○宮台真司、北田暁大『限界の思考:空虚な時代を生き抜くための社会学』 双風舎 2005.10
宮台真司はどうも気に入らない、とか言いながら、このところ、彼の対談本が出るたびに読んでいる。2003年の姜尚中との対談『挑発する知』、2004年の仲正昌樹との対談『日常・共同体・アイロニー』など。しかし、それらが、具体的な政治・社会状況を踏まえて語られている分、読みやすかったのに対して、本書は、思索的・理論的で、正直、私のような社会学の素人には「しんどかった」。
しかし、時間をかけてでも、読み抜く価値のある1冊だと思う。本書は、あとがきの簡潔な表現を借りれば、「北田さんと私(宮台)がなぜ社会学を思考するのかという根本的な動機づけについて、徹底的に語りあった対談集」である。宮台は、「私自身はこれ以上あり得ないほど語りつくした。その意味で、まるで遺作のごとき趣きだ」とも語っている。
確かにそんな感じだ。宮台は、「内在系」に充足しているように見えた若者が、90年代以降、次々に精神を病んでいくのを見て、「終わりなき日常を生きろ!」という呼びかけを引っ込め、「天皇」や「アジア主義」を持ち出し、かつ、それが「あえてするコミットメント」であることを公言している。北田は、本書の冒頭でそのことを確認しつつ、自分は「意味なき世界」を肯定する立場で、もう少し粘ってみたいと控えめに述べ、かつ、なぜ「あえてする」ロマン主義の対象が「アジア主義」でなければいけないのか、という点に、愚直に食い下がり続ける。
結局、北田の「宮台真司奪還作戦」は失敗するのだが、後輩の真剣な問いかけに、宮台も誠意を尽くして応答している。「ベタ」「ウヨ」「祭り」など言葉は軽いし、「とんねるずの子ども」「ファンロードにおける成田美名子問題」「がきデカからマカロニほうれん荘へ」などサブカル的隠喩を随処に盛り込んだ本書は、しかし、間違いなく、現代日本で望み得る最高に知的な対談である。そして(これは北田の功だと思うのだが)読み進むに連れて、宮台の語り口から、「あえてする」諧謔味が薄れ、素直な思想の骨格が顕わになっていく趣きがある。
宮台は言う。僕はリベラリストなので、自由じゃない人を見るとイライラする。オブセッシブ(強迫的)な連中を見ると、「もう少し楽に生きようよ」と言いたくなる。この強迫を解除するものが教養――自分の見聞を広め、「目からウロコ」もしくは「ハシゴを外される」体験を繰り返し、そのたびに世界の中の自分を新たにポジショニングしなおす作業である。「『教養(主義)と諧謔のコンビネーション』が、僕ら原新人類世代の共通感覚じゃないかな」と彼はつぶやく。
ああ、分かる。私も「原新人類世代(70年代半ばに中高生だった)」なのだが、いいトシをして、コムズカシイ本を読み続け、世界の中で「自分をずらす」こと(それによって、自分の「自由」を確認すること)に快感を見出し続けているのは、世代的特性なのかもしれない。なんだか、初めて、宮台真司に同世代の共感のようなものを感じてしまった。
宮台はまた、教養主義とともに、歴史意識を持つことの重要性を挙げる。世界に時間軸を導入し、「いま、ここ」を相対化できれば、人はもっと気楽に生きられる、という。
「歴史の召喚」は、個々人のオブセッションの回避策としてあるだけではない。日本では、明治の民権運動ののち、国粋主義が強大化し、「アジア主義」や「右翼」の意味が変質していった。「僕たちはもっと頼りになる虚構を作れたかもしれないのに、それができていない」。それは「なぜか」が問われなければならない――これを読んだとき、彼が、新たな「アジア主義」の提唱を通して問い直そうとしているものが何か、ようやく少し分かった気がした。
宮台真司はどうも気に入らない、とか言いながら、このところ、彼の対談本が出るたびに読んでいる。2003年の姜尚中との対談『挑発する知』、2004年の仲正昌樹との対談『日常・共同体・アイロニー』など。しかし、それらが、具体的な政治・社会状況を踏まえて語られている分、読みやすかったのに対して、本書は、思索的・理論的で、正直、私のような社会学の素人には「しんどかった」。
しかし、時間をかけてでも、読み抜く価値のある1冊だと思う。本書は、あとがきの簡潔な表現を借りれば、「北田さんと私(宮台)がなぜ社会学を思考するのかという根本的な動機づけについて、徹底的に語りあった対談集」である。宮台は、「私自身はこれ以上あり得ないほど語りつくした。その意味で、まるで遺作のごとき趣きだ」とも語っている。
確かにそんな感じだ。宮台は、「内在系」に充足しているように見えた若者が、90年代以降、次々に精神を病んでいくのを見て、「終わりなき日常を生きろ!」という呼びかけを引っ込め、「天皇」や「アジア主義」を持ち出し、かつ、それが「あえてするコミットメント」であることを公言している。北田は、本書の冒頭でそのことを確認しつつ、自分は「意味なき世界」を肯定する立場で、もう少し粘ってみたいと控えめに述べ、かつ、なぜ「あえてする」ロマン主義の対象が「アジア主義」でなければいけないのか、という点に、愚直に食い下がり続ける。
結局、北田の「宮台真司奪還作戦」は失敗するのだが、後輩の真剣な問いかけに、宮台も誠意を尽くして応答している。「ベタ」「ウヨ」「祭り」など言葉は軽いし、「とんねるずの子ども」「ファンロードにおける成田美名子問題」「がきデカからマカロニほうれん荘へ」などサブカル的隠喩を随処に盛り込んだ本書は、しかし、間違いなく、現代日本で望み得る最高に知的な対談である。そして(これは北田の功だと思うのだが)読み進むに連れて、宮台の語り口から、「あえてする」諧謔味が薄れ、素直な思想の骨格が顕わになっていく趣きがある。
宮台は言う。僕はリベラリストなので、自由じゃない人を見るとイライラする。オブセッシブ(強迫的)な連中を見ると、「もう少し楽に生きようよ」と言いたくなる。この強迫を解除するものが教養――自分の見聞を広め、「目からウロコ」もしくは「ハシゴを外される」体験を繰り返し、そのたびに世界の中の自分を新たにポジショニングしなおす作業である。「『教養(主義)と諧謔のコンビネーション』が、僕ら原新人類世代の共通感覚じゃないかな」と彼はつぶやく。
ああ、分かる。私も「原新人類世代(70年代半ばに中高生だった)」なのだが、いいトシをして、コムズカシイ本を読み続け、世界の中で「自分をずらす」こと(それによって、自分の「自由」を確認すること)に快感を見出し続けているのは、世代的特性なのかもしれない。なんだか、初めて、宮台真司に同世代の共感のようなものを感じてしまった。
宮台はまた、教養主義とともに、歴史意識を持つことの重要性を挙げる。世界に時間軸を導入し、「いま、ここ」を相対化できれば、人はもっと気楽に生きられる、という。
「歴史の召喚」は、個々人のオブセッションの回避策としてあるだけではない。日本では、明治の民権運動ののち、国粋主義が強大化し、「アジア主義」や「右翼」の意味が変質していった。「僕たちはもっと頼りになる虚構を作れたかもしれないのに、それができていない」。それは「なぜか」が問われなければならない――これを読んだとき、彼が、新たな「アジア主義」の提唱を通して問い直そうとしているものが何か、ようやく少し分かった気がした。