見もの・読みもの日記

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中華天子の夢/永楽帝(檀上寛)

2013-03-29 00:34:03 | 読んだもの(書籍)
○檀上寛『永楽帝:華夷秩序の完成』(講談社学術文庫) 講談社 2012.12

 最後にあとがきを読んで、本書の原著が『永楽帝:中華「世界システム」への夢』(選書メチエ、1997)であることを知った。たぶん書店の棚で何度か見ているはずだ。でも中身に既読感はなかったから、今回が初読だと思う。私は、もともと中国の古代史が好きで、のちに近現代史にも関心を持つようになったが、中途に挟まれた「明」という王朝は、最後までよく分からなかった。

 それが、たまたま1年ほど前、『大明帝国 朱元璋』という中華ドラマを見た。朱元璋を演ずる胡軍(フー・ジュン)という俳優さんが好きで見始めたのだが、全46話を完走して、明王朝成立の過程と登場人物がだいたい分かるようになった。おかげで本書も非常にスムーズに読めた。やっぱり映像の力はあなどれない。ドラマは朱元璋の死によって幕を下ろすのだが、その後、早世した皇太子・朱標の息子の建文帝から皇位を簒奪したのが、叔父の朱棣(のちの永楽帝)である。ドラマには、まだ元気いっぱいの初々しい若者として登場する朱棣(朱元璋の四男)を見ながら、これがのちの永楽帝か~と感慨にふけったものだ。

 洪武帝・朱元璋が打ち立て、永楽帝が確立した「明初体制」というのは、誰が見ても魅力的とは言い難い。岸本美緒氏は「固い」体制と表現しているそうだが、強大な権力を付託された皇帝が、社会を統制し、秩序を維持する体制。それは中国社会の「体制的帰結(完成)」であり、同時に新しい時代への分岐点でもあった、と本書は述べている。

 貧農から身を起こした朱元璋が、広大な国土を掌握し、権力の正統性を確立するには、恐怖と独善を伴う強固な専制体制が必要であったことはうなずける。悪名高い「三跪九叩頭」の礼も朱元璋のときに始まったものだという。しかし朱元璋は、単なる戦争上手ではなく、統治手法をよく勉強し、政務に恪勤した皇帝でもあった。1日二百通あまりの上奏文に目を通し、四百件以上の案件を処理したというのだから呆れる。このくらいこなせないと大中国の皇帝は務まらないのだ。

 そして、簒奪者の負い目をもって皇位についた永楽帝も、中華の天子として、周辺諸国を取り込んだ華夷秩序を打ち立てることに、狂おしいまでの情念を注ぎ込んだ皇帝だった。建文朝の四年間は正史から「革除」され、洪武帝の『太祖実録』は再々編纂が命じられて、三修本で決着した。初修本と再修本は破棄されて伝わらないという。中国って怖いなあ。でも中国の正史に伝わらない史実が、隣国の『朝鮮王朝実録』から窺えることもある、というのは面白かった。

 日本と中国の間に、遣唐使の廃止以来途絶えていた正式な国交が結ばれたのは永楽帝のときである。これを「屈辱外交」と見て非難する立場を、本書は「見当違いもはなはだしい」と退ける。15世紀初頭の東アジアは、永楽帝の主導のもと、急速に国際秩序が回復していったが、周辺諸国の側が、自政権の正当化や貿易のため、主体的に華夷秩序を利用しようとしたことが、この時期の特徴であるという。足利義満と永楽帝の間も、一種「持ちつ持たれつ」の面があった。え~本当かな。私は中国かぶれの足利義満が、平清盛と同じくらい好きなんだけど、面白い。

 そして、華やかな「永楽の盛世」を実現したかに伝えられる永楽帝の最期が、意外に寂しいものであることは初めて知った。持病に苦しみ、モンゴル親征の最中、内モンゴル自治区の楡木川で急逝したという。反対勢力の多い南京を嫌って北京遷都を敢行したが、不満はくすぶり続け、落雷によって紫禁城が炎上した際は、多くの官僚が南京還都を奏上し、天子の沽券は丸潰れになった。なんとなく清盛の福原遷都を思わせるエピソードである。

 息子の洪熙帝は南京還都を実現しようとしたが、在位10か月で崩御し、次の宣徳帝は遷都の意思がなかったため、北京が首都として今日に至ることになった。紫禁城(故宮)に行くと、清朝の宮城というイメージが強いのだが、次回はぜひ永楽帝のことを考えながら歩いてみたい。

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