〇岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ:朝鮮出兵から日露戦争へ』(叢書 東アジアの近現代史:第1巻) 講談社 2017.3
岡本隆司さんの本は、2006年の『属国と自主のあいだ』以来、愛読している。先日、久しぶりに『袁世凱』(岩波新書、2015)を読んだら、やっぱり面白かったので、気になっていた本書も読んでみることにした。本書は、16世紀後半の明朝を中心とする東アジア秩序の動揺に始まり、「大清国(ダイチン・グルン)の建国、入関、明朝滅亡、清朝の盛世、衰退、清末の動乱、1911年の辛亥革命までを記述する。
清朝の歴史は大好きなので、何度読んでも楽しい。だいたい知っていることをなぞり直す感じだったが、初めて知ったこともある。ひとつは「康熙・乾隆」と並び称される最盛期、17世紀後半の康熙時代はデフレ不況で、18世紀後半の乾隆時代はインフレ好況だったという分析。康熙の不況の一因は日中貿易の衰退である。しかし17世紀末に、日本に代わって西洋諸国から銀が流入し始め、好況に転じたのである。なお、二つの時代の間にある、雍正帝による引き締め・改革を、著者は高く評価している。だいたい中国史の研究者には、雍正帝好きが多いように思う。
康熙帝も稀代の英主であるが、一面では漢人読書人への「迎合」であると著者は冷徹な評価を下している。満洲人皇帝は、漢人世界の「入り婿」であり、名君であることが清朝皇帝の宿命だった。その「迎合」を断ち切ったのが雍正帝である。雍正帝が『大義覚迷録』で用いた「華夷一家」という言葉は、元来、明の永楽帝が言い始めたフレーズで、華(漢人)と夷(異民族)を「差別隔絶した上で、一つにする」ものだった。それに対し、雍正帝は漢人と異民族を差別しないところから出発した。そう、同じフレーズでも、時代により使用者により、意味が全く変わるのだ。雍正帝の思想と行動は画期的である。しかし、新しい秩序も「華」と「夷」で形づくられている以上、もとの華夷秩序に回帰する運命にあった、と著者は用心深く付け加えている。
乾隆帝はもとより暗君ではなかったが、その名実は虚栄誇大に費やされている、と著者の評価は厳しい。まあ仕方ないな。でも「バブル世代の旗手・贅沢の権化」の乾隆帝がいなかったら、清朝の歴史はずいぶん寂しかったと思う。続く嘉慶帝・道光帝は「盛世のあとしまつ」に追われたが、二帝とも聡明かつ良心的で「真摯という点なら、乾隆帝をはるかに凌駕するだろう」という評価は嬉しい。しかし、すでに清朝の社会は巨大化・複雑化し、皇帝独裁では処理しきれない状態になっていた。たとえ雍正帝が生まれ変わっても無理だったろう、という記述に、感慨深く納得する。いよいよ清末。曽国藩、李鴻章、袁世凱らの活躍にもかかわらず、清朝の「解体」は進み、終焉を迎える。
著者は「むすび」に「清朝は使命をもって生まれ、それを果たし、役割を終えると消えていった」と記す。こういうダイナミズムは、日本史ではなかなか味わえない感覚ではないかと思う。清朝の使命とは16世紀東アジアの混沌を収めることで、明朝がつくりあげた「朝貢一元体制」(華夷秩序)が機能しなくなった状態を、それぞれの地域に適応した関係を個別に選択することで収拾し、平和と繁栄を築き上げた。清朝は、在地在来の政治体制(モンゴルにはモンゴルの秩序、チベットにはチベットの秩序、等々)を尊重し、多元的な共存体制を構築した。それゆえ、「清朝が新たに創造したものは少ない」と言われるけれど、私はこの王朝が好きである。
その後の東アジアは、明治日本が先鞭をつけた「国民国家」という名の一元支配が通例となって現在に至る。むろん中国も例外ではない。上下関係の固定化した封建社会よりは、民主的な近代社会のほうが生きやすいのは間違いない。しかし、旧社会の多元性に対する肯定には、少し郷愁を誘われ、学ぶべきところもあるように思う。

清朝の歴史は大好きなので、何度読んでも楽しい。だいたい知っていることをなぞり直す感じだったが、初めて知ったこともある。ひとつは「康熙・乾隆」と並び称される最盛期、17世紀後半の康熙時代はデフレ不況で、18世紀後半の乾隆時代はインフレ好況だったという分析。康熙の不況の一因は日中貿易の衰退である。しかし17世紀末に、日本に代わって西洋諸国から銀が流入し始め、好況に転じたのである。なお、二つの時代の間にある、雍正帝による引き締め・改革を、著者は高く評価している。だいたい中国史の研究者には、雍正帝好きが多いように思う。
康熙帝も稀代の英主であるが、一面では漢人読書人への「迎合」であると著者は冷徹な評価を下している。満洲人皇帝は、漢人世界の「入り婿」であり、名君であることが清朝皇帝の宿命だった。その「迎合」を断ち切ったのが雍正帝である。雍正帝が『大義覚迷録』で用いた「華夷一家」という言葉は、元来、明の永楽帝が言い始めたフレーズで、華(漢人)と夷(異民族)を「差別隔絶した上で、一つにする」ものだった。それに対し、雍正帝は漢人と異民族を差別しないところから出発した。そう、同じフレーズでも、時代により使用者により、意味が全く変わるのだ。雍正帝の思想と行動は画期的である。しかし、新しい秩序も「華」と「夷」で形づくられている以上、もとの華夷秩序に回帰する運命にあった、と著者は用心深く付け加えている。
乾隆帝はもとより暗君ではなかったが、その名実は虚栄誇大に費やされている、と著者の評価は厳しい。まあ仕方ないな。でも「バブル世代の旗手・贅沢の権化」の乾隆帝がいなかったら、清朝の歴史はずいぶん寂しかったと思う。続く嘉慶帝・道光帝は「盛世のあとしまつ」に追われたが、二帝とも聡明かつ良心的で「真摯という点なら、乾隆帝をはるかに凌駕するだろう」という評価は嬉しい。しかし、すでに清朝の社会は巨大化・複雑化し、皇帝独裁では処理しきれない状態になっていた。たとえ雍正帝が生まれ変わっても無理だったろう、という記述に、感慨深く納得する。いよいよ清末。曽国藩、李鴻章、袁世凱らの活躍にもかかわらず、清朝の「解体」は進み、終焉を迎える。
著者は「むすび」に「清朝は使命をもって生まれ、それを果たし、役割を終えると消えていった」と記す。こういうダイナミズムは、日本史ではなかなか味わえない感覚ではないかと思う。清朝の使命とは16世紀東アジアの混沌を収めることで、明朝がつくりあげた「朝貢一元体制」(華夷秩序)が機能しなくなった状態を、それぞれの地域に適応した関係を個別に選択することで収拾し、平和と繁栄を築き上げた。清朝は、在地在来の政治体制(モンゴルにはモンゴルの秩序、チベットにはチベットの秩序、等々)を尊重し、多元的な共存体制を構築した。それゆえ、「清朝が新たに創造したものは少ない」と言われるけれど、私はこの王朝が好きである。
その後の東アジアは、明治日本が先鞭をつけた「国民国家」という名の一元支配が通例となって現在に至る。むろん中国も例外ではない。上下関係の固定化した封建社会よりは、民主的な近代社会のほうが生きやすいのは間違いない。しかし、旧社会の多元性に対する肯定には、少し郷愁を誘われ、学ぶべきところもあるように思う。