○保立道久『歴史のなかの大地動乱:奈良・平安の地震と天皇』(岩波新書) 岩波書店 2012.8
4月14日の熊本地震のあと、著者がtwitterで「9世紀の貞観地震の後に起きた肥後国の災害に似ている」という趣旨のことをつぶやいておられたのを見て、本書を思い出した。私は、保立先生の著作に関して、80年代の『中世の愛と従属』以来の愛読者であるが、比較的新しい本書には食指が動かなかった。地震かあ。地学って自然科学の中でもなじみが薄くて、用語もよく分かんないし、と思って敬遠してしまったのだが、読んでみたら面白かった。いや、今は日本人必読の書ではないかと思っている。
地震学者の今村明恒(1870-1948)によれば、日本列島の地震には、史料で確認できる限り、(1)7世紀末から9世紀、(2)16世紀末から18世紀初頭、(3)19世紀半ば以降、という三つの「旺盛期」がある。そして、これらの「旺盛期」は必ず「三陸沖に於ける地下大活動」によって代表される。本書は、第一の「旺盛期」に起きた地震・噴火を一つ一つ、政治や社会背景とともに詳細に追っていくのだが、この期を代表するのが、869年(貞観11年)の陸奥貞観大地震なのである。
まず7世紀。664年に新羅の王都・慶州で大地震があった。と聞いてもそれだけの話だが、これが白村江の戦いの翌年と聞くと、当時の東アジアに大きな影響を与えた大事件であったことが推察される。正直、天智天皇はほっとしたことだろう。「隋書」倭国伝には阿蘇山噴火の記事があり、これが日本最古の火山資料だという。天武天皇時代に入ると飛鳥で地震の記事が相次ぎ、筑紫地震(M6.5~7.5)、白鳳南海地震(M8.25)が起きる。理科年表に歴代の推定マグニチュードが記載されていることは覚えておこう。
8世紀、聖武天皇時代には長屋王事件が起きている。それに続く河内・大和地震は、長屋王の怨霊によるものと観念された。8世紀後半には、地震活動は一時的な静謐期に入ったが、代わって火山噴火が活発になる。なるほど、地震と火山噴火って、同時に起こるものではないんだ。大隅国の海底火山の噴火(京都まで音が聞こえた)、別府鶴見岳の噴火、霧島山など。800年(延暦19年)には富士山が噴火。
9世紀の平安京では、新たな怨霊が跋扈し始めていた。皇位の継承をめぐって、後ろめたいところのある淳和天皇は、桓武天皇の怒りを恐れ、京都群発地震におののく。仁明天皇の時代には陸奥の火山噴火が活発になり、蝦夷の騒擾とあわせて王権を悩ませた。そして、地震に呪われたような文徳天皇を経て、清和天皇の時代に貞観地震(M8.3)が起きる。「三代実録」等の史料には、もちろん文飾もあるにせよ、振動、地割れ、家屋の倒壊、津波などの生々しく詳細な記録が残されている。
非常に興味深く思ったのは、怨霊と地震が結びつけられていること。怨霊って、陰気な幽霊みたいなものを想像しがちだったが、もっと猛烈にアクティブなものだったんだな。歴代天皇が「群発地震に悩まされた」と考えると同情が湧く。しかも地震は、巨大な神霊が千万人の軍勢のような足音を立てて、遠くから近づいてくるイメージだったと聞くと、ひしひしと怖い。また今昔物語には、地霊の気配を「気色悪しくて、異なる香ある風の温かなる吹きて渡る」と描写した一節があり、これは静けさの中に怖さがある。
地震は単独の現象としてあるのではなくて、雷電や噴火とつながり、また疫病とも結びついていた。本書は、9世紀までの地震・噴火を紹介したあと、日本人の災害観と神話について論じた「神話の神々から祟り神へ」という章が設けられている。確かに地震神(火山神)のスサノオは、疫神・牛頭天王と同一視されているのだな。9世紀の大地動乱の中で、民衆は、支配層から要請された「王宮の皇神」の復活に背を向け、より強力な祟り神を祀り(御霊会)、地域社会にその霊威を抱え込むことで国家や支配層に対抗しようとした。そして、ついには朝廷自ら御霊会を開催することになる。このあたりの、日本古来といわれる「神道」の変容の歴史は、日本人ならちゃんと知っておきたいもの。
そして、いちばん気になったのは、応天門事件で罪に問われた伴善男は、怨霊になったと考えられるにもかかわらず、史料の上からその痕跡が注意深く消されているという指摘。ただ今昔物語だけがその消息を伝えている。ううむ、史料にはこういうこともあるのだな。貞観地震は伴善男の死去の翌年に起きている。「清和にとっての伴善男は、聖武にとっての長屋王のような存在」と著者は指摘している。
歴史学と神話学と、さらに地震学の知見が盛りだくさんで、多面的に好奇心を刺激される。こういう研究は、史料の読解力にしても考古遺跡の発掘にしても、まず人材の育成に時間を要し、一朝一夕にイノベーションを起こして成果が示せるものではないけれど、絶対守らなければいけないと思った。
