「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

雷社

2006-09-13 16:22:48 | 遠野
 雷様(いかずちさま)・・・松崎町白岩地内

 地元限定に刊行された書籍に「雷社」の記述が、これは少しめずらしい社であると感じておりましので、早速画像取材をいたしました。

 さて、書籍添付の簡略地図には、県立遠野病院と八幡との間に記しがしてある。おかしい・・・感覚では岩手ヰセキ(農機具メーカー支店)の通りを突き当たったところといった感覚がありましたが、ここは地図を信じて遠野病院裏側の農道を走りながらそれらしきものを探す・・・やはり何もない、そこで田んぼで農作業中のご年配の男性に訪ねると・・・「おらぁ、すらねじぇ」、書籍を指差してみせますと、「みだごどねぇす、きいだごどもねっ」・・「までよ、上組町の○○さんの・・・」「おっ・・・あれだがもすんね」・・・ということで男性は必死に思い出してくださってましたが、そこへバイクに乗ったさらにご年配の男性がやってきました。・・・
 
 そうしますと、先に訪ねました男性が・・「あっ、あの人の田んぼだが、はだげにあるやつだがら、きいでみろ」というわけで、あらためましてバイクの男性に訪ねますと、バイパスの向う側であると教えていただきましたが、やはり当初考えていた場所近くであるらしい雰囲気・・・。

 さて、考えていた道を進みますと行き止まり・・・確か赤い鳥居があったはず・・・車から降りて周囲を探索・・・おっと赤い鳥居と大きな木を発見、しかし道がないっ・・・汗・・・仕方なく田んぼの畦道と雑草生い茂る荒地を進み、なんとか到着いたしました。

雷社


 書籍の写真もこれと同じ・・・しかし、某瓦工場で造られた量産型祠である、少しイメージとは違いました・・・汗

 さて、雷様(いかずち)とは字の如く雷を神格化したものですが、水神であると同時に火神でもあるという。
 その昔(江戸時代末)、長雨と冷夏の年があったそうですが、神明社、八幡社、そして雷社に御祈祷を捧げると数日後には暑い夏が戻ったと伝えられ、さらに雨がほとんど降らない年は地域民で雷社に集い神楽を奉納、御神酒を奉じて火を焚いて雨乞いをしたとも伝えられます。

(祠背部の大木は、いちいの古木)


おまけ・・・

 白い鳥が乱舞している、最初は鶴か?南部家家紋の向鶴がイメージされましたが、かなり小さいし、何よりも本物の鶴は見たことはない・・・笑

 白サギか・・・詐欺にあったような感じですが・・・笑・・実はサギかどうかもわかりません・・・汗




ズームが効いてなくてすみません。(土淵町似田貝) 


 さて、13日夜は遠野八幡宮祭礼、遠野祭りに出場する駒木しし踊りの傘揃えが行なわれます。
 駒木しし踊りは八幡宮祭礼の14日、15日そして16日の遠野祭り芸能パレードに参加いたします。
 15日、17日、18日の当ブログエントリーは八幡宮祭礼及び遠野南部流鏑馬、遠野郷各地の郷土芸能を中心のご紹介いたします。

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立正閣(御祖師堂)

2006-09-12 19:00:55 | 遠野
 松崎立正閣・・・・遠野市松崎町光興寺高場



 新町にある北身延波木井山智恩寺(日蓮宗)建立前の参拝場で、別場所にあった建物を智恩寺建立後の明治28年7月、此処に移築された。

 ちなみに智恩寺は明治27年待望の落慶を迎えたとある。



 実は、その存在は聞いていたが、恥ずかしながらなんの建物だろう、お堂にしては立派だし・・・・と思っておりました。
 たまたま通りかかったら文字の消えかかった標柱が眼に入り、よく読んでみますと立正閣とあり、「あっ、これか・・」ということで画像に収めました。


おまけ

我家の西瓜

 我家の畑のスイカ、普段の手入れが悪いせいか、というよりほとんど放置している状態ですが、いつも食べれるようになるのは、遠野八幡宮のお祭りの頃で、子供の頃は稲刈りでの「こびり(小昼)」によく食わされたものです・・・笑

 ほとんどはカラスや狸に食べられてしまいますが、人間様も3~4個ほど仏壇、神棚にお供えした後に食べます。
 やはりお盆時期に冷やして食べるスイカ、これには及ばないですがね。
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里道

