見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

昭和の思い出/テレビ的教養(佐藤卓己)

2008-05-19 22:58:48 | 読んだもの(書籍)
○佐藤卓己『テレビ的教養:一億総博知化への系譜』(日本の「現代」14) NTT出版 2008.5

 「私が生まれた1960年、テレビが家にやってきた」の一文とともに、著者は、自分の個人史に重ねるようなかたちで、テレビの戦後史を語り始める。著者と同い年の私には、共通する記憶が、次々によみがえってくるように感じた。

 そう、私は、著者と同様、テレビっ子だった。しかし、テレビは、暇つぶしの、娯楽メディアだっただけではない。当時(今は知らないが)、小学校の教室にはテレビがあって、週に1、2回は、みんなでテレビを見る授業(社会、理科、道徳など)が行われていた。NHK教育テレビは、四六時中、教育番組をやっていたし、テレビ朝日の前身がNET(日本教育テレビ)と呼ばれていたことも覚えている。テレビといえば「娯楽」「低俗文化」と考えられるようになったのは後年のことで、元来、テレビは「教育メディア」のひとつと考えられていた。「一億総白痴化」ならぬ「一億総博知化」である。

 テレビは、学校教育のみならず、社会教育・生涯教育の観点からも大いに期待された。一方、日教組の教研集会では、旧世代の教師から、俗悪マスコミ批判が繰り返された。その間をすり抜けるように大人になった元テレビっ子としては、どちらの議論もナイーブすぎて、失笑ものだ。

 たとえば、NHKが開発し、国際標準化を目指している(いた?)ハイビジョン放送。国内市場として最も期待されたのが学校教育部門で、臨場感あふれる高精細画面の導入により、「直接体験も間接体験もこえた新しい質の体験」「学習体験の質的変化」が可能になると言われていた。おいおい、子供をナメすぎじゃないか。

 また、テレビ普及期の教師たちの、強い使命感に対して、著者は冷ややかに問いかける。「教師が子どもを『育てる』という自負心は、テレビ時代以前の感覚ではあるまいか」。ラジオ、テレビ以前、両親あるいは教師は、子どもたちに対して「社会の解釈者」であり「趣味の独裁者」であった。しかし、テレビの普及は、大人と子どもの文化的境界、知的権威を掘り崩してしまった。この傾向は、携帯端末やインターネットが子どもたちの手に渡った今日、一層強まっていると思う。

 今日、テレビはむしろ弱者のメディアである。しかし、だからこそ、テレビを「教養のセイフティ・ネット」として、もう一度見直す意味があるのではないか、と著者は説く。そうねえ。個人的には、「昭和の思い出」となりつつある「テレビ的教養」に共感はある。でも、私より下の世代は、もはや首をかしげるだけではないか、とも思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

講演・東京国立博物館のはじまりの日々(木下直之)

2008-05-18 00:57:18 | 行ったもの2(講演・公演)
○東京国立博物館 月例講演会『東京国立博物館のはじまりの日々-博覧会・美術館・動物園』(講師・木下直之)

 木下先生の講演は、何度か聞いたことがある。いつも楽しいスライド写真を山のように見せてくれたが、今回はパワーポイントにグレードアップ(?)。冒頭、『一歩近づいて見る日本の美術』という書籍を紹介し、「私の見方はこれと逆です」という。むしろ美術品から下がってみる。遠ざかってみる。すると、その美術品を容れている建物が見えてくるし、その建物(美術館・博物館)がどこにあるかが見えてくる、というわけである。

 さて、東京国立博物館の始まりは、同館のホームページ『館の歴史』やWikipediaにまとめられている通りで、明治5年(1872)、湯島聖堂大成殿における文部省博覧会をもって、その嚆矢としている。ただし、明治4年(1871)にも、大学南校(文部省の前身)は九段(千鳥ヶ淵か)で小さな博覧会(物産会)を催している。これについては、木下先生の論考「大学南校物産会について」(『学問のアルケオロジー』所収)あり。Web上で全文が読める。このときの展示棚の写真をよく見ると、人の頭蓋骨と象の頭骨が同居しているという。ほんとだ!!

