見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

初見の名作/文楽・鎌倉三代記、妹背山婦女庭訓、他

2015-09-15 23:23:31 | 行ったもの2(講演・公演)

国立劇場 9月文楽公演(2015年9月12日)

・第1部『面売り(めんうり)』『鎌倉三代記(かまくらさんだいき)・局使者の段/米洗ひの段/三浦之助母別れの段/高綱物語の段』『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)・古市油屋の段/奥庭十人斬りの段』

 昼の部。景事『面売り』は、昨年大阪の新春公演で見た。あまり記憶に残っていなかったが、「ズンベラズンベラ」という印象的なフレーズを聞いて、あっと目が覚める思いがした。またしばらく耳を離れそうにない。

 『鎌倉三代記』はたぶん初見。ええ~もう何十年も文楽見てるのに! こんな有名な演目なのに、縁がないと出会えないのだ。設定は鎌倉時代で、源頼家(京方)と源実朝(鎌倉方)が対立。鎌倉方の指揮を執る北条時政の娘・時姫は、頼家の忠臣・三浦之介を恋い慕い、三浦之助の母親のもとに身を寄せていた。というのは表向きで、北条時政→徳川家康、時姫→千姫、三浦之介→秀頼が裏設定。高貴な生まれの(時政の娘じゃ、さほどじゃないだろうというツッコミはなし)時姫が、下々の町娘のように、豆腐の盆を掲げ、徳利をさげて登場するのは、ギャップ萌えなんだろうなあ。三浦之助は見るからに美丈夫だが、どこか思慮に欠け、安心ならないのは、確かに秀頼っぽい。物語をスカッと仕切るのは、百姓・安達藤三郎、実は佐々木高綱、モデルは真田幸村。動作が溌剌としていて、吉田玉男さんは、こういう知的な勇将が似合うと思う。

 『伊勢音頭恋寝刃』は、たぶんテレビで見たことがある。 よく似た大量殺人(?)モノの『国言詢音頭(くにことばくどきおんど)』は、やはりずいぶん昔、劇場で見たことがあって、記憶が混乱していた。『伊勢』の福岡貢のほうが少し(かすかに)救いがあって、いい男の香りがある。しかし、近くにいたお客さんが「え~この結末ぅ~」と戸惑っていたのが可笑しかった。「油屋」は咲大夫さん。年増悪女の万野が、女郎お紺(貢の恋人)に呼びかける「お紺さん~」が、思い切ったカリカチュアふうで笑った。「十人斬り」は咲甫大夫さん。うわーよかったな~と満足していたら、夜の部にも登場して、さらに熱演を聴かせてくれた。タフだなあ。

・第2部『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)・井戸替の段・杉酒屋の段・道行恋苧環・鱶七上使の段・姫戻りの段・金殿の段・入鹿誅伐の段』

 夜の部(16時~)も実は初見の舞台。三段目(山の段)は何度か見たことがあるが、今回上演される四段目は初めてなのである。はじまりの「井戸替」は、長屋の借家人たちが歌い踊る曲がにぎやかで楽しい。酒屋の娘・お三輪は、隣家に住む烏帽子屋の求馬を慕い、既にいい仲になっている。そこに高貴なお姫様(橘姫)が求馬を訪ねてくる。若い男女のリアルな心理戦が聴きどころの「杉酒屋」は咲甫大夫。

 一転して「道行恋苧環」は、男女の恋のかけひきを、舞踊(景事)に近いシンボリックな手法で描く。三味線は四人の連れ弾き。夜の部は床の近くの席だったので、音曲のシャワーを贅沢に浴びて堪能した。たくさん見て来た文楽の演目の中でも、格別にオペラに近い感じがした。

 そして舞台は入鹿の御殿へ。橘姫は蘇我入鹿の娘なのである。追ってきた求馬、実は藤原淡海(不比等。鎌足の子)は、入鹿が盗み取った皇室の宝物、十握の剣(とつかのつるぎ)を取り戻したあかつきには、橘姫と夫婦になることを約束する。橘姫、やっぱり父親より恋人を取るか。さて求馬を追って、御殿に迷い込んだお三輪は、官女たちに田舎育ちをからかわれ、なぶりものにされる。嫉妬に逆上したお三輪を、漁師鱶七、実は藤原氏の忠臣・金輪五郎が刀で刺し、疑着(嫉妬)の相のある女の生き血が、入鹿征伐に役立つと告げる。求馬の役に立つことを喜んで死んでいくお三輪。ううむ、なんというご都合主義。語りは千歳大夫。身体全体を使い、立ち上がると思うような大熱演。