2006-09-10 14:13:21 | 遠野
 お盆が過ぎてもしばらくは残暑が厳しい8月も過ぎ、流石に9月に入ったら、秋らしくなり、少し過ごしやすいと感じておりましたが、ここ3~4日は、残暑のぶり返しといいますか、蒸し暑い日が続いている。
 朝晩との寒暖の変化がはっきりと現れる季節柄、体調管理には注意したいですね。

 さて・・・
 里道・早池峰山道のことですが、遠野の町を基点に土淵~海上を経て附馬牛村までの間3里8町、さらに附馬牛より早池峰山まで2里21町の道のりであったといわれております。
 ※附馬牛町の里道に関しては未調査・・・

 さて里道には所々に鳥居が立てられていたそうですが、その代表はご存知の土淵町、伝承園脇の鳥居(現存)となりますが、海上の中野、さらに駒木(石碑群近辺、現社寺工舎倉庫脇(旧消防屯所))にあったといわれ、かなり大きかったといわれております。

上駒木の里道跡


上記画像のさらに先、逆側から


上記の先

道なりに進みますと地震観測所に至りますが、里道はそのまま真っ直ぐ進みます。

 途中の小田沢蟹沢(がんじゃ)に下りる道やら、小田沢に通じてますが、小学生の頃、小田沢の友人達と近道と称して里道跡を往来した記憶が蘇りますが、あれから道がどうなっているのか確かめておりません。
 おそらく今でも通れるはずだと思います。

 現在の県道は明治末に開通し、ほぼ現在のルートとのことで、里道はそれ以前の主街道といった位置付けだったことが伺われます。

 今回のエントリーは駒木地区の僅か100メートル範囲の里道跡のご紹介でした。

 
おまけ
猿ヶ石川・・・野田渡橋から

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99の日

2006-09-09 19:01:32 | ファイヤー
 9月9日・救急の日
 
 全国各地で救急の日ということで救急医療に関しての催し物が開催されたものと思います。
 遠野市でも救急講演会が開催されましたが、例年よりは若干聴講者数が少なかったかな、と思いました。



主催側のPR不足やら市民の救急救命関連への関心の低さか、さらに土曜日開催の影響か?今後の課題等も要検討ということかもしれません。


講演会に引き続き、救急隊によるデモンストレーション

市民役の隊員がまずはAEDを使用してのデモ・・・。


救急隊が到着、市民から引継ぎ処置を実施・・・。
気管内挿管、輸液、薬剤投与と手際よく実施。


AED・・・(トレーニング用)

 取り扱いは簡単で、電源を入れますと後は音声によって指示をいたします。
 平成16年7月から誰でも使用可能で、突然の心停止の際に、居合わせた人が迅速、的確に除細動(電気ショック)をすることによって、多くの命が助かる可能性があります。

 しかし、機械が簡単に使用できても、心臓マッサージや人口呼吸ができなければ意味がございません。
 よって地元消防署で行なうAEDを組み合わせた普通救命講習会等の受講をお勧めいたします。

 「あなたは大切な人の命、救えますか」・・・。


余談

 遠野市内でも開業医、公共機関等に設置され始めております。
 しかし、使える方、講習を受けた最低限の知識を有する方がおらなければ、宝の持ち腐れに成りかねません。
 特に行政に関わる人達がその範を示す、命に関わる問題は山積される市の課題よりも最重要ではないでしょうか、目の前の尊い命を救えずに大きな話はできない、私はそう思います・・・偉そうですみません。
 官で仕事をされる方々の講習会受講、まずはここからか・・・さらにアピールする私達もさらに精進しなければと思うところです。
 
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バトンいただき

2006-09-09 10:59:12 | その他
 yamanekoさんから都道府県バトンが届けられましたので、私も「かでられますた」。

①次に回す人

羚英さん(北の血をひく都会人)
宝飯さん(不思議な郷の、ほいど人)
(宝飯さんは私の所のコメント欄でも構いませんし、山猫氏或いは、たま千代嬢のとこでも良いと思います)
・・・よろしくお願いします。

②好きな都道府県は?

東京都

大江戸捜査網・・・死して屍拾うものなし・・の雰囲気はございますが、田舎モノ故、今でも都会に憧れております。
眠らない街、欲望渦巻く大東京、暮すことは出来ないかもしれませんがお江戸見物ならいつでも行きたいです・・・笑

③今まで行ったコトある都道府県は?

