車を駐車。
 幸いに知り合いは、庭で一服タイムだったらしく、まずは声掛け・・・・。

 「この山、舘山だずな」・・・「ほだっ、なすておべでら」・・・・

 館に関する質問をすると、立派な堀がめぐらされ、山頂に立てばその凄さがわかるすばらしい館であると教えられる。
 子供の頃の遊場で、地元の人しか館跡であるということは知らないはずだ・・・とのこと。
 ですから小生が訪ねて行ったことに対して、不思議な顔をしておりました・・・笑

 しかも地味な館跡調べなんて、想像もつかないとか・・・汗・・・仕事上の体力練成も兼ねての山野徘徊でもあるとお答えしておきました。


 早速、登口を教えられ攻城開始・・・しかし、教えられたところではなく、そのまま斜面を力攻めで山頂を目指す・・・・。

 む・むむむむむ・・・・空掘発見



 しかも二重堀だっ・・・・東側の空掘跡



 空掘は二重堀で西側は大きく、険しい竪堀となって山麓へ駆け下っており、竪堀は西部分に3本確認。

 
 山頂は5段程度の帯郭が交互に重なり、割と広めの平場が展開されている。



 なかなか見応えのある館跡でもあり、西側の竪堀3本、さらに南側の竪堀が印象的でもありました。

 なお、資料の堀の数やら形状は、かなり違いがあって、安に強力なすばらしい資料だからといってこれが全てではないこと、今回でわかりました。
 いずれ、自分で確かめる、これが大切だと痛感しております。


 さて、下山して知り合いにご挨拶、その中で、さらに奥にはすり鉢状の広い場所があるとのこと、確かに資料にも畑か何かに利用しただろうという見解が付け加えておりました。
 今回は、そこまで手が回りませんでしたが、図面等作成の為に再訪の予定でもあり、その際は、さらに詳しく探訪調査したいと思ってます。

 安倍時代ではなく阿曾沼時代、この匂いがかなり強く感じた館でもあります。



 ついでに宮代蝦夷防御性集落跡も探訪と思い、知り合いに訪ねますと、高場との境の墓地にある大きな木から真っ直ぐいけば林道があって、後は平坦な山道を進んで途中から右へ折れればあるとのこと、早速、向いましたが、なな・・ななんと、此処は誰かさんのノギハではありませんか・・・・笑


 さてさて、山野に入って直ぐ不思議なものが・・・・



 これは館跡の一部か?・・・・塚か?・・・・。




 祭壇跡かと思ってしまいましたが、コンクリート製、近年のものですが、なんだべっ・・・笑・・・でもこの界隈も蝦夷の集落跡の一部と資料にありました。


 道なりに進むと、確かに大穴が数箇所、土塁跡らしい形状に、堀跡か思わせる形状が確認できましたが、積雪でよくわからないがホントのところ・・・・。



 直ぐ下には、山ノ神様が・・・・おそらくこの界隈に間違いないだろうと思いましたが、墓地から真っ直ぐ林道をかなり進み、途中から右に折れて、山ノ神様の祠から下に降りましたが、かなりの距離を徒歩移動したことになります・・・・といっても2キロ程度ですがね・・・・犬には吠えられるは、道行く軽トラのオジさんには不審者のような目で見られるは、長靴には雪がゴッパリ入るは・・・・宮代徘徊も疲れます・・・・汗


 誰かさんのノギハ近くの風景・・・・

 旗指物な木



 そして六角牛
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高くついたけどゲット!

