見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

関西博物館めぐり拾遺・MIHOミュージアムのカフェ

2007-05-17 23:36:11 | 食べたもの(銘菓・名産)
特別展『中国・山東省の仏像』を見たあと、バスの時間が中途半端だったので、
「季節のロールケーキ」(熊本産イチゴ)でロハスなティータイム。

同時開催中の企画展『小さきものみな美し』も見ていくことにした。
創立者・小山美秀子氏のコレクションを紹介したもの。
陶器あり、仏像あり、塗り物あり。これもなかなか楽しかった。


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朝鮮通信使来日400年/高麗美術館

2007-05-16 23:59:21 | 行ったもの(美術館・見仏)
○高麗美術館 特別展『誠信のまじわり-通信使の息吹』

http://www.koryomuseum.or.jp/

 朝鮮通信使は、文禄・慶長の役により一時途絶えたが、慶長12年(1607)に復活し、文化8年(1811)まで、12回を数えた。今年は、江戸時代初の通信使来日から、ちょうど400年の記念の年なのである。

 展示品で、まず目を引くのは、万暦45年(1617)朝鮮国王の光海君(李琿)が日本国王に宛てた国書(京都大学総合博物館蔵)。料紙が大きくて、印鑑もデカいのに、文字だけが小さくて細い。実はこのとき、朝鮮との交易再開を強く望む対馬藩は、日本国王の名を騙って偽造の国書を朝鮮に送った。これは、その返信として作成されたため、本来「奉復」とあったのだが、まずいと思った対馬藩によって「奉書」に書き換えられている(これは朝鮮に控えがあるので分かるのかな?)。つまり対馬藩は、ひとりで日本国王(徳川将軍)と朝鮮国王の二役に「なりすまし」をして、通信使の再開を促したわけである。大胆!

 同じような話は、東洋文化研究所の公開講座『アジアの絆』(2004年)で榎本渉さんからも聞いた。そのあと、れきはくの企画展『東アジア中世海道』でも取り上げられていた。実にトンデモない話だが、こういうトンデモないかたちで実際の歴史が動いてきたというのは、面白いと思う。

 朝鮮通信使が日光の東照宮に詣でたというのは最近、何かで読んだ。これが通信使の到達した北限らしいが、にもかかわらず、南は九州から、北は弘前、米沢まで、日本各地に通信使の姿を写した民芸品(泥人形)や芸能が伝わっている。派手でエキゾチックな扮装をし、大きな喇叭を横抱きにしているのが特徴である。

 また、通信使は馬上才と呼ばれる曲芸師を伴って来日した。江戸中期の浮世絵に、つば広帽をかぶった朝鮮の人々が馬の曲乗りを披露するところを、日本人の男女が見物しているところを描いたものがある。京都・藤森神社の競馬会神事 (くらべうまえしんじ)が現在のように「曲乗り」中心になったのも、馬上才の影響ではないかと考えられるそうだ。もしかして、歌舞伎「小栗判官」の成立も?

 ちょっと緊張する画題を描いているのは、江戸中期の洛中洛外屏風。右幅の端に見えるのは、馬に乗った数人の通信使が、まさに京都に到着したところらしい。彼らの前方には、特徴的な「耳塚」の姿が描かれている。耳塚とは「文禄・慶長の役の際、朝鮮人の耳や鼻を持ち帰り、埋めたところ」と言われる。多少、誤伝が混じるにせよ、秀吉の朝鮮出兵ゆかりの塚であることは確かだ。初期の朝鮮通信使は、この塚の向かいにある方広寺(京都大仏)で饗応を受ける習慣になっていたらしい。ええ~そりゃ駄目だろう。相手の気持ちに無頓着すぎる。

 そのほか、朝鮮中期の日本語の教科書『捷解新語』、江戸後期の朝鮮語の教科書『交隣須知』も興味深かった。形式は違うが、どちらも漢字・カナ・ハングルを用いている。「漢字・漢文」が両国の紐帯として機能していたんだなあ、としみじみ思った。

■参考:asahi.com:勝手に関西世界遺産一覧「耳塚」
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/kansaiisan/OSK200703020029.html

