見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

関西旅行・行ったものメモ(2014年3月)

2014-03-16 23:55:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
金曜は仕事で大阪へ。豊中で会議が終わったあと、奈良に落ち延びて(?)東大寺の修二会の最終日に参籠。

土曜日の朝はさすがに寝坊したが、滋賀県の安土城考古博物館まで遠征して『近江三都物語-大津宮・紫香楽宮・保良宮-』を見て、さらに大津市歴史博物館で企画展『湖都大津のこもんじょ学』そのほかを見て来た。

日曜(今日)は、奈良・大和文華館の『竹の美』、京都・泉屋博古館の『梅の美術』(※間もなく始まる黒川古文化研究所の『松』とあわせた三館連携企画)、さらに大阪・藤田美術館の『開館60周年特別展-序章』で眼福をきわめてきた。

先週~今週は怒濤の年度末も最高潮。会議だの報告書だの、厳しい〆切が連続するが、何とか乗り切る(宣言)。ブログ記事は何件UPできるかなあ…。

この時期、北海道では見ることのできない梅の花。大和文華館の庭にて。姿以上に香りの懐かしさにときめいた。



それでも今夜の札幌の雪は、水分の多い東京の雪に似ていた。春は近いのだろう。

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いつか私も/発心集(鴨長明)

2014-03-12 00:16:25 | 読んだもの(書籍)
○鴨長明著;三木紀人校注『方丈記 発心集』(新潮日本古典集成) 新潮社 1976.10

 今回は「発心集」のみ。実は大学の授業で、つまみ食い的に読んだ経験がある。その後、社会人になってから、日本の説話文学にハマった時期があるので、一度くらい通読したのではないかと思う。2012年の夏に、ちくま学芸文庫の『方丈記』を読むにあたって「数ヶ月前から、鴨長明の『発心集』が読みたいと思っている」と書いているのだから、我ながらのんびりした話だ。

 居ても立ってもいられなくなって、本屋に走っていくような、強い読書欲とは違う。しかし、2年にわたって、ずっと読みたい気持ちが持続していた。考えてみると「発心」(仏門に入りたいという気持ち)もこんなふうに、人によりけりなのかもしれない。

 むかし習った「発心集」の説話で、最も印象に残っているのは「讃州源大夫、俄に発心・往生の事」という一編。数年前から、これが読みたくて「発心集」のテキストを探していた。今回、読んでみたら頭注に「往生譚のうち、もっとも感動的とされる有名な一編」とあるのに心から同意する。今昔物語等、いくつかの説話集に入る。「仏法の名をだに知らず、生き物を殺し、人を滅ぼすよりほかの事なければ」というから、在地の下級武士だったのだろうか、ある日、仏供養をしている家を通りかかり、導師の説法を聞いて「いといみじき事にこそ」と感動する(自分の行いを悔い改めるわけではないところがよい)。「我を只今法師になせ」と命じて出家し、「南無阿弥陀仏」を唱えながら西に向かい、ついに西海に面した岩の上で、眠るがごとく往生してしまう。なんともパセティックな往生譚。この時代に勃興する「武士」集団のエートス(道徳、心的特性)を垣間見る気がする。

 私は、源大夫のようなパセティックな発心に憧れているのだが、たぶん実際には、こういう果断で俊敏な行動はとれないだろう。もし「発心」することがあるとしたら、心の底に押し込めた憧れと何年も同居したあげく、最後は追いつめられて、行動を起こすのではないかと思う。

 どちらにしても、日本という国には、名利を厭い、往生極楽だけを一心に求めた人々が、ある時期まで一定数は存在したはずなのに、彼らの子孫はどこに消えてしまったのだろう。今の社会は、誰もが名望と利益に動かされていおり、名利を求めない生き方は「あり得ない」ことになっている。だからこそ私は本書を読み返したかったのだ。

 本書には、著名な高僧たちも登場すれば、歌人の西行、白河院、崇徳院など、著者に近い時代を生きた人々が、思わぬかたちで登場するエピソードも語られる。全く無名の人物しか登場しない短い物語もある。共通するのは、名利を厭い、往生を願う気持ちだけだ。いつか私も、彼らの仲間になりたい。
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フクシマの寓話/映画・家路

