見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

さわやかな老い/奥村土牛(山種美術館)

2021-12-14 21:11:00 | 行ったもの(美術館・見仏)

山種美術館 開館55周年記念特別展『奥村土牛-山﨑種二が愛した日本画の巨匠第2弾-』(2021年11月13日~2022年1月23日)

 山種美術館の土牛コレクションは何度も見ているのだが、好きな画家なので、やっぱり見たくなって出かけた。全69件、だいたい制作年代順に展示されていた。第1章は、大正末年から昭和20年代、動物や草花を多く描いている。土牛の描くウサギや鯉は、奥行があって立体的な存在感がある。輪郭のふわふわしたアンゴラウサギでさえも。この時期に「土牛芸術の礎」を築いたと言えるのだが、明治22年生まれの土牛は、昭和28年にはもう還暦を過ぎている。礎(いしずえ)なんて、のんびりしたことを言っていていいのか?と思う。

 しかし、ここからの開花がすごいのだ。昭和30年代、『城』『踊り子』『那智』『鳴門』など、代表作が立て続けに現れる。『鳴門』は、奈落に落ち込むような手前の渦潮よりも、その奥で大きな円形を描いて盛り上がる渦潮の縁が不気味。遠景に見える対岸の山との比較で、渦潮の果てしない巨大さが分かる。『那智』は白い滝水の下に透ける岩肌、岩と岩の間の緑に見とれた。『城』『那智』『鳴門』は、それぞれ写生や画稿が残されている。もちろん「写生」と「作品」には違いがあるのだが、基本は写実なのだなあと強く思った。姫路城の櫓門を描いた『門』は、作品の構図そのままの風景の中で、土牛が写生をしている(後ろ姿の)写真があって、だまし絵みたいで面白かった。『舞妓』『室内』も好き。

 昭和40年代後半、80歳を超えた土牛は、いよいよ瑞々しい作品を生み続ける。桜の季節には欠かせない『醍醐』『吉野』は大好きな作品。たとえこの世から桜が全てなくなっても、この作品が残れば私は満足だ。土牛はずっと吉野の桜を見たことがなく、昭和47年(83歳)に初めて見て「華やかというより、気高く寂しい山」であることを知り、昭和52年に『吉野』を描いた。このとき、歴史画を描いている思いがしたという。世の中には、こんな幸せもあるのか…。私も長生きしたら、まだ見たことのない美しい風景に出会うことがあるだろうか。

 一方で、長生きすることは、より多く人の死に出会うことでもある。『姪』は、自分より先に亡くなった姪のむかしの姿を思い出して描いたもの。作品を買い取ることで土牛を支援し、家族ぐるみの交際を続けた14歳下の友人・山﨑種二も、土牛より先に亡くなっている。貧乏画家だった土牛の家に電話がないと知ると、すぐに手配してつけてくれたというのも、ちょっといい話。こういう実業家、今の日本にはいるのだろうか。昭和41年作の『三彩観賞』は、山種美術館竣工記念に描かれたもので、同じ年に五島美術館で展示された陶磁器『三彩長頸瓶』と『三彩貼花龍耳瓶』が描かれていた(後者は現在、東博が所蔵)。

 この展覧会を見ると、60歳やそこらで老け込んでる場合じゃない、と強く思う。土牛先生、白寿を超えても新しい絵画に挑戦し、精進を続けていたのだ。まだまだ、人生の喜びも悲しみもこれから。美しいものに出会うのもこれから。土牛が『醍醐』を描いた83歳までは生きてみたいかな。

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二千年前の日常/古代中国の24時間(柿沼陽平)

2021-12-13 21:08:31 | 読んだもの(書籍)

〇柿沼陽平『古代中国の24時間:秦漢時代の衣食住から性愛まで』(中公新書) 中央公論新社 2021.11

 人々がどこに住み、何時に起き、何を食べていたか。物価はいくらか。飲み会にはいかなるルールがあったのか。このような人々の暮らしに焦点をあてる歴史学を「日常史」と呼ぶ。本書は、秦漢時代の日常に焦点をあて、中国古代帝国の1日24時間を描いている。

 序章「古代中国を歩く前に」では、生活の基本知識として、名前(姓・名・字)のつけかたとよびかた、行政区分(郡県郷里、郡城・県城)について解説する。

 第1章「夜明けの風景」は、当時の自然環境、時間の把握方法、時刻の名前など。長江流域は常緑広葉樹の森林帯で、漢代になってもまだゾウが生息していたという話に驚く。第2章「口をすすぎ、髪をととのえる」から、いよいよ1日が始まる。虫歯、口臭、髪型と冠。髷を結わないと冠が固定できないので、男性官吏にとって薄毛は切実な悩みだった。王莽がハゲだったというのは初めて知った。第3章「身支度をととのえる」は、衣服、化粧。当時の官吏は、現代の女子中高生と同じで、決められた制服のなかで精一杯オシャレをしていたという。

