見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

夏の準備

2004-06-14 22:35:25 | なごみ写真帖




週末、また鎌倉に行ってしまった。海岸で、たぶん「海の家」を建てていた。まだ骨組だけの屋根の上で、強い潮風に吹かれているお兄ちゃんたちがカッコよかった。

そうか、「海の家」って、こうして夏が来ると作り、秋が来るとこわすんだな。覚えていたら、また秋に来てみよう。
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朝鮮戦争という時代/悪の三国志

2004-06-13 22:39:12 | 読んだもの(書籍)
○芹沢勤『悪の三国志:スターリン・毛沢東・金日成』(講談社+α新書)200.5

 「朝鮮戦争の『真実』を、旧ソ連、中国の極秘資料をもとに炙り出す」というのがオビのキャッチコピー。スターリンのソ連、毛沢東の新生中国、そして金日成の北朝鮮を三国志に見立てるというのは、ちょっとネライすぎじゃないか?と思いながら読み始めた。「プロローグ」は、北朝鮮の南侵開始の知らせを受けた毛沢東が「なにっ!?」とあわててみたり、下手に芝居がかった文体でいただけない。いまどき、高校生のウェブ小説だってもう少しうまい。

 第1章以降は、ときどき小説ふうな描写を取り混ぜながら、基本的には資料にのっとった記述が続き、安心した。私は、中国の近現代史は比較的よく読んでいると思う。しかし、よく考えてみると、中華人民共和国成立以前の抗日運動に関するものと、それから大躍進~文化大革命に至る毛沢東の失政と晩年の私生活に関する暴露本がほとんどで、朝鮮戦争の時代(1950年代初頭)というのは、これまでポッカリ抜け落ちていた。

 なので、非常におもしろかった。これまで、朝鮮戦争というのは、米ソ2大陣営の代理戦争であり、国連軍(実質的にはアメリカ軍)の参戦で戦況が韓国優勢に傾いた後、ソ連・北朝鮮と同じ社会主義陣営に立つ中国は、当然、自主的に北側に援軍を投入したものと思っていた。

 しかし、どうもそうではなく、周恩来や林彪は、内政重視の立場から出兵に反対しており、毛沢東でさえ最後までためらったらしい。その中国に参戦を促したのは老獪なスターリンの戦略である。

 本書は「悪の三国志」(このタイトルなんだかなー。別に三国とも”悪”じゃないと思うんだが)と名うっているが、読んでみると、実は三国とも、アメリカという巨大なプレゼンスに、がんじがらめに縛られているように思える。

 スターリンは、アメリカとの正面衝突を避けるため、ソ連軍の参戦を承諾せず、そのかわり、毛沢東を動かして中国軍を北朝鮮に差し向けた。毛沢東が出兵をためらった最大の理由は、ソ連の援軍なしにアメリカと戦うことを恐れたのだ。しかし、北朝鮮が消滅すれば、それに代わる親米政権と国境を接しなければならないことが参戦を決意させた。

 出兵によって国力を削がれた中国が、今後もソ連に頼り続けるということは、もちろんスターリンの計算のうちだった。また、毛沢東は台湾解放(侵攻)に向けて、ソ連軍の支援を要請していたが、スターリンはこれを拒絶し、親米的な蒋介石政権を温存することで、アメリカと中国の分断をねらった。

 こうして見ると、現在の東アジアの2つの分断国家(朝鮮半島、中国/台湾)は、スターリンが作ったとも言える。また、スターリンがそういう布石を打った前提として、中国という国は、共産主義国家ではあるけれど、地政学的には、アメリカと組もうとする潜在的な必然性があるんじゃないかな、と思う。

 現在の北朝鮮をめぐる中国の立場というのは分かりにくい。世界で唯一、金正日体制を受け入れている国のように見えるんだけれど、どうも実際は違うんじゃないか...というようなことも考えた。

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本命の恋人は/ゴシップ的日本語論

2004-06-12 19:15:53 | 読んだもの(書籍)
○丸谷才一『ゴシップ的日本語論』文藝春秋 2004.5

 わ~い、丸谷さんの新刊だ!!! 