 ラストでは、藤原鎌足が登場(乱入)し、鎌で(笑)入鹿の首を斬ると、斬られた首は宙に躍り上がり、しばらく漂っていたが、淡海に祈り伏せられる。史実と伝説が、いろいろ織り込まれていて楽しかった。人形は、お三輪=勘十郎、求馬=玉男、橘姫=和生。床も舞台の上も、ゆっくり着実に世代交代が進んでおり、これからの10年、文楽を見続けていくことがとても楽しみに感じられた。

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戦後日本の父祖たち/日本占領史(福永文夫)

2015-09-14 22:39:09 | 読んだもの(書籍)
○福永文夫『日本占領史 1945-1952:東京・ワシントン・沖縄』(中公新書) 中央公論新社 2014.12

 日本は1945年8月から52年4月まで、アジア・太平洋戦争の敗北を受け入れ、アメリカを主とする連合国の占領下に置かれた。私がそのことを認識したのはいつだったろう? 小学生の頃、自宅にあった「学習マンガ日本の歴史」は、最終巻が終戦以後で、軍服姿のアメリカ人が日本の政治にいろいろ口出ししていた。しかし、いつの間にか彼らはいなくなってしまう。「戦争に負ける」ということは小学生の頭でも理解できたが(豊臣と徳川とか、源氏と平家の戦いの延長で)、勝者による「占領」があって、しかも、いつの間にか(新たな戦争もないのに)それが終わって再び「独立国」に戻るというのは、なかなか理解しにくかった。「占領期」というものが、しっかり私の意識にのぼったのは、ずっと大人になってからで、2007年に読んだ吉見俊哉氏の『親米と反米』が最初ではないかと思う。

 本書は占領の7年間を「東京・ワシントン・沖縄」の三つの観点から描いている。「沖縄」が別立てされているのは、沖縄の占領が本土の占領とは全く別物であったためだ。単に独立(本土復帰)の時期が遅れただけではない。沖縄は米軍の直接軍政下に置かれ、民主化改革から置き去りにされ、経済的にも苦難と混乱が続いた。沖縄の戦後史はもっと勉強しないといけないな。

 「ワシントン」というのは、当然、アメリカ政府のことである。我々は、占領期に「アメリカから」さまざまなものを押し付けられた(立場によっては、ギフトを貰った)という表現を使うことが多い。しかし、本書を読むと「アメリカ」は決して一枚岩でなかったことが分かる。本来、日本の占領政策における連合国の最高政策決定機関はワシントンに設置された極東委員会で、そこで決定された政策は、アメリカ国務省→統合参謀本部を経て、東京のGHQ(連合国総司令部)に伝えられる体制だった。また、アメリカ政府は、独自にGHQに命令できる中間指令権を持っていた。しかし、マッカーサーは既成事実を積み重ね、極東委員会(および国務省)を無視していく。

 1946年3月、GHQ草案を基にした「憲法改正草案要綱」を日本政府が発表したときも「アメリカ国務省にとっては寝耳に水であった」とある(内容自体はワシントンを慌てさせるものではなかったが)。面白いな~。また、GHQ内部にもさまざまな意見対立があったが、最終的に反対派を退け、「民主化のエンジン」となったのは民政局であり、ホイットニー局長の功は大きい。

 しかしアメリカ国内では、1946年11月の中間選挙で共和党と南部民主党の連合勢力がニューディール派を破ると、GHQが依然としてニューディール政策を取っていることに対する非難が高まっていく。さらにワシントンでは、冷戦を背景に日本の再軍備を求める声が高まる。マッカーサーは日本の経済復興については同意(為替、公務員の争議権など具体的な政策では対立)したが、再軍備については強く反対していた。

 一枚岩でなかったのは日本も同様である。GHQの示す改革案に抵抗した勢力もあったが、改革を喜んで受け入れただけでなく、GHQに先んじて積極的に改革に携わった勢力もあった。婦人参政権、労働組合法、農地改革などは、戦前から計画され準備されていた懸案だったと著者は述べている。つまり戦後日本は、勝者「アメリカ」対敗者「日本」という図式では割り切れないような、多様な勢力の競争や協同から生まれた。その混乱と熱っぽさは、幕末・維新の歴史に少し似ているように思う。