 第4章「朝食をとる」では、当時のレシピが具体的に記述されている。主食は粒食(穀物を煮てから蒸し、粒のまま食べる)または粉食(餅や麺)。コムギの粉食は唐代に盛んになったといわれるが、漢代にさかのぼるという論者もいるそうだ。庶民のオカズはネギやニラだが、上流階級は、食材も料理法も調味料もバラエティ豊か。そういえば、肉の串焼きは中国の古装ドラマで見たことがある。

 第5章「ムラや都市を歩く」は建物、ムラや都城のつくり。第6章「役所にゆく」では、イケメンとそうでない人の考察が面白かった。当時は肌が白く、美しいヒゲを持つ男子が好まれた。身長も低くないほうがよい。漢代にはイケメンであることが官吏の採用条件に含まれることがあった。官吏の昇進競争の厳しさは、なかなか身につまされる。

 第7章「市場で買い物を楽しむ」も詳しくて面白い(著者の専門が経済史・貨幣史と知って納得)。物価には、固定官価(法律で決まる)・平価(実勢価格を参考に県が決める)・実勢価格の三種類の価格があった。売り手も買い手も、より多くの商品情報を集め、より有利な取引を成立させようとした。一方、売り手と買い手にしばしば慣習的な顧客関係が構築されたことが、商品価格の乱高下を抑えた。また、大型取引では、地元の顔役がプローカー(儈)となって取引の公正を担保した。

 第8章「農作業の風景」では、華北の気候(夏に雨が降り、穀物と雑草が繁茂する)に基づく農業が、ヨーロッパ(冬に雨が降り、雑草があまり生えない)に比べてどれだけ困難だったかを知る。穀物以外の収入源として、絹織物や麻織物の生産、牧畜、狩猟、河川での漁業、さらに賃労働をする者もあったが、その実態は史書にあまり書き残されていない。

 第9章「恋愛、結婚、そして子育て」によれば、恋はしばしば道端でのナンパから始まる。婚礼の手順と儀礼は、古装ドラマでおなじみ。第10章「宴会で酔っ払う」によれば、古代中国の食事は二回で、午後2時~4時頃に二度目の食事をとり(早い)、そのまま宴会になることもあった。酒の種類は多様で、漢代には西域からワインも輸入されていた。席次、余興、酒令。ついでにトイレの考察も。

 第11章「歓楽街の悲喜こもごも」は、芸妓の歴史、男女の性愛について。陶俑や画像石(?)には、男女の性愛を表現したものがあるのだな。貴重な図版を初めて見た。第12章「身近な人びとのつながりとイザコザ」は嫁姑問題、離婚、再婚。第13章「寝る準備」は、灯火、手紙、沐浴など。

 こんな具合で、卑近な話題も避けず、幅広いテーマが取り上げられている。「エピローグ」によれば、著者はアルベルト・アンジェラ氏の『古代ローマ人の24時間』に触発されて本書を構想したというが、その後の準備作業がすごい。木簡、竹簡、壁画、明器など、利用可能な全ての史料を用いることにし、資料の歴史的背景を明らかにすべく、出土地に赴いて現地調査もおこなった。伝世文献は、史書や思想書だけなく、軽視されがちな小説類も利用している。

 その苦心は、巻末の膨大な注記からも推察することができる。本文では、古代にタイムスリップした現代人が目撃した光景としてサラリと描かれた記述に、おや、これは?と記憶を刺激されて、注記を見ると「史記」だったり「顔氏家訓」だったりした。この元ネタ当ても本書の楽しみ方のひとつだと思う。

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クリスマスリース2021とおまけ

2021-12-11 15:31:43 | なごみ写真帖

今年もいつもの花屋さんで手作りリースを買ってきた。花屋さんがあるのは、むかし住んでいた幡ヶ谷の街で、久しぶりに行ったら、ずいぶんお店が変わっていた。昭和の名残りを感じる商店街だったのに、なんだかオシャレな店が増えていた。

今年は、贅沢を避けて、例年より小さいリースを選んだ。地味めなので、あとでリボンとか、適当に飾りを追加するかもしれない。

おまけ:先日、東博・東洋館2階の「西域の美術」に出ていた塑像(ストゥッコ)的なもの。仏教の飛天かもしれないが、クリスマスのオーナメントみたいだったので。

昨年のリース

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伊丹風から芭蕉へ/柿衞文庫名品にみる芭蕉(永青文庫)

2021-12-09 20:49:45 | 行ったもの(美術館・見仏)

