○河西晃祐『大東亜共栄圏:帝国日本の南方体験』(講談社選書メチエ) 講談社 2016.8
加藤陽子さんの『戦争まで』(朝日新聞社、2016)を読んで、ああ、専門家が史料を読むと、こんなことが分かるんだ、と文字どおり瞠目した箇所がたくさんあった。なかでも、日本が三国同盟を結んだのは「戦後のドイツ」を牽制するためだったという説が非常に印象的で、これを唱えている「河西晃祐さん」という名前を記憶に刻んだ。
本書は「大東亜共栄圏」ということば(思想)の誕生から、その実態、戦後アジア地域にもたらしたものを考える。1940年8月1日、外務大臣の松岡洋右は、初めて「大東亜共栄圏」という用語を談話で公表した。翌日、ドイツ大使との外交交渉で日本の勢力圏を認めさせるために、松岡はこの用語を用いている。つまり、そもそもこの用語は、来たるべき講和会議でドイツの植民地再編の対象から東南アジア地域を外させるために発案された「外交スローガン」に過ぎなかった。
にもかかわらず、いったん発せられた「スローガン」がじわじわと内実(のようなもの)を獲得していく。1941年7月の御前会議では、大東亜共栄圏の建設は日本の国是とされ、その実現のためには「対英米戦を辞せず」と定められる。この頃(1940~41年)、新聞メディアや総合雑誌は大東亜共栄圏構想を好んで取り上げ、「八紘一宇」「亜細亜の解放」が同時に喧伝されるようになった。特に松岡洋右は、八紘一宇というスローガンを多用して「街頭の人気は、まさに圧倒的」だったという記述を読むと、だいたいどんな人物だったのか目に浮かぶ。一方、政策決定の中枢部では、1942年に至って、杉山参謀総長が「大東亜共栄圏とあるもその範囲如何」と問いかけても、閣僚・官僚が誰も明確に答えられなかったり、国防圏・資源圏・共栄圏に差異はあるのか否かの議論をしている。1942年でこの体たらくなのだ。
けれども戦線は拡大し、占領地軍政が開始される。大東亜共栄圏の現場に投げ出された兵士や軍属の認識を探るため、著者は、将兵全員に配布されたという小冊子『これだけ読めば戦は勝てる』を取り上げる。いわく、「日本は東洋の先覚として(略)泰国や安南人、比律賓人等の独立を助け、南洋土人や印度人の幸福をもたらしてやる大使命を与へられて居る」。こういう使命感の表明に高揚する日本人は今でもいるんだろうな。しかし、これに続く「土人を可愛がれ、併し過大な期待はかけられぬ」という文言のほうに、日本の東亜認識の本音が見えると言えるだろう。
本書は、マレー・スマトラ、インド、タイ、ビルマ、フィリピンなど、各地域における政治主体の確立と日本の関与をひとつずつ記述していく。私は東アジア地域に比べると東南アジアへの関心が薄く、こうした歴史は知らないことばかりだった。本書によれば、日本を指導者とする大東亜共栄圏において、タイをはじめとする国々の民族指導者は(そして国民も)日本に抗い続ける。それはそうだろう。「土人を可愛がれ」という認識で「アジアの解放」が成し遂げられるとは思わない。
しかし興味深いのは、空疎な大東亜共栄圏構想の下に、現実の東南アジアを体験した日本人に、認識の変容が見られることだ。徴用作家としてビルマに赴いた経験のある高見順は、終戦の日の日記に「ビルマはどうなるだろう。ビルマには独立が許されてほしい」と記す。かつてF機関を率いてINA(インド国民軍)と共闘した藤原岩市は、回想録の諸所に、INAの意思を尊重しなかった陸軍中央への批判を記し、自らがINAを支援した実績よりも、インド人が主体となって植民地支配からの脱却を果たした歴史を後世に伝えようとした。ビルマ、インドネシア、ヴェトナムの独立は、大東亜共栄圏の構想とはほぼ無関係に、そこに住む人々の「すさまじい独立抗争と民族の雄叫び」によってもぎとられたものであることを藤原は感得している。逆説的には、こういう認識の日本人を生んだことが、大東亜共栄圏のひとつの成果なのかもしれない。
実は、日本人だけではない。本書「おわりに」は、大東亜共栄圏の下で東南アジアを体験した日本人が、戦後、日本と東南アジアの学術交流に携わった例とともに、日本を体験した東南アジアの人々(南方特別留学生)が、同様の役割を果たした例を淡々とリストアップしている。この最後の2ページ足らずの、事実のみの簡潔な記述に行きついたとき、なんだか涙で視界が曇ってしまった。過酷な戦争、崇高な理想を伴っていたとはとても思えない「大東亜共栄圏」という虚像、それでも生身の人間どうしが向き合う中で、これだけの豊かな交流の種が蒔かれていたことは感慨深い。