北海道と東北6県、群馬を除く関東、北陸は無し、中部は山梨、静岡以外は無し、山陽、山陰も無し、四国無し、関西は和歌山無し、九州は鹿児島、長崎、佐賀、宮崎、沖縄無し
私も西方面が弱いですが、通過だけならもう少し数は伸びます。

④どこの方言に憧れる?

九州弁・・・九州男児が「よかとよ、なかとよ・・」言っているイメージが現地の綺麗なオネエサン方も使っていて妙に惹かれましたバッテン。

⑤今どこに住んでる?

昔話の語尾に「どんどはれっ」と語るところ。

⑥そこの自慢は?

四季がくっきりはっきりしているところ。

⑦好きな芸能人とデートするなら誰?

大地真央
大河ドラマで、お市の方を好演、年増なはずなのに20歳近い下の役どころを、違和感なく(私はそう感じました・・・笑)演じたこと。

マツケンサンバが大ブレークした際にレポーターからの問いかけに、笑みを浮かべて何気ない素振りを見せつつも顔が引き攣っていた、あの表情がたまりましぇん・・汗
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山奈宗真

2006-09-08 15:09:42 | 歴史・民俗
 先日の当直の夜、携帯電話が何度も鳴ってましたよ・・と同僚の談。
 仕事中は携帯電話は身につけずにいつもロッカーへ置いておきますが、ほとんど電話は来ないのですよ・・・・汗。

 気になって着信履歴を見ますと自宅から3分おきに3度かけられた形跡あり、直ぐに自宅に電話するも誰もかけてないという・・・不思議だ、しかし気になる、そういえば飼猫のネネがよく電話機に乗って短縮ナンバーのボタンをよく踏んでいたな・・・と思い出し、猫の仕業か・・・ということにしておりました。

 夜勤明けで自宅に帰ると母親が、夕べ電話したのは末娘であると告げられた。
 なんでも学校の宿題とかで、遠野の明治時代の偉い人は誰か、ということを私に聞きたかったみたいですが、その日の夕方、学校から帰宅した娘が開口一番、「遠野の明治時代、百年位前の人で遠野で功績があった人は誰」とのこと・・・「おっ、ぺっこまでよ」、あまりにも漠然としすぎている、しばし考えがまとまらない、すると娘が「先生が虎猫さんの娘でしょ、お父さん歴史を調べている人だから、聞けばすぐ答えが出ますよ」と言われたそうです。

 ありゃりゃ・・・親が歴史好きとかはあまり関係ないような、それよりもよく父親が虎猫だとバレでいること、この方が問題だっ・・・笑・・・私も少しはその道でハンドルネームが知れてきたか・・・汗

 ということで、功績のあった人物、やはりマジメに考えると難しい、一般的には柳田國男とか佐々木喜善といった遠野物語関連となりますが、確かに今の遠野は遠野物語のイメージが大で、遠野物語なしでは語れない地域でもあり、この功績はまことに偉大でもあります。
 しかし、柳田國男は遠野の人ではない、ならば佐々木喜善か伊能嘉矩・・・、確かに遠野物語や民俗学的な部分は大きいが、遠野での功績、もっと当時の暮らし向きとか産業、経済に貢献し発展させた基を築いた人物のことではないのか・・・と私は考えてしまい、あえて「山奈宗真」と娘に語ってしまいました。


山奈宗真・・・・



 弘化4年(1847)東館町、遠野南部家士、奥寺長右衛門の長子として生まれる。
 後に遠野家士として主君南部弥六郎(済賢)に従えたが、明治維新後、氏姓
山奈と改め、下閉伊郡小国村(現川井村小国)の白見山麓120町歩の借地を受け家財のほとんどを売却して1千5百円にて牧場を開設、しかし日本狼による牛馬襲撃が頻繁で3年で挫折したといわれます。

 他に養蚕事業の拡大普及にも努め、再び牧場を各地に開設、酪農畜産を盛んとし、さらに西洋野菜導入を目指して農業試験場を開設、キャベツ、セロリ、トマト(赤なし)、葡萄、ホップ等も試栽培、遠野の農畜産の礎を築くと共にその発展に尽力した。