永青文庫 秋季展『柿衞文庫名品にみる芭蕉-不易と流行と-』(2021年10月2日~12月5日)

 これも最後の週末に駆け込みで行った展覧会。柿衞文庫(かきもりぶんこ、兵庫県伊丹市)が所蔵する芭蕉の名品を一堂に公開し、あわせて飯尾宗祇や松永貞徳、西山宗因、鬼貫など連歌から俳諧に至る作品の数々を展覧する。「柿衞文庫」という名前には覚えがあるのに、自分のブログを検索したら何もヒットしなかった。おかしい、と思って調べてみたら、施設としての柿衞文庫は、伊丹市立美術館と一体になっているのだ。伊丹市立美術館には、2005年(耳鳥斎)と2008年(宮武外骨)に訪ねており、面白いテーマを扱う美術館として記憶していた。酒蔵通りのある街並みも好きだったのだが、現在は、大規模改修工事のため、両館とも長期休館に入っている。

 そもそも柿衞文庫は、酒造を家業とする岡田家22代当主・岡田利兵衞(1892-1982、号・柿衞)が蒐集した俳諧資料をもとに昭和57年(1982)に創設された。本展には、とても個人コレクションとは思えないような、貴重で多様な俳諧資料が出陳されており、特に芭蕉の真筆をこんなに見たのは初めてだった。同じ俳人でも、たとえば与謝蕪村は、半ば画家という認識があり、小林一茶は、ほぼ書の人だ。それに比べると芭蕉は文学史上の偉人のイメージが強すぎて、芭蕉の書や画に興味を抱く機会がなかった。なので、芭蕉による『旅路の画巻』を見ても、え?誰が描いた絵?と戸惑ってしまった。『旅路の画巻』は、さすがに巧すぎるという疑念があるようだが、自作の句に即興的な絵を添えた懐紙は、嫌みがなくて、嫌いじゃない。ちなみに近松門左衛門の『高砂人形遣い図』は玄人はだしに巧く、西鶴は巧くない(笑)。

 芭蕉の門人・森川許六は絵を得意とし、芭蕉に絵を教えたという。確かに展示の『「柴栗の」句自画賛』は巧い墨画だった。許六の『百華賦』は30余種の花を着彩で描き、女性に見立てた戯文を付したものだというが、たまたま目についた「かきつばたは野太き花なり/うつくき女のぬすみをして罪を知らぬに似たり」は、想定外だった。燕子花って、そういうイメージか!?

 芭蕉の書跡については、行成の書に似ており、平安の古筆を志向しながら洒脱味を加えている、という批評がとても腑に落ちた。柿衞翁には『芭蕉の筆蹟』という著書があるが、今回、その研究のもとになったノートも展示されていた。たとえば、いろはの「は」が、時期により作品によって、どのような書体で何度登場するかを一覧にした緻密な研究ノートである。柿衞翁は、鳥類の研究と飼育にも熱心で(そのノート類も展示されていた)、生物学の系統研究の方法論を、書跡研究に応用したのではないか、という説明も興味深かった。

 柿衞翁こと岡田利兵衞は、戦前には伊丹町長、戦後は伊丹市長を歴任し、カトリック教徒としてローマ教皇よりグレゴリオ・ナイト章を受け、聖心女子大学で教鞭をとるなど、実にマルチな活躍ぶりである。 俳諧資料の蒐集については『昭和23年度入庫品大番附』がすごかった。細かい字の番付が、1年以内に入手した資料でびっしり埋まっている。近世俳人だけでなく、芥川龍之介や泉鏡花の短冊も入っていた。いまの美術館や博物館も、こういう番付を公表してみたら面白いのに。

 なお、俳諧には伊丹風と呼ばれる一派があったこと、口語・俗語を駆使した「太くたくましき体」(悪く言えば、放埓異形)だったこと、代表格として伊丹生まれの上島鬼貫がいることも、初めて認識した。伊丹、また行ってみたいなあ。伊丹市立美術館を含む「みやのまえ文化の郷」再整備事業がうまくいきますように。

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明清の羅漢図/中国書画精華2021(東博)

2021-12-08 21:42:21 | 行ったもの(美術館・見仏)

東京国立博物館・東洋館8室 特集『中国書画精華-仏教文化の粋-』(2021年10月19日~12月5日)

 毎年秋の恒例となっている中国書画の名品展。前期は、寒山拾得を描いた作品がたくさん出ていた。東博所蔵の名品『寒山拾得図軸』(因陀羅筆、元時代)や『四睡図軸』(元時代)のほか、常盤山文庫所蔵の『寒山図』『拾得図』なども。

