見もの・読みもの日記

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記憶と忘却/戦争の世紀を超えて

2004-11-26 00:01:11 | 読んだもの(書籍)
○森達也、姜尚中『戦争の世紀を超えて:その場所で語られるべき戦争の記憶がある』講談社 2004.11

 アウシュビッツ、ザクセンハウゼン、ベルリン、ワルシャワ、そしてソウル、オドゥンサン統一展望台、東京裁判の行われた市ヶ谷記念館など、戦争の記憶を色濃く残す場所を訪ね歩きながら語られた2人の対談集である。

 カラーページの写真では、殺戮の現場に、確かに2人の著者が立っている。そのことがページをめくる私を少し緊張させる。この本は、机上のシミュレーションとして「正義」や「平和」を語るのではなく、実際に人間の血が流された場所で、その記憶と対峙し、いわば自分も血を流す覚悟で、そうした重いテーマを語ろうとしているのだ。

 しかも、この編集者は意地悪だ。何枚かの写真で、2人は記念写真のようにカメラに正対させられている。こんな問答無用の場所に立って、どんな表情をしたらいいというのだろう? しかし、彼らは、緊張や動揺や、解決のつかない居心地悪さを隠そうとせず、悪びれもせず、読者に視線を投げかけている。その姿は、本書の真剣さを担保しているように思われた。

 ポーランドのイエドヴァブネ(初めて聞く地名だった)は、本書のテーマを象徴する場所だ。第二次世界大戦中、ナチスとは全く関係のないポーランド系住民によって、ユダヤ人の大量虐殺が行われた村である。軍部に強制されたわけではない、自由意志を持つ、善良な普通の村人たちが、なぜ、そんな残虐を行い得たのか? 「それは、民族紛争や内戦で善良な人々が相互に殺し合いを演じる構図をぎゅっと圧縮して示しているように思えるのです」と姜尚中は提起する。

 民族性とか宗教とか、共同体の暴走とか、ルサンチマンとか、2人はさまざまな解をあげながら、それら通りのいい説明を注意深く拒んで、どこまでも「加虐者」の真実に喰らいついていこうとする。読み物としてはスリリングだ。しかし、正直いって、普通の市民には少ししんどいかも知れない。たぶん多くの人々は、「ナチス」や「テロリストたち」が狂気の集団として断罪されることを喜ぶだろう。彼らの狂気は、我々の「正気」と「正義」の証明でもある。しかし、野蛮と狂気は、本当に「彼ら」だけのものか。我々の心の中に、同じ加害の轍を踏む可能性は絶対にないのだろうか。

 そして「記憶」と「忘却」の問題。「記憶」がルサンチマンの連鎖を呼ぶだけだとしたら、我々はいっそ全てを忘れたほうがいいのではないか。森達也は言う。「被虐の記憶だけではなく、憎悪の感覚を忘却するメカニズムの構築。でもこれはとても難しい。ならばせめて、歯を食いしばりながら加害した側へ思いを馳せること」だと。

 こういうタフネスに裏付けられた思弁こそ、本当の知性の仕事なのだと思う。タフでなければ、南北朝鮮を隔てるイムジン河を前に「河は浅そうですね。渡る気になればできますね」とつぶやく真性のオプティミストにはなれまい。

 著者の1人、森達也氏はオウム事件を追い続けている影像作家。1995年に起きたオウム真理教事件は、北朝鮮、イラク問題に先んじて、セキュリティと人権を考える絶好のケーススタディだったのだという思いを新たにした。

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