 当初は現川井村で活躍していたが、後に故郷の遠野に戻り、上記のような功績を残したが、横田村議員、遠野町議員、さらに官公庁からの役職委嘱の辞令、寄付等による感謝状等数百にのぼる数であったと伝えられます。

 明治42年(1909)66歳で没しております。


山奈宗真翁碑・・・遠野郷八幡宮境内


おまけ・・・




遠野郷八幡宮馬場

9月15日の例大祭、遠野南部流鏑馬の準備もほぼ完了といったところ・・・それでも八幡宮の関係者の皆様、草取りやら境内の整備に忙しそうでした。 
ちなみに宮司さんは留守でした・・・笑
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馬上の二人

2006-09-07 19:58:00 | その他
 今から3年以上前のこと、インターネットを通じて知りあった現八幡平市在住のM氏から掲示板に書き込みがありました。
 その後、プライベートな内容であるということで、後に主にメールでのやり取りとなりましたが、その内容はM氏宅に残されている古写真のエピソード等、何か手がかりを知りたい、そして遠野とのご縁も少なからずあって、是非に私に出来る範囲で結構ですので、調べてほしいとの内容でした。

 私のような無名で、しかも素人同然、学歴もない単なる歴史オタクに調査依頼、自信はありませんでしたが、是非にとのことで、快く引き受けましたが、その概略は次のとおりです。

 M氏のご先祖のひとりに、明治時代に活躍、日本の曲馬サーカス界に名を残す松村太郎という曲馬師がおります。
 M氏は、ご先祖である太郎氏の足跡を訪ね、その功績等を調べておりますが、その過程で一枚の古写真の存在があって、その写真は馬上の二人の人物が映し出されているものでした。
 
 ひとりは松村太郎氏、そしてもうひとりは、遠野南部家当主、南部行義公(遠野南部第34代・男爵)です。
 当初は、南部行義公についてのご質問でしたが、後に遠野軍馬の神様、四戸三平師との関連も浮上、四戸三平師の事績等も調べてお知らせし、松村太郎氏と遠野との間接的なつながり等に少し驚愕した記憶がございました。

 調べについての難題は馬上のお二人が何時、何処で出会い、そしてその写真が写された場所は何処であるか・・・でした。

 結局は私にはわかりませんでした。


四戸三平之碑・・・遠野郷八幡宮境内(松崎町白岩)

 さて、幾度か関連事項を調べ、浅学でしかも物足りない内容ながらM氏にお知らせしておりましたが、その中で、四戸三平との関わりが寄せられました。
 四戸三平の記念碑を建てた宮城の人、石川清馬は四戸三平の馬術の弟子で、後に日本曲馬界の草分け的存在の人物で、松村太郎はこの石川の愛弟子のひとりであったのです。
 このことで、3年前の夏、雨が降りしきる中、M氏と奥様、そして弟さんのお三方が遠野を訪ね、突然のことでしたが、遠野郷八幡様境内の四戸三平之碑をご案内、ひとつの思いが遂げられたとM氏は安堵と笑みを浮かべていたのが印象に残っております。

 この時に、先に南部神社を訪ね、南部行義公について、宮司様から逸話なり、伝えられる人となり等をご教授いただいたそうですが、写真の内容はわからなかったそうです。

 遠野八幡宮の駐車場にて、色々とM氏と歓談いたしましたが、例の古写真を持って上京、現遠野南部家当主であられる府中東郷寺住職の南部光徹氏に教えをいただきに行ったとのことでしたが、寺の山門前で足がすくみ、中に入ることができなかったと仰っておりました。

 実は私もこの年の秋に上京しましたが、遠野南部氏関連のサイトを公開していることをお知らせする意味合いでご挨拶並びにできればサイト公開している旨のご了承を得ること、さらにM氏からいただいた古写真のコピーを持参で、こちらも教えを乞うことにて東郷寺に向かいましたが、新宿から京王線に乗り換えたまではよかったのですが、極度の緊張、はっきり言えば勇気がなかったこと、下車する多摩霊園駅で降りれなくて、失意のうちに別用を済ませて帰って来た経緯がございました。・・・・情けなや・・・・涙・・・・やはり世が変わったとはいえ、世が世であれば私のような者が拝謁できるようなお方ではないこと、敷居が高かったといえばそれまでですが、もっと歴史分野で研鑽を積み、人間性も磨いてから・・・と考えております・・・・大汗

