見もの・読みもの日記

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背広の男/落日燃ゆ(城山三郎)

2008-05-20 22:09:28 | 読んだもの(書籍)
○城山三郎『落日燃ゆ』(新潮文庫) 新潮社 1986.11

 何度も繰り返すが、高校時代に日本史を習わなかった私は、近代史を大の苦手としてきた。近年になって、この時代に関する回想録や評伝――松本重治の『上海時代』『近衛時代』や、保阪正康の『東條英機と天皇の時代』などを読み、元総理、外交官の、広田弘毅の名前もようやく覚えた。「協和外交」を主張し、軍部の圧力に粘り強く抗し、戦争防止につとめた政治家だと認識している。

 だから、たまたま書店で本書を手に取って、裏表紙の「東京裁判で絞首刑を宣告された七人のA級戦犯のうち、ただ一人の文官」という解説が目に入ったときは、え?と驚いてしまった。そうなのだ。靖国問題について、B・C級戦犯はともかく、A級戦犯の合祀には問題がある、とか分かったように論じながら、実はそのA級戦犯って誰と誰?何をした人?ということを、私は全く把握していなかったのである、恥ずかしながら。今回、Wikipediaの「A級戦犯」の項を読み直して、処刑された7人と、合祀された14人(獄中死者を含む)の顔ぶれをよく頭に入れた。やっぱり、広田弘毅がこの中にいるのは違和感がある。

 東京裁判の不当性を軽々しく言い立てる最近の風潮に、私は同調したくない。異議申し立ての背後に「力の論理」が感じられるからだ。でも、それにしても本書を読んでいると、ひどい裁判だったんだなあ、と思う。検事団は、日本の歴史や政治構造についての予備知識に欠けた。そのため、彼らの国の体制から類推して、「共同謀議があったはずだ」「軍人は文民の統制下で動くはずだ」という思い込みに左右された。また、広田が、国粋主義団体として著名な玄洋社の幹部の娘を妻にしていたことが、検事団の心証に影響を与えたという説もある(本書によれば、この頃、既に玄洋社は政治活動を止めて修養団体になっていたという)。

 広田の妻・静子は、裁判の最中に自害した。獄中にある夫の覚悟を察知し、少しでもその負担を軽くしようとしたと言われる。けれども、広田が獄中から家族に宛てた手紙は、最後まで「シヅコドノ」で結ばれていた。著者は、淡々とその事実を記すのみだが、胸に残るエピソードである。

 本作は昭和49年(1974)に書き下ろされた。冒頭には、戦犯7人の遺骨が納められた伊豆の興亜観音に、昭和34年(1959)、「七士の碑」が建てられることになり、ゆかりの人々が集まって盛大な建立式が行われたこと、にもかかわらず、広田の遺族は一人も姿を見せなかったことが記されている。広田には、せめて死後くらい「ひとりだけ別の人生があるべきであった」と、著者は遺族の気持ちを慮って書いている。けれども、その後、1978年には、靖国神社がA級戦犯14人を「昭和殉難者」として合祀(79年4月判明)。広田の遺族の気持ちは如何ばかりだったろうか。

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