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埋経一千年・藤原道長/京都国立博物館

2007-05-15 23:46:22 | 行ったもの(美術館・見仏)
○京都国立博物館 特別展覧会 金峯山埋経一千年記念『藤原道長-極めた栄華・願った浄土』

http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html

 道長といえば、「この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思へば」の歌で知られるとおり、この世の栄華を極めた人物という印象が強い。だから、この展覧会では、華やかな貴族文化の遺品の数々を見ることができるだろうと期待して出かけた。

 最初の展示室では、公任自筆の「北山抄」(生真面目で神経質そうな筆跡)、伝行成筆の「書巻」(さすが三蹟のひとり)、そして本人・道長の「御堂関白記」(奔放な悪筆)など、筆跡を通して、当時の”スター”たちの横顔に思いを馳せる。以上、もちろん国宝。

 視覚的に華やかなのは「石山寺縁起」。初めて見る絵巻だろうか? 鎌倉時代の作品だが、姉の詮子の石山詣に従う馬上の道長が描かれている。実に色彩鮮やか。心なしか、無髯の優男の率が高い。あと、髪を結びもせず、垂れ髪にして水干姿で牛車につき従う童子は、男なのか女なのか、気になる。

 道長の時代は「国風文化」の盛期だと思っていたので、「唐土への憧憬」というセクションが設けられ、舶来の経文、仏画、版本、陶磁器などが並んでいたのは、ちょっと意外だった。実際には、道長はあたらしもの好きで、唐土の文物に関心が高かったらしい。なお、当時の大宰府貿易の相手は、杭州に都を置いた呉越国である。

 仏像のセクションも充実していた。いずれも平安盛期の仏らしい”ゆるんだ”感じが魅力である。聞いたことのない寺院のものが多く、有名寺院以外にも、こんなにいい仏像が残っているのだな、とあらためて思った。道長が発願した仏像で現存しているのは、東福寺塔頭・同聚院の不動明王坐像が唯一だそうだ。ものすごくデカくて、印象では、高幡不動の不動明王に匹敵する。順路どおりに進んでいくと、いきなり前方の壁に巨大な黒い影が出現する(一瞬、正体が分からない)ので、かなり驚かされる。

 後半の冒頭には「金銅藤原道長経筒」が登場。寛弘4年(1007)道長自ら、吉野金峯山の山上ヶ岳に埋めた経筒で、元禄年間に出土したものという。以下、当時の貴族たちの「埋経」ブームに関連した遺品が並ぶ。平安時代を「華やかな貴族文化」の時代と思うのは後世のイメージであって、当時の人々にとっては、永承7年(1052)の「末法の始まり」に向けて、じりじりとカウントダウンしていく、絶望と焦燥の時代だったのではないか。それゆえ、財力と権力のある者は、子孫と民衆の安寧のため、「埋経」というパフォーマンスを繰り返すことが必要だったのではないか、と思われる。

 吉野には何度か行ったが、西行庵までしか到達していない。道長が経筒を埋めた山上ヶ岳は、その奥の奥、修験道の修行場である。寛弘4年(1007)といえば、道長は40歳。タフだなあ~。経筒に刻まれた願文は格調高くて見事である。唐土好きの道長、それとなく「封禅」を気取っているんじゃないだろか。
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速報・若冲展!/承天閣美術館

2007-05-14 00:27:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
○承天閣美術館 足利義満600年忌記念『若冲展』

http://jakuchu.jp/jotenkaku/

 いまさら説明不要だとは思うが、後年のために書いておく。若冲と深い縁故を持ち、「釈迦三尊像」を持つ相国寺承天閣美術館が、本来はこの「釈迦三尊像」を荘厳するために描かれ、現在は宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵する「動植綵絵」30幅を借り受け、両者の120年ぶりの再会を演出した展覧会である。