 後期は最終日に駆け込みで見てきた。まず、梁楷の『出山釈迦図軸』『雪景山水図軸』『雪景山水図軸』三幅対を見ることができて眼福。京都・清凉寺の『十六羅漢図』(北宋時代)は4件出ていた。かなりデフォルメされているけど、人間の存在感のツボを外していないのが、劇画の登場人物みたい。彩色もきれい。千葉・法華経寺の『十六羅漢図屏風』八曲一双(元時代)は、款記から四明(寧波)の趙璚筆と推定されている。狩野栄信と養信が1幅(羅漢1人)ずつ補筆しているが、あまり原本の画風に似せようとしていないのが面白い。

 平台の展示ケースには、明~清時代の羅漢図巻などが出ていて面白かった。典型的な墨画・羅漢図ではないのだけれど、こういう作品(ペン画のような丁寧な描線!)にすごく墨画の面白さを感じるようになった。筆者不詳の『五百羅漢図巻』(明~清時代)は、こんな感じで、さまざまな面相の羅漢たちが延々と描かれる。途中で、動物が登場したりするけれど、あまり派手なアクションや表情の変化はない。

 これは同じ図巻の末尾のほうだったかしら? ネコと遊んでいるような、のほほんとしたトラ退治。

 これは『羅漢図軸』だったかな? トラの口元がふにゃふにゃしていて和む。来年、トラ年なので、水墨画や中国絵画に描かれた虎(だいたい可愛い)を特集してくれないかな。

 書跡には、墨跡の優品が多数出ていた。いま、辻本雅史氏の『江戸の学びと思想家たち』を読み始めているが、近世には幕府の公文書が「御家流」であったことから、武士も民衆も例外なく「御家流」の書体を学んだという記述がある。そういう世界では、定型化した書体でない禅僧の書が魅力的だったのかもしれないなあ、と思った。実際、圜悟克勤筆の印可状(流れ圜悟)など、字の大きさが不統一で、行の中心線もゆらゆらしているのに、そこに魅力がある。

 また、北魏の造像記(仏像の発願者が製作の由来等を刻したもの)の拓本も多数あり、こちらは会田大輔氏の『南北朝時代』に書かれていた北魏の歴史を思い出しながら眺めた。北魏の楷書はとても好き。練習したら書けるようになるだろうか。

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権力闘争を離れて/中華ドラマ『笑傲江湖』(2001年版)

2021-12-06 19:51:58 | 見たもの(Webサイト・TV)

〇『笑傲江湖』全40集(張紀中制作、CCTV放映、2001)

 『笑傲江湖』は武侠小説の古典だが、私は小説(翻訳)を読んだことも映像作品を見たこともなく、ずっと気になっていた。先だって佐藤信弥氏の『戦乱中国の英雄たち』で、2019年のドラマ『陳情令』は『笑傲江湖』のいわば本歌取りであるという説明を読んで、これは『笑傲江湖』を見なくては、と決めた。では、どのバージョンを見るか。2001年版が原作の改変によって多くの非難を受けたことは承知していたが、私は張紀中プロデュースの『射鵰英雄伝』『天龍八部』にハマった過去があるので、やっぱり同じシリーズが見たかった。YouTubeで簡体字字幕版を見つけて視聴し、結果としては大満足である。

 主人公の令狐冲(李亜鵬)は、酒好きで気のいい青年。孤児だったが、崋山派の掌門・岳不群と妻の寧女侠に拾われて育ち、一門の大師兄(一番弟子)となっている。この頃、江湖では、五岳(東岳泰山、南岳衡山、中岳嵩山、西岳華山、北岳恒山)に各派があり、嵩山派の左冷禅が五岳の総帥の位置を占めていた。これら正派の武門とは別に、魔教(日月教)と呼ばれる一派があった。衡山派の副総帥・劉正風は、魔教の長老・曲洋と音楽を通じて親交を深めていたが、そのことを左冷禅らに追及され、友と二人で命を絶つ。劉正風が作曲した簫と琴の合奏曲「秘曲 笑傲江湖」の楽譜は、たまたま通りかかった令狐冲に託された。その後も令狐冲は、偶然に導かれ、さまざまな秘技や武功を身につけていく。

 同じ頃、崋山派は、林平之という青年を一門に加えることになった。林平之は青城派の余滄海に両親を殺され、敵討ちを志していた。しかし岳不群の本心は、林家に伝わる剣術の奥義書「辟邪剣譜」を手に入れることにあった。岳不群の一人娘で令狐冲と兄妹同然に育ってきた岳霊珊は、林平之に恋心を抱く。

 令狐冲は魔教の聖姑と呼ばれる少女・任盈盈に出会い、次第に惹かれ合っていく。令狐冲は、偶然から、西湖の湖底に監禁されていた任盈盈の父親・任我行を救出し、魔教の武功「吸星大法」を身につける。さらに、任我行を排除して魔教を牛耳っていた東方不敗と蓮弟(楊蓮亭)を倒し、任我行が教主の座に返り咲くのを助けることになる。