 明治5年(1872)、湯島聖堂の博覧会は、かなり大規模なもので、多数の古写真や錦絵が残っている。その中に、湯島聖堂の「本尊」であるべき孔子像がカニの博物図や剥製に囲まれた錦絵があった。儒者の慨嘆を誘った光景だという。描いたのは河鍋暁斎。この時期、洋学派・神官・儒者は三つ巴の権力闘争をやっているが、儒者は旗色が悪い。なんと、北海道のツキノワグマも、聖堂の庭で飼育展示されたそうだ。

 明治6年(1873)から14年まで、博物館は山下門内(今の日比谷、帝国ホテル辺り)で展観を行う。これについて、講師が見せてくれた写真は、東大の建築学科に「何だか分からないまま伝わっていた」ものの由。「博覧会之図」という付箋はあるものの、いつどこの博覧会のことか、ずっと分からなかったそうだ(上記、木下先生の論考に詳述)。処分されなくてよかった!

 そして明治10年(1877)、上野公園で第1回内国勧業博覧会が開かれ、明治14年(1881)、第2回内国勧業博覧会を契機に博物館が建てられる。その場所は、徳川将軍家の菩提寺、寛永寺の本坊(幕末の上野戦争で焼失)の跡地であった。勧業博覧会には、現在の古美術中心の博物館と違って、さまざまな物産(生きた家畜を含む)が持ち込まれた。当時の写真を見ると、焼け残った徳川家霊廟の正面を塞ぐように、家畜小屋、おまけに茶屋や寿司屋が林立している。ううーむ。要するに、博物館・美術館・動物園を集めた現在の上野公園は、徳川家の「聖地」(と、激しい上野戦争の記憶)を覆い隠し、作りかえることで成り立ったとも言えそうである。

 しかし、寛永寺墓所に眠る徳川将軍6人の中に、吉宗の名前があるのを私は見逃さなかった。吉宗は、名うての博物・物産好きである。自分の墓所の前に動物園ができることを嘆くどころか、むしろ大喜びしそうな気がする。明治の博覧会が最後に上野という地を選びとったのは、実は吉宗の霊魂が招き寄せたのではないかしら? 珍獣好きの吉宗なら、1億円出してもパンダを欲しがりそうである。

 このほか、古写真や錦絵を通じて、いろいろ興味深い話を聞き、知らなかった人名を覚えた。内田恒次郎(正雄)って面白いなー。造船・操船を学ぶためオランダに派遣されたのに、絵を学び、大量の油絵を買い込んで帰ってくる。文化財保護に尽力し、壬申検査を実施した蜷川式胤(にながわ・のりたね)、彼のもとで江戸城の写真を撮った横山松三郎も覚えた。復刻版『奈良の筋道』(中央公論美術出版、2005)は、まだ入手可能らしい。欲しいな、高いけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虚構の後に来るもの/不可能性の時代(大澤真幸)

2008-05-17 21:03:04 | 読んだもの(書籍)
○大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書) 岩波書店 2008.4

 相前後して出た『逆接の民主主義』(角川oneテーマ21)が面白かったので、大澤真幸をもう1冊。しかし、こっちのほうが、やや難解で重かった。

 著者は、見田宗介に倣って、日本の戦後を「理想→(夢→)虚構」という見取り図で描き出す。戦後の日本人にとって、「理想」とは、アメリカの視点にとって肯定的なものとして現れた。端的には「戦後民主主義」のことである。しかし、1960年代から70年代にかけて、『砂の器』『飢餓海峡』『人間の証明』という同工モチーフのミステリーが人気を呼んだ。これらは、過去からの来訪者(戦死者の代理人)が、理想の時代の成功者たちを糾弾する、という構造を持っている。1970年代、経済成長は終わり、現実の生活に深くコミットしない「新人類」が現れる。現実を基礎づけるものは「理想」から「虚構」に切り替わった。

 ここまでは比較的わかりやすい。私自身は、まさにこの「虚構の時代」の世代であるが、その前に、実は地続きの熱い「理想の時代」があったことも、感覚的に理解できる。しかし、このあと著者は、今日の日本社会を指して「虚構の時代がすでに終わろうとしている――あるいはすでに終わった段階の中にいるのではないか」と指摘する。

 では、何が始まっているのか。提示されるのは「リスク社会」という概念である。リスクとは、人が何事かを自己決定・選択した結果として現れる(と認知される)不確実な損害のことである。詳細は略すが、たとえば、便利で安逸な生活か/地球温暖化の防止か。市民的自由と人権か/テロへの対抗策か。多くの場合、予想される被害は計り知れないが、それが起こり得る確率はきわめて小さい。その結果、「リスク社会は、古代ギリシア以来の倫理の基本を否定してしまう」。つまり、どれほど可能性は低くても、テロの発生を防止するためには、極端で徹底した対策を取らなければならない。中庸とか平均は、何もしないに等しい。よって「多数派が支持する意見」は、正義や真理の近似ではなくなってしまう。なるほど。今、どうしてこれほど民主主義が無力に感じられるのか、少し分かったような気がした。でも、とても寒々しい納得である。

