先日の当直の夜、携帯電話が何度も鳴ってましたよ・・と同僚の談。
仕事中は携帯電話は身につけずにいつもロッカーへ置いておきますが、ほとんど電話は来ないのですよ・・・・汗。
気になって着信履歴を見ますと自宅から3分おきに3度かけられた形跡あり、直ぐに自宅に電話するも誰もかけてないという・・・不思議だ、しかし気になる、そういえば飼猫のネネがよく電話機に乗って短縮ナンバーのボタンをよく踏んでいたな・・・と思い出し、猫の仕業か・・・ということにしておりました。
夜勤明けで自宅に帰ると母親が、夕べ電話したのは末娘であると告げられた。
なんでも学校の宿題とかで、遠野の明治時代の偉い人は誰か、ということを私に聞きたかったみたいですが、その日の夕方、学校から帰宅した娘が開口一番、「遠野の明治時代、百年位前の人で遠野で功績があった人は誰」とのこと・・・「おっ、ぺっこまでよ」、あまりにも漠然としすぎている、しばし考えがまとまらない、すると娘が「先生が虎猫さんの娘でしょ、お父さん歴史を調べている人だから、聞けばすぐ答えが出ますよ」と言われたそうです。
ありゃりゃ・・・親が歴史好きとかはあまり関係ないような、それよりもよく父親が虎猫だとバレでいること、この方が問題だっ・・・笑・・・私も少しはその道でハンドルネームが知れてきたか・・・汗
ということで、功績のあった人物、やはりマジメに考えると難しい、一般的には柳田國男とか佐々木喜善といった遠野物語関連となりますが、確かに今の遠野は遠野物語のイメージが大で、遠野物語なしでは語れない地域でもあり、この功績はまことに偉大でもあります。
しかし、柳田國男は遠野の人ではない、ならば佐々木喜善か伊能嘉矩・・・、確かに遠野物語や民俗学的な部分は大きいが、遠野での功績、もっと当時の暮らし向きとか産業、経済に貢献し発展させた基を築いた人物のことではないのか・・・と私は考えてしまい、あえて「山奈宗真」と娘に語ってしまいました。
山奈宗真・・・・

弘化4年(1847)東館町、遠野南部家士、奥寺長右衛門の長子として生まれる。
後に遠野家士として主君南部弥六郎(済賢)に従えたが、明治維新後、氏姓
山奈と改め、下閉伊郡小国村(現川井村小国)の白見山麓120町歩の借地を受け家財のほとんどを売却して1千5百円にて牧場を開設、しかし日本狼による牛馬襲撃が頻繁で3年で挫折したといわれます。
他に養蚕事業の拡大普及にも努め、再び牧場を各地に開設、酪農畜産を盛んとし、さらに西洋野菜導入を目指して農業試験場を開設、キャベツ、セロリ、トマト(赤なし)、葡萄、ホップ等も試栽培、遠野の農畜産の礎を築くと共にその発展に尽力した。
当初は現川井村で活躍していたが、後に故郷の遠野に戻り、上記のような功績を残したが、横田村議員、遠野町議員、さらに官公庁からの役職委嘱の辞令、寄付等による感謝状等数百にのぼる数であったと伝えられます。
明治42年(1909)66歳で没しております。

山奈宗真翁碑・・・遠野郷八幡宮境内
おまけ・・・


遠野郷八幡宮馬場
9月15日の例大祭、遠野南部流鏑馬の準備もほぼ完了といったところ・・・それでも八幡宮の関係者の皆様、草取りやら境内の整備に忙しそうでした。
ちなみに宮司さんは留守でした・・・笑
仕事中は携帯電話は身につけずにいつもロッカーへ置いておきますが、ほとんど電話は来ないのですよ・・・・汗。
気になって着信履歴を見ますと自宅から3分おきに3度かけられた形跡あり、直ぐに自宅に電話するも誰もかけてないという・・・不思議だ、しかし気になる、そういえば飼猫のネネがよく電話機に乗って短縮ナンバーのボタンをよく踏んでいたな・・・と思い出し、猫の仕業か・・・ということにしておりました。
夜勤明けで自宅に帰ると母親が、夕べ電話したのは末娘であると告げられた。
なんでも学校の宿題とかで、遠野の明治時代の偉い人は誰か、ということを私に聞きたかったみたいですが、その日の夕方、学校から帰宅した娘が開口一番、「遠野の明治時代、百年位前の人で遠野で功績があった人は誰」とのこと・・・「おっ、ぺっこまでよ」、あまりにも漠然としすぎている、しばし考えがまとまらない、すると娘が「先生が虎猫さんの娘でしょ、お父さん歴史を調べている人だから、聞けばすぐ答えが出ますよ」と言われたそうです。
ありゃりゃ・・・親が歴史好きとかはあまり関係ないような、それよりもよく父親が虎猫だとバレでいること、この方が問題だっ・・・笑・・・私も少しはその道でハンドルネームが知れてきたか・・・汗
ということで、功績のあった人物、やはりマジメに考えると難しい、一般的には柳田國男とか佐々木喜善といった遠野物語関連となりますが、確かに今の遠野は遠野物語のイメージが大で、遠野物語なしでは語れない地域でもあり、この功績はまことに偉大でもあります。
しかし、柳田國男は遠野の人ではない、ならば佐々木喜善か伊能嘉矩・・・、確かに遠野物語や民俗学的な部分は大きいが、遠野での功績、もっと当時の暮らし向きとか産業、経済に貢献し発展させた基を築いた人物のことではないのか・・・と私は考えてしまい、あえて「山奈宗真」と娘に語ってしまいました。
山奈宗真・・・・

弘化4年(1847)東館町、遠野南部家士、奥寺長右衛門の長子として生まれる。
後に遠野家士として主君南部弥六郎(済賢)に従えたが、明治維新後、氏姓
山奈と改め、下閉伊郡小国村(現川井村小国)の白見山麓120町歩の借地を受け家財のほとんどを売却して1千5百円にて牧場を開設、しかし日本狼による牛馬襲撃が頻繁で3年で挫折したといわれます。
他に養蚕事業の拡大普及にも努め、再び牧場を各地に開設、酪農畜産を盛んとし、さらに西洋野菜導入を目指して農業試験場を開設、キャベツ、セロリ、トマト(赤なし)、葡萄、ホップ等も試栽培、遠野の農畜産の礎を築くと共にその発展に尽力した。
当初は現川井村で活躍していたが、後に故郷の遠野に戻り、上記のような功績を残したが、横田村議員、遠野町議員、さらに官公庁からの役職委嘱の辞令、寄付等による感謝状等数百にのぼる数であったと伝えられます。
明治42年(1909)66歳で没しております。

山奈宗真翁碑・・・遠野郷八幡宮境内
おまけ・・・


遠野郷八幡宮馬場
9月15日の例大祭、遠野南部流鏑馬の準備もほぼ完了といったところ・・・それでも八幡宮の関係者の皆様、草取りやら境内の整備に忙しそうでした。
ちなみに宮司さんは留守でした・・・笑