○朝日新聞連載コラム「杉並校長日記」(区立和田中学校校長・藤原和博)
私はふだん新聞を読まない。時々、父母の家に帰ると、時間つぶしに新聞を広げる。先週の土曜日(5/29)、久しぶりに帰った実家で、この記事を始めて読んだ。
著者は2003年4月に、東京都初の民間人校長として杉並区立和田中学校に赴任した藤原和博さん。バックナンバーは「アサヒ・コム」でも読める。ただし、新着コラムは紙面に掲載されてからWebに転載するまで1週間程度のタイムラグを設けているようだ。
http://mytown.asahi.com/tokyo/kikaku_itiran.asp
ちょうど私の目にふれたのは、学校図書室の再生プロジェクトの記事だった。日本の公立学校の図書室はとにかく貧しい。5/22付けの記事にあるように、「数種類あった百科事典の中でブリタニカは35年前のもの、一番新しいのが15年前」という状況は決してめずらしいものではない。
どうやら、図書室の棚にぎっしり本が並んでいれば、それで先生たちは安心してしまうらしい。しかし、著者の言うように「『本がある』ということと『本が読まれている』こととは本質的に異なる」のだ。どうしてこんな簡単なことに、先生は気づかないのだろう? 図書室運営の専門家である司書や司書教諭を置いている学校が、あまりにも少ないせいか?
問題の打開策は1つである。読まれない本を「捨てる」ことだ。しかし、分かっていてもこれを実行に移せる学校は少ないだろう。司書教諭のいない学校はむろん、いや、たぶん司書教諭の立場であればなおさら、本を捨てることに躊躇を感じるにちがいない。
著者は言う。「学校という世界には『捨てること』を奨励するインセンティブ(動機づけるための制度)がない。捨てても誰も褒めてくれないから、たいていは『捨てること』には無関心だ」。冒頭の「学校」は「お役所」ないし「公務員」に置き換えてもいいと思う。
もちろん、本を捨てることは、図書室再生への第一歩でしかない。その後の、アイディアあふれる本当の再生プロジェクトの試みは、6/29付けの記事に詳しい。
さて、「杉並校長日記」のバックナンバーを読んでいて、私がいちばん唖然としたのは、先生たちの学校におけるネットやパソコンの使用環境である。
引用は昨年10/6付けの記事から。「先生方はみな、事務処理上、私費で買ったパソコンや年代もののワープロなどのマシンを(職員室に)持ち込んで仕事をしている。しかし、そうした私物のマシンは、『成績など、子どもの個人情報の流出を防ぐ』という理由でオンライン接続を禁止されている。電子メールも出せないし、調べものもできない」。
おいおい。
いちおう、校内には「コンピュータルーム」なるものがあるらしい。確かに十数年前なら、コンピュータはみんなで使う共同財産で、ふだんは自分の机で紙と鉛筆で執務し、必要のあるときだけコンピュータの前に移動する、というのはオフィスの常道だった(若者にはへえ~と驚かれそうだが)。しかし、今や、小中学生だって自宅で自分専用のマシンを持つ時代だというのに。
もちろん、「子どもの個人情報の流出」はあってはならない。でも、そのためにネットにつながったパソコンでしていいことといけないことを弁別する能力を、先生自身が身につけなかったら、何がIT教育だろう。これって児童生徒に対して「怪我をするから鉄棒禁止」とか「余計なことを覚えるからアルバイト禁止」という発想と同じではないか。
このコラム、著者を応援しながら、今後もときどきチェックしてみたいと思う。しかし、こうした改革は民間人校長でないと発想も断行もできないというんだから、つくづくニッポンの公務員って情けないよね。