2007-11-22 17:04:05 | 歴史・民俗
 昨日午後から雪模様、今朝になって本格的に降り出しておりますが、野暮用で宮守方面へ・・・・。
 真冬並みの雰囲気、小峠と宮守町は別世界、積雪も遠野の倍は降っておりました。


 小峠



 前が見えましぇ~ん・・・・。


 宮守の某所




 遠野市街地



 夕方には北の空から晴れ間もみられますが、時折の突風に雪が舞い上がり、まさに厳冬期の吹雪舞の様相、気温もかなり下って寒い、道路は凍結し、喜んでいるのは乾燥路ばかり走らされたスタットレスタイヤだけか?・・・笑・・・笑い事ではなく運転には細心の注意が必要で、かなり疲れます。



 さて、前回のエントリー関連で・・・・

 「遠野市における城・館・屋敷跡調査報告書」本日もじっくりと拝見し、さらに一部ですがコピーをいただき、なんとか形だけは整えることができました。

 非売品ながら仮に冊子一冊を買うとして、それと同等の金額をコピー代として支出したことになりますが、何度見ても逸品であると思います。

 お二人の郷土史家が半年をかけて調査した結果、知られざる遠野の城館跡のほぼ全容が網羅されていること、考察、詳細な要図等、後に調べる私達にとっては良い道標どころではなく、なくてはならない資料の一級品とも感じます。

 その存在に疎かった自分、悔しいやら恥しいが本音ではありますが、でもなかったからこそ、館跡を自分で見つけ出した時の感動は格別なものでもありました。

 いずれさらに強力な資料を持ったことで、一歩前進、先人が調べ上げた掌で踊ることなく、自分なりの視点も加えて、探訪調査したいと考えております。


 要図と小生が描いた縄張図的なもの・・・・。

松崎館・・・松崎町


 やはり先生方が調べられた内容は詳細で、たいへん参考になります。
 でも、出来はよくはないけど下の図、小生が描いたものですが、その形状やらは結構合っているのではないでしょうか・・・汗


西風館・・・綾織町


 
 一応、松崎館は6度、西風館は4度の探訪で縄張図的なものを描いておりますが、じっくり現地にいて、納得行くまで図面をとる姿勢が必要だったと反省しております。
 もっとみれば、さらなる遺構の発見もあったと思いますし、妥協した場面もあったりして・・・・もう少し縄張図関係を勉強しなければと思っております。
いずれサイトへアップした図の書き直しがまたもや必要と思われます。



 丸くなるネネ

 真冬並みの遠野、朝帰宅すると暖房の入っていない部屋で丸くなって寝ておりました。
 

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鮎貝館跡とふたつの出会い

2007-11-20 17:54:15 | 歴史・民俗
 昨夜のワインが効いているとは思わなかったが、軽く頭痛がして少し体調不良につき朝食は食べないで、午前中予定されていた研修会に出席。

 お昼近くに研修会が終了したので、午後は小友町内の館跡をふたつほど探訪と思い立ち、一路、小友に向かう。

 朝食抜きだったので、続石にお腹が減ってきた。
 そこで産直ともちゃんにて昼食・・・・・。



 そばセット・・・ごしゃくえん也


 さて、新谷館かそれとも鮎貝館か、蕎麦を食べながら考えていたが、空が真っ青だったので、とりあえず画像を数枚・・・・。


 岩龍神社


 奥友館跡


 食後の一服をしながら、どちらに向うべきか、またもや思案・・・・体調もイマイチ、パッとしないので、ここは山野に入りやすく歩きやすい鮎貝館に決定、早速現地に向いました。







 思い起こせば、2003年11月末、歴史仲間で東京都の稲用さん、八戸市の藤九郎さんと3人合同で初めての城館跡探訪を実施、知られざる遠野の館と称してご案内した一番最初の館跡が鮎貝館でありました。

 みぞれが降る中、山野を探索、これといった遺溝の発見に至らず、ただ帯郭的な数段の段差から、ここが館跡には間違いないだろうという結論でもありましたが、その後の調査は実施していなかったので、今回は範囲を広げて山頂まで登ってみましたが、今回も遺溝等の発見はなかった。


○鮎貝館(小屋平館)