 このように、われわれは「第三者の審級」(普遍的な真理や正義)の撤退した時代を生きている。しかし、一方で「第三者の審級が裏口から回帰している」とも著者はいう。別の言葉でいえば、「虚構の時代」の後にきたのは、虚構への耽溺(リベラルな多文化主義=物語る権利)と現実への回帰(原理主義=真理への執着)が対立・共存する奇妙な「不可能性の時代」である。

 と、乱暴にまとめてみた。最後に著者は、この閉塞的な状況を「愛」によって克服するというアクロバティックな提言で筆を擱く。それも「裏切りを孕んだ愛」こそが、普遍的な連帯を導く可能性を有しているのではないかという。ここは難しい。社会学を遠く離れて、哲学、むしろ宗教の領分である。ゆっくり考えてみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新緑の京都・奈良(5): 法隆寺、東寺

2008-05-15 23:56:31 | 行ったもの(美術館・見仏)
■法隆寺
http://www.horyuji.or.jp/

 月曜日(5/12)は、久しぶりに法隆寺を訪ねることにした。寒風の吹きすさぶ(風鐸が激しく鳴っていた)師走の法隆寺を訪ねたのはいつだったろう? 自分のブログを検索しても出てこないので、4年以上前のことになるらしい。近鉄駅前から1時間に1本のバスに乗って、斑鳩に向かう。

 平日の朝、さすがに境内は人が少なかった。奈良国立博物館では、6月半ばから『国宝 法隆寺金堂展』が予定されている。その金堂は、既に須弥壇の修理が始まっており、堂内の諸仏は上御堂(かみのみどう)に移されていた。でも、四天王がいない。お寺の方に聞いてみたら、2体は宝物展で公開中で、あと2体は奈良博に移送済みだそうだ。

 西院伽藍を出て、順路に従い、大宝蔵院(百済観音堂)に進む。平成10年に完成した最新の宝物展示施設である。夢違観音、百済観音、玉虫の厨子、橘夫人の厨子(これ大好き!)、そして天人を描いた金堂壁画の残闕など、数々の名宝と、いつでも会うことができるのだ。ああ、なんという贅沢! 私は、これまで意識したことのなかった飛鳥(白鳳)時代の六観音像に惹かれた。胸の薄い、胴長の体躯。田舎の少女のような純朴な顔立ちをしている。一方、奈良時代の塑像である四天王と梵天・帝釈天像は、唐風のボリューム感を備えている。けれど面差しは、漢民族の理想と微妙に異なる日本人顔だ。その違和感がいいと思う。

 のんびり見ていたら、中学生らしい集団がどやどやと入ってきた。やり過ごそうかと思ったが、このあと、狭い東院伽藍で彼らと鉢合わせするのは避けたい。今日の目的は、特別公開中の救世観音なのだから。そこで、そさくさと大宝蔵院を出て、東院に急ぐ。計略は図にあたり、まだ人の少ない夢殿にへばりついて、秘仏・救世観音を堪能することができた。意外と小さいんだよなあ、救世観音って。

 修学旅行生たちが到着したところで東院をあとにし、さっき、素通りした『法隆寺秘宝展』に戻る。会場は、新しい大宝蔵院の斜め前にあり、ややこしいことに「大宝蔵殿」と呼ばれている。たぶん、以前はここが唯一の宝物館だったのだろう。別料金(大人500円)が必要だが、その価値は十分にある。重文級の仏像、仏具に加えて、金堂の四天王2体(持国天・多聞天)が公開中だ。さらに私を喜ばせたのは、昨年、奈良博の『美麗 院政期の絵画』で永遠の至福を感じさせてくれた『蓮池図』にめぐり会えたこと。そうか、ここに在ったのか! 『玉虫厨子 厨子絵模写』は近代物だが、厨子の表面の図様がよく分かって面白い。

■東寺宝物館 春期特別公開『東寺鎮守八幡宮と足利尊氏』

 旅行のシメは東寺宝物館。鎮守八幡宮の女神坐像1体(大きい)と武内宿禰坐像(小さい、しかも上半身裸形)が公開されている。南北朝の争乱期、東寺の内外で戦闘が行われたとき、鎮守八幡宮から矢が飛んで足利尊氏が勝利したという言い伝えがあるそうだ。東寺って、「国賊」足利尊氏ゆかりの寺だったのか。そりゃあ、戦前は苦労しただろう。それにしても、このところ尊氏の名前をよく聞くと思ったら、今年は没後650年に当たるのだそうだ。知らなかった。