 私は、20年来の丸谷才一ファンである。学生時代に出会って、当時、手に入るものは、エッセイから評論、小説、対談に連句集まで全て読んでしまった。その後は本屋で彼の新刊を見つけたら、小説だろうがエッセイだろうが、迷わずGETである。電車に乗るのも待ちきれなくて、駅のエレベータでページを開いてしまった。

 とにかく読み終わる(長編の場合は少なくとも一段落する)までは、読みかけの本も録画済のビデオも一時棚上げである。まるで、本命の恋人から誘われると、仕事も習い事も友だちとの約束も全てキャンセルして駆けつける、情けないオンナみたいなものだ。しかたない、これも惚れた弱みである。

 しかし、考えてみると、20年来、私にとってこんなにも変わらず魅力的な物書きは丸谷才一しかいないような気がする。一時期、夢中になった作家や評論家はいろいろいるが、私の興味が変わったり、向こうが変わってしまったりして、読まなくなってしまった人が多い。

 それでも、さすがにこの数年、丸谷さんも年取ってきたなあ、と思うことはある。世相風俗をネタにしたエッセイは、以前ほど切れがなくなってきた。しかし、歴史や文学や哲学など、かなり学術的なテーマを、楽しいゴシップを交えて分かりやすく語る「芸」は衰えていない。

 若い頃、折口信夫に熱中して、書店で「折口学入門」という手書きのビラを見て飛び込んだら「哲学入門」だった、なんて、まるで「笑っていいとも」のタモリだよー。

 本書でいちばん面白く読んだのは、昨年話題になった丸谷さんの小説『輝く日の宮』について、瀬戸内寂聴さんと語った対談である。著者が自作を語るとべたべたした感じになりがちだが、丸谷さんの場合、そうでないところがいい。また、瀬戸内さんも「つくる」ことに意識的な小説家であること、小説を構成するひとつひとつの言葉に非常に敏感であることが分かる。

 さて、丸谷さんの次の新刊はいつになるんだろう...こうしてまた、私の「耐えて待つ」生活が始まるのだ。
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平和と平等をあきらめない

2004-06-10 01:44:29 | 読んだもの(書籍)
○高橋哲哉、斎藤貴男『平和と平等をあきらめない』晶文社 2004.6

 本のオビに「ポスト団塊世代の論客、渾身の対論」とあるが、それほど面白くはない。半分以上は、最近の社会の風潮に対する漠とした不安と不満の表出に終始している。飲み屋で愚痴をこぼしあっているおやじみたいで、結論も分析も解決策もなく、読み物としては魅力に乏しい。

 それでも、途中で高橋哲哉氏が、やや長口舌で「軍隊は国民を守るものではない」ということを検証してみせる段とか、カントの恒久平和論の要め(常備軍とは本質的にインモラルなものである)を解き明かす段は読ませる。居ずまいを正したくなるような静かな迫力を感じさせる。高橋氏が紹介しているフランク・パヴロフの風刺的な寓話『茶色の朝』もおもしろいと思った。

 それから、日本がドイツに決定的にかなわない点として「ドイツ政府はナチスに対する国内外のレジスタンス運動をきちんと評価している」という指摘(これは鋭い。確かに日本が、中国や朝鮮半島の抗日運動を評価するって考えられないなー)。

 このひとってひとりで語らせたほうがいいのかしら? いやいや、辺見庸との対談本は、それなりに面白かった、「対決」の要素があって。本書の2人は馴れ合いすぎ。

 そもそも、私が高橋哲哉氏の名前を知ったのは、朝日カルチャーの講座で、姜尚中氏との対談を聞きにいったときだ。日の丸・君が代の法制化が決まった直後のことで、2人が「大変なことになった」と沈痛な面持ちで向き合っていたことを思い出す。1999年のことである。

 当時、私は2人の深刻な認識を十分に受け止めきれていなかったが、本書にレポートされた最近の都立高校の実態を読むと、ずいぶんひどいことになっているなあ、と辟易、かつ戦慄させられた。

 以下は横道になるが、「日の丸・君が代」と聞くと思い出すことがある。私は中学・高校時代、単に国旗や国歌に縁がないだけでなく、そうした強制を厭わしいものとする教育を受けた。さて、大学院(修士)を卒業し、教員になるための就職活動をしていたとき、最初に声をかけてくれたのは偏差値の高い私立高校だった。