2014-03-09 00:05:53 | 見たもの(Webサイト・TV)
○久保田直監督、青木研次脚本『家路』(札幌シネマフロンティア)

 映画はあまり見ないほうだが、それにしても1年以上何も見ていなかった気がする。初めて札幌の映画館で映画を見て来た。舞台は震災後の福島。原発事故によって立入禁止区域となった「家」に、東京からひそかに帰ってきて、荒れ放題の畑を耕し、ひとりで暮らし始める若者・次郎(松山ケンイチ)。その母(田中裕子)と兄(内野聖陽)の家族は、狭い仮設住宅で逼塞した生活を強いられていた。

 私は、NHK大河ドラマの短い視聴歴の中で、好きな作品の双璧が『風林火山』と『平清盛』なので、その両主演俳優が揃い踏みだからというのが、この映画を見たいと思った動機だった。しかし、この映画は、大河ドラマ的な「作り」からは、全く遠いところにあった。「ドラマ」は実に淡々と進む。見る側が積極的に想像や共感を働かせない限り、ほとんど「ドラマ」がないと言ってもいいくらいだ。監督がドキュメンタリー出身だというのは、非常にうなずける。

 私は、いくつかの中国映画の秀作を思い出していた。抑制されたドキュメンタリータッチの中に深い詩情をしのばせる、たとえば、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)の作品。と思って検索をかけたら、ジャ・ジャンクー作品の配給を手掛けているのも、この映画と同じ「ビターズ・エンド」なのだ。偶然とは思えない。

 主演の松山ケンイチは、高校生みたいに初々しく見える。故郷を捨て(させられ)、東京で嘗めてきた苦労を語らず、恨みも怒りも忘れたように、ただ故郷に帰ってきたことを喜び、ひたすら土に鍬を入れ、苗を愛おしみ、老いた母をいたわる。脚本は、議員として電力会社を誘致し、故郷に利益誘導を図った父親の記憶の映像をはさみ、善人だがたよりない兄と聡明でしっかり者の弟(血はつながっていない)の間にあった葛藤を、曖昧に提示する。しかし、全ては次郎の穏やかな笑顔の向こうにある。

 しばらく次郎のもとに身を寄せる同級生の北村を山中崇。これがすごくいい。ドラマの核は、次郎たち家族の物語なんだけど、導入部で次郎の不可思議な行動に寄り添い、また去っていく彼の存在が効いている。

 そして、ドラマの中で彼らがどうなったのか。現実にこういう「事件」があったら、どういう結末を迎えるのか、幸福なのか不幸なのかはよく分からない。でも、こんな寓話がひとつくらい語られてもいいような気がする。
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フォーラムin札幌時計台(柄谷行人、佐藤優、山口二郎)

2014-03-08 21:30:37 | 行ったもの2(講演・公演)
○フォーラムin札幌時計台「グローバル化に抗する人間とコミュニティ」第31回(柄谷行人、佐藤優、司会・コーディネーター:山口二郎)(2014年3月7日、18:30~)

 ちょうど1年前、春から札幌暮らしを始めなければならないと分かったとき、私が最初にとった行動は、山口二郎先生のツイッターアカウントをフォローすることだった。そのツイッターで、先日、山口先生が「フォーラムin札幌時計台ファイナルシリーズ」の告知をされていたので、〆切迫る年度末の仕事を放り出して、聴きにいった。

 檀上に、山口先生、柄谷氏、佐藤氏が並んだ状態で、柄谷行人の講演から始まった。不勉強な私は、柄谷氏の著作は雑誌エッセイや対談くらいで単行本を読み通したことがない。ナマ声を聴くのもお姿を拝見するのも初めてなので、伸び上がって檀上を注視していた。お話は札幌の思い出から始まり、この「フォーラムin札幌時計台」(2008年/第2期)で「日本人はなぜデモをしないか」について話したこと、2011年2月、東日本大震災の直前に北大で「災害ユートピア」について話したことに触れられた。