 幕末・維新の歴史が大好きな日本人は多い。しかし「いまの日本」の本当のスタート地点は、明治維新ではなくて、占領期なのではないか。私たちは、占領期に何が起きたかを、もっと貪欲に知り、もっと率直に語り合わなくてはいけないのではないか。マッカーサーやホイットニーを、坂本龍馬や西郷隆盛のように、現代日本の「父祖」として受け入れることはできないだろうか。残念ながら今のところ、「異国人」が主役級を演ずる「日本史」というものを、私たちは想像できないんだろうな。
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史実と伝説/三蔵法師 玄奘(龍谷ミュージアム)

2015-09-11 20:42:47 | 行ったもの(美術館・見仏)
龍谷ミュージアム 『三蔵法師 玄奘 迷いつづけた人生の旅路』(2015年8月11日~9月27日)

 三蔵法師として知られる中国・唐代の僧、玄奘(602-664)の人生をたどる展覧会。龍谷大学所蔵の文献資料と、法相宗大本山薬師寺に伝わる仏画、仏像等を中心に構成されている。

 薬師寺の名宝はだいたい一度は見たことのあるだった。量感のある、少し異国風な木造十一面観音菩薩立像(奈良時代)は大好きだけど、展覧会に出陳されることが多いので、新鮮味に欠けた。あと、薬師寺は、敦煌の石窟などに描かれた「取経僧」の図の模写をたくさん持っている。楡林窟の水月観音図が好きなんだけど、これは後期か~。前期(~9/6)は東千仏洞の水月観音図などが出ていた。異形の従者をつれた取経僧という「西遊記」伝説の形成過程がうかがえて面白いのである。

 この展覧会は、悩み多き人間・玄奘の実人生を紹介することをうたっているのだが、あまりうまく行っていない印象を受けた。たとえば「天竺に旅立つ決意」に関して、藤田美術館の『玄奘三蔵絵』を展示しているが、夢で須弥山に登る姿は、もう半ば伝説の世界に入っている。旅の苦難といえば『深沙大将図』を出さずにいられないのもそうだ。

 玄奘の旅の軌跡がたどれる『五天竺図』(法隆寺)の存在は、2011年の奈良博『天竺へ』で知った。あのとき見られなかった最古本の法隆寺甲本が今回は見られてうれしい。奈良博の解説には「本図の制作年代については、鎌倉時代前期から江戸時代まで研究者の意見が分かれている」とあったが、今展の出品リストには「南北朝・貞治2年(1364)」と表記されている。会場の床には、原寸大(?)の『五天竺図』が貼られていて、ゆっくり間近で眺めたのも楽しかった。しかし、この地図もかなり空想味が加わっていて、生身の玄奘そのひとにはなかなか着地しない。

 興福寺の『大慈恩寺三蔵法師伝』や法隆寺の『大唐西域記』など、日本国内では有数の古本(平安時代書写)が見られたのはよかったし、玄奘が通過したコータンやトヨク(トルファン)の文化を伝える西域言語の経典(断片)、玄奘が訪ねた仏陀の聖地の写真も興味深かった。しかし、やっぱり面白いのは「西遊記」物語への成長である。日本では、文化・文政・天保にかけて刊行された『絵本西遊記』が比較的早い例らしい。もっと知りたくて、Wikipedia「西遊記の成立史」を読んだら、かなり面白かった。

 唐に帰国後、経典の翻訳に没頭していた老境の玄奘のもとに現れた17歳の少年が、のちの慈恩大師。よほど優秀だったのだろう、一番弟子として、翻訳の統括を努めることになる。このエピソードも好きだ。事実は伝奇小説以上にドラマチックなときがあるなあと思う。

 展示室の外のパソコンに藤田美術館の『玄奘三蔵絵』全12巻の全画像が全て入っていて、自由にスクロールして眺めることができた。ちょっと触ったら懐かしくて、結局、最後まで眺めてしまった。これ自宅に欲しいなあ…。日本絵巻物集成のデジタル版とか出してくれないものだろうか。
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海底に眠る歴史/新発見の高麗青磁(大阪市立東洋陶磁美術館)

2015-09-10 20:22:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
大阪市立東洋陶磁美術館 日韓国交正常化50周年記念 国際交流特別展『新発見の高麗青磁-韓国水中考古学成果展』(2015年9月5日~11月23日)

 「水中考古学」とは、海や湖など水中にある遺跡や遺物を対象とする考古学。東アジアでは、特に沈没船の積荷からさまざまな知見が得られている。私がすぐに思い浮かぶのは、1976年に韓国の全羅道新安郡の沖で発見された沈没船(新安船)だが、その後も数々の発見があり、図録の「韓国水中文化財発掘現況」には24件がリストアップされている。

