「古戦場を行く・壱」は、鱒沢高舘の戦い。
遠野南部家文書、建武元年8月3日 南部又次郎(南部師行)に出された陸奥守北畠顕家からの国宣に関連して、八戸から軍勢を率いた南部師行が高舘に篭る面懸左衛門尉一派を追討した戦いがあったと伝説的に伝えられる。
国宣及びその高舘関連の考証は「角懸事件」参照のこと。
(遠野阿曽沼氏・遠野郷戦記)

高舘跡・・・現八幡社

八幡社南側丘陵・・・本郭はこちらか?

高舘跡南側から


さて、言い伝えでは、国宣を受けた八戸の南部師行は軍勢を整えて、高舘に攻め込み、高舘含みの鱒沢近在で激戦があったとされ、二度の決戦でついに南部勢が面懸一派を討伐した戦いであったといわれている。
しかし、最近の見解や私の考えでは、南部師行は阿曽沼朝兼からの訴状を認めるといった陸奥国府の意により、関係者にその旨を伝える役目であったこと、大義名分を得た阿曽沼朝兼は遠野勢を繰り出して高舘に攻め込んだ戦いだったと推測されます。
ちなみに面懸、白懸は間違いで角懸ではなかったのか、角懸なら江刺郡内にその地名があり、角懸の名を持つ土豪が居たといわれている。
いずれにしても、史実は闇の中に近いながら、高舘跡の彼岸桜の古木のみ知る、といったところかもしれません。
後に遠野阿曽沼氏分家の鱒沢氏が鱒沢、小友の領主となると、一時期この高舘を居舘にしていたのではないのか・・・と私は考えております。
さらに戦国末期、鱒沢広勝が長泉寺を開基、ここ高舘跡に寺を建てたともいわれます。
鱒沢氏はより強固で大規模な鱒沢館を上鱒沢上町の山野に築いております。
旧江刺街道跡


高舘の南側を通るルートでもあり、鱒沢は気仙、稗貫、和賀、そして江刺に通じる軍事を含む交通の要衝であったことが伺えます。
猿ヶ石川(鱒沢)

船渡橋から

鱒沢館方面と猿ヶ石川
遠野南部家文書、建武元年8月3日 南部又次郎(南部師行)に出された陸奥守北畠顕家からの国宣に関連して、八戸から軍勢を率いた南部師行が高舘に篭る面懸左衛門尉一派を追討した戦いがあったと伝説的に伝えられる。
国宣及びその高舘関連の考証は「角懸事件」参照のこと。
(遠野阿曽沼氏・遠野郷戦記)

高舘跡・・・現八幡社

八幡社南側丘陵・・・本郭はこちらか?

高舘跡南側から


さて、言い伝えでは、国宣を受けた八戸の南部師行は軍勢を整えて、高舘に攻め込み、高舘含みの鱒沢近在で激戦があったとされ、二度の決戦でついに南部勢が面懸一派を討伐した戦いであったといわれている。
しかし、最近の見解や私の考えでは、南部師行は阿曽沼朝兼からの訴状を認めるといった陸奥国府の意により、関係者にその旨を伝える役目であったこと、大義名分を得た阿曽沼朝兼は遠野勢を繰り出して高舘に攻め込んだ戦いだったと推測されます。
ちなみに面懸、白懸は間違いで角懸ではなかったのか、角懸なら江刺郡内にその地名があり、角懸の名を持つ土豪が居たといわれている。
いずれにしても、史実は闇の中に近いながら、高舘跡の彼岸桜の古木のみ知る、といったところかもしれません。
後に遠野阿曽沼氏分家の鱒沢氏が鱒沢、小友の領主となると、一時期この高舘を居舘にしていたのではないのか・・・と私は考えております。
さらに戦国末期、鱒沢広勝が長泉寺を開基、ここ高舘跡に寺を建てたともいわれます。
鱒沢氏はより強固で大規模な鱒沢館を上鱒沢上町の山野に築いております。
旧江刺街道跡


高舘の南側を通るルートでもあり、鱒沢は気仙、稗貫、和賀、そして江刺に通じる軍事を含む交通の要衝であったことが伺えます。
猿ヶ石川(鱒沢)

船渡橋から

鱒沢館方面と猿ヶ石川