■参考:東寺が足利尊氏の位牌を建立 京都(イザ!)
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/141614/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新緑の京都・奈良(4): 薬師寺イリュージョン、興福寺薪御能

2008-05-14 23:38:02 | 行ったもの(美術館・見仏)
■薬師寺
http://www.nara-yakushiji.com/

 飛鳥を出て奈良に向かう途中、少し時間に余裕があったので、西ノ京駅で下りた。現在、東京国立博物館では、日光・月光両菩薩と聖観音がお出ましになって『国宝 薬師寺展』を開催中である。その間、「薬師寺はどうなっているのか」に、ちょっと興味があったもので。

 拝観券(大人800円)を買って境内に入る。順路に従って東院堂前に進むと、「東院堂(国宝)/聖観世音菩薩(国宝)」の立て看板。いや、お堂はともかく、聖観音はいないはずだろ、と思って堂内を覗くと、お厨子の中に、見覚えのある聖観音のお姿が。えええ~!!「本物」は東京においでのはずだが…。近寄って見ると、正面に小さな文字で「御分身(複製)」の札。しかし、札を気にする拝観客はあまりいなかった。塑像や木彫像とちがって、金銅仏というのは、原本と複製にあまり差がない。東京国立博物館・本館の1階と2階にも、2体の聖観音の複製像が飾られているが、これも実に見分けがつきにくい。

 では、金堂はどうなっているか。遠目に恐る恐る覗き込むと、ここにもいないはずの日光・月光菩薩のお姿がある。「御分身(複製)」か?と思ったが、巨大な写真パネルだった。薬師寺イリュージョンにはびっくりである。もっとも、信仰の立場からは、人間のつくった仏像は、全て真実の仏菩薩の「御分身(複製)」であろう。白鳳の金銅仏も、近代の模造も、その点で変わりはない。だから、「国宝が見られないのなら金返せ」という非難は当たらないと、私は思っている。なお、出口付近の立て看板では「聖観世音菩薩」の下の「国宝」の文字が隠してあったことを付け加えておこう。

■奈良国立博物館 特別展『天馬-シルクロードを翔ける夢の馬-』
http://www.narahaku.go.jp/

 ギリシア・ローマから西アジアを経て、中国・日本まで、馬、とりわけ有翼馬(天馬)の造型に関する考古遺品・美術品を集めた展覧会。一目見てそれと分かるものもあるが、小さな食器や装身具の意匠など、こんなところに馬がいるのを、よく見つけたなーというのもあって、面白かった。興味深かったのは、20世紀、大谷探検隊がアスターナ古墳から持ち帰った布の断片と、法隆寺献納宝物の『四騎獅子狩文錦』の文様(有翼馬にまたがる武人の図)が酷似しており、「同一工房で織られた可能性が高い」という推論。当時、どれだけの織物工房があったのか知らないが、そんなことって、あるものなのかぁ。

■興福寺薪御能
http://narashikanko.jp/j/ivnt/ivnt_data/ivnt1/

 ホテルにチェックインの後、再び外出。前日、近鉄駅で見つけたチラシで、5/11~12の2日間、興福寺の薪御能(たきぎおのう)が開かれることを知ったのだ。まだ明るさの残る興福寺に行ってみると、「般若の芝」と呼ばれる南側の草地に人が集まっており、笛と鼓の音色が聞こえてくる。おお、もう始まっている!と思ったときは、最初の演目が終わってしまった。

 「次は大蔵流『柿山伏』です」という放送が入る。狂言か~。私は小学生の頃から母親の趣味で、よく狂言の舞台を見に行っていた。だから、狂言は古馴染みである。けれども能は、舞台はおろか、字幕つきのテレビ放送でさえも通しで見たことがないのに、いきなり薪能で初体験か、と思ってドキドキしていたら、次はまた狂言だというので、苦笑してしまった。

 狂言「柿山伏」が終わって15分の休憩。大分あたりが暗くなって、雰囲気が出てきたところで、私の人生初の能楽体験、金春流「熊坂」が始まった。前半は2人の僧侶の掛け合い。どちらも地味ないでたちである。後半、旅の修行僧のもとに、さきほどの在地の僧、実は天下の大盗賊・熊坂長範の幽霊が、金糸輝くきらびやかな衣装に大長刀を抱えて現れる。前半と後半の落差が痛快で面白かった。能楽は敷居が高いと思っていたが、開眼してしまったかもしれない。大学生の頃、哲学科の「日本倫理思想史」で、夢幻能の構造論とかを聞きかじったことを懐かしく思い出した。佐藤正英先生、お元気ですか?