 ソルニットの著書『災害ユートピア』について、私は荻上チキ『検証 東日本大震災の流言・デマ』(光文社新書、2011)で知った。「不幸のどん底にある人々は、なぜか助け合う」という肯定的な側面でとらえていたのだが、柄谷先生の話を聞くと「国家の介入がない状態ではユートピアが生まれる。しかし、国家が介入したところでは暴動が起きる」という趣旨のことが書かれているらしい。これは読んでみたい。さて、東日本大震災でユートピアは出現しなかった。それは、あらかじめ原発という国家の暴力が存在していたからではないかという。ユートピアは起きなかったが、デモは起きた。日本は「デモをする社会」に変わった(変わりかけた)。

 ここから、丸山真男の「個人析出の4パターン」について説明があった。

2 自立化1 民主化
3 私化4 原子化

1 民主化:集団的政治に参加する個人
2 自立化:個人主義的であるが、政治参加を拒否しない個人
3 私化:政治参加に無関心な個人
4 原子化:「私」の核もなく、大衆社会の流れのままに動く個人。政治に無関心かと思えば、突如ファナティックな政治参加をする。権威に帰依しやすい。

 ひとつの社会が1~4タイプのいずれか単独で占められることはないし、ひとりの人間も1~4のタイプを変化する。ということを前提とした上で、西洋社会は1や2が多く、日本社会は3や4が圧倒的に多いという話をされ(ちなみに同じ東アジアでも韓国や中国の傾向は異なるとも)、背景として、日本に中間団体(アソシエーション)の伝統が希薄であることを指摘された。

 西洋では、ギルドに加えて、宗教(教会)が中間団体の役割を果たしてきた。近代日本では、大学が一種の中間団体(国家から独立したアソシエーション)だったという説は面白かったな。しかし民営化(法人化)とともに大学の自立性は奪われてしまった。90年代以降、日本社会の「原子化」は甚だしい。

 続いて佐藤優氏は、緊迫するウクライナ情勢について解説。正直、目を白黒させながら聴いていたのだが、16世紀までさかのぼらないと、民族および宗教の対立構図が分からないことだけは分かった。そして、ウクライナ/ロシアの複合的アイデンティティを持つ人々がどちらかの選択を迫られている状態から、沖縄に目を転じる。沖縄の米軍基地移設問題も、沖縄/日本の複合的アイデンティティを持つ人々に選択を迫っている側面がある。彼らは、究極のところ沖縄を選ぶのではないか。そして、そのことは必ず北海道に影響を及ぼす。

 このへんの緊張感を伴う議論は、不謹慎だけど非常に面白かった。世界はこんなふうに動いているのだ、ということを久しぶりに感じた。事務文書やマスコミの上を流れる「グローバル化」というお題目が、いかに空洞化しているかを痛感した。

 それから山口先生が入って、質疑のやりとり。原子化した大衆は、選挙とは「王様」を選ぶ手続きだと思っているのではないか、という趣旨の発言があった。なるほど。選ぶときだけ関わって、あとの仕事(統治)は王様任せ、というのは、本来の民主政治ではない。安倍政権については、そのヤンキー的「反知性主義」を笑いながら嘆く。佐藤優氏の「外務官僚的」という見立ても面白かった。国際法は当事者自治が原則で、上位の準拠枠がない。しかし、我々が18世紀に捨ててしまった「上位の準拠枠」、宗教とか理性とか啓蒙には、もう一度拾い上げるべきものがあるのではないか。

 日本の誇るべきものは憲法9条である、とおっしゃるとき、柄谷氏の声は自然と大きくなっていた。いまの日本社会の状況に対して、柄谷氏が感じている無念は察するに余りある。

 いまは1890年代だという発言もあった。帝国主義の時代だ。帝国主義というのは「覇権国家が弱体化し、次の覇権をめぐって複数の国家が争っている状態」をいう言葉なのだ。だから帝国主義時代は繰り返す。

 「尖閣」をめぐって、近い将来、本当に戦争は起きようとしているのか。愉快な知的興奮と、将来への苦く暗い見通しを混ぜこぜに抱えて、会場を出た。

 今年度で北海道大学を退職される山口二郎先生には、最後に佐藤優氏がおっしゃったように、北海道との縁を切らずにいていただくことを、暫定道民の私も願っている。
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上野→練馬へ/世紀の日本画(東京都美術館)+野口哲哉展(練馬区立美術館)