 初日(日曜日)の朝、京都駅から地下鉄烏丸線に乗ると、おお!吊り広告が全て若冲展のポスター(群鶏図)で埋まっている。嬉しいけれど、こんな大宣伝をして、人が集まり過ぎないかな、大丈夫かな...と、内心やきもきする。開場の20分ほど前に相国寺に到着。美術館の前には、既に人の列ができていたが、私はまあまあの位置(鐘楼の横くらい)に付けることができた。承天閣美術館には一度来たことがあるが、そんなに広いと思わなかった。しかも、確か靴を脱いで上がるはずである。この大人数をどうするんだろう、と思っているうち、門が開き、係員の誘導で、我々は建物のまわりをぐるぐると歩かされた(仮設テントの回廊が出来ている)。そして、美術館のちょうど裏側に特設の入口が待っていた。係員(イベント屋さんだろう)のお兄さんに「今日は何人くらい予想しているんですか?」と尋ねたら、「5000人から、1万人弱くらいですね」と教えてくれた。

 会場は第1展示室(後)と第2展示室(先)に分かれており、第1→第2に戻ることはできない、というルールになっている。最初の「第2展示室」(確か)の見ものは、鹿苑寺大書院障壁画だ。名品だけど、いつでもここ(承天閣美術館)で見られるんだから、と思って飛ばす。その後ろに、若冲作品がたくさん並んでいるが、目新しいものはないな、と思って、ここもすぐに切り上げた。実は1件だけ、新発見の「厖児戯帚図」(→日経新聞:2007/02/17)が出ていたそうなので、これだけはよく見てくればよかったが、またの機会があるだろう。

 今回の目的は「釈迦三尊像」と「動植綵絵」を見ること――それも、率直に言えば、「動植綵絵」は、昨年、三の丸尚蔵館の特別展で味わい尽くしているので、今回は両者が同じ空間に並ぶという、その雰囲気を体験することに尽きる。

 そして、第1展示室。はやる気持ちを抑えて入口を入ると、意外に少ない観客に拍子抜けした。そりゃまあ、まだ開場から20分も立っていないのだし。私より先に入った観客の多くは、行儀よく最初の展示室を見ているのだろう。照明を落とした、比較的天井の低い四角いホール。正面には、「釈迦三尊像」三幅対が飾られ、その左右に「動植綵絵」が15幅ずつ掛けられている。

 私は、あまり混んでいないのをいいことに、釈迦三尊像の前に、三尊にお尻を向けて立ってみた。三尊の目線で、会場を見てみたかったのである。あ~見渡す限り、若冲の浄土! なんという幸せ! それから、逆に「動植綵絵」の蛸や雀や鸚鵡の側にも立ってみた。すると、三尊の慈悲深い視線が彼らに注がれているのを感じることができる。

 「動植綵絵」は確かに名品であるが、あまりにも美しすぎて、とらえどころがなくて、これだけを見ていると、どんどん精神が拡散していく「危うさ」がある(そこが現代的な魅力なのだけど)。しかし、こうして「釈迦三尊像」のもとに置いてみると、画中の小さきものたちが「落ち着きどころ」を得たように感じられる。できることなら、ずっとこのまま、一緒にしておいてあげたいものだ。今頃、観客の去った夜の展示室で、彼らは何をひそかに語り合っているのだろうか。
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肉体と装飾/山東省の仏像(MIHO MUSEUM)

2007-05-13 08:58:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
○MIHO MUSEUM 開館10周年記念特別展『中国・山東省の仏像-飛鳥仏の面影』

http://miho.jp/japanese/index.htm

 金曜日は埼玉で夜の9時頃まで飲んでいた。それから東京駅に出て、10時の新幹線に乗った。日付が変わる前に名古屋に到着して、予約していた駅前のビジネスホテルに宿泊。週末の朝を迎えた。

 MIHOミュージアムは久しぶりである。2001年秋の『龍門石窟』展には行った。それから、2004年春の『長安-陶俑の精華』も行ったと思う。いい美術館だが、なにせ石山駅からバスで50分の山の中なのだ。東京から関西方面に出張るときは、なるべく数をこなして欲張ろうとするので、なかなか気軽に立ち寄ることができない。

 しかし、今回は見逃すわけにはいかないと思っていた。2001年の『龍門石窟』展のとき、話題になった仏像がある。MIHOミュージアムが購入した後、中国からの盗品だと判明した菩薩立像である。そのときのニュースを探したら、以下のサイトがヒットしたのでリンクしておく。

■Kenの美術館書庫(国内編#4:'01)
http://homepage2.nifty.com/kenkitagawa/sub15.html
→「MIHO MUSEUMの石造菩薩立像(01/11)」参照