 この薪御能は、観客のカメラ使用を禁止している。まあ九分どおりは守られていて、静かに舞台を楽しむ雰囲気が保たれているのは有難い。とはいえ、記念に1枚。これは最後に演者が退場するところなので見逃してほしい。


コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新緑の京都・奈良(3): キトラ古墳壁画十二支

2008-05-13 23:53:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
■飛鳥資料館 平成20年度春期特別展『キトラ古墳壁画十二支-子・丑・寅-』
http://www.asukanet.gr.jp/

 雨の残る日曜の朝(5/11)、京都を発って飛鳥に向かう。キトラ古墳壁画(子・丑・寅)の特別公開を見るためである。うれしい。もともと私の専門は万葉集である。最近でこそ江戸絵画とか桃山美術のウンチクを語っているが、京都→奈良→飛鳥と遡行するほどに、古代史好きの血がさわぎ出す。

 橿原神宮前からバスに乗って、飛鳥資料館に着いたのは10時少し前だったと思う。「キトラ古墳壁画は15分待ち」の表示を横目で見て館内に入ったが、常設展の順路に誘導されてしまう。え、まず特別展でしょう。しかし、その特別展をどこでやっているのか、よく分からない。「キトラ古墳壁画展(階下)」という立て看板を見つけて、地階に下りてみたら、写真パネル展示しかなくて慌てた。「本物の壁画はどちらにあるんですか?」と聞いたら「上の階です」という。慌てて戻って、常設展示室の奥にできていた短い列に並んだ。

 10~15分ほどで、特別室に入った。6、7人で囲めばいっぱいになってしまう、小さなテーブルに並んだ3枚の壁画の剥離片。キトラ古墳の十二支像って、こんなに小さかったのか。しかも子・丑・寅といっているけど、きちんと顔が分かるのはトラのみ。ネズミの顔は輪郭だけがようやく分かる。ウシはどう頑張っても見えない。それでも、実物資料と対面すると、感激ひとしおである!

 展示室入口のモニターでは、壁画の剥ぎ取り工程をダイジェスト・ビデオで見せていた。ふぅーん、こんなふうにするのか。失敗の許されない、息の詰まるような作業は、医療現場のようだ。手先が器用で、神経が細やかで、根気がなければできない。従事者は女性が多いように思った。

 東アジアの十二支像に関する展示も面白かった。「最古の十二支」として知られるのは、山西省にある婁睿墓壁画(570年=北斉)。ただし、リアルな動物を並べたもの。隋代に入ると、長江流域に獣面人身「坐像」の十二支像が生まれる。同時期に広まった薬師&十二神将信仰ともかかわりがあるらしい。唐の高宗~武后時代、北方(北京~遼寧地方)に獣面人身「立像」が登場するが、これが唐の都城(中原)に入るのはさらに遅れる。なお、キトラ古墳式=「武器を持つ獣面人身立像」の十二支は、中国では確認されていないそうだ。新羅にはこの例があるが、盛行するのは8世紀で、キトラ古墳(7世紀末~8世紀初め?)と年代が合わない。こんな調子で、考えれば考えるほど、面白い問題がたくさんあるようだ。

 資料館を出たのはお昼近くで、既に列は「45分待ち」に伸びていた。早めのお出かけがおすすめである。最後に、近鉄沿線のあちこちで見かけた『キトラ古墳壁画展』のポスター。まったく関西人って、本気なのか、ふざけているのか…。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新緑の京都・奈良(2): 暁斎(Kyosai)ほか

2008-05-12 23:53:34 | 行ったもの(美術館・見仏)
 さて、週末関西旅行。初日(5/10)の午後は京都国立博物館へ。いちおう暁斎展を目指してきたのであるが、入館まで20分待ちだという。常設展を先に見て、人が少なくなるのを待とうと思ったが、結局、4時を過ぎても待ち時間は変わらなかった。

http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

■特別展 没後120年記念『絵画の冒険者 暁斎 Kyosai-近代へ架ける橋』

 私は、河鍋暁斎はそんなに好きではない。何を描いても上手すぎるように感じるのだ。それに加えて、古典や先行作品をよく勉強していることが分かってしまう。それがつまらなくて、前半は、飛ばし飛ばし見ていた。いいなあ、と思ったのは、福富太郎コレクションとライデン国立民族学博物館所蔵の2枚の幽霊図。特に後者は、下絵に比べると、ぐっと下からねめつけるような幽霊の視線が迫力を増している。この生き生きした「眼力」、注意して見ていると、大画面の『新富座妖怪引幕』の妖怪たちにも、小品に描かれたカエルやカラスにも通じる、暁斎の特徴なのではないかと思った。