 嵩山派の左冷禅は、五岳を全て我が物にしようと画策していたが、「辟邪剣譜」を修得した岳不群に敗れる。令狐冲は(これも偶然から)尼僧集団の恒山派の掌門となっており、岳不群から距離を置こうとつとめる。しかし、江湖を統一し「天下第一」の称号を得ることに取りつかれた岳不群と、同じ野望を抱く魔教の教主・任我行は、令狐冲を味方に取り込もうと暗闘する。その過程で、華山派の師娘・寧女侠や岳霊珊、さらに多くの好漢たちが犠牲になっていく。

 ついに岳不群は魔教の本拠地・黒木崖に攻め入り、任我行を倒すが、令狐冲と恒山派の尼僧たちによって討ち取られる。恒山派の掌門を尼僧の儀琳に譲った令狐冲は、深山で任盈盈と心ゆくまで「秘曲 笑傲江湖」を合奏する。

 序盤から中盤まではコミカルなシーンも多いのだが(軍爺に変装した令狐冲が好き)、終盤は善人も悪人も怒涛のように死んでいく。しかも、首が飛んだり身体がちぎれたり、時代を反映して、けっこう演出がエグいのだが、嫌いじゃない。あと、アクションも、合成でどんなシーンでも撮れるようになった現代と違って、生身の肉体の迫力を感じた。

 『戦乱中国の英雄たち』によれば、この物語には、文革時代の政治的なレッテル貼りや政治闘争が反映されているという。まあそうだろうなあ。無益な覇権争いが多くの犠牲者を生み出す構図(それが中国の現実だった)にうんざりする気持ちは、痛いほど分かった。

 【ネタバレ】になるが、東方不敗は武功高手の太監(宦官)が残した「葵花宝典」を修得することで無敵となった。過去に「葵花宝典」を修得した者が、その要点を書き残したのが「辟邪剣譜」で、この剣法を修めるには必ず自宮(去勢)しなければならないと書かれている。「辟邪剣譜」を修得した岳不群、そして林平之も、自らの欲望のために、家族を棄てて自宮したのである。これは恥ずべき振舞いとして描かれているが、そういえば金庸の他の作品に宦官って出てきたか?どんなふうに描かれていたかな?と気になった。

 俳優さんを調べたら、任我行に振り回される中間管理職・向左使役の巴音さんは『射鵰英雄伝』の哲別、女好きだが尼僧の儀琳を師匠と慕う田伯光を演じた孫海英さんは『射鵰英雄伝』の洪七公じゃないか!任盈盈役の許晴さんは『九州縹緲録』の長公主。20年経って、ますます美しい。あと東方不敗役の茅威涛さん(女性)は越劇の名優で、張紀中らしいキャスティングだと思った。

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中国そして東南アジア/アジアのうつわわーるど(五島美術館)

2021-12-05 18:03:57 | 行ったもの(美術館・見仏)

五島美術館 町田市立博物館所蔵陶磁・ガラス名品展『アジアのうつわわーるど』(2021年10月23日~12月5日)

 「アジアのうつわ」と聞いて、五島美術館の陶磁器は何度も見ているからいいかな、と思っていたら違った。休館中の町田市立博物館が所蔵する、中国と東南アジアのやきもの約60点と、鼻煙壺など中国ガラス製品約40点を一挙公開する展覧会である。

 町田市立博物館には、むかし行ったことがある、と思ってブログ内で調べてみたら、2005年に2回訪ねている。しかし交通の便があまりよくないので、その後は訪問が絶えていた。同館は施設の老朽化などを理由に、2019年6月で展示活動を終了し、町田市が新たに整備する(仮称)国際工芸美術館の開館を待っている状態のようだ。なお、私は2007年に、仕事で笠間市に行ったついでに、茨城県陶芸美術館で町田市立博物館名品展を見ている。

 本展の構成は中国のやきものから。冒頭には前漢時代の加彩仕女俑。高さは50cmを超え、かなり大きめ。加彩と言っても、ほぼ白一色で静謐な趣きである。肩から下の人体にほとんど個性がないのに比べて、頭部の思慮深げな表情には古代のリアリズムを感じる。後漢時代の緑釉犬像は、首も足も短いずっぐりした姿だが、短い耳が前向きにピンと立ち、への字に開いた口元もりりしい。ひげとまつ毛(?)が線刻されている。北魏時代の加彩官人・仕女俑は赤と緑(水色)の彩色が美しく、スリムな体形。中国ドラマでおなじみの籠冠と双髷姿である。加彩耳杯・魁(柄つきの鉢)・鼎・杓・案(四角いお盆)のセットは、え?木製じゃないの?と思ったら、陶製の明器(副葬品)だった。