 MIHOミュージアムは、この仏像を中国に譲渡(返還とは言わないのね)することに合意し、その代わり、中国側が同館に多くの仏像を貸し出して「山東省の仏教美術にかかわる展覧会」を 共同で開催することに同意したのである。あれから6年。私は、2000年の夏に中国山東省を訪ね、その秋の『中国国宝展』で、山東省の仏像、特に青州市博物館=龍興寺址出土の名品に魅入られて以来、この展覧会をず~っと楽しみに待ってきた。

 さて、その展覧会、点数は70点余りでさほど多くはないが、質の高さには十分満足した。時代的には、北魏末年~東魏~北斉~隋初に焦点を絞っている。わずか100年余りの期間(A.D.6世紀)だが、仏教美術に、何段階かの変化の波があったことが、非常によく分かる構成になっていた。

 山東省では北魏末の520年代から大きな石造の仏像が作られるようになる。初期の造型は、仏像の足元に「唐草を吐く龍」が逆立ちしていたり、光背の背後に日月を掲げる人物像がいたり(伏羲と女禍だ!)、中国の土着宗教の影響が強いが、東魏から北斉にかけて、次第に造型が洗練されていく。540~550年代には、西方(インド)風の薄い衣、ボリュームのある肉体表現が登場する。北斉後半になると、颯爽とした肉体に中国人好みの華やかな装飾性が加わり、隋初に至って、肉体表現がより現実味を帯びてくる。

 まとめてしまうと味気ないが、実際に作品を傍らに置いてみると、様式の変遷が、実によく分かって興味深い。面白いことに、東魏から北斉の三尊仏には、脇侍の一方を中国式(装飾が多い。厚手のプリーツスカートのような衣)、一方をインド式(肉体に密着した薄い衣、両膝の丸みに沿った襞)に作るものが、ときどき見られる。これが、次第に一体の造型表現に統合されていくのである。

 ポスターやチラシに使われている、東魏時代の菩薩立像(青州市博物館蔵)は、金・朱・緑の彩色の名残りが石灰石の乳色の肌を引き立てて美しい。貴族の青年を思わせる、瞑想的で上品な面差しである。ただし、正面から見ると、幅のある、堂々とした体躯だが、横から見ると、芝居の書割りのように薄い。顔立ちには完成された精神性が宿っているが、まだ「肉体」を獲得する以前という感じがする。

 好みもあるけど、私のおすすめは、最後の展示室に登場する北斉時代の菩薩立像。みずみずしい肉体表現と、それを飾る瓔珞の装飾美に見ほれる。ああ、こうして「隋唐文化」の時代がやってくるんだな、と思う。

 ところで、上述の「盗品」と判明した菩薩立像とは、「宝冠に蝉の飾りをつけた菩薩像」である。当時、このニュースを伝える中国語の記事が「蝉冠菩薩」(?)とか何とか書いていて、意味がよくわからなかった記憶がある。中国の戦国時代以来、皇帝の近臣や高級宦官が清廉、節倹の証として冠の正面に蝉の飾りを付けたことによるのだそうだ。面白い。

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新出・運慶作の大威徳明王/神奈川県立金沢文庫

2007-05-10 23:56:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立金沢文庫 特別展『金沢文庫の仏像』

http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm

 金沢文庫では久しぶりの仏像展に加えて、先ごろ、仏師・運慶の作であることが確認された大威徳明王坐像が特別公開されているというので、楽しみに見に行った。

 運慶作の大威徳は、造作がしっかりしているので、写真で見ると大ぶりな印象があるのだが、実は拍子抜けするほど小さい。500ccの牛乳パックほどしかない。後ろから見ると、腰のきゅっと引き締まったプロポーションが、なるほど運慶かもなあと感じさせる。

 驚いたのは、像の胴部にはめ込まれていたという文書の料紙(雁皮紙)4葉に、虫食いひとつないことだ。皺は寄っているが、絹のような光沢がある。キリーク文字を連ねた真言の最後に、3行だけ漢文が記されており、その末尾に「巧匠肥中仏師運慶也」とある。肥中仏師? 展示品を見ながら、これが分からなくて悩んだ。あとで展示図録を立ち読みしたら、「備中仏師」の誤記らしい。え~展示説明に書いておいてほしいなあ。