 会場の冒頭にはビデオシアターが設けられており、代表的な沈没船(5件くらい?)の調査映像が、エンドレスで流れている。いちばん古いのは1976年の新安船で、このときはまだ水中の映像がない。旧式の潜水服をつけて海に潜っていく作業員たちや、甲板に引き上げられた陶磁器(まだ泥がついている)などが映っている。これが最近の発見になると、海底で潜水作業員が、地上の発掘と同様、羽箒のような繊細な道具で泥を払って陶磁器を掘り出す様子が記録されている。海底に綱を張ってマス目を区切り、発見位置を正確にマッピングするのも地上と同じだ。初めて見る映像で、非常に興味深かった。展覧会のメインビジュアルになっている『青磁獅子形香炉蓋』(ものすごく個性的で印象的!)が海の底で拾い上げられる映像も見ることができる。

 新安船は、中国の寧波から日本の博多に向かっていた船であることから、日本では特別に知名度が高い。積み荷は中国陶磁が多数だが、高麗青磁も混じっていた。今回、その数点が展示されているが、どれも精緻でハイクオリティである。14世紀の寧波が、中国のみならず、東アジア、いや世界中から高級品の集まる物流の中継地だったことをうかがわせる。

 新安船以後の発掘成果は、ほとんどが高麗時代の漕運船(国内の物流を担った)で、発見地によって「馬島1~3号船」「秦安船」「十二東波島船」などと呼ばれている。パネルを見ていて面白かったのは、その発見のされ方。やっぱり漁師の申告というのが多いが、タコ漁の最中にタコの吸盤にくっついて高麗青磁が引き上げられたこともあるそうだ。漕運船の積み荷は、全体に小ぶりな器が多い。大きいものは破損して残らなかったのかもしれない。でも、美術館などで見る極め付けの美品のほかに、日常生活で使用された無数の青磁の器があったということは、この展示を見て、初めて意識にのぼった。また、今なら美術館に飾られるであろう大きな梅瓶も、一緒に発見された荷札(木簡)によって、蜜やごま油を入れる「樽」として使われたことが分かっている。

 ただ、この展覧会、ちょっとズルいのは、こんな美品が海の底に!と驚いてよく見ると、東洋陶磁美術館所蔵品の「参考展示」だったりする。最後の展示室は、意識的に海底から引き揚げた青磁の破片と、たぶん原形はこうだったろうと類推される「参考品」を並べて見せている。多彩な高麗青磁コレクションを持っている東洋陶磁美術館だからできる展示方法ともいえるし、「参考品」が唯一無二の名品すぎて(安宅コレクションだもの)少し違和感もある。感心したのは元山島海底から発掘された『青磁童子形水滴片』。顔の一部と腰~膝の一部しかないが、安宅コレクションの『青磁彫刻童女形水滴・童子形水滴』となるほど似ている。めずらしいと思っていたが、同じような品があったんだな、と驚いた。

 最後にもう一度、竹島海底(※日本でいう竹島に非ず)秦安船から発掘された『青磁獅子形香炉蓋』について。三本足の香炉本体もあるのだが、展覧会のポスターには、獅子のついた蓋だけが使われている。これ獅子なのか? 確かに後頭部には、たてがみのような渦巻模様がフリーハンドで描かれて(彫られて)いる。お座りの姿勢で、短い前足を後ろ足の上に乗せているのだが、左右の前足は何かを掴んで(踏んで?)いる。玉のつもりかもしれないが、つぶれた饅頭にしか見えない。カエルのように扁平な顔で、口を開き(ここから香の煙が出る)歯の間から短い舌をのぞかせている。角のようにも見える三角形の鼻。三日月形の目には墨で瞳が書き入れられている。上品な高麗青磁のイメージを裏切るきもかわキャラで、かなり好き。

 これら展示品を所蔵する韓国の国立海洋文化財研究所は全羅南道木浦市にあり、展示も充実しているようだ。行ってみたい~。

※参考:国立海洋文化財研究所(韓国):日本語のホームページも充実!
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絵巻と古文書/中世の人と美術(大和文華館)

2015-09-09 19:24:12 | 行ったもの(美術館・見仏)
大和文華館 特別企画展『中世の人と美術』(2015年8月21日~10月4日)

