見もの・読みもの日記

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被服、食糧、医療などから/日本軍兵士(吉田裕)

2018-01-14 23:52:34 | 読んだもの(書籍)
〇吉田裕『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書) 中央公論新社 2017.12

 本書は、アジア・太平洋戦争を三つの問題意識を意識しながら、戦争の現実を描き出したものである。一つ目は戦後歴史学を問い直すこと。具体的には、戦後歴史学が主に開戦までの経緯と終戦後の占領政策に着目し、戦争それ自体に手をつけなかったこと(門外漢には分かりにくいが、これは「戦史」という別分野の対象とされる)への反省である。二つ目は「兵士の目線」で「兵士の立ち位置」から戦場をとらえ直してみること。三つ目は「帝国陸海軍」の軍事的特性との関連を明らかにすること、と冒頭に述べられている。

 多くの部隊史や兵士の回想記に基づく内容は、微に入り細に入り、具体的である。日本軍が兵站を軽視した結果、膨大な戦病死者と餓死者を生んだこと、技術力の絶対的な優劣を認めず、「日本精神」を過信し続けたことなど、基本的には聞いてきたとおりだったが、被服、装備、食糧、医療など、具体的な記述によって、その凄惨さがあらためて身に沁みる。

 日本軍が「内外の戦史に類を見ない異常な高率」の餓死者(61%とも37%とも)を生んだことは周知の事実である。さらに大量の海没死がある。これは、日本軍の輸送船の大部分が徴用した貨物船で、船底の狭い居住区画に多数の兵員を押し込めていたためだ。乗船の際に発狂する者もあったという。攻撃を受けて船が沈没した場合は、ボートや浮遊物の奪い合いになった。詳しくは書かないが「水中爆傷」というのも酷いと思った。こんな死に方はしたくない。

 また自殺者(殺してくれと頼んで楽にしてもらったものを含む)も多かった。捕虜になることが禁じられたため、退却の際、自力で動くことのできない傷病兵は、自決を迫られるか、軍医や衛生兵によって「処置」された。軍医もいい面の皮だ。医者の仕事じゃない。

 医療・衛生の軽視もだいたい分かっていたことだが、特に歯科治療について、欧米と圧倒的な差があったことが指摘されていて興味深かった。結核の蔓延(一個師団相当が結核で除役)が問題になっていたというのには呆れた。それから、国民皆兵化によって知的障害者の入隊が増えたり、戦場での非人間的な体験によって精神疾患を病む者が目立つようになる。しかし、軍は神経症をタブー視して「疲労」という言葉に置き換え、疲労回復や眠気防止の効用をうたった覚醒剤のヒロポンが常用された。ちなみに欧米諸国では、第一次世界大戦の経験に学んで、前線の兵士たちを後方に下げて休養をとらせる休暇制度が整備されていた、という記述に暗澹とする。日本の文化は、なぜこうも休養の必要性をみとめたがらないのか。

 モノをめぐって印象的だったのは軍靴である。明治初年の建軍以来、牛革でつくられていた軍靴は、馬革、豚革になり、昭和19年には鮫皮が用いられた。防水性が全くなかったという。壊れやすく、補給もなかったため、前線では行軍の際、住民から徴発(略奪)したつっかけ草履や支那靴、あるいは草鞋、裸足にボロ布を巻いている者もいたという。まるで戦国時代の足軽である。

 軍靴の製造にミシンが必要であることは想像がつく。もうひとつ、どうしても必要な材料は、頑丈な縫糸となる亜麻糸だった。しかし、日本で亜麻を産するのは冷涼な北海道だけで、すぐに需要が生産に追いつかなくなってしまった。戦争を遂行するには、兵器だけでなく、衣食住にわたる必需品が何か、それを生産するための原材料を自給できるかまで、きちんと考量しなければならないのだ。

 兵士にとって飯盒も重要だったんだなあ。「命綱」とさえ言われている。水を飲むにも、野生の草を煮て食べるにも飯盒は必需品だった。だから飯盒の盗難も頻発したという。戦争末期には竹筒の水筒しか持たない兵が増えていったと聞いて、ほんとに足軽だと思った。また、陸軍は通信の必要性に対する認識が低く、無線は有線の補助手段と考えており、有線が切られたときは伝令か伝書鳩に頼ったというのには眩暈がした。

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