見もの・読みもの日記

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永遠の少年/聖徳太子 日出づる処の天子(サントリー美術館)

2021-12-23 15:08:47 | 行ったもの(美術館・見仏)

サントリー美術館 千四百年御聖忌記念特別展『聖徳太子 日出づる処の天子』(2021年11月17日~2022年1月10日)

 2021年が聖徳太子(574-622)の1400年御聖忌に当たることを記念し、太子信仰の中核を担ってきた大阪・四天王寺の寺宝を中心に、今なお人々に親しまれる太子信仰の世界を紐解く展覧会。奈良博と東博で開催された『聖徳太子と法隆寺』が法隆寺中心だったのに対して、こちらは四天王寺が中心である。法隆寺からの出陳が全くないのは、別に仲が悪いわけではなく、住み分けたのだと思いたい。展示品は、鎌倉以降の作が目立ったが、時代の古いものが全くないわけではない。四天王寺所蔵の『七星剣』は、たぶん初めて見たと思うが、飛鳥時代に遡る我が国屈指の古剣で、聖徳太子の佩刀であったという伝説を持つ。わずかな反りを持つ細身の直刀である。めったに公開されないそうで、貴重なものを見た。

 また、四天王寺には、太子ゆかりの「七種宝物」がある。このうち、鳴鏑矢と唐花文袍残欠(太子緋御衣)は飛鳥時代、懸守4種は平安時代のものとあった。龍笛・高麗笛は鎌倉時代の作と推定されるが、寺伝では太子愛用の品とされている。室町時代に後花園天皇がこの二管を京都へ運ばせたところ、粉々に破損しており、四天王寺に持ち帰ると元に戻っていたという伝承から「京不見御笛」と呼ばれる。どこかで聞いた名前?と思ったが、あとで聖徳太子絵伝で、太子の笛の音に誘われて山の神が登場する場面を見て思い出した。天王寺舞楽の「蘇莫者」で使われる笛だ。なお、実は法隆寺にも太子ゆかりの「七種宝物」がある(6件は法隆寺献納宝物として東博が所蔵)。どっちが先に言い始めたのか、調べ切れなかったが、おもしろい。

 展示の冒頭には、東大総合図書館所蔵の『隋書』(明代版本)が出ており、まずは「日出づる処の天子」の由来の確認から始まる。続いて、彫刻でも絵画でも「典型的」な太子像が4躯。太子二歳像(南無太子像)(四天王寺)、童形半跏像(香炉を捧げ持つ孝養像)(四天王寺)、摂政坐像(奈良・達磨寺)、勝鬘経講讃坐像(兵庫・中山寺)である。おや?と思ったのは、前二者はもちろん、後二者にもヒゲがないことだ。

 そのあとも、彫刻や絵画による多様な太子像が続く。絵画では、南北朝時代・14世紀の『聖徳太子童形像・童子像』に惹かれた。記憶では、先だって東博で見た『聖徳太子及び天台高僧像』(兵庫・一乗寺)の太子像によく似た図像だと思ったが、あらためて確認すると、顔の輪郭とか服の色は違う。従う童子がひとりだけであることも。なお、展示キャプションの所蔵者のところに「金田肇」とあって、意味が分からなかったのだが、個人蔵なのだろうか。兵庫・鶴林寺の『聖徳太子童形像・二王子像・二天像』は、たっぷりした黒髪、鋭い目つき(玉眼みたいな、赤茶と黒の二重円で瞳を描く)が印象的。本展のキービジュアルである、華やかな衣装をまとった『聖徳太子童形像』(四天王寺、背景には浮遊する四天王)も見ることができた。

 ヒゲの太子像は、主に太子35歳の勝鬘経講讃図(兵庫・斑鳩寺・鎌倉時代など)で現れる。しかし山形・慈光明院(やわらかで写実的な作風が好き)や奈良・薬師寺の『聖徳太子童形像・二童子像』は、廟窟太子(自ら定めた墓所を巡察する)の図であるとすれば48歳なのだが、角髪の童形で描かれている。桃山時代に描かれた異色の図像『馬上太子像』などを見ても、聖徳太子は永遠の少年(童形)というイメージが強く共有されていたのではないだろうか。

 私は旧一万円札で育った世代なので、マンガ『日出処の天子』の連載が始まった当時、これが聖徳太子かあ、とびっくりしたのも事実である(すぐ馴染んだ)。しかし、長い伝統の中では、むしろ山岸凉子先生の描いた太子のほうが正統で、旧一万円札のヒゲの成人太子像は珍しい部類なのではないかと思った。本展の最後には『日出処の天子』の原画も展示されており、懐かしかった。

 聖徳太子絵伝は、やはりどんな聖人の物語よりドラマチックである。最後が悲劇(一族の滅亡)なのもよい。太子が夢の中で中国の南岳衡山へ飛翔する伝説は、しばしば絵伝に描かれており、全く関係のない『笑傲江湖』を思い出していた。また、太子は如意輪観音(≒救世観音)と同体とみなす信仰があることから、如意輪観音の優品を多数見ることができたのは、思わぬ眼福だった。

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