 通勤に少し不安があったが、教育熱心で好ましい校風に思え、ここに勤められたらいいなあと思った。しかし、面接の最後に「うちは毎日、国旗掲揚をしています」と聞いて、ぎょっとした。ほとんど身体的な反応のようなもので、それはどうにも受け入れられない、と感じた。悩みながら帰ってきて、就職担当の教官に打ち明けると、その助教授は「いい就職口なのにそんなことで」と、ひどく不思議そうな顔をした(彼は長嶋茂雄と同世代だった)。

 困った私は別の教授にも相談した。その先生は、私の曖昧な躊躇を黙って聞いたあと、「それはまあ、断ってしまえよ。理由は通勤が不便だからにしておけばいい」と言ってくれた(彼はもう少し上の世代で、学徒出陣とシベリア抑留を体験していた)。

 小熊英二が『<民主>と<愛国>』で、戦後世代の微妙な年齢差による戦争体験の違いを検証しているのを読んだときも、私はこの2人の恩師のことを思い出したものだ。

 いま、都立高校では、教員の個々の内心の「思想・信条の自由」は認められても、行動としては、公務員として、日の丸を掲揚し君が代を歌う(或いは生徒に歌わせる)という、命じられた職務に忠実でなければいけないらしい。馬鹿じゃなかろうか。政府や自治体は「思想・信条の自由」ってそんな矮小なものだと思っているのだろうのか。「内心」の思想・信条さえ問わなければ、「行為」としては踏み絵を強制しても、宗教的な迫害にならないというのか。

 マスコミの状況も、本書で言われているとおりなら、ひどい。もっとも右派マスコミだけがひどいのではなくて、反体制とか左派と言われる側も、どんどん知性も品性も無くなっているように思う。

 結局、最後に頼れるものは自分の知性だけかもしれない。そういう点では2人の結論である「自分で考え続けよう」という訴えには共感できる。
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源満仲・頼光

2004-06-07 22:58:46 | 読んだもの(書籍)
○元木泰雄『源満仲・頼光』(ミネルヴァ日本評伝選) ミネルヴァ書房 2004.4

 ときどき、現実と縁の切れた古代史や中世史の研究書を読んで精神を休める。

 源(多田)満仲という人物は、よく知らないのだが、漱石の「坊っちゃん」の主人公が「俺は生粋の江戸っ子で、先祖は多田満仲だ」という誇りを抱いていたことで、気になっていた。満仲の息子、頼光のほうが、鬼退治の説話で多少有名か。

 しかし、本書を読んで分かったことは、満仲も頼光も、史料で追跡できる範囲では、あまりぱっとした存在ではなかったらしい。つまんないなあ。足利幕府の時代、武門源氏の地位が確立するとともに、さまざまな始祖伝説が作られたようだ。

 なお、著者は歴史学者だが、まめに和歌集を参照している点に感心した。

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ナショナリズムを学ぶ

2004-06-07 01:00:37 | 読んだもの(書籍)
○浅羽通明『ナショナリズム:名著でたどる日本思想史』(ちくま新書)2004.5

 日本ナショナリズムの諸相を、主要な10冊のテキストとその周辺の「読書ノート」を題材に語る、ブッキッシュな日本思想史講義。

 10冊の選び方がうまい。石光真清というほとんど誰も知らない一軍人の手記『城下の人』に始まり、ナショナリズムの古典として名高い、でも実際に読んだ人は少ない、志賀重昂『日本風景論』を押さえ、本宮ひろし『男一匹ガキ大将』で意表をつく。

 各章のタイトルの仕掛けもいい。「普通の国となるとき、それは今?~小沢一郎『日本改造計画』」とか「近代というプロジェクトX~司馬遼太郎『坂の上の雲』」とか、著者がうまいのか編集者の力量なのか分からないが、店頭で目次を開けてしまったら、買って帰らずにはいられないようにできている。きちんとした内容があって、しかもマーケティングをなおざりにしない本の造りは好ましいと思う。

 さて、内容であるが、10冊のテキストと著者の距離はさまざまである。たとえば、小熊英二『<民主>と<愛国>』の章は、戦後のナショナリズムを検証した小熊のテキストに全面的に寄りかかるかたちで語られており、著者独自の視点はあまり見られない。