 「中世」と聞くと、なんとなく心惹かれて、見逃すわけにはいかないと思っていた。日曜の朝、静かな会場に入ると、まず目に入ったのは佐竹本三十六歌仙絵断簡の『小大君像』。クレパスのように少しかすれた色合いに、かえって趣きがある。やっぱり佐竹本三十六歌仙の中で随一だろう。分割のとき、よくこれを籤で引き当てたなあと思ったが、最初の所有者は原三溪だった。隣りには『遊行上人縁起絵断簡』。ごく地味な彩色が用いられている。画面左に大きな柳の木。右下に、輪になって踊念仏を修する十五六人の僧侶。その上(画面奥)に、地面に座って見物する数人の女性。僧侶たちは、一様に片足を踏み上げ、両手は下ろして袖に隠し、仰向いて大きく口を開けている。同じポーズでありながら、顔と身体の表情にそれぞれ個性がある。はためく黒い袈裟は激しい動きを表わし、力強い念仏の声と地面を踏み鳴らす音が聞こえてきそうだ。国宝の『遊行上人伝絵巻(一遍上人絵伝)』とは別系統で、むしろ『天狗草紙』と表現が酷似し、同一工房の制作ではないかという説が、最近出されたそうである。興味深い。

 前半は「祖師へのまなざし」(主に人物画)と「霊地へのまなざし」(風景、曼荼羅)。弘法大師、法然上人、一休和尚、雪舟、雪村など、見覚えのある顔が並んでいる。特別出陳の『誉田宗庿縁起絵巻(こんだそうびょうえんぎえまき)』は、足利義教が誉田八幡宮に奉納したもの。大きな池に、お椀を伏せたような形の中ノ島が描かれているのは応神天皇陵らしい。初めて見るような気がして、地方の社寺の縁起絵巻って、まだ発見されていない面白いものがたくさんあるに違いないと思う。もうひとつ特別出陳で『石山寺縁起絵巻』も出ていた。巻五は、参籠中の藤原国親の妻の夢に観世音菩薩が示現する場面。この巻は『誉田宗廟縁起絵巻』を制作した絵師・粟田口隆光の筆と考えられているそうだが、あまり比較しては見なかった。『金山寺図』は江蘇省鎮江市にある金山寺(きんざんじ)の全景をコンパクトに描いたもの。室町時代の僧、策彦周良の賛が記されているが、絵の作者は明らかでない。ゆるふわな感じがして(中国というより朝鮮水墨画ふう?)気に入った。

 後半「自然へのまなざし」は、南北朝~室町の水墨画。続いて墨蹟。最後に会場の四分の一くらいが、地味な文書(もんじょ)資料で埋められていたので、大和文華館にしてはめずらしいな、と思った。解説によると、同館は、南北朝時代に活躍した中院通冬(なかのいん みちふゆ、1315-1363)の日記「中院一品記」の断簡を紙背文書として所蔵している。そこで「中院一品記」の大部分を所蔵する東大史料編纂所の協力を得て、同館所蔵の断簡と、これに接続する日記、京大総合博物館が所蔵する別の断簡や、京大附属図書館が所蔵する『中院通冬記』(「中院一品記」の江戸時代の写本)などを並べて、古文書学の研究スタイルを追体験させてくれている。修理中の今しか見られない、貴重なもの(失われた紙背文書に書かれていたと思われる文字の墨痕→新たに裏打ちすると見えなくなる)も見ることができた。

 もともとこういう学問に関心があるせいかもしれないが、これが意外と面白かった。原本と後世の写本の違い、紙背文書に見られる裏写りなど、やっぱり現物があるとよく分かる。具体的に資料のどこに注目すればいいかなど、解説パネルもよくできていた。美術を見にきたわりには、古文書に感激して会場を出ることになった。
 
 なお、めずらしく図録があると思ったら「展示する作品のうち、特別出陳作品および一部の館蔵品に限って収録した」というもの。リーズナブルで薄い(重たくない)ので、私のようなリピーターには、こういう図録はとてもありがたい。
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お寺さんの名宝あれこれ/大蔵会関連展示(京都国立博物館)

2015-09-09 12:42:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
京都国立博物館 名品ギャラリー『大蔵会関連展示』(2015年8月11日~9月13日)