 文禄年中、伊達政宗配下の出羽国在住、鮎貝志摩守が手勢を率いて小友鮎貝地区に密かに侵入、以来舘を築いて数年間在舘したと伝えられている。
 この鮎貝氏の小友西地域領有は、一説には阿曽沼主家の南部氏への備えと鱒沢氏のような親南部家側の諸氏への対抗とみられ、阿曾沼氏は葛西氏に代わった伊達政宗の力を頼み、鮎貝地区に伊達氏の勢力を密かに招き入れたものと解釈されている。

 鮎貝氏とは伊達家家臣の鮎貝氏の一族とみられ、当地の鮎貝という地名に由来するものともいわれています。
 
 伊達家家臣の鮎貝氏縁の山形県内の鮎貝の地名を持つ地域と小友町鮎貝地区との交流が近年行われたようですが、小友町鮎貝の地名が出羽国出の鮎貝一族に由縁するものと言われますが、真相は不明・・・・。



 さて、館跡をみると、堀や明確な土塁といった防御施設が見当たらない、また鱒沢氏やら南部信直に対抗してとある割には貧弱に受け取れる館跡でもある。

 むしろ対南部というより対伊達といった意味合いがあって、江刺境の五輪峠方面への監視といった役割であったのではないのか、鮎貝志摩守なる武将の名も語られますが、阿曾沼広長が気仙へ下った際に附き従ったとも伝えられ、鮎貝一族は気仙沼にその命脈を留めたともいわれますが、仔細は不明であり、かなりあやふやでもあるようです。

 ちなみに鮎貝氏のことを通称、小屋平と言うとのことで、小屋平館とも呼ばれている。

 いずれ鮎貝館は館(城)というより屋敷といった雰囲気の方が強いと思いました。




 館跡である山野、南側中腹の平場

 かなり大きめで広々とした平場があるが南斜面の下部は三段の帯郭、北、西方面は、土塁と思しき形状が確認できるが、よくわからずが正直なところです。

 


 さて、ふたつの出会いの一つ目・・・・。 

 この鮎貝館を探訪していた際に、背後で「ガサ、バギッ」と落葉を踏む音、そして木枝を折るような音が聞こえる。
 下の方からであるがだんだん近づいてくる・・・・汗・・・やがて水色ぽい服装の男性が斜面を登ってくるのが見える。

 これは地元の人か地権者に違いない、別にこちらとしては悪いことをしている訳ではないが、何か言われたら謝ろう・・・いやっ、知らない振りして質問でもして誤魔化そうなんて考えていた・・・笑

 その男性の開口一番は、挨拶と共に「館跡調査ですか?」と訪ねられる。
 こちらとしては、「はいっ館跡調べです」と答える。・・驚きと安心・・・。

 男性の手にはファイルが握られていたが、チラッと見えた文字には火渡館、新谷館とか書かれていたので、同好の士と判明・・・・嬉

 その男性は盛岡から来たとのことで、小友町内の新谷館を調べに来たそうですが、途中の一の倉館が気になって資料の地図を頼りに来たらここ鮎貝に着いてしまったとのこと。

 下に標柱があったので、ついでに此処も見てみようと思ったとのことで、なんでも釜石の狐崎館跡に十数回通っているそうで、館主といわれる新谷肥後縁の遠野の新谷館との共通点を見つけるためと言っておられました。

 さてさて、館跡探訪に時折、ほんのたまに仲間達と出かけることはあっても山野で同好の士と出会うということは、皆無でしたので、凄く感激した次第でした。

 山中で30分以上も岩手の城舘跡やら遠野の館の魅力やらを相互に話すことができて、かなり嬉しかったです。

 車を駐車した場所もほぼ同じであったので館跡を少し調べながら下山、車に戻ると名刺交換をして別れました。

 なかなか良い出会いであったと思っております。


 それともうひとつの出会い・・・

 この方は盛岡のTさんとのことですが、なんか面白そうな資料のコピーを持っている。
 聞くと遠野の図書館でコピーしていただいたとか?・・・よくよく見ると・・・・かなり驚愕・・・・私が一覧としてサイトに掲載した際に使用した「遠野市における館・城・屋敷調査報告書」の中身のコピーと判明・・・・汗