 本展は、中国陶器を「鑑賞陶磁」と「貿易陶磁」の2つのカテゴリーで紹介する。「鑑賞陶磁」とは、近代以降、本来の用途にとらわれず、純粋な鑑賞の対象となったもの。副葬品の陶俑や明器も、その一部と考えることができる。さらに鑑賞陶磁らしい名品として、唐代の白磁龍耳瓶や青磁牡丹唐草文皿(耀州窯だ!)などが並ぶ。個人的に好きだったのは、遼時代の三彩牡丹文盤。遼三彩だというけれど、内側はほぼオレンジ色一色(線描の牡丹文あり)、外側は黒っぽい緑一色で、カボチャを輪切りにしたようなうつわである。黒釉梅枝文瓶(南宋時代)は、武侠小説で英雄が呑み回す酒瓶みたい。白釉鉄絵龍鳳文壺(元時代)は磁州窯だというが、ちょっと絵のテイストが珍しい。解説に言うように、剪紙(切り絵)のセンスに似ている。

 「貿易陶磁」は輸出用で、各地の需要に応えて特有の器形や様式が生み出された。気になったのは、五彩仙人文大平鉢(明時代)。いわゆる呉州赤絵で、見込みには人物と鹿を黒線で描き、碧緑色(と呼ぶのか、この色)に彩色する。人物は、藍采和という仙人だというが、八頭身くらいあって、どうも中国っぽくないのだ。

 続いて、東南アジア各地のやきものを紹介する。印象に残ったものを挙げると、ベトナムの青花、クメール(カンボジア)の黒釉、タイの鉄絵、ミャンマーの緑彩になるだろうか(実は2007年に笠間で町田市立博物館名品展を見たときも、同じようなことを書いている)。

 ベトナムの青花は、中国陶磁と違って、ふんわり柔らかな雰囲気を持っている。青花山水文盤(黎朝、15世紀)の解説によれば、山水文は、ベトナム青花が範とする中国元様式の青花にはなく、明時代の景徳鎮官窯にもなく、民窯では、16世紀初頭~中葉に出現し、17世紀以降に盛んになる。つまり、山水文についてはベトナム青花が先行すると考えられているそうだ。意外!

 クメール陶磁は、黒釉と、まるまるした造形が面白い。丸い目、短い両耳をピンと合わせたような灰釉兎形壺、黒褐釉兎形壺が、絵本『しろいうさぎとくろいうさぎ』みたいで可愛かった。嗜好品のキンマに使用する石灰壺だというが、何か物入れに使えないだろうか。タイの鉄絵には民藝の趣きがある。ミャンマーでは、白色の錫釉をかけた上に緑色で文様を描く。釉薬の層と文様の層が分かれていない「釉中彩」というそうだ。やきものの世界は奥深いな。

 第2室は、清時代の中国ガラス製品を展示する。精巧な「被せガラス」の名品が多数。西洋の美意識とは全く違った独自の方向で、この新素材を活かそうとしているのが面白い。桃色瓶や翡翠色瓶など、無文のつるっとした単色の作品も好まれた。清時代は、陶磁器においても赤色や黄色などの単色釉が発達した時代であり、異なる素材に共通する清時代の工芸品の特徴のひとつ、という指摘が面白かった。

 新たな施設、(仮称)国際工芸美術館の整備には、いろいろ課題があるようだが、ぜひ実現してほしい。

※美術手帖「町田の新美術館・国際工芸美術館(仮称)の概要が判明。国際版画美術館や公園と一体のパークミュージアムに」(2020/7/24)

※読売新聞オンライン「美術館工事仮処分申し立て」(2021/4/21)

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アイヌからも問う/学びの歴史像(国立歴史民俗博物館)

2021-12-03 22:59:16 | 行ったもの(美術館・見仏)

国立歴史民俗博物館 企画展示『学びの歴史像-わたりあう近代-』(2021年10月12日~12月12日)

 下調べなしに出かけたので、いい意味で戸惑うところが多かった。タイトルだけ見て、近世の寺子屋から近代の学制の誕生あたりがテーマなのかと推測していたが、全然違った。いま、歴博ホームページの企画趣旨を読み直したら、「狭義の『教育史』ではなく(中略)さまざまな切り口から展示を構成し、近代における『学び』の意義を考え」「教育や学知を通じて『国民』が生み出されていく過程を多面的に明らかにする」とちゃんと書いてあった。