 特別展観『仏法東漸-仏教の典籍と美術-』は先週で終わってしまったが、平成知新館の2階では「大蔵会関連展示」をタイトルに掲げた展示が13日まで続いている。派手ではないが、京都の文化的な底力を実感する充実した展示である。3階の考古と陶磁器をさらりと見て、2階に下り、絵巻の室「御仏の救済-地獄と浄土-」に入ろうとして、固まってしまった。左端の『百鬼夜行図』の最終場面が目に飛び込んできたもので。いやいや順路どおり、と心を落ち着けて、右端から見ていく。うわー『沙門地獄草紙』も出ている。地獄の描写が分かりやすい『矢田地蔵縁起』。のどかな山水を背景に諸尊が集まっている『法華経絵巻』。『光明真言功徳絵詞』は真言の功徳をビームふうに表わすところが面白かった。さて『百鬼夜行図』は真珠庵本で、巻頭から巻末まで全開! 私は2007年に京博の常設展、2012年にサントリー美術館で見て以来だと思う。でもこれ、最古本のひとつとされているけど、室町時代後期(16世紀)の作だから、そんなに古いわけではないのだな。妖怪たちのさまざまな目の玉、あるいは細めたり見開いたりが、口ほどにものを言っている。袖口からのぞく獣の手足も表情豊か。最後に妖怪たちを蹴散らす、光明真言の火の玉の迫力はすさまじく、巨大な球体のまわりで血のような火花が散っている。

 次室「京都諸本山の仏画の名宝」では、智積院の『童子経曼荼羅図』、仁和寺の『普賢十羅刹女像』など、同系統の図像は各種流布しているが、古い年代のものを見ることができた。中世絵画「禅僧の肖像画-頂相」では、平成知新館のオープン記念展でも印象的だった、万寿寺の『円爾像』に再会。「京都諸本山の近世絵画」は、寺院の荘厳に使われた障壁画が中心。

 最後の「京都諸本山の中国仏画」は一番面白かった。真正極楽寺(真如堂)の『普賢菩薩像』は、以前どこで見たのか思い出せなかったが、ブログを検索したら京博の『百獣の楽園』展(2011年)が出てきた。禿頭、白い髯の老人が、パレードの山車のような天蓋つきの車に座り、手すりにもたれて、車を引く白象を見ている。妙に顔の平たい、ゆるキャラのような白象。南宋時代の作と見られ、かなり古色を帯びているが、それでも画面全体をいろどる赤と青が、祝祭的で楽しい。そして、これと全く同一の図が二点。隣りの作品は清の康熙年間の作で、真正極楽寺本そのものでなく、類似の作品から中国でつくられた模本である。さらに隣りは、真正極楽寺本をもとに秦宝英という人物が模写したものと分かっている。古い時代の絵画の伝播や拡散について、いろいろ想像がふくらむ。妙心寺の『普賢菩薩像』(伝・馬麟筆)は珍しかった。長髪、ひげ面の、なんともむさくるしい普賢菩薩(美形のイメージが強いのに)。白象の大きな前足は指が長くて、別の動物みたい。誓願寺の『地蔵十王図』7幅は、いずれも裁判官役の十王に赤衣と緑衣の二人の冥官が従う。衣の色は官位の別なのかな? ときどき酷薄そうないやな顔をしている。

 ついでだが、1階の仏像ギャラリーに出ていた千手観音菩薩立像(静岡・鉄舟寺)が愛らしかったことを付記しておく。長い両手を頭上に掲げる清水寺式の千手観音で、いたずらっ子みたいに唇をすぼめて前に突き出した表情が可愛かった。

 いま京博のホームページを見ながらレポートを書いていたのだが、平常展示(名品ギャラリー)の展示作品リストに「時代」を入れてくれないかなあ、東博みたいに。リストから「この作品は見に行こう!」と判断するにも、あとで記憶を振りかえるときも便利だと思う。ホームページへの「ご意見・ご感想」フォームがあるみたいなので、いずれ投稿しておこう。
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古経を堪能/仏法東漸(京都国立博物館)

2015-09-07 21:37:50 | 行ったもの(美術館・見仏)

京都国立博物館 特別展観 第100回大蔵会記念『仏法東漸-仏教の典籍と美術-』(2015年7月29日~9月6日)

 京博に到着してはじめて、会場が平成知新館であることに気づく。1階の第2~6室(仏像ギャラリー以外)が全て使われていた。最初の第2室は経典がずらり。天平時代の古経の端正で美しいこと。逸翁美術館の「雙感無量寿経」に心を奪われた。奈良時代後期(8世紀後半)の写経は肉太で大粒の文字が特徴。なるほど、全然印象が違う。北宋の「付法蔵伝」は墨の色が濃く、力強くて好きだ。

 紺紙金字の「大宝積経」は現存最古の高麗写経だという。書風が遼や契丹の影響を受けているというのも(よく分からないけど)興味深い。朱筆で「江州金剛輪寺」なんとかとあるのが読めた。知恩寺所蔵の「梵本貝葉断簡」は一葉のみであるけれど、平安時代に請来されたという由来に驚く。折本仕立ての「大般若波羅蜜多経」(もと長門の普光王禅寺→厳島神社→東本願寺→大谷大学図書館所蔵)は、なんと韓国の海印寺版木による最も古い印刷本だそうだ。すごいな~日本、と素直に驚く。

 知恩院所蔵の「大楼炭経」は唐時代のもの。亡父・蘇定方の供養のために蘇慶節が作らせた一切経である(奥書)という解説を読んで、ん?聞いたような人名、と思ったら、蘇定方は白村江の戦いで唐軍を率いた人物である。幕末生まれの鵜飼徹定(うがい てつじょう)の蒐集というが、それまでどこにあったのだろう。中国?