2014-03-07 23:25:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京都美術館 日本美術院再興100年 特別展『世紀の日本画』(2014年1月25日~4月1日)

 平成26年(2014)が日本美術院の再興から100年にあたることを記念し、前史としての東京美術学校設立から現在に至るおよそ130年の活動を振り返る。正月に横浜で見た『下村観山展』も、東京美術学校→日本美術院設立→再興の歴史を扱っていたので、記憶に新しかった。

 3月に見に来ようと思っていたのだが、前期(1/25~2/25)と後期(3/1~4/1)で全ての作品が入れ替わると知って、慌てて計画変更。東博や近美で何度も見ているなじみの作品、教科書等で知っている作品もあれば、地方の美術館の所蔵品で、初めて見る作品もあった。たとえば羽石光志の『飛鳥の太子』は後者で、栃木県立美術館から。小林古径の画巻『竹取物語』は京都近美にあるのか。蓮を掲げ、袖をなびかせて、かぐや姫に付き従う、空飛ぶ天女たちが愛らしかった。彫刻では、平櫛田中の『酔吟行』が絶妙。呉市立美術館から。

 後期にも見たい作品があるので、3月にもまた来る。

練馬区立美術館 『野口哲哉展展-野口哲哉の武者分類図鑑-』(2014年2月16日~4月6日)

 もうひとつ、どうしても見ておきたい美術展があって、西武池袋線の中村橋に移動。サイトの紹介によると「野口哲哉は、樹脂やプラスチックなど、現代的な素材を駆使して古びた姿の鎧武者を造形し、それらの織りなす嘘とも現実ともつかない魅力的な世界観を構築する美術家」である。品のない言葉でいえば「でっちあげ」の世界なのだが、「でっちあげ」だというメッセージを、分かりやすく発信している作品もあれば、しゃあしゃあと頬かむりした趣きの作品もある。おまけにその「原点」というべき戦国の世界には、ウソのような装飾過多の甲冑がまかりとおっていたりするので、ややこしい。本展には、野口哲哉の「でっちあげ」作品と、本物の甲冑や合戦図屏風が渾然一体と並んでいて、混乱した感覚を楽しめ、愉快である。
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風光る上野で/クリーブランド美術館展(東京国立博物館)ほか

2014-03-05 23:31:11 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館・平成館 『クリーブランド美術館展-名画でたどる日本の美』(2014年1月15日~2月23日)

 正月からずっと、東京に帰る機会がなかったので、この展覧会は最終日に駆け込み観覧になってしまった。やれやれ、なんとか間に合ってよかった。全米屈指の規模と質を誇るクリーブランド美術館から、選りすぐりの日本絵画約40件に、西洋絵画を加えて総数約50件を紹介する展覧会。どこかで見た記憶のある作品も多かった。

 その筆頭は、特別出品の『釈迦如来像』。あれ、若冲の…いや静嘉堂文庫の…と記憶が混乱したが、もと東福寺に「釈迦文殊普賢」三幅として伝来し、三幅とも岩崎家に入ったが「いつの頃か釈迦如来像のみがクリーブランド美術館に収蔵されるようになった」(図録の解説)ものである。若冲が相国寺に寄進した「釈迦三尊像」の原本と考えられてもいる。制作地は「高麗か元か」で議論されてきたが、近年は元(中国)と考えられているそうだ。ブログ検索をかけたら、板倉聖哲先生が、朝鮮絵画と中国絵画と若冲の話をされたときの記録が出て来たので、リンクを貼っておく。→東洋文化研究所 第10回公開講座

 武闘派っぽい『文殊菩薩及び眷属像』。赤い唇が妖艶な、踏み割り蓮華に乗った『地蔵菩薩像』。どちらも鎌倉時代の優品仏画だが、やけに人間臭い表情と肉体を感じさせる。先入観かもしれないけれど、やっぱり西洋人の好む東洋美術には、日本人の趣味とはズレたところがあて、そこが面白い。風景(山水)画も、日本人の好みより立体的で、明確な奥行きのある作品が多いように感じた。