 始まりは維新前夜。日本列島の人々(まだ「日本人)と呼ばないところにこだわりを感じる)が世界や日本についての知識をどのように獲得し深めていったか。また、その合わせ鏡として、欧米の人々が日本をめぐる情報を獲得していったかを考える。特に後者、日本の地理情報がどのように伝わり、日本で作成された地図の輸出や、西洋の探検船の測量によって、徐々に正確化していく過程がとても興味深かった。

 そして明治維新が到来するが、ここでは明治の文化・教育・政治・産業等における旧幕臣の役割に注目する。今年の大河ドラマ人に合わせたように、渋沢栄一関係資料もあり。慶応2年の武鑑には、開成所や天文方の職員も載っているのだな。あと、明治2年、旧幕臣の宮本小一を外務権少丞に任じた辞令書、ちゃんと日付の上にかぶせて朱角の太政官印が押してある(正しい形式!)。名前が藤原小一になっているのは、当時の「氏名」の混乱の反映かな。

 人々の「近代」あるいは「文明」への欲望を掻き立てる場となったのが博覧会。博覧会が開かれたのは、東京や大阪ばかりではない。わりと最近、「奈良博覧会」の存在を知ったばかりなので、地方博覧会の一覧が興味深かった。「明治初期の博覧会は、その趣旨が必ずしも明確ではなく」「なかば暗中模索」というのは、当たっている気がする。しかし明治10年代に入ると、博覧会は明確に勧業政策と結びつくようになる。

 19世紀には、コレラなど急性伝染病の流行が世界規模で繰り返し起こり、さまざまな葛藤や軋轢を生んだ。また「」と呼ばれたハンセン病患者に対しては、治療法が明らかでないまま隔離政策がとられた。いまも各国立療養所に建つという貞明皇太后の「御歌」碑、療養者の自治組織による芝居上演、雑誌発行、キリスト教信仰の記録など、考えさせられる点が多かった。

 そして「アイヌが描いた未来」と題して、アイヌ民族にとっての近代日本教育制度について、1章を立てて扱う。ここは知らないことばかりだった。『魯語文法規範』(静嘉堂文庫所蔵)の校閲者として名前が見える蝦夷通詞(アイヌ語通詞)の上原熊次郎(有次)は、ゴロヴニンからアイヌ語を介してロシア語を取得したという。え、ゴロヴニン(ゴローニン)はアイヌ語ができたのか?

 開拓使はさまざまなアイヌ教育策を実行した。百名規模を東京に移住させ就学させる計画もあったが、2年半ほどで大半の者が帰郷を希望し、取りやめになったとか。呆れる。札幌区対雁(ついしかり)学校(江別市か?)は、サハリンから強制移住させられた樺太アイヌの児童を対象に設置された小学校だが、同校に入学した和人児童の親たちが、アイヌ児童との共学を嫌って分校の設置を要請した文書が残っている(北海道立文書館)。

 一方、学校教育で獲得した「学知」をツールとして、「保護地」の自主管理を求めるなど、行政とわたりあうアイヌも現れた。アイヌ文化を発信したり、アイヌ民族自身の学校を設立しようという動きも起こる。キリスト教伝道者のジョン・バチラー(バチェラー)は、アイヌ民族への布教に尽力し、複数の「アイヌ学校」を運営した。北海道大学植物園内にあるバチェラー記念館の人か! このセクションは、北大附属図書館の所蔵資料がたくさん出ていて(アイヌ語訳新約聖書など)感心した。

※小川正人「札幌からアイヌの歴史を考える-中央区北3条西7丁目の20世紀-」(開発こうほう2021/6 北海道開発協会)(PDFファイル)

 アイヌに比べると沖縄の扱いは軽かったが、明治20年代の学校を描いた『八重山風俗図』(亜鈴体操)には目を見張った。安野光雅さんの絵本のような、懐かしくて美しい作品だ。最終章は「聴く展示」の試みで、展示のQRコードを自分のスマホでよみとると、小学唱歌を聴くことができる。そうと分かっていればイヤホンを持っていったのだが…ふだん持ち歩かないので会場では聞けなかった。最後に奉安殿と御真影の資料も展示されているが、ちょっと先を急ぎ過ぎではないかと思った。

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偉大な家長とその後裔/渋沢家三代(佐野眞一)

2021-12-01 17:24:33 | 読んだもの(書籍)

〇佐野眞一『渋沢家三代』(文春新書) 文藝春秋 1998.11

 今年の大河ドラマ『青天を衝け』をかなり楽しんで見ている。10月の半ば頃だったか、終盤のキャストとして、栄一の息子の渋沢篤二役や孫の渋沢敬三役の俳優さんが発表された。そのあと、SNSで本書が面白いという情報を見た。佐野眞一さんは実業人の評伝の名手なので、そりゃあ「日本資本主義の育ての親」渋沢栄一を描いても面白いに違いないと確信した。