 長くなりましたが・・・・古写真は↓



 せめて写された場所だけでも特定できればいいのですが・・・・。

 M氏によりますと、明治20年前後に写されたものではないのか・・とのこと、私も図書館等で南部行義公関連やら、遠野での曲馬興行等の調べをいたしましたが、遠野の何処かではないのか、と思うも此処が何処であるかは全くわかりません。
 遠野物語研究所にも持ち込んだ記憶がございますが、ここでもわかりませんでした。

 あれから3年、M氏とは行き来が無くなりましたが、この写真のことが進展しているかもしれません。
 懐かしくなりサイトを訪ねましたが、ページそのものは健在ではありましたが、ほとんどの記事がリンク切れで、その内容までは知ることは出来ませんでした。
 M氏は松村太郎の足跡調査はサイトにて公開はしておりますが、リンク等をいただくことは一切お断りされており、関係者に対すること、自身での調べでの報告書的でしかも資料として活用されていたものと私は理解しております。

 掲載の画像に関して情報等お持ちの方は是非にご連絡いただければうれしいです。

 近々、Mさんにメールでもしてみたいと考えております。
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古戦場を行く・壱

2006-09-05 21:04:47 | 歴史・民俗
 「古戦場を行く・壱」は、鱒沢高舘の戦い。

 遠野南部家文書、建武元年8月3日 南部又次郎(南部師行)に出された陸奥守北畠顕家からの国宣に関連して、八戸から軍勢を率いた南部師行が高舘に篭る面懸左衛門尉一派を追討した戦いがあったと伝説的に伝えられる。

 国宣及びその高舘関連の考証は「角懸事件」参照のこと。
(遠野阿曽沼氏・遠野郷戦記)


高舘跡・・・現八幡社


八幡社南側丘陵・・・本郭はこちらか?


高舘跡南側から




 さて、言い伝えでは、国宣を受けた八戸の南部師行は軍勢を整えて、高舘に攻め込み、高舘含みの鱒沢近在で激戦があったとされ、二度の決戦でついに南部勢が面懸一派を討伐した戦いであったといわれている。
 しかし、最近の見解や私の考えでは、南部師行は阿曽沼朝兼からの訴状を認めるといった陸奥国府の意により、関係者にその旨を伝える役目であったこと、大義名分を得た阿曽沼朝兼は遠野勢を繰り出して高舘に攻め込んだ戦いだったと推測されます。
 ちなみに面懸、白懸は間違いで角懸ではなかったのか、角懸なら江刺郡内にその地名があり、角懸の名を持つ土豪が居たといわれている。

 いずれにしても、史実は闇の中に近いながら、高舘跡の彼岸桜の古木のみ知る、といったところかもしれません。

 後に遠野阿曽沼氏分家の鱒沢氏が鱒沢、小友の領主となると、一時期この高舘を居舘にしていたのではないのか・・・と私は考えております。
 さらに戦国末期、鱒沢広勝が長泉寺を開基、ここ高舘跡に寺を建てたともいわれます。
 鱒沢氏はより強固で大規模な鱒沢館を上鱒沢上町の山野に築いております。


旧江刺街道跡



 高舘の南側を通るルートでもあり、鱒沢は気仙、稗貫、和賀、そして江刺に通じる軍事を含む交通の要衝であったことが伺えます。

猿ヶ石川(鱒沢) 

船渡橋から


鱒沢館方面と猿ヶ石川
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防災訓練の巻き

2006-09-04 12:07:03 | ファイヤー
 一日遅れましたが、9月3日早朝、遠野市防災訓練が市内一斉に行なわれました。
 私は土淵町の、とある地域の自主訓練担当となりまして、その防災訓練の模様をご紹介いたします。

※リンクいただいております「くさぐさブログ」管理人さんと同場面の画像もあることを申し添えます。
(くさぐさブログ・9月3日エントリー記事)・・こちら

 早朝5時45分、自家用車で現地に到着、少し遅れて職場の後輩到着。
 消防コミュニティセンターには地元消防団の方がひとり準備作業をしておりましたので、同僚と共に加わって準備を行なう。

 朝6時の時報チャイム直後、地震発生を知らせるサイレンが響き渡る・・・。


避難場所であるコミュニティセンター広場へ続々と避難してくる住民の皆様。

 「あれれ・・・」サイレンと同時に数人の方が既に避難完了、5分もしないうちに一班全体か、結構な人数が避難されて来ている。
 シナリオではサイレン吹鳴10分後に避難勧告の放送があるはず・・・避難を促す放送前にほとんど避難完了という手際さでありました・・・笑

 有事の際は、放送など待ってられない状況下もありますので独自の判断で安全な場所へ避難する、移動するは必要でもありますからね・・・。

 最後の班が避難完了したところで、行政区長さんのご挨拶後に我々が指導する消火訓練、応急担架作成訓練を実施しました。


水消火器による訓練消火機材を使用

 画像の少年、筋が良いといいますか、狙いすまして見事消火成功・・・笑


 一本の訓練水消火器で2名まで訓練できますが、持ち込んだのは5本、ですから10名の方々が実際訓練可能であるも、なかなか私同様恥ずかしがり屋の方々ばかりで・・・・笑・・・なかなか我こそは・・という方々が出てこない。
 一家の主婦の方々に体験いただこうと呼びかけると次々と女性の皆様が・・・すばらしい・・・。

 つづいて・・・
 実際に灯油を張った燃焼皿に火を入れて、本物の消火器で消火訓練・・・。


 火が勢いよく燃え盛ったところで、いよいよ消火・・・・。

 見事消火成功・・・。


 さらにつづいて・・・
 応急担架作成訓練



 最初は消防団の方、大人の方々が体験いたしましたが、遠慮していた子供達もようやく体験、この感覚を忘れずにいれば将来何かの役に立つかもしれません。

 二つの訓練のみでしたが、限られたしかも貴重な時間をお貸しいただきまして感謝申し上げます。
 最後は今一度行政区長のご挨拶、遠野市長さん代理の市職員幹部の方のご挨拶にて防災訓練は終了となりました。

 

 ひきつづき地元消防団分所の皆様は消防分団独自の訓練へ向けて次なる会場へ移動されました。
 ご苦労様でした。

 
 余談・・・・
 260名余の人口なそうですが、老若男女108名の方々、プラス消防団員の方々の参加、ほぼ半数近くの方々が参加する意義深い防災訓練だったと思います。
 さらに市内全域では約1万人近い方々が避難訓練に参加したとのこと。
 あらためて防災意識の関心の高さが伺える内容でもありますが、今回は、住民の皆様による自主性に任せた訓練と聞いております。
 
 反省やら異論、ご意見もあると思いますが、結局、大地震のように広範囲にわたる被害を及ぼす災害の場合は、初動的に災害現場活動に入る消防署、消防団が分散されたり、へたすると橋や道路が倒壊、陥没、がけ崩れ等で行き着けない可能性があります。いやっ高い可能性を秘めております。
 これらの場合も想定されることでもあり、まずは各家庭、各地域でもしもの場合の行動等、十分に話し合い、理解しておくことが必要かと思います。
 自らの地域は自らで守る、こういった意味において自主的な訓練、そして参加は必要だと認識いただければと思っております。

 決して行政からの訓練丸投げではないこと、ご理解を願いたいですし、この機会に防災対策についてさらに考えてみてはいかがでしょうか。


おまけ・・・


 地震コワイにゃん・・・ではありませんが、長男のスポーツバックの中に避難中のネネ・・・・笑。
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空撮・遠野の城館跡1

2006-09-02 13:41:08 | 歴史・民俗
 昭和50年代前半の空中写真。

 そこで、この空中写真、調査中の城館跡探訪やら、その地形の把握、縄張図作成の参考等、かなり使えそうでもあります。


 
拡大


 昭和50年代、木々も多く地上で確認できる空堀跡ほど生々しくはないが、それでもかなりの溝が確認できる、それだけ花舘の空堀は広範囲に展開され、その数も群を抜いているということがわかる。

 つづいて松崎舘



松崎舘跡の山野


 こちらは空堀跡らしきものが、はっきり確認できませんが、地上ではかなり高感度な遺構が確認できます。
 現在の舘山は一部がけ崩れの箇所かありますが、当時はまだがけ崩れがないといいますか、気にかかる程ではなかったことがわかります。

 いずれにしましても、今後の城館跡調査、探訪の大きな励みとなり、弾みとなりそうです。


国土地理院空中写真使用・・・
著作権等に関わる可能性もありますので、何かございましたら即画像は削除いたします。
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