※著者のサイト:保立道久の研究雑記
4月14日の熊本地震のあと、著者がtwitterで「9世紀の貞観地震の後に起きた肥後国の災害に似ている」という趣旨のことをつぶやいておられたのを見て、本書を思い出した。私は、保立先生の著作に関して、80年代の『中世の愛と従属』以来の愛読者であるが、比較的新しい本書には食指が動かなかった。地震かあ。地学って自然科学の中でもなじみが薄くて、用語もよく分かんないし、と思って敬遠してしまったのだが、読んでみたら面白かった。いや、今は日本人必読の書ではないかと思っている。
地震学者の今村明恒(1870-1948)によれば、日本列島の地震には、史料で確認できる限り、(1)7世紀末から9世紀、(2)16世紀末から18世紀初頭、(3)19世紀半ば以降、という三つの「旺盛期」がある。そして、これらの「旺盛期」は必ず「三陸沖に於ける地下大活動」によって代表される。本書は、第一の「旺盛期」に起きた地震・噴火を一つ一つ、政治や社会背景とともに詳細に追っていくのだが、この期を代表するのが、869年(貞観11年)の陸奥貞観大地震なのである。
まず7世紀。664年に新羅の王都・慶州で大地震があった。と聞いてもそれだけの話だが、これが白村江の戦いの翌年と聞くと、当時の東アジアに大きな影響を与えた大事件であったことが推察される。正直、天智天皇はほっとしたことだろう。「隋書」倭国伝には阿蘇山噴火の記事があり、これが日本最古の火山資料だという。天武天皇時代に入ると飛鳥で地震の記事が相次ぎ、筑紫地震(M6.5~7.5)、白鳳南海地震(M8.25)が起きる。理科年表に歴代の推定マグニチュードが記載されていることは覚えておこう。
8世紀、聖武天皇時代には長屋王事件が起きている。それに続く河内・大和地震は、長屋王の怨霊によるものと観念された。8世紀後半には、地震活動は一時的な静謐期に入ったが、代わって火山噴火が活発になる。なるほど、地震と火山噴火って、同時に起こるものではないんだ。大隅国の海底火山の噴火(京都まで音が聞こえた)、別府鶴見岳の噴火、霧島山など。800年(延暦19年)には富士山が噴火。
9世紀の平安京では、新たな怨霊が跋扈し始めていた。皇位の継承をめぐって、後ろめたいところのある淳和天皇は、桓武天皇の怒りを恐れ、京都群発地震におののく。仁明天皇の時代には陸奥の火山噴火が活発になり、蝦夷の騒擾とあわせて王権を悩ませた。そして、地震に呪われたような文徳天皇を経て、清和天皇の時代に貞観地震(M8.3)が起きる。「三代実録」等の史料には、もちろん文飾もあるにせよ、振動、地割れ、家屋の倒壊、津波などの生々しく詳細な記録が残されている。
非常に興味深く思ったのは、怨霊と地震が結びつけられていること。怨霊って、陰気な幽霊みたいなものを想像しがちだったが、もっと猛烈にアクティブなものだったんだな。歴代天皇が「群発地震に悩まされた」と考えると同情が湧く。しかも地震は、巨大な神霊が千万人の軍勢のような足音を立てて、遠くから近づいてくるイメージだったと聞くと、ひしひしと怖い。また今昔物語には、地霊の気配を「気色悪しくて、異なる香ある風の温かなる吹きて渡る」と描写した一節があり、これは静けさの中に怖さがある。
地震は単独の現象としてあるのではなくて、雷電や噴火とつながり、また疫病とも結びついていた。本書は、9世紀までの地震・噴火を紹介したあと、日本人の災害観と神話について論じた「神話の神々から祟り神へ」という章が設けられている。確かに地震神(火山神)のスサノオは、疫神・牛頭天王と同一視されているのだな。9世紀の大地動乱の中で、民衆は、支配層から要請された「王宮の皇神」の復活に背を向け、より強力な祟り神を祀り(御霊会)、地域社会にその霊威を抱え込むことで国家や支配層に対抗しようとした。そして、ついには朝廷自ら御霊会を開催することになる。このあたりの、日本古来といわれる「神道」の変容の歴史は、日本人ならちゃんと知っておきたいもの。
そして、いちばん気になったのは、応天門事件で罪に問われた伴善男は、怨霊になったと考えられるにもかかわらず、史料の上からその痕跡が注意深く消されているという指摘。ただ今昔物語だけがその消息を伝えている。ううむ、史料にはこういうこともあるのだな。貞観地震は伴善男の死去の翌年に起きている。「清和にとっての伴善男は、聖武にとっての長屋王のような存在」と著者は指摘している。
歴史学と神話学と、さらに地震学の知見が盛りだくさんで、多面的に好奇心を刺激される。こういう研究は、史料の読解力にしても考古遺跡の発掘にしても、まず人材の育成に時間を要し、一朝一夕にイノベーションを起こして成果が示せるものではないけれど、絶対守らなければいけないと思った。
※著者のサイト:保立道久の研究雑記