 著者の本領が感じられるのは、たとえば石光真清を取り上げた章である。明治元年生まれの石光は、日露戦争前夜、諜報部員としてシベリアや満州でロシア軍の機密を探る活動を行った。その手記には、生活の場を求めて日本を離れ、北の大陸に渡った労務者や工夫、娼婦たちが登場する。時代はまだ、ナショナリズムというタームが定着するずっと前のことだ。当然、彼らには「日本国民としての自覚」は薄い。しかし、石光という一軍人、そして彼を取り巻く底辺層の日本人の行動を読み解きながら、ナショナリズムの形成と確立を、著者は私たちの前に示していく。

 本宮ひろし『男一匹ガキ大将』を取り上げた章も面白い(私はわずかな世代差で、この名作を読んでいない。私が「少年ジャンプ」を読み始めたのは、この作品が連載を終了した1973年の少し後になる)。大衆ナショナリズムの戦後最大イデオローグは『竜馬がゆく』の司馬遼太郎であろう、という論点は最近よく耳にする。しかし、著者の言うように、司馬遼太郎を読むのはブルーワーカーでは少数である。活字を読まない彼ら(中卒や高卒の工員、建築現場の作業員、ダンプの運転手、レストランや食堂に働く少年)にも、彼らなりの社会思想はある。身体化された彼らのナショナリズムの深さとその挫折を、『男一匹ガキ大将』のドラマツルギーを素材に解いていく一段は読み応えがある。

 司馬遼太郎『坂の上の雲』に真正面から切り込んだ一段も圧巻だった。私はこれまで「司馬遼太郎問題」をなんとなく避けて通ってきた。なんといっても彼の歴史小説が面白いことは全面的に認めざるを得ない。『坂の上の雲』『国盗り物語』『峠』『燃えよ剣』、ええと、それから中国物の『項羽と劉邦』等々。あまり小説を読まない私でさえ、ひとたび彼の作品に出会ったときは夢中で次から次と貪り読んだ。『街道をゆく』をはじめとするエッセイも知性と品格あふれる読みものとして評価されているではないか。まわりの友人や友人のダンナにもファンが多い。だから、どうも司馬遼太郎批判は口にしにくかった。

 しかし、今回、司馬遼太郎の限界がよく分かったような気がする。著者の指摘は以下の一文に集約される。「受験秀才をあれほど嫌った司馬だが、彼が描く日本が、あたかも欧米という模範解答を再現しようと努力する受験秀才のようだと果たして気づいていただろうか」。もうひとつ、忘れないために書き付けておこう。「(司馬は)ただ能力ある男たちを描きたかったのだ(男たち。そう、ジェンダーの問題に関しては、司馬は極めて旧守的だった)」。

 最後に、本書は非常に水準の高い読書の手引きである。ナショナリズム研究の文献案内は、この他もいくつか出ているが、複数の著者の原稿を集めたものは、どこか散漫でつまらない。本書の強みは、著者がひとりで広範な文献を読みこなし、咀嚼し、血肉化したうえで書いているところである。こういう文献案内ができるような読書人に、私もなりたいのだが!

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浄土教の絵画と彫刻

2004-06-06 22:58:13 | 行ったもの(美術館・見仏)
○神奈川県立歴史博物館 コレクション展示「浄土教の絵画と彫刻」

 http://ch.kanagawa-museum.jp/

 雨の日曜日。アジサイを見に鎌倉に出かけたが、あまりの土砂降りに外歩きをあきらめ、帰りに横浜の歴史博物館に寄った。

 この催しは特別展ではなく、常設展に併設された無料展示である。だから入場券を購入すると「3階からご覧ください」と誘導された。常設展は見るつもりがなかったのだが、受付のお姉さんに逆らいがたくて、エスカレーターに乗った。

 しかし、久しぶりの常設展はけっこう面白かった。以前は東京都民として来館したのだが、最近、2年間、逗子に暮らしたので、中世の鎌倉周辺の復元図を見ても、ははあ、JR逗子駅がこのへんで私の住んでいたアパートはこのへんか、などと、リアルに感じられるようになったせいだろう。