 第3室も引き続き、経典。延暦寺に伝わる木活字は初めて見た。約1,000個が一箱に収まっている。展示は「ごんべん」の活字を集めた箱で「訶」が大量に用意されているのが仏典用らしかった。天海版、鉄眼版と下って、最後は「大正新脩大蔵経」で、その「校訂備忘録(異字表)」や「校合内規」が大谷大学に残っているのが珍しかった。青焼きみたいな印刷だったけど、保存は大丈夫かしら。

 第4~6室は、絵画、文書、仏具、工芸品などバラエティに富む。「平安密教」「鎌倉新仏教」「浄土教」が各室のテーマになっているようだった。これまで何度も見て来た『伝教大師請来目録』について、最澄の細身の楷書と、その後に続く明州長官・鄭審則の重厚な行書の対比がすばらしい、という解説が面白かった。鄭審則は通行許可を出しているだけなんだが「孔夫子云吾聞西方有聖人焉」と重々しく始まっている。神護寺の『弘法大師像』(互御影)は、顔も身体もほぼ闇の中に沈んでいるが、両目の存在がうっすら分かって怖い。宗峰妙超の墨蹟『関山』は可愛いなあ。体を曲げたような「関」の字が、ふなっしーに見えてくる。

 なお「第100回大蔵会記念」の「大蔵会(だいぞうえ)」とは、仏教にかんする典籍の展観を中心とした仏教行事で「大正4年(1915)、大正天皇の即位式を記念して始まって以来、毎年開催され、今年は100回目という大きな節目を迎えることになりました」とホームページに説明されている。分かったようでよく分からない。何年か前、東京の根津美術館で見たのは「大蔵会」じゃなかったかなあと曖昧な記憶を探っているのだが、何も記録が出てこない。全く勘違いかもしれないが、書きとめておく。【9/8補記:「大師会」の記憶違いでした。】そのほかの常設展示は別稿で。

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2015年9月:週末旅行(京都と大阪)

2015-09-06 23:55:08 | なごみ写真帖
週末、サクッと京都&大阪に行ってきた。久しぶりに食べた松葉のにしんそば(冷やし)。温かいのも冷やしも好き。



今回の目的は、京都国立博物館の特別展観『仏法東漸』を見るため。会場は本館(明治古都館)かと思ったら、名品ギャラリーのある平成知新館のほうだった。

それはいいのだが、8月25日付けで、以下のような告知(2015年度 全館休館と部分開館のお知らせ)がホームページに載っている。

”京都国立博物館では、明治古都館の基本計画の検討とそれに伴う埋蔵文化財発掘調査が今年度から予定されております。そのため、明治古都館を当分の間休館いたします。これらを受けて当面の間、特別展覧会を平成知新館にて開催いたします。特別展覧会の前後には展示準備等のため、全館休館もしくは名品ギャラリーの部分開館となりますが、ご理解とご協力を賜りますようお願いいたします。”



基本計画の検討? 当分の間休館? まさか壊さないよね…。趣きと風格を損なわず、上手にリノベしてほしい。
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四千年を文庫本二冊で/中国史(宮崎市定)

2015-09-02 20:36:54 | 読んだもの(書籍)
○宮崎市定『中国史』(上・下)(岩波文庫) 岩波書店 2015.5-6

 大好きな宮崎市定先生の中国通史。文庫本2冊で、殷代(紀元前17世紀頃~)から中華人民共和国の小平の復活までを一気に語ってしまう。けれども「概説」臭さが全くない。もとは岩波全書として1977-78年に刊行された。上巻のはじめに100頁ほどの「総論」が設けられていて、「歴史とは何か」という問題提起と「時代区分論」が示される。著者は「四区分法」を用い、古代(太古より漢代まで)、中世(三国より唐末五代まで)、近世(宋以後清朝の滅亡まで)、最近世(中華民国以降)について概略が示される。この総論だけで既に十分面白い。