 そのほか、海中から立ち現れたヴィーナスのような、海岸尼寺旧蔵の十一面観音、称名寺伝来の十大弟子像は、旧なじみの仏像で「お久しぶり」という感じ。はじめて見たのは、脇息にもたれてくつろぐ維摩居士坐像。類例を知らない。江戸時代の作だった。

 さて、明日から、ちょっとムリをして関西へ。むろん、お目当ては若冲です!
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市民、あるいは共和主義者の祝祭/パトロンたちのルネッサンス(松本典昭)

2007-05-09 23:52:18 | 読んだもの(書籍)
○松本典昭『パトロンたちのルネッサンス:フィレンツェ美術の舞台裏』(NHKブックス) 日本放送出版協会 2007.4

 レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』、ボッテイチェリの『ビーナスの誕生』、あるいはミケランジェロの『ダビデ』。我々は美術作品を、芸術家の創作として眺めることに慣れている。しかし、ルネサンス時代の芸術は、パトロンが発注するものだった。

 パトロンの指示は作品に多大な影響を与え、主題はもちろん、描かれる人数、金やウルトラマリン(最も高価な顔料)の使用量も契約に盛り込まれた。不安定な職人階級に属する芸術家は、パトロンの機嫌を損ねることなく作品を仕上げなければならなかった。本書は、15世紀のフィレンツェ共和国を中心とするルネサンス美術史を、パトロン群像に力点を置いて描いたものである。

 まず簡単な前史から。ヨーロッパの13世紀は都市発展の世紀である。フィレンツェは毛織物業の発展によって富を蓄積した。しかし、14世紀は、自然災害、政治抗争、経済不況、疫病の続く危機の世紀だった。それでもフィレンツェの経済と人口は14世紀後半に驚異的な回復を果たし、復活(ルネサンス)の15世紀を迎える。

 新しい世紀の初頭は、政府や同業種組合など「公的パトロネージ」が、競って都市の壮麗化に力を尽くした。美観に責任を負った。代表的な作品は、フィレンツェのランドマーク、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂である。毛織物業組合員で構成された大聖堂造営委員会は、コンクールを開催して大聖堂のクーポラ(大屋根)の設計案を募集し、これに当選したのがブルネッレスキだった。

 フィレンツェには1度だけ(1泊だけ)行ったことがある。巨大な大聖堂のてっぺんにも登った。考えてみれば、15世紀に、支柱も足場も使わず「クーポラがみずからの力で立ち上がる」というアイディアを現実のかたちにしてみせたブルネッレスキって、ダ・ヴィンチにも勝る独創的な天才技術者だと思う。

 15世紀中葉にはメディチ家が政治の実権を握り、その「私的(世俗的)パトロネージ」によって、フィレンツェ美術の黄金時代が到来する。15世紀末、メディチ家はフィレンツェを追放され、一時的に共和制が復活した。このとき、新しい共和国政府が「公的パトロン」としての威信をかけて発注したのが、ミケランジェロの『ダビデ』だった。それゆえ、著者はこの憂いを含んだ若者の彫像に「戦う共和主義者の永遠の魂」を見て取る。

 しかし、メディチ家の復活とともに市民的パトロネージは衰退し、その後の数世紀にわたり、芸術の主要なパトロンは市民でなく王侯貴族に移る。うーん。不思議だなあ。人間の歴史って、奴隷制→封建制→共和制というように、一直線に進んできたのではないということに、あらためて気づく。

 パトロネージの視点で見たとき、見慣れたはずの著名な絵画・彫刻・建築作品が、全く新しい相貌を見せるところが面白かった。それから、そういう新視点を可能にするものとして、当時(15世紀)の契約書や帳簿や住民簿が、イタリアの古文書館に豊富に残っているということにも驚かされた。
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帝国の経験/大正デモクラシー(成田龍一)

2007-05-08 23:47:20 | 読んだもの(書籍)
○成田龍一『大正デモクラシー』(岩波新書:シリーズ日本近現代史4) 岩波書店 2007.4

 今月(4月)の岩波新書のラインナップは、惹かれる新刊揃いだった。なので、これが3冊目。多彩な言論や社会運動が花開き、政党内閣の成立へと結実した、いわゆる「大正デモクラシー」の時代。しかし、1923(大正12)年の関東大震災、1927(昭和2)年の金融恐慌を経て社会不安と不況感が増大すると、軍部の台頭を許し、民主主義は後退した――というのが教科書的な見取図であろうと思う。