 しかし渋沢家三代とは? 著者は本書の前に『旅する巨人』と題して、民俗学者・宮本常一の評伝を書いている。その宮本を物心両面で援助し、民俗学をはじめとする我が国の学問発展に陰徳を重ね続けたのが渋沢敬三だった。この人格は一体どこから生まれたのか、という疑問から、著者の関心は、栄一・篤二・敬三の渋沢家三代、百二十年あまりの歴史に向かうことになる。

 全7章のうち、1~3章は、ほぼ栄一の一人舞台である。血洗島の「中ノ家」に生まれ、藍玉の製造と販売を父に学び、尊王攘夷思想に触れ、縁あって一ツ橋家に仕官する。明治以降、新政府や実業界での活躍も含め、今年の大河ドラマの展開とほぼ一致しており、本書が直接のネタ本なんじゃないか?とさえ感じた(実際は、渋沢の回顧録など共通の資料に拠っているためだろう)。

 ただし本書には、ドラマが明確に描かなかったエピソードも登場する。血洗島の本家筋である「東ノ家」は、つねづね「中ノ家」を見下す態度を取っており、両家の確執は長く続いたようだ。「東ノ家」の当主は代々金儲けに励み、莫大な富を蓄えたが、これを一代で蕩尽したのが長忠(六代宗助)で、その息子が長康、長康の弟・武の息子が澁澤龍彦である。著者は、栄一が父の市郎右衛門から受け継いだ「現実的合理主義的精神」と「几帳面で勤勉な体質」とともに、渋沢家には「間歇的に、とんでもない遊蕩の血」が現れると指摘し、その血は特に「東ノ家」に色濃く流れていたと述べている。「血」という表現は不適当かもしれないが、そう言いたくなる気持ちは分かる。

 栄一の嫡男・篤二には、この「遊蕩の血」が発現したということになるのだろう。篤二は熊本の五高在学中に「大失策」(詳細は不明だが遊所への耽溺か)を引き起こし、渋沢家の意向で退学させられ、血洗島で謹慎生活をおくることになる。このとき、「東ノ家」の長忠、長康父子と親しく交わった。その後、篤二は、栄一の選んだ公家の娘、橋本敦子と結婚。長男の敬三、次いで次男三男も生まれ、しばらく平穏な日々が続くが、芸者あがりの女性・玉蝶とのスキャンダルが発覚する。

 廃嫡処分となった篤二は、渋沢一族に買い与えられた白金の土地(現在の松岡美術館のある場所!)の妾宅で、玉蝶こと岩本イトと遊芸放蕩の余生をおくった。一方、栄一は孫の敬三を渋沢宗家の当主に指名する。動物学に強い関心を持っていた敬三だが、七十を過ぎた祖父の栄一に頭を下げられ、東大法科経済科に進み、卒業後は横浜正金銀行に入行する。将来は第一銀行に入ることが決まっていた。

 その後、敬三は戦時中に日銀総裁を務め、戦後の幣原内閣で大蔵大臣に就任し、半年あまりの在任中、預金封鎖、新円切り換え、財産税導入などの大ナタをふるう。このへん、本書の記述は駆け足なのだが、もう少し詳しく知りたいと思った。財産税に代えて、屋敷の物納と財閥指定を受入れ(実態は財閥と呼べる規模の資本金は所有せず)、渋沢同族株式会社は解散する。敬三は銀行業務のかたわら、学問発展の支援に情熱を傾けた。大正12年(1921)に発足させたアチック・ミューゼアムは、国立民族学博物館の源流ともなっている。

 私は、たぶん神奈川大学日本常民文化研究所(行ったことはない)の展示企画で「アチック・ミューゼアム」と渋沢敬三という名前を知った気がする。政治家・実業家のかたわら、民具や玩具を蒐集していたと聞いても、なるほど金持ちの道楽かと思ったくらいで、学問の道を放棄させられた挫折を、地道に克服し続けた成果だとは考えもしなかった。一族の期待に応え、運命を恨まず、しかし自分のやりたいことも貫いた敬三は、強い精神の持ち主だと思う。

 篤二は、渋沢一族の重すぎる期待と過保護過干渉に潰されてしまうわけだが、その弱さを責めることはできない。幼くして母を失い、多忙な父の栄一に代わって篤二の面倒をみていたのは「厳格を絵にかいたような姉夫婦」(歌子と穂積陳重)だったという。才媛の誉れ高い歌子だが、本書に引用されている日記記事を読むと、父・栄一を尊敬し、渋沢家を絶対視する気持ちが強くて、これは篤二、つらかったろうなあとしみじみ同情する。さて、大河ドラマはこのあたりをどこまで描くだろうか。

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