 そして本論に入るのだが、中国史といいながら、絶えず他の文明との比較が視野に入っている点が新鮮である。周の武王が「弟を○○国に封じた」という系図は、国と国の同盟関係が親戚関係に仮託されたものという記述のあとに、ギリシア都市国家の守護神である神々の系図も、同様に都市の同盟関係の推移を表しているとの解説がある。姓・氏・名の三パーツからなる中国の名前は、古代ローマに似ている。また士(貴族)と庶民の対立にも類似が多く、古代ローマの庶民は(中国の庶民と同様)姓を有せず氏と名のみを称し、戦士たる権利も義務も持たなかった。

 中国と異文化、特に周辺の未開民族(遊牧的な異民族)との影響関係には、つねに注意が払われている。秦が強大化したのは、西アジアで生まれた騎馬戦術が中央アジアに伝わり、趙を経て、これを秦が取り入れたためと考えられる。時代が下って、後漢の光武帝が群雄を平定するには烏丸(うがん)民族の騎馬兵を用いた。魏の曹操も、漢に従った南単于の匈奴を支配し、軍隊に取り込んで使役した。武力だけではない。唐代の経済に大きな発展をもたらしたのは、ペルシア人とアラビア人の渡来であった。

 個人的に一番面白かったのは「近世」の章。だいたい日本人は中国古代(中世)史ばかりに詳しくて、宋元明清史はよく知らないものだ、私も宋の天子の系譜をこれほど詳しく追ったのは初めてのような気がする。王安石の「新法」の中身もよく分かった。南宋時代には王安石は偏見独断に満ちたひねくれ者とされていたのが、近代に至って評価が高まり、逆に旧法党の政治家が貶められるようになったというのは興味深い。また、岳飛伝説の悪役・秦檜について、著者は金と宋の和睦を進めた功績を高く評価しているのが面白かった。

 元についても詳しい。まず背景として、西夏が領内を通過する隊商に重税を課したため、西域の隊商は交通路を変えて、内モンゴルを通るようになり、そのことがモンゴル民族の勃興を促したという説明がある。モンゴルは中国の一部を支配した後、西征を企てるが、ヨーロッパの深部まで進撃できたのは、中国の鉄の生産力(石炭を用いる製鉄法)を手に入れ、武器の補給路を持っていたことが大きいという。歴史の推進力として経済力あるいは景気を重視するのは本書の特徴のひとつ。

 元の行政は素朴で簡素だったかというと、逆にこれほど文書の往復が煩瑣だったときはない。元政府は科挙を実施せず、判断力のあるエリート官僚を育てなかった。「単に経験だけの実務家上りの胥吏は責任を負うことを恐れて決断を回避し、文書を濫発してひたすら上司の顔色を窺うに終始」したというのは、ものすごく面白い。あと、征服によって得た領土人民は君主の個人的な財産と考えられたこと、君主(大汗)は集議で決すべきもので、どんな君主も後継者を指名する権限を持たないなど、モンゴル由来の思想・習慣は、元を異色の王朝にしている。

 明清は、宋(中国王朝)元(異民族王朝)の繰り返しと考えられる。しかし明は、直前の元からも影響を受けた。生命軽視の風潮はそのひとつで、明初には殉死が重んじられ、大臣の殺害が頻発した。宋の太祖は贓罪(盗品譲受)以外では決して士大夫を殺さないと誓ったそうだから、人間は文明が進むと酷薄になるのだろうか。明の政治は(太祖・朱元璋の個性を反映し)君主が全権を掌握する古代の専制に近い。中国近世の君主独裁は、官僚が練りに練った案を奏上し、天子は最後の裁可を下すだけというのが一般的である。また、明代には官吏生活に挫折した知識人が、一介の市民として文化の担い手になったが、この点も宋代とは異なる。

 清以降は割愛するが、直近の時代に至るまで退屈な記述はひとつもない。「むすび」によれば、著者はなるべく既存の概説書や教科書を避け「私はなるべく自分の記憶だけに頼って、この書中に書きこむ題材を選んだ」という。「もし私の記憶から全く忘れ去ってしまったような事実ならば、それは忘れられるだけの価値しかない事実だ、と判断する自信が私にはある」とも。うわー。大学者とがこういうものか。また著者は、苦吟渋思しながら本を書くことを好まず、著者が楽しみながら書いたものでなければ、読者が面白いと思って読むはずはないという。確かに本書を読んでいると、著者のみずみずしい感興が読者に流れ込んでくるようで、深い幸福を感じる。
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