 常設展の展示品は複製品が多いが、気をつけてチェックしてみると、宝生寺の大日如来坐像など「本物」も混じっている。(横浜・磯子区の宝生寺~別名、宝金剛院~には、まだ神奈川県の土地勘が全くない頃、人に連れていってもらったことがある。たぶん。)

 それにしても、地味な展示のわりには、観覧者が多かったので感心した。地道な企業努力を怠りなくやっているのであろう。

 しかし、常設展を見終えると、いったん1階の入口に戻るルートになっている。そこから、閉室中の特別展示室の脇にあるコレクション展示コーナーにわざわざ立ち寄るお客は少ないようだ。受付のお姉さんも特に勧誘をしてくれない。

 そのため、せっかくのコレクション展示コーナーは閑散としていた。私の他はおじいさんがひとり、一遍上人の事跡を描いた遊行縁起の前で熱心にメモを取っていただけだった。

 展示品は20点ほどで小品が多いが、平安後期や鎌倉期の作も見られる。仏像では阿弥陀坐像(鎌倉期)が、小ぶりなりの風格があってよい。南北朝の一遍上人像(絵画)は、後世の信者が宗祖に向けた思慕の念が伝わってくるようで味わい深い。

 また、江戸ものだが、鉦鼓(念仏をするとき、身体の前で叩く”カネ”)を吊るす「鉦架」という道具は、初めて認識した。たぶん下級僧か信者の日用品だったのであろう。子供の絵のようなデザインの蓮華や仏像で荘厳されていて、おもしろかった。
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中学校の再生/杉並校長日記

2004-06-06 01:22:53 | 読んだもの(書籍)
○朝日新聞連載コラム「杉並校長日記」(区立和田中学校校長・藤原和博)

 私はふだん新聞を読まない。時々、父母の家に帰ると、時間つぶしに新聞を広げる。先週の土曜日(5/29)、久しぶりに帰った実家で、この記事を始めて読んだ。

 著者は2003年4月に、東京都初の民間人校長として杉並区立和田中学校に赴任した藤原和博さん。バックナンバーは「アサヒ・コム」でも読める。ただし、新着コラムは紙面に掲載されてからWebに転載するまで1週間程度のタイムラグを設けているようだ。

http://mytown.asahi.com/tokyo/kikaku_itiran.asp

 ちょうど私の目にふれたのは、学校図書室の再生プロジェクトの記事だった。日本の公立学校の図書室はとにかく貧しい。5/22付けの記事にあるように、「数種類あった百科事典の中でブリタニカは35年前のもの、一番新しいのが15年前」という状況は決してめずらしいものではない。

 どうやら、図書室の棚にぎっしり本が並んでいれば、それで先生たちは安心してしまうらしい。しかし、著者の言うように「『本がある』ということと『本が読まれている』こととは本質的に異なる」のだ。どうしてこんな簡単なことに、先生は気づかないのだろう? 図書室運営の専門家である司書や司書教諭を置いている学校が、あまりにも少ないせいか?

 問題の打開策は1つである。読まれない本を「捨てる」ことだ。しかし、分かっていてもこれを実行に移せる学校は少ないだろう。司書教諭のいない学校はむろん、いや、たぶん司書教諭の立場であればなおさら、本を捨てることに躊躇を感じるにちがいない。

 著者は言う。「学校という世界には『捨てること』を奨励するインセンティブ(動機づけるための制度)がない。捨てても誰も褒めてくれないから、たいていは『捨てること』には無関心だ」。冒頭の「学校」は「お役所」ないし「公務員」に置き換えてもいいと思う。

 もちろん、本を捨てることは、図書室再生への第一歩でしかない。その後の、アイディアあふれる本当の再生プロジェクトの試みは、6/29付けの記事に詳しい。

 さて、「杉並校長日記」のバックナンバーを読んでいて、私がいちばん唖然としたのは、先生たちの学校におけるネットやパソコンの使用環境である。

 引用は昨年10/6付けの記事から。「先生方はみな、事務処理上、私費で買ったパソコンや年代もののワープロなどのマシンを(職員室に)持ち込んで仕事をしている。しかし、そうした私物のマシンは、『成績など、子どもの個人情報の流出を防ぐ』という理由でオンライン接続を禁止されている。電子メールも出せないし、調べものもできない」。