 これに反して、本書は、大正デモクラシーと昭和期の軍部独裁=天皇中心主義を対立的に扱わない。むしろ、大正デモクラシーそのものに「国家」「国民」「国権」との親和性が胚胎していたことを認め(それは辺境=植民地の人々に対する抑圧と排除の上に成り立つ)、大正デモクラシーとは「帝国のデモクラシー」ではなかったか、と問いかけるところが眼目である。すなわち、大正デモクラシーの思想と運動に共感し、社会改造をめざす官僚たちが、国家統制型の政治経済システムを作り出していくのである。ここ、鋭い。

 本書はまた、私が読み慣れてきた通俗書のように、誰か魅力的な人物に焦点を絞って歴史を語ることをしていない。「社会を主人公にして描く」というとおり、どの登場人物からも一定の距離を保って、多面的に当時の世相を描き出していく。女性運動、社会運動、農民運動、あるいは大衆文学の動きなど、初めて知ることが多くて、新鮮で面白かった。

 なお、岩波新書のサブシリーズ「日本近現代史」は、以前から気になっていたのだが、買ってみたのはこれが初めて。ジャケット広告によれば、このあと、加藤陽子さんの『満州事変から日中戦争へ』、吉見俊哉氏の『ポスト戦後社会』などの続刊が予定されている。楽しみである。
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西のみやこ、東のみやこ/国立歴史民俗博物館

2007-05-07 23:14:54 | 行ったもの(美術館・見仏)
○国立歴史民俗博物館 企画展『西のみやこ 東のみやこ-描かれた中・近世都市-』

http://www.rekihaku.ac.jp/events/o070327.html

 これも連休と同時に終わってしまった展覧会だが、記録のために書いておく。我が国の中・近世都市がいかに描かれてきたのか、絵画資料を読み解く展示会である。取り上げる都市は、まず京都。ついで江戸。最後に三つの港町─長崎・堺・横浜である。

 会場の入口を飾るのは、金地の扇面に描かれた『都の南蛮寺図』。天守閣みたいな三階建ての会堂の下に黒い僧衣のバテレンたちが佇んでいる。びっくりした。こんな絵画資料があるとは初めて知ったが、ちゃんと文化遺産オンラインに載っているのね。

 歴博は、洛中洛外図屏風の収集館として名高い。しかし、最古の洛中洛外屏風(1520年代)といわれる「歴博甲本」を見る機会に、私はなかなか恵まれない。今回も、前期(3月27日~4月15日)は甲本が出ていたんだな。後期は、展示ケースに入っていたのは、金箔の雲が目立つ乙本(16世紀後半)だった。その代わり、会場フロアには、甲本の精巧な複製品が置かれていた。これが、なかなかいい。複製のありがたさで、ガラスケースに邪魔されず、細部までじっくり眺めることができる。デジタル画像をディスプレイ上で操作することもできるのだが、それよりは、立ったりしゃがんだりしながら眺めるこっち(複製品)のほうがいい。

 画面には、いろいろな動物がいる。猿回し、鷹匠、闘鶏。犬はいるが猫は見つからない。湯屋、物乞い、洗濯、授乳する女。子どもの姿は意外と多い。今の京都の地名に残る「立売」は、この当時から商店街だったようだ。円錐形の毬(?)を2本の紐で吊った遊具を操る男の姿がある(あの、ほら、澁澤龍彦が好きだったもの)。なぜか、裃をつけ、鳥籠を下げて、女性の家を訪なう男の姿がある。この屏風は三条家の伝世品らしい。だからか、画中の三条殿の門前には、慶賀の人々を迎える主人の姿が描かれている。

 江戸モノでは、幕末に描かれた、ちょっと洋風な『江戸景観図』に惹かれた。「西洋人らしき馬上の人物も描かれている」とあったけれど、小さくて分からなかったなあ。両国橋の東西のたもとに聳え立つ巨大な要塞のようなもの、何かと思ったら、別の資料によればムシロ掛けの見世物小屋らしい。デカい! 元禄2年の『堺大図』は、その破天荒な大きさにびっくりする。畳3~4枚分もある大図を9枚も継いで全体図が現れるのだ。