 「どこかで見たことのある作品が多い」と書いたが、調べてみると、必ずしもクリーブランド美術館の所蔵品が、頻繁に来日しているわけではないらしい。上畳本三十六歌仙図の『平兼盛』は、見たことがあると思ったが、調べたら佐竹本(MOA美術館)とそっくりだった。『福富草紙』も、私が知っているのは、京都・妙心寺所蔵(重文)のほうかもしれない。河鍋暁斎の『地獄太夫図』はよいなあ。これも骸骨が舞い踊る類似作品があって、本作は一種のパロディなのだろうか。

■東京国立博物館・平成館 日本伝統工芸展60回記念『人間国宝展-生み出された美、伝えゆくわざ-』(2014年1月15日~2月23日)

 平成館2階では、もうひとつの特別展を開催中だった。ここで「パスポート」のスタンプ欄を2つ消費してしまうのは惜しい気がしたが、せっかくなので見て行く。歴代人間国宝(重要無形文化財保持者)104人の名品を紹介。それだけではなく、「古典」と「新作」(人間国宝の作品)を並べて見せる展示もあって、8世紀の奈良三彩壺や仁清の『色絵月梅図茶壺』が出ているかと思えば、正倉院御物の複製があったりする(これは「古典」として展示)。

 意外とハマってしまったのが着物。白地の縮緬地友禅訪問着『歓喜』(昭和29年、上野為二)は、若冲の絵画をモチーフにしているように見えた。裾の群鶏はもちろん、肩から背中に散らした梅花(?)が、『動植綵絵』の菊そっくり。欲しいと思ったのは『藍朧型印金芦文「瑲」紬長着』(昭和39年、鎌倉芳太郎)。玲瓏と響く音を思い浮かべた。

■東京国立博物館・平常展(総合文化展)

 国宝室は雪舟の『秋冬山水図』の最終日(~2/23)だった。隣りの「仏教の美術-平安~室町」は肖像画・肖像彫刻のミニ特集らしく、まず鎌倉国宝館でおなじみの『伝源頼朝坐像』(彫刻)が来ていた。ふだんより低い展示位置なので、膝においた手先の細やかな写実に注目したり、背後の折り畳んだ下襲の裾(?)を面白がったりできる。2種類の『玄奘三蔵像』、神護寺の『文覚上人像』もあり。大好きな『真如法親王像』も。「みこ!」と呼びかけたくなるのは、私が澁澤龍彦ファンだからです。『拾遺古徳伝絵巻』は、法然が後白河法皇に往生要集を講義する場面。ただし、後白河法皇の姿は描かれていない。

 残念だなあ~と思っていたら、続きの「宮廷の美術-平安~室町」に、京都・妙法院蔵の『後白河法皇像』が来ていた。でっぷりと貫録あるシルエット。劣化のため、顔立ちはほとんど見えないが、大きな黒目と意志的な唇が、わずかに判別できる。背後に牡丹・花鳥を描いた唐風の襖。さらに、新しめだけど「神護寺三像」が来ている?!と思ったら、これは冷泉為恭による模写だった。なお現在は、国宝室でホンモノの「神護寺三像」の一幅『伝藤原光能像』を展示中(2014年2月25日~3月23日)の筈である。『天子摂関大臣影』の「天子巻」「大臣巻」も江戸時代の模本だが、なかなか見ることができない作品なので、模本でもうれしい。重盛と宗盛の表情の違いが笑える~。(※国宝の『伝藤原光能像』を見たと書いて、一度ブログUPしてしまったのは記憶違い。すみません)

 なお、『支倉常長像と南蛮美術-400年前の日欧交流-』(2014年2月11日~3月23日)も開催中。これ、平常展(総合文化展)料金で見られるけど「特集陳列」でなくて「特別展」なのか。どうでもいいが、分かりにくいなあ。私は、この華麗な『支倉常長像』を見たことがある。仙台市博物館の『支倉常長像』(これは黒の僧服のバストショット)と混同していたが、そうではなくて、2010年に東京都美術館の『ボルゲーゼ美術館展』で見たのだった。
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漢籍(国立公文書館)と古写真(JCIIフォトサロン)