 この展覧会には、制作の過程を示す下絵がたくさん出ていて興味深かった。暁斎には、即興的な作品もあるけど、基本的には、綿密な構成のもと、作品を練り上げていくタイプなのではないかと思われた。

 また、暁斎は、多くの戯画や風刺画を残した反骨精神の持ち主ということになっているが、明治14年(1881)の第二回内国勧業博覧会に出品して、妙技二等賞(最高賞)を受賞している。ふーん、内国勧業博覧会といえば、工芸や芸術を明治新政府が可視的に序列化するためのイベントという側面があったと思うのだが、そこに参加することに抵抗はなかったのかなあ。私には、まだよく分からない人物である。

■平常展示&特集陳列

 近世絵画の部屋では「江戸初期の狩野派」を小特集。狩野山雪の『雪汀水禽図屏風』はすごい。金の砂浜に寄せる銀の波、右隻には鴎、左隻には千鳥が群れ飛ぶ。「哀しいほどに隅々まで美しい」「日本の花鳥画の真の傑作というにふさわしい」と、解説も大絶賛である。同じ作者の『蘭亭曲水図屏風』は、酔っ払い文人たちのさまざまな姿態が表情豊かで微笑ましい。狩野尚信の『李白観瀑図屏風』もいいなあ~。ぐっと身を乗り出し、あごを上げて滝を見上げる李白が好きだ。小さいのに迫力いっぱい。マンガっぽくて愛らしい。崖上の松の描写には「水墨の切れ味」が実感できる。

 「絵巻」に分類されているようだが、『舞踊図屏風』も見逃せない作品。思い思いのファッションでポーズを決める6人の女性を描く(京博のサイト、展示案内→平常展示→絵画→絵巻→展示品紹介に画像あり)。サントリー美術館の開館記念展で見た作品とよく似ているが、扇が水墨画であるところが異なる。

 「彫刻」の「小特集・神像」も興味深く、『特集陳列・平安時代の考古遺物-源氏物語の時代-』は、日本中が浮き立つ”源氏物語ミレニアム・イベント”に、敢えてこんな地味な考古遺物を持ってきた勇気に共感する。やっぱり、京都いいなあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新緑の京都・奈良(1):今出川通り周辺

2008-05-10 19:34:55 | 行ったもの(美術館・見仏)
 連休は東京近県で大人しくしていたので、この週末は関西に出てきた。朝から生憎の雨で、春寒のような気温。着替えのつもりで持ってきたセーターを無理やり重ね着して震えている。初日はまず、京都御所の北側を東西に走る今出川通り近辺の小さな美術館を3つまわった。

■楽美術館 春期特別展『楽家の系譜 歴代の名品』
http://www.raku-yaki.or.jp/museum/index-j.html

 楽美術館は3度目かな? ようやく道に迷わなくなった。初代長次郎から15代吉左衞門まで楽家歴代の代表作品を展示する特別展を開催中である。1階の展示室には初代から14代までの茶碗が、平等に1点ずつ。うーん、各人の作風を代表する「この1点」を選び出すのは苦労だったに違いない。企画者の苦労がしのばれる。

 2階に上がると、水指、花器、香炉など、多様な楽焼の世界が広がる。それから、楽焼を語るに外せない、本阿弥光悦作の飴釉樂茶碗(銘・立峯)。これは奇麗だ。形状は同じ光悦作の「乙御前」にそっくり。飴釉の色は「熟柿」という別銘が似合いである。最後に、ご当代(十五代)吉左衛門氏の作品「紅爐」を見た。朝焼けの空のような、ピンクとグレーの混じり合った赤楽茶碗である。ご当代の茶碗には珍しく(?)人の手になじむ、優しい形をしてる。

 私は、黒楽茶碗に比べて、赤楽茶碗をいいと思ったことは少ないのだが、こういう雨の日、ほの暗い日本間には似合うなあ、と思った。楽家歴代の「この1点」も、実は半数近くが赤楽茶碗である。覚入の「連山」とか、弘入の「亀背」とか、結構いい。