 私は、現実と非現実のあわいを行くような絵画資料(素朴な泥絵集とか)も好きだが、一方、古写真には、絵画にない迫力を感ずる。ベアトが愛宕山から撮った幕末の江戸、明治22年にニコライ堂の上から撮影された360度の「全東京展望写真」、いずれも興味深かった。
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イタリア・ルネサンスの版画/国立西洋美術館

2007-05-06 23:32:09 | 行ったもの(美術館・見仏)
○国立西洋美術館『チューリヒ工科大学版画素描館の所蔵作品によるイタリア・ルネサンスの版画~ルネサンス美術を広めたニュー・メディア』

http://www.nmwa.go.jp/index-j.html

連休中日の4日のことだ。上野駅は大混雑。公園口の改札に乗客が殺到して出られないので、入谷口にまわるよう、誘導された。やれやれ。これでは、ゆっくり博物館・美術館めぐりは無理かな、と思って、帰りかけたが、この展覧会なら(地味だし、ずいぶん前からやっていたし)行けるかも、と思って、久しぶりの西洋美術館に入った。館内は、予想どおり、それほど混んでいなくてほっとした。

 本展は、15世紀後半から16世紀前半にかけてのイタリアで、「ニュー・メディア」の役割を担った版画に注目した展覧会である。15世紀の版画は、ビュランと呼ばれる道具を用いた「エングレービング」が主で、相当の熟練を要したが、16世紀初めに習熟の容易な「エッチング」が開発され、次第に版画の流通システムが確立した。ラファエロ、ティツィアーノらは積極的に自作を版画化し、これらはヨーロッパ各国でメダルや陶器や浮き彫りのデザインに使用された。

 会場には、たとえば、ラファエロの原画に基づく版画がたくさん展示されていた。我々は、ラファエロと聞けば『聖母子像』や『アテネの学堂』などの彩色画を、容易に思い浮かべることができる。しかし、当時の人々には、版画が唯一のメディアだったわけだ。たとえ色彩は捨象されていても(ああ、でも彼らは、どんなにか色彩に憧れただろうなあ)。

 面白かったのは、デューラーの『受難伝』連作と、これを複製したマルカントニオ・ライモンディの作。ライモンディは、デューラーの印章(AとDの組み合わせだそうだが、鳥居の中にAを置いたように見える)付きで複製したが、さすがに抗議を受け、印章を空白の石板(?)(大根おろしみたいに見える)に差し替えた。もっとも、そのデューラーも、マンテーニャをはじめとするイタリア・ルネサンスの版画作品から、古典的表現を学んだことが跡づけられるという。

 ヤーコポ・デ・バルバリの『ヴェネツィア鳥瞰図』は、畳1枚大の大作。画工たちが町中の高い建物や塔に登って描いたスケッチを組み合わせて作られた。とは言いながら、全ての塔を見下ろす「ありえない高み」に視点を置いているのは、雪舟の『天橋立図』に似ている。ちなみに『ヴェネツィア鳥瞰図』の制作は1500年である(これは描かれた建物で分かるんだっけ? 制作に3年かかり、刊行は16世紀後半)が、雪舟の『天橋立図』も、智恩寺の多宝塔の存在により、明応9年(1500)以降とされているそうだ。まるっきり同時期じゃないか!

 また、解説によれば「本作品(ヴェネツィア鳥瞰図)の出版者には、画像としては初の著作権が与えられた」そうである。グーテンベルクの印刷術の発明が1447年。16世紀になるとヴェネツィアなど出版の盛んな地域で出版権が認められるようになる(→Wikipedia)。そうか、イタリア・ルネサンスって、既に「1点もの」の芸術の時代ではなくて、複製と出版の時代なんだな。

 展示品は、ほとんどが「エングレービング」か「エッチング」だが、たまに木版が混じっていると、すぐに分かる。日本・中国の歴史資料では、木版以外、ほとんど見る機会がないが、ああ、木版の質感って柔らかいなあ、としみじみ思った。
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