2014-03-02 21:57:20 | 行ったもの(美術館・見仏)
国立公文書館 平成25年度 連続企画展 第6回『江戸幕府を支えた知の巨人-林羅山の愛読した漢籍-』(2014年2月7日~3月15日)

 国立劇場の舞楽公演(2月22日)開演まで、少し時間があったので、近場の展覧会に寄っていくことにした。まず竹橋の国立公文書館。林羅山(1583-1657)と言えば、方広寺梵鐘銘「国家安康」の件が思い浮かび、好感を持っていなかったのだが、今回の展示で、なかなか愛すべき大学者であることが分かった。少年時代は京都・建仁寺で仏教を学ぶ。寺を出てからは書写などによって書物の蒐集に努め、22歳のときには「四百タイトル以上もの蔵書を保有するまでになっていました」とパネルにあったけど、この数字、当時の「読書家(蒐集家)」の基準を表していて、興味深い。

 紅葉山文庫を通じて国立公文書館(内閣文庫)に残された羅山の蔵書には、『本草綱目』『群書治要』などスタンダードな漢籍がある一方で、『棠陰比事』(名裁判物語集)とか『狐媚叢談』(キツネ怪異譚集)などもあって、面白い。『剪灯新話』(牡丹灯籠で有名)も。以前、『閲微草堂筆記』の著者・紀(きいん)先生について「大学者の怪談好き」と書いたことがあったが、羅山にも同じ傾向があったみたい。青年時代の森鴎外もそうだ。漢文で読む怪異譚って、文体が簡潔なだけに、逆に想像力を刺激されるのかもしれない。Wikiの林羅山の項目には、明暦3年(1657)の大火で邸宅と書庫を焼失し「その4日後に死去した。書庫が焼失した衝撃と落胆で命を縮めたともいわれている」とあるが、全ての蔵書を失ったわけではないのね。よかった。

 特別展ではないので、展示図録は貰えないが、写真撮影は自由。こういう展示会もありがたいと思う。

JCIIフォトサロン 『古写真に見る明治の東京-下谷区編』(2014年2月4日~3月2日)

 まだ少し時間があったので、半蔵門の日本カメラ博物館に立ち寄る。写真展示(無料)をやっているのは隣接するJCIIフォトサロンなのだが、つい間違ってカメラ博物館(300円)に入館してしまい、特別展『世界のライカ型カメラ-小型精密カメラの進化と発展-』(2014年3月11日~6月22日)を見て行く。以前も同じ間違いをした記憶がある。

 さて、この古写真シリーズは27回目だという。同館所蔵の『大日本東京寫眞名所一覧表』と題された2冊の写真帖の中の「下谷区之部」より約80点を展示。「皇城(江戸城)・麹町区編」「神田区・日本橋区編」「京橋区編」「芝区・麻布区・赤坂区編」「浅草区編」「牛込区・小石川区・本郷区編」に続く第7弾。え~私は古写真にかなり興味があるつもりだったが、この展覧会はずっとノーチェックだった。

 今回の「下谷区編」には、いまの上野公園周辺の風景の古写真がたくさんあって、興味深かった。木下直之先生の近著『戦争という見世物』にも登場する上野の大仏や不忍池競馬場、上野動物園の動物たち、さらには、以前、藤森照信先生の講演で紹介された初代の国立博物館(イスラム建築風!)の写真もあった。

 貴重な展示図録は、もちろん買ってきた。「下谷区編」以外の図録も残部があって、全部欲しかったが、とりあえず「神田区・日本橋区編」(大学南校、一ツ橋の東京大学(法理文学部)などの写真あり)「京橋区編」(海軍兵学校の写真あり)「牛込区・小石川区・本郷区編」(東京女子師範学校、東京大学医学部や法文科大学の写真あり)を加えて、計4冊を買っていくことにした。こういう資料は、近くの図書館にまず期待できないから、自腹で買い揃えておくに限る。これ以外も欲しくなったときのために確かめたら、普通の書店では取り扱っていないが、JCIIのホームページから通信販売は申し込めるそうだ。
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