■茶道資料館 春季特別展『裏千家所蔵 絵画展-屏風を中心に-』
http://www.urasenke.or.jp/textc/kon/gallery/gallery.html

 楽美術館から北に上がると、裏千家センターに併設された茶道資料館がある。現在の展示は、屏風を中心とした絵画資料展。狩野探幽や英一蝶の作品が見られる。面白かったのは『祇園祭母衣武者図』。屏風の断簡と思われる小さな画幅である。派手な扮装の若者たちの横で、巨大な母衣を背負った武者が、少し疲れた顔で腰を下ろしている。江戸初期の風俗なのかなあ。見物の女性たちは髪をアップにしているけど。

■北村美術館 春季特別展『吉野懐古』
http://www.raku-yaki.or.jp/culture/japan/kitamura.html

 今出川通りを東に進み、下鴨神社の三角州にほど近い北村美術館へ。どうして「吉野懐古」なんだろう?と思ったら、北村家は、奈良県吉野地方で代々林業を営む旧家なのだそうだ(Wikipedia)。珍しさで圧倒的に目をひくのは『正平六年御免皮裂』。大小多様な形状のなめし皮がボードに貼り付けられている。護良親王の弟・懐良親王が、正平六年(1351)熊本の八代で皮工に命じて染めさせたものだという。白地に「正平六年六月一日」という文字と獅子牡丹唐草が紺色で染められている。撫子のような小花だけ赤い染料を使っているのが愛らしい。ほか、玩具のような可愛らしい茶器も楽しめる。乾山の色絵、小さな筒型の茶碗には、春らしくスミレや蕨が描かれていていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北鎌倉散歩:東慶寺、浄智寺

2008-05-09 23:54:29 | 行ったもの(美術館・見仏)
■東慶寺・松ヶ岡宝蔵 仏像特別展

http://www.tokeiji.com/

 5月5日に鶴岡八幡宮の菖蒲祭を見た帰り、ここに寄ろうと思っていたのだが、閉門時間がなくなってしまった。まあ、いいか、と思って帰ったのだが、やっぱり割り切れなくて、翌日、再び埼玉の奥地から鎌倉まで出てきた。

 縁切り寺として知られる東慶寺の寺宝を集めた宝蔵は、年間を通じて開館しているが、この仏像特別展の期間は、ふだんは予約でしか拝観できない水月観音菩薩半跏像がお出ましになっている。10年くらい前、予約で拝観にも来たし、東京や鎌倉の博物館でお目にかかったこともあるが、久しぶりにお会いできてよかった。展示ケースが低いので、ガラスに寄ると、上から覗き込むような感じになってしまう。ふわりと裾の広がったドレス、いや法衣に身を包んだ水月観音は、小さなフランス人形のようだった。少し下方から見上げると、ガラスの玉眼が涼やかで凛々しい顔立ちをしていらっしゃるのだけど。

 ほかに、東慶寺蒔絵と呼ばれる調度品がまとまって展示されていた。寺内で作っていたわけではなく、たまたま伝わった収蔵品らしい。日用品らしく、飽きの来ないデザインで好ましかった。関東大震災で蔵が倒壊して、かなりの数が失われたというのは惜しい。その中に、IHS(イエズス会)のマーク入りの円筒形の小箱があった。周囲は蒔絵と螺鈿で飾られている。カトリック教会の聖餐式で用いられる聖餅箱だそうだ。試しに「聖餅箱」でGoogle画像検索をかけてみたら、同種のものが、京都国立博物館や神戸市立博物館にもあることが分かった。

■浄智寺

 それから、少し歩いて浄智寺に入った。拝観受付に、さりげなく神奈川近代文学館の『澁澤龍彦回顧展』のポスターが貼られている。そう、今日の私の目的は、澁澤さんのお墓参りをすること。

 ところが、奥に進んでいくと、墓苑に続く道を横倒しにした太い竹が塞いでいる。跨いで通れないことはないのだが、叱られたくもないし。ということで、一度、拝観受付まで戻って「あのう、墓地は入れないんでしょうか。澁澤龍彦さんのお墓参りに来たんですけど」と聞いてみた。そうしたら、受付のおばさんはニッコリ笑って「ああ、いいですよ、どうぞ」と言う。よかった。