 どうりで菊池春雄氏、荻野氏の両先生が半年もかけて調査したにも関らず、一覧とその際の感想だけで報告というのもおかしいと実は思っていたのも正直な話・・・。
 
 ひとつひとつの館跡にはその概要と簡単な考察と共に地図と要図が書かれてある・・・・この存在をもっと早く知っていれば、場所の特定で悩むことはなかったと悔やんでおります。

 まっ、でもおかげで、館跡がありそうな山野の雰囲気やら形状から自力で館跡を見つけるといった感覚が育まれたといえばその通りでもあります。


 でっ、早速図書館に行って事の仔細を聞いていただきましたが、在庫は皆無、一冊だけ博物館にあるということで、見せていただきました。

 
 誰か、茶系の冊子ですが持っていたらお譲り願えませんか?是非にほしい逸品でもあります。
 よろしくお願いします。



 一部コピーをいただきました。




 おまけ

 きのこ発見



 きのこ採りをほとんどしませんから、食用も毒もほとんどわかりません。
 ナメコの一種か?と思いましたが、採るのは止めておきました・・・汗
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初積雪

2007-11-19 09:58:15 | 遠野
 里に積雪・・・・。

 画像は福泉寺五重塔





 違う場所ではご覧の通りの積雪。


 我家の庭・・・パヤっと降った感じ・・。




 干柿も思わずブルっときたかもしれません。
 結構寒かった一日でした。



 
 夕方の六角牛山



 昨年よりは少し遅めの積雪ながら、今冬はそれなりに積雪もありそうないつもの遠野の冬が見られそうな予感がいたします。

 これで熊も穴に入ったものか?いずれ何度か降雪があって12月の中頃までの間に小春日和のような暖かい日が1週間程度あるはず、この機に館跡探訪をいくつこなす事ができるか、満を持してのシーズンイン、なんとか例年並みの冬将軍の勢力を願うばかりです。


 さて、今夜はこの4月に採用され研修施設で半年にわたる教育訓練を終えて先月に第一線に配属された後輩の歓迎会が催される。

 さっ、忘年会も含めて飲会シーズンの幕開けである・・・・汗
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07館跡探訪、後半突入

2007-11-17 16:21:20 | 歴史・民俗
 氷点下の朝、早池峰山も前薬師も白く雪化粧、また昨日(16日)の朝は雪もちらつき初雪となりましたが、附馬牛町等の遠野北部での観測、冬将軍の足音も日増しに近づいてきているようです。


 さてさて、満を持しての小生の郷土史分野フィールドワーク、遠野市内の館跡探訪を本日(17日)開始いたしました。

 いよいよという場面ですが、まずは地元松崎町内で気になっていた館跡を一発目に探訪調査いたしました。


○ 真立館と沼の御前

 暖冬だった今年の冬、この機とばかりに松崎館を再訪し、さらに矢崎と松崎の境目である同間洞の上方の山野に館跡を発見、峰は松崎館と通じているが独立した館跡と判断するも名称がわからない、資料によれば松崎館と隣接する館跡を真立館と記されているので、そのまま真立館と記載した。
 また矢崎や駒木の人々の中には、この場所を真立と呼ぶ方々もおり、私もそうだと思っておりました。

 さらに以前から蓴菜沼跡(御前沼)の後方の山野は館跡であるとの内容を聞き及んでおりましたが、最近、駒木に住む郷土史に明るい古老の方から、「かなり立派な館らしいぞ、機会があったら一緒にみて来よう・・・」と言われており、また、松崎新館ではないのか、こちらの方が立派ではないのか?そんな話を伺っておりました。

 本日、この館跡を探訪するにあたり、今一度、松崎町の史跡等を記載した冊子を読み返してみると、「真立館と沼の御前」と記載されており、私が探訪しようとする館跡は真立館なのか?少し頭がマヤマヤした中、まずは行ってみようということで、探訪して参りました。




