見もの・読みもの日記

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黒死病から見えるもの/ペスト大流行(村上陽一郎)

2020-05-24 22:43:46 | 読んだもの(書籍)

〇村上陽一郎『ペスト大流行:ヨーロッパ中世の崩壊』(岩波新書) 岩波書店 1983.3

 新型コロナウイルスの影響で、感染症の関連本が話題になっている。たまたまSNSに流れてきた情報で、本書の存在を教えられ、読んでみようと思った。営業再開した神保町の三省堂書店に行ったら「(新書の?)売れ筋ランキング1位」に飾られていた。

 本書は、主に14世紀ヨーロッパのペスト(黒死病)大流行について語ったものだが、導入部は19世紀末の香港から始まる。先日読んだばかりの飯島渉『感染症の中国史』と重なるが、日本の医師、北里柴三郎と青山胤通がペスト研究のため派遣され、北里はペスト菌発見の短報を雑誌「ランセット」に掲載するが、のちに誤りだったことが判明する。脇道にそれるが、当時は病原体としての細菌が次々に発見されていた時代で、脚気の病原菌を発見したという論文もあったという。誤りを正しながら進んでいくのが科学であり、そのための学術コミュニケーションなのだ、ということを再確認した。

 それから古代のペストについて。ペストという語は、本来「悪疫」の意味で用いられていたので、記録に現れる「ペスト」が、本当にペスト流行なのかは判別し難いという。ペストは、地球上の一部の地域に風土病として定着し、折に触れて小流行を繰り返し、ほぼ三百年ごとに大流行が発生している。

 史上最強のペスト大流行がヨーロッパを襲ったのは14世紀の半ば。著者は、ボッカチォ(1313-1375)の『デカメロネ』からフィレンツェの惨状を引用し、アラビア人イブン・ハーティマ―(?-1369)の記録からアルメリア地方(イスパニア)の様子を紹介する。その他にも多くの記録が残る。

 原発地と感染経路、当時の病因論、犠牲者数の推定なども興味深いが、やはり本書の白眉は、ペスト大流行が、人々の思想・行動に何をもたらしたかの考察である。初めて知って衝撃的だったのは、全ヨーロッパで起きたユダヤ人大虐殺。ユダヤ人迫害(ポグロム)は、ヨーロッパの底流に燻り続ける「おき火」の如きものだと著者は言う。何かきっかけがあると業火となって荒れ狂うわけだが、黒死病大流行という異常事態は、通常差別されている人々への差別感を強化し、迫害へとエスカレートさせた。黒死病の原因は「キリスト教徒の敵」であるという言説が流れ、ユダヤ人が井戸に毒を入れたと信じられた。井戸!『感染症の中国史』によれば、ペスト流行時の満洲では日本人が井戸に毒を入れたという噂が中国人の間に広まっていたという。恐怖と差別は、地球上のどこでも同じような姿を取る。

 殺害されたユダヤ人はストラスブールで二千人とかマインツで一万二千人以上という数字に慄然とする。著者によれば、多くのキリスト教徒にとって、ユダヤ人虐殺という「正義」に参画することは、惰性化・形骸化した信仰への反抗と代償行為の側面があったという。ファナティックな信仰への憧れは「鞭打ち運動」(贖罪のため、自分を鞭打ちながら集団で旅をする)という不可思議な流行を生み出す。著者がこの活動を、ルターの宗教改革に先んずるものと位置づけているのは、鎌倉仏教の前に現れる念仏聖みたいなものだろうか。

 著者は、黒死病がヨーロッパを変えたという単純な解釈は取らない。ただ、ある種の変化の趨勢を黒死病が加速させ、決定的にしたとは言える。農村人口が激減したため、荘園領主は労賃で労働力を贖い、さらには土地を農民に賃貸しするようになった。これにより中世の封建的荘園制度は崩壊し、農民運動が激化した。

 学問は衰退し、ヨーロッパの30の大学のうち4つが14世紀半ばに消滅した。しかし、ケンブリッジとオックスフォードには、逆に学問の衰退に抗して設立されたカレッジもある。学問の担い手が相当数いなくなり、学問における「古典」尊重主義は揺らぎを見せたが、旧来の学問の再建が強く望まれたことから、14世紀後半は文化一般において強力な保守主義が復活したという。

 黒死病後のヨーロッパ社会は、人間のモビリティ(可動性)が高まり、身分関係では「下剋上」の風潮が生まれた。一方で敬虔な信仰に立ち返る人々も多く、教会は多額の寄付で潤った。要するに光のあて方次第で全く異なる相貌を見せる、混乱した社会だったことが分かる。著者はその中から、この時代を象徴するものとして、フラ・アンジェリコの絵画を取り上げる。荒れ狂った悪疫の後、束の間の安定を愛しんだ人々の心象風景。その先にルネサンスがあり、私たちのよく知る「近代ヨーロッパ」が生まれるのだが、著者は、沈黙の祈りに満ちたアンジェリコの世界を「最後のヨーロッパ」と呼んで懐かしんでいる。


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