 そこで、観光客の列が途切れたところで、そさくさと墓苑の中へ。記憶をたどって、石段の途中で左に折れる。あった。うん、「澁澤家」と彫られた、何の変哲もない、石塔型の墓石である。以前来たときは、種村季弘と巌谷国士と、あともうひとり、誰かが手向けた卒塔婆が並んでいたが、今日は墓石以外、何もない。そういえば種村季弘さんももう故人だ。花活けには、辺りの草むらから誰かが気まぐれに摘み取ったのだろうか、青いシャガの花が刺さっていた。

 澁澤先生、こんにちは。もう20年も経ってしまいましたね。

 そんなふうに、緑陰の墓石にご挨拶をする。年を取るのはあまり嬉しいことではないけれど、澁澤さんの年齢に少しずつ近づいていくのは、なんとなく幸せな気もする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いちばん好きな五月に/澁澤龍彦回顧展(神奈川近代文学館)

2008-05-08 23:18:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川近代文学館 特別展『生誕80年 澁澤龍彦回顧展 ここちよいサロン』

http://www.kanabun.or.jp/

 文学者にかかわる展示で、目が醒めるほど面白い企画というのは、そうあるものではない。しかし、澁澤龍彦&神奈川近代文学館の組み合わせには期待していた。同館の”実力”は、2005年の特別展『三島由紀夫 ドラマティックヒストリー』で、実証済みである。

 連休中の1日、開館から30分も経っていなかったと思うが、館内には既に何人かの先客があった。皆、ほとんど無言で、食い入るように展示ケースを覗いていた。展示は、澁澤龍彦のライフヒストリーを追って進む。莫大な財産と文人的教養を受け継いだ澁澤家の系譜。次第に戦時色に染められていく少年時代。戦後、フランス文学との邂逅。編集者、翻訳、創作の仕事を通じて、交友が広がり、さまざまな「魔的なもの」たちが訪れる。

 この展覧会には、龍子夫人をはじめとするご親族や、親しい友人たちの絶大な支援があったものと思われる。そうでなければ、絶対に見ることのできない貴重な資料――旧制中学時代の教科書に挟まっていた東南アジア史に関するメモ(のちの『高丘親王航海記』の舞台と重なるところが奇縁)、東大時代の手帖、ぼろぼろに使い込んだ仏語辞典等々が展示されている。サド裁判の起訴状は興味深かったなあ。葉書、書簡も多数。澁澤から出口裕弘宛てのものがいちばん多かったと思う(五月は一年でいちばん好きな季節です、というフレーズを見つけたのも、出口宛ての葉書)。遠藤周作が、サドの評論を共著で出したいと持ちかけていたことは初めて知った。

 ちょっと面白かったのは『アサヒグラフ』1977年2月11号に写真付きで掲載されている”有名人の夕食拝見”的な記事。「午前三時の大晩餐会」と題して、澁澤夫妻が登場しているのだが、その食卓風景が、あまりにもフツーなのだ。どこかのサラリーマン家庭のような、普通のテーブル、普通の食器、普通の湯呑み。北鎌倉の澁澤邸といえば、東西の奇書に埋もれた赤絨毯の書斎、数々のオブジェと美術品で飾られた居間の写真しか見たことがなかったので、イメージとのギャップに驚いてしまった。

 考えてみると、高橋睦郎氏が書いているように、澁澤は異端でも偏執狂でもなく、「健康無比な好奇心の人」で、来る者を拒まず、善も、悪も、神も、魔も、屈託なく受け入れ、暖かくもてなすサロンの達人だった。あの魅力的な書斎と居間の演出も、彼一流の「もてなし」だったのではないか、とあらためて思った。

 澁澤の最後の作品は、言わずと知れた『高丘親王航海記』である。私は、この作品を著者の死と切り離して読むことができない。結末部分の原稿を眺めていると、それだけで、じわじわ泣けてきてしまう(当時の原稿は、全て龍子夫人の清書だという)。没後20年経った今でも、澁澤さんはすぐ身近にいらっしゃるような気がして、引き離される切なさと、親王が日本に向かって投げた光る珠から、また「みこのいのちがしぶとく芽ばえはじめますから」というオプティミスティックな希望に癒されて、涙があふれてくるのである。

 私は、澁澤さんの晩年の読者で、1987年、亡くなられた日のことはよく覚えている。会場には、1980年代生まれと思われる若者の姿も多かった。彼らは、親王=澁澤さんの投げた光る珠に導かれ、「みこのいのち」を受け継ぐ読者なのであろう。

 今日5月8日、澁澤さんの誕生日をひそかに祝して。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする