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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

馬上の二人

2006-09-07 19:58:00 | その他
 今から3年以上前のこと、インターネットを通じて知りあった現八幡平市在住のM氏から掲示板に書き込みがありました。
 その後、プライベートな内容であるということで、後に主にメールでのやり取りとなりましたが、その内容はM氏宅に残されている古写真のエピソード等、何か手がかりを知りたい、そして遠野とのご縁も少なからずあって、是非に私に出来る範囲で結構ですので、調べてほしいとの内容でした。

 私のような無名で、しかも素人同然、学歴もない単なる歴史オタクに調査依頼、自信はありませんでしたが、是非にとのことで、快く引き受けましたが、その概略は次のとおりです。

 M氏のご先祖のひとりに、明治時代に活躍、日本の曲馬サーカス界に名を残す松村太郎という曲馬師がおります。
 M氏は、ご先祖である太郎氏の足跡を訪ね、その功績等を調べておりますが、その過程で一枚の古写真の存在があって、その写真は馬上の二人の人物が映し出されているものでした。
 
 ひとりは松村太郎氏、そしてもうひとりは、遠野南部家当主、南部行義公(遠野南部第34代・男爵)です。
 当初は、南部行義公についてのご質問でしたが、後に遠野軍馬の神様、四戸三平師との関連も浮上、四戸三平師の事績等も調べてお知らせし、松村太郎氏と遠野との間接的なつながり等に少し驚愕した記憶がございました。

 調べについての難題は馬上のお二人が何時、何処で出会い、そしてその写真が写された場所は何処であるか・・・でした。

 結局は私にはわかりませんでした。


四戸三平之碑・・・遠野郷八幡宮境内(松崎町白岩)

 さて、幾度か関連事項を調べ、浅学でしかも物足りない内容ながらM氏にお知らせしておりましたが、その中で、四戸三平との関わりが寄せられました。
 四戸三平の記念碑を建てた宮城の人、石川清馬は四戸三平の馬術の弟子で、後に日本曲馬界の草分け的存在の人物で、松村太郎はこの石川の愛弟子のひとりであったのです。
 このことで、3年前の夏、雨が降りしきる中、M氏と奥様、そして弟さんのお三方が遠野を訪ね、突然のことでしたが、遠野郷八幡様境内の四戸三平之碑をご案内、ひとつの思いが遂げられたとM氏は安堵と笑みを浮かべていたのが印象に残っております。

 この時に、先に南部神社を訪ね、南部行義公について、宮司様から逸話なり、伝えられる人となり等をご教授いただいたそうですが、写真の内容はわからなかったそうです。

 遠野八幡宮の駐車場にて、色々とM氏と歓談いたしましたが、例の古写真を持って上京、現遠野南部家当主であられる府中東郷寺住職の南部光徹氏に教えをいただきに行ったとのことでしたが、寺の山門前で足がすくみ、中に入ることができなかったと仰っておりました。

 実は私もこの年の秋に上京しましたが、遠野南部氏関連のサイトを公開していることをお知らせする意味合いでご挨拶並びにできればサイト公開している旨のご了承を得ること、さらにM氏からいただいた古写真のコピーを持参で、こちらも教えを乞うことにて東郷寺に向かいましたが、新宿から京王線に乗り換えたまではよかったのですが、極度の緊張、はっきり言えば勇気がなかったこと、下車する多摩霊園駅で降りれなくて、失意のうちに別用を済ませて帰って来た経緯がございました。・・・・情けなや・・・・涙・・・・やはり世が変わったとはいえ、世が世であれば私のような者が拝謁できるようなお方ではないこと、敷居が高かったといえばそれまでですが、もっと歴史分野で研鑽を積み、人間性も磨いてから・・・と考えております・・・・大汗

 長くなりましたが・・・・古写真は↓



 せめて写された場所だけでも特定できればいいのですが・・・・。

 M氏によりますと、明治20年前後に写されたものではないのか・・とのこと、私も図書館等で南部行義公関連やら、遠野での曲馬興行等の調べをいたしましたが、遠野の何処かではないのか、と思うも此処が何処であるかは全くわかりません。
 遠野物語研究所にも持ち込んだ記憶がございますが、ここでもわかりませんでした。

 あれから3年、M氏とは行き来が無くなりましたが、この写真のことが進展しているかもしれません。
 懐かしくなりサイトを訪ねましたが、ページそのものは健在ではありましたが、ほとんどの記事がリンク切れで、その内容までは知ることは出来ませんでした。
 M氏は松村太郎の足跡調査はサイトにて公開はしておりますが、リンク等をいただくことは一切お断りされており、関係者に対すること、自身での調べでの報告書的でしかも資料として活用されていたものと私は理解しております。

 掲載の画像に関して情報等お持ちの方は是非にご連絡いただければうれしいです。

 近々、Mさんにメールでもしてみたいと考えております。
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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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四戸三平 (名梨)
2006-09-08 07:40:29
しばらくご無沙汰いたしております。

 写真の件、三平は明治9年に湯島の自宅で44歳で没しております。また、明治7年には官職を辞し、明治5年には代32代遠野藩主南部義敦が腸チフスにかかり三平の自宅で療養し三平も看病するが、10日後他界しております。

 従って、写真は、4年に東京の芝に馬術道場を開設しています。

 また、3年には遠野で妻を亡くし、東京に帰る途中盛岡の佐比内勇蔵宅に寄宿ししばらく馬術の指導をしていますので、明治20年頃ではないと思います。
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画像のこと (とらねこ)
2006-09-08 14:02:04
名梨さん、少しご無沙汰でした。

馬上のふたりについて、ご反応いただき、さらに四戸三平についてのご教授ありがとうございました。



さて、明治20年前後とした理由は、第一に南部行義公は兄義敦公が急逝され、その家督を継ぎますが、その時、行義公は幼少だったと思います。

写真は行義公が成人された後のものと思われ、ちょうど四戸三平の弟子である石川清馬が遠野にて曲馬の興行をした後に、四戸先生の碑を建立したものと思います。(明治19年)

推測ですが、この曲馬興行の際に石川の弟子である写真の松村太郎氏も遠野へ来て、師匠のさらに師匠の四戸先生の威徳を偲び、南部行義公と接触があったものか、或いは後年、直接馬術等を指南する機会があったものかは不明ながら、古写真は明治19年或いはそれ以降のものと考えられます。

ちなみに南部行義公は確か35歳という若さでこの世を去りましたので、写真の範囲は10年~10数年の間のものと思われます。



松村太郎氏は四戸三平の弟子ではなく、その弟子の石川清馬の愛弟子なようですから、松村氏と四戸先生との直接的な接触はなかったか、あったとしても松村氏若年の頃、極少なかったものと思います。
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