○安丸良夫『神々の明治維新:神仏分離と廃仏毀釈』(岩波新書) 岩波書店 1979.11
1979年刊行だから、もっと早く出会っていてよさそうな本だが、先日、ふと書店で目に入って、面白そうだったので買ってしまった。著者の名前に覚えがあるような気がしたが、自分のブログに検索をかけても出てこない。編著か引用文献で見ているのかなあ。不思議なものだ。
とにかく内容は面白かった。これまで漠然と「知っている」と思い込んでいた明治の「廃仏毀釈」について、自分が何も知らなったことを思い知らされた。一般に「廃仏毀釈」とは、明治新政府が慶応4年(1868)に発した太政官布告(通称:神仏分離令、神仏判然令)等によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。神仏分離令は「神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた」というのは、現時点のWikiの解説である。
しかし著者は、以下のように述べる。神仏分離といえば、すでに存在していた神々を仏から分離することのように聞こえるが、ここで分離され奉斎されるのは、記紀神話や延喜式神名帳によって権威づけられた「特定の神々」であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏にように聞こえるが、現実に廃滅の対象になったのは、「国家によって権威づけられない神仏のすべて」である。要するに、皇統と国家の功臣を神として祀り、村々の産土神をその底辺に配し、それ以外の多様な神仏との間に国家の意志で絶対的な分割線をひいてしまうことが、そこで目指されたことであった。
本書は、廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史には「根本的といってよいほどの大転換」が生まれ、そのことが現代の私たちの精神のありようを規定している、と主張する。そうだと思う。日本人の精神史の伝統というのは、一部の人々が楽観的に信じているように、誰でも振り返ればそこに見えるものではなくて、きわめて慎重に、本物とまがい物を選り分けていかなければ、手に入らないものだと私は考える。
具体的に、明治の廃仏毀釈で、どんなことが起こったか。比叡山麓の日吉山王社には、社司・宮司たちと武装した神官の一隊が押しかけ、神体として安置されていた仏像や仏具・経巻を取り出し、破壊して焼き捨てた。指導者である日吉社の社司・樹下茂国は、仏像の顔面を弓で射当て快哉を叫んだ、って、『新・平家物語』の清盛の逆バージョンみたいだ。奈良の興福寺では、あっという間に「一山不残(のこらず)還俗」してしまった。「僧たちはなんの抵抗も示さなかった」って、なんだこの無節操は!
吉野山は、金峰神社を本社とし、山下の蔵王堂をその「口宮」とすることが定められたが、三体の蔵王権現像は巨大すぎて動かすことができないので(そりゃそうだw)、前面に幕を張り、鏡をかけ幣式(ぬさ)を置いて、神式をよそおったという。竹生島は、大津県庁から「延喜式に見える都久夫須麻(つくぶすま)神社がないのはどうしたわけか」と難癖をつけられ、弁財天像は観音堂に移されて、新しい神社が作られた。いま、舟廊下の出口にある、あの神社のことと思われる。
有名寺社に関する興味深い話は、ほかにも多数あるが、山の神、塞の神、地主神など、名前や由来のはっきりしない小祠が統廃合され、記紀神話に基づく神名がテキトーに割り当てられ、庶民の信仰や行事・習俗が一変させられたことは記憶にとどめなければならない。開明的な政策が必然的にもたらす「啓蒙的抑圧」は、その遂行者が確信的な善意の持ち主であるほど、始末の悪いものである。
新政府の方針に諾々と従った僧侶も多かった一方で、存在感を示したのは東西両本願寺だった。明治初年、神道国教主義的な風潮が強まっても、真宗だけはほとんど勢力をそがれなかった。さすが真宗。最近、日本の精神史で「宗教」と呼べるのは真宗しかないんだな、ということをじわじわと納得しつつある。やがて、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶・島地黙雷の建言によって、教部省が置かれ、民衆を教化する(キリシタンに陥らないよう導く)宗教官吏・教導職が定められた。はじめは神職者が優勢だったが、次第に仏教側が圧倒的な多数を占めるようになる。それはまあ、民衆教化に必要な「説教」能力では、僧侶に一日の長があるだろう。
