見もの・読みもの日記

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平和と平等をあきらめない

2004-06-10 01:44:29 | 読んだもの(書籍)
○高橋哲哉、斎藤貴男『平和と平等をあきらめない』晶文社 2004.6

 本のオビに「ポスト団塊世代の論客、渾身の対論」とあるが、それほど面白くはない。半分以上は、最近の社会の風潮に対する漠とした不安と不満の表出に終始している。飲み屋で愚痴をこぼしあっているおやじみたいで、結論も分析も解決策もなく、読み物としては魅力に乏しい。

 それでも、途中で高橋哲哉氏が、やや長口舌で「軍隊は国民を守るものではない」ということを検証してみせる段とか、カントの恒久平和論の要め(常備軍とは本質的にインモラルなものである)を解き明かす段は読ませる。居ずまいを正したくなるような静かな迫力を感じさせる。高橋氏が紹介しているフランク・パヴロフの風刺的な寓話『茶色の朝』もおもしろいと思った。

 それから、日本がドイツに決定的にかなわない点として「ドイツ政府はナチスに対する国内外のレジスタンス運動をきちんと評価している」という指摘(これは鋭い。確かに日本が、中国や朝鮮半島の抗日運動を評価するって考えられないなー)。

 このひとってひとりで語らせたほうがいいのかしら? いやいや、辺見庸との対談本は、それなりに面白かった、「対決」の要素があって。本書の2人は馴れ合いすぎ。

 そもそも、私が高橋哲哉氏の名前を知ったのは、朝日カルチャーの講座で、姜尚中氏との対談を聞きにいったときだ。日の丸・君が代の法制化が決まった直後のことで、2人が「大変なことになった」と沈痛な面持ちで向き合っていたことを思い出す。1999年のことである。

 当時、私は2人の深刻な認識を十分に受け止めきれていなかったが、本書にレポートされた最近の都立高校の実態を読むと、ずいぶんひどいことになっているなあ、と辟易、かつ戦慄させられた。

 以下は横道になるが、「日の丸・君が代」と聞くと思い出すことがある。私は中学・高校時代、単に国旗や国歌に縁がないだけでなく、そうした強制を厭わしいものとする教育を受けた。さて、大学院(修士)を卒業し、教員になるための就職活動をしていたとき、最初に声をかけてくれたのは偏差値の高い私立高校だった。

 通勤に少し不安があったが、教育熱心で好ましい校風に思え、ここに勤められたらいいなあと思った。しかし、面接の最後に「うちは毎日、国旗掲揚をしています」と聞いて、ぎょっとした。ほとんど身体的な反応のようなもので、それはどうにも受け入れられない、と感じた。悩みながら帰ってきて、就職担当の教官に打ち明けると、その助教授は「いい就職口なのにそんなことで」と、ひどく不思議そうな顔をした(彼は長嶋茂雄と同世代だった)。

 困った私は別の教授にも相談した。その先生は、私の曖昧な躊躇を黙って聞いたあと、「それはまあ、断ってしまえよ。理由は通勤が不便だからにしておけばいい」と言ってくれた(彼はもう少し上の世代で、学徒出陣とシベリア抑留を体験していた)。

 小熊英二が『<民主>と<愛国>』で、戦後世代の微妙な年齢差による戦争体験の違いを検証しているのを読んだときも、私はこの2人の恩師のことを思い出したものだ。

 いま、都立高校では、教員の個々の内心の「思想・信条の自由」は認められても、行動としては、公務員として、日の丸を掲揚し君が代を歌う(或いは生徒に歌わせる)という、命じられた職務に忠実でなければいけないらしい。馬鹿じゃなかろうか。政府や自治体は「思想・信条の自由」ってそんな矮小なものだと思っているのだろうのか。「内心」の思想・信条さえ問わなければ、「行為」としては踏み絵を強制しても、宗教的な迫害にならないというのか。

 マスコミの状況も、本書で言われているとおりなら、ひどい。もっとも右派マスコミだけがひどいのではなくて、反体制とか左派と言われる側も、どんどん知性も品性も無くなっているように思う。

 結局、最後に頼れるものは自分の知性だけかもしれない。そういう点では2人の結論である「自分で考え続けよう」という訴えには共感できる。
コメント
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