 おいおい。

 いちおう、校内には「コンピュータルーム」なるものがあるらしい。確かに十数年前なら、コンピュータはみんなで使う共同財産で、ふだんは自分の机で紙と鉛筆で執務し、必要のあるときだけコンピュータの前に移動する、というのはオフィスの常道だった(若者にはへえ~と驚かれそうだが)。しかし、今や、小中学生だって自宅で自分専用のマシンを持つ時代だというのに。

 もちろん、「子どもの個人情報の流出」はあってはならない。でも、そのためにネットにつながったパソコンでしていいことといけないことを弁別する能力を、先生自身が身につけなかったら、何がIT教育だろう。これって児童生徒に対して「怪我をするから鉄棒禁止」とか「余計なことを覚えるからアルバイト禁止」という発想と同じではないか。

 このコラム、著者を応援しながら、今後もときどきチェックしてみたいと思う。しかし、こうした改革は民間人校長でないと発想も断行もできないというんだから、つくづくニッポンの公務員って情けないよね。
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カモの親子

2004-06-05 23:27:20 | なごみ写真帖




 私は東京住まいだが、一時期、逗子に住んでいたことがあるので、鎌倉近辺をよく歩きに行く。

 先週の日曜日(5/30)、逗子から鎌倉まで海岸まわりルートを歩いていたら、小坪の住宅地で、水路を見下ろして騒いでいる家族らしい人々がいた。何かと思ったらカモの親子だった。橋の下を行ったり来たりする親ガモのあとを、子ガモが必死に追いかけていた。

 1週間後の今日、ドキドキしながら東京を発って、同じ場所に行ってみたが、見物人の姿も、カモの親子の姿もなかった。がっかり。
 
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近代は難しい/中国民族主義の神話

2004-06-04 13:44:24 | 読んだもの(書籍)
○阪元ひろ子「中国民族主義の神話:人間、身体、ジェンダー」岩波書店 2004.4

 近代は難しい。最近、つくづくそう思うようになった。高校生のころ、教室で習った「歴史」は、畢竟、人類の進歩のプロセスだった。生まれや性別による不平等、迷信、無知蒙昧、戦争の惨禍など、さまざまな桎梏を克服して、ようやく人類が万人の幸福に向けて確実な第一歩を踏み出したのが近代と呼ばれる時代だと思っていた。

 だが、歴史はそう単純化できるものではないらしい。母国の後進性に心を痛め、列強の侵略に抵抗した国民的英雄の言辞も、よく読んでみると、アメリカの黒人や国内のマイノリティに対する差別意識が露わである。

 初期フェミニストの一部は、女性の解放と地位向上を希求するがゆえに、「産む性」の価値を強調した結果、優生学を受け入れ、国家主義への加担を招いている。

 中国女性の「纏足」を唾棄すべき陋習とした「進歩的」男性知識人は、社会の変化に翻弄される女性の苦痛に対して、本当の共感を持ち得たのか。単に西欧人のオリエンタリズムを内面化して女性に振り向けただけなのではないか、などなど。だから近代の評価は本当に難しい。

 それにしても、最近、気になるのは梁啓超という人物である。

 昨年、CCTV(中国中央電視台)が製作・放映し、多方面で物議をかもした近代史ドラマ「走向共和」では、いかにも才走った若者らしい男優さんが演じていた。前半の辮髪にゆったりした中国服姿も、後半のアーリータイムズのギャングみたいな洋装も、ダンディで惚れ惚れした。たぶん昨今の中国人一般は、梁啓超という名前に、ああいう男性的なカッコよさを期待するのだろう。(もしかするとそれは、「望ましい近代」のイメージそのものなのではないか?)

 浅田次郎の長編小説「蒼穹の昴」に登場する梁文秀(史了)は、いかにも女性読者の支持を集めそうなキャラクターで、基本は著者の創作だが、一部には梁啓超のイメージが投影されているらしい。

 さて、本書は、妻ある梁啓超が、ハワイ華僑の女性に出会って心惹かれたことを、妻に手紙で告白したエピソードを紹介している。その文面の、妻に対する無神経さは、ちょっとひどい。近代の男性知識人のひとつの典型を見るようだ。でもおもしろい。ひどいオトコというのは、つねに?魅力的である。



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