加藤陽子さんの『戦争まで』(朝日新聞社、2016)を読んで、ああ、専門家が史料を読むと、こんなことが分かるんだ、と文字どおり瞠目した箇所がたくさんあった。なかでも、日本が三国同盟を結んだのは「戦後のドイツ」を牽制するためだったという説が非常に印象的で、これを唱えている「河西晃祐さん」という名前を記憶に刻んだ。
本書は「大東亜共栄圏」ということば(思想)の誕生から、その実態、戦後アジア地域にもたらしたものを考える。1940年8月1日、外務大臣の松岡洋右は、初めて「大東亜共栄圏」という用語を談話で公表した。翌日、ドイツ大使との外交交渉で日本の勢力圏を認めさせるために、松岡はこの用語を用いている。つまり、そもそもこの用語は、来たるべき講和会議でドイツの植民地再編の対象から東南アジア地域を外させるために発案された「外交スローガン」に過ぎなかった。
にもかかわらず、いったん発せられた「スローガン」がじわじわと内実(のようなもの)を獲得していく。1941年7月の御前会議では、大東亜共栄圏の建設は日本の国是とされ、その実現のためには「対英米戦を辞せず」と定められる。この頃(1940~41年)、新聞メディアや総合雑誌は大東亜共栄圏構想を好んで取り上げ、「八紘一宇」「亜細亜の解放」が同時に喧伝されるようになった。特に松岡洋右は、八紘一宇というスローガンを多用して「街頭の人気は、まさに圧倒的」だったという記述を読むと、だいたいどんな人物だったのか目に浮かぶ。一方、政策決定の中枢部では、1942年に至って、杉山参謀総長が「大東亜共栄圏とあるもその範囲如何」と問いかけても、閣僚・官僚が誰も明確に答えられなかったり、国防圏・資源圏・共栄圏に差異はあるのか否かの議論をしている。1942年でこの体たらくなのだ。
けれども戦線は拡大し、占領地軍政が開始される。大東亜共栄圏の現場に投げ出された兵士や軍属の認識を探るため、著者は、将兵全員に配布されたという小冊子『これだけ読めば戦は勝てる』を取り上げる。いわく、「日本は東洋の先覚として(略)泰国や安南人、比律賓人等の独立を助け、南洋土人や印度人の幸福をもたらしてやる大使命を与へられて居る」。こういう使命感の表明に高揚する日本人は今でもいるんだろうな。しかし、これに続く「土人を可愛がれ、併し過大な期待はかけられぬ」という文言のほうに、日本の東亜認識の本音が見えると言えるだろう。
本書は、マレー・スマトラ、インド、タイ、ビルマ、フィリピンなど、各地域における政治主体の確立と日本の関与をひとつずつ記述していく。私は東アジア地域に比べると東南アジアへの関心が薄く、こうした歴史は知らないことばかりだった。本書によれば、日本を指導者とする大東亜共栄圏において、タイをはじめとする国々の民族指導者は(そして国民も)日本に抗い続ける。それはそうだろう。「土人を可愛がれ」という認識で「アジアの解放」が成し遂げられるとは思わない。
しかし興味深いのは、空疎な大東亜共栄圏構想の下に、現実の東南アジアを体験した日本人に、認識の変容が見られることだ。徴用作家としてビルマに赴いた経験のある高見順は、終戦の日の日記に「ビルマはどうなるだろう。ビルマには独立が許されてほしい」と記す。かつてF機関を率いてINA(インド国民軍)と共闘した藤原岩市は、回想録の諸所に、INAの意思を尊重しなかった陸軍中央への批判を記し、自らがINAを支援した実績よりも、インド人が主体となって植民地支配からの脱却を果たした歴史を後世に伝えようとした。ビルマ、インドネシア、ヴェトナムの独立は、大東亜共栄圏の構想とはほぼ無関係に、そこに住む人々の「すさまじい独立抗争と民族の雄叫び」によってもぎとられたものであることを藤原は感得している。逆説的には、こういう認識の日本人を生んだことが、大東亜共栄圏のひとつの成果なのかもしれない。
実は、日本人だけではない。本書「おわりに」は、大東亜共栄圏の下で東南アジアを体験した日本人が、戦後、日本と東南アジアの学術交流に携わった例とともに、日本を体験した東南アジアの人々(南方特別留学生)が、同様の役割を果たした例を淡々とリストアップしている。この最後の2ページ足らずの、事実のみの簡潔な記述に行きついたとき、なんだか涙で視界が曇ってしまった。過酷な戦争、崇高な理想を伴っていたとはとても思えない「大東亜共栄圏」という虚像、それでも生身の人間どうしが向き合う中で、これだけの豊かな交流の種が蒔かれていたことは感慨深い。