 沼の御前の祠なのか荷渡観音なのか、それともお稲荷さん、はやり神なのか不明、おそらく沼の御前の祠かと思います。
 前面は蓴菜沼跡です。


 この祠から斜面を這い上がるように猪突猛進、もの凄い急斜面が遙か上方まで続いている。
 途中に横断する林道があって、いくら虎のように山野を這いつくばっても、体力的にきつい、林道を進み、途中から峰沿いに山頂を目指した。

 途中、館跡特有の段差は皆無、これは場所違いか、それとも只の伝承か?と思いながら間もなく山頂という場面で、立派な遺溝を発見、まさしく空掘跡である。







 南北27メートル、東西20メートルの頂部平場を一周する空掘一重、段差のある平場(帯郭)は皆無で、山頂にはいくつかの大き目の窪みが確認できた。

 資料や冊子によると竪穴式住居の跡ではないか?との記述、ということは安倍時代か蝦夷時代の遺跡となりますが、確かに戦国的な匂いは感じない、一重の堀をただ廻らせただけの単純な構造である。

 市内には160を超える館跡があるとされるが、全てが阿曾沼時代といわれるものではないはず、しかし、チャシといわれるものやら安倍時代の館跡と称されるものの多くは、限りなく戦国期的な印象でもあります。
 しかし、この館は、安倍時代といわれれば、そんな感じもする館跡でもあり、少なくても近隣の松崎館が機能していた時代のものではないこと、これは間違いないのではないか・・・・と思いました。


 蓴菜沼跡


 館が機能していた時代は、この沼跡付近を猿ヶ石川が流れ、川と急斜面の山野に守られた要害だったに違いない。
 猿ヶ石川は何度かその流れを変え、この沼は川が流れていた時代の名残であっただろうと思われます。

 ところで、市内には数箇所、沼の御前に関連する地域があって、そのほとんどが館跡が隣接している。
 この真立館もそのひとつながら、どのような関連があるのかは、要課題といったところかと思います。





 当ウエブサイト本編にての遠野の館跡・松崎町の館跡に掲載の真立館、今回、真立館と呼ばれる館跡を探訪したことにより、こちらを真立館といたします。
 なお、松崎館隣接の館跡は、考えるに松崎館の二の郭的な雰囲気もあり、さらなる考証を行って修正等をしたいと考えております。こちら 



 ○ 宮沢館(宮沢チャシ)

 松崎の真立館につづき、気になっていた館跡、土淵町飯豊の宮沢館を探訪いたしました。

 結論からいえば空振、後醍醐天皇社上方の山野を徘徊、さらに熊野神社方面まで足を伸ばして、くまなく探訪したのですが、目立った遺溝等の発見至らず・・・。

 宮沢の地名やら後醍醐天皇様の祠、熊野神社といった南北朝時代に関連する何かがあるのではとの思いと裏腹、史跡としての何かを見つけられず少しばかり残念でもあります。
 
 ただ、天皇様の祠周辺に帯郭的な段差ある平場、さらに熊野神社境内周辺の段差やら、館跡としての匂いは感じますが、これも神社勧進の際の工作物の可能性大かもしれません。


 後醍醐天皇様


 熊野神社


 熊野神社の由来等は笛吹童子さんの解説を待ちましょう・・・・笑



 山野徘徊で、飯豊方面を望む



 今回のお疲れ山野徘徊ルート・・・宮沢館跡探し







 ということで、今シーズンの館跡探訪が始まりましたが、中沢館(未)、臼館
(再)・・・青笹町
 板沢館・刃金館(再)・・・上郷町(未踏の館2箇所程)
 新谷館・鮎貝館(再)、西舘(未)・・・小友町
 その他、天候等を勘案しながら併せて20箇所程度探訪調査できたらと考えております。

 今シーズンの目玉は青笹町の中沢館と小友町の新谷館です。
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