というわけで、とりとめもないが、薄いベールを剥ぐように、明治初年の日本の風景が見えてくる本である。
1979年刊行だから、もっと早く出会っていてよさそうな本だが、先日、ふと書店で目に入って、面白そうだったので買ってしまった。著者の名前に覚えがあるような気がしたが、自分のブログに検索をかけても出てこない。編著か引用文献で見ているのかなあ。不思議なものだ。
とにかく内容は面白かった。これまで漠然と「知っている」と思い込んでいた明治の「廃仏毀釈」について、自分が何も知らなったことを思い知らされた。一般に「廃仏毀釈」とは、明治新政府が慶応4年(1868)に発した太政官布告(通称:神仏分離令、神仏判然令)等によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。神仏分離令は「神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれた」というのは、現時点のWikiの解説である。
しかし著者は、以下のように述べる。神仏分離といえば、すでに存在していた神々を仏から分離することのように聞こえるが、ここで分離され奉斎されるのは、記紀神話や延喜式神名帳によって権威づけられた「特定の神々」であって、神々一般ではない。廃仏毀釈といえば、廃滅の対象は仏にように聞こえるが、現実に廃滅の対象になったのは、「国家によって権威づけられない神仏のすべて」である。要するに、皇統と国家の功臣を神として祀り、村々の産土神をその底辺に配し、それ以外の多様な神仏との間に国家の意志で絶対的な分割線をひいてしまうことが、そこで目指されたことであった。
本書は、廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史には「根本的といってよいほどの大転換」が生まれ、そのことが現代の私たちの精神のありようを規定している、と主張する。そうだと思う。日本人の精神史の伝統というのは、一部の人々が楽観的に信じているように、誰でも振り返ればそこに見えるものではなくて、きわめて慎重に、本物とまがい物を選り分けていかなければ、手に入らないものだと私は考える。
具体的に、明治の廃仏毀釈で、どんなことが起こったか。比叡山麓の日吉山王社には、社司・宮司たちと武装した神官の一隊が押しかけ、神体として安置されていた仏像や仏具・経巻を取り出し、破壊して焼き捨てた。指導者である日吉社の社司・樹下茂国は、仏像の顔面を弓で射当て快哉を叫んだ、って、『新・平家物語』の清盛の逆バージョンみたいだ。奈良の興福寺では、あっという間に「一山不残(のこらず)還俗」してしまった。「僧たちはなんの抵抗も示さなかった」って、なんだこの無節操は!
吉野山は、金峰神社を本社とし、山下の蔵王堂をその「口宮」とすることが定められたが、三体の蔵王権現像は巨大すぎて動かすことができないので(そりゃそうだw)、前面に幕を張り、鏡をかけ幣式(ぬさ)を置いて、神式をよそおったという。竹生島は、大津県庁から「延喜式に見える都久夫須麻(つくぶすま)神社がないのはどうしたわけか」と難癖をつけられ、弁財天像は観音堂に移されて、新しい神社が作られた。いま、舟廊下の出口にある、あの神社のことと思われる。
有名寺社に関する興味深い話は、ほかにも多数あるが、山の神、塞の神、地主神など、名前や由来のはっきりしない小祠が統廃合され、記紀神話に基づく神名がテキトーに割り当てられ、庶民の信仰や行事・習俗が一変させられたことは記憶にとどめなければならない。開明的な政策が必然的にもたらす「啓蒙的抑圧」は、その遂行者が確信的な善意の持ち主であるほど、始末の悪いものである。
新政府の方針に諾々と従った僧侶も多かった一方で、存在感を示したのは東西両本願寺だった。明治初年、神道国教主義的な風潮が強まっても、真宗だけはほとんど勢力をそがれなかった。さすが真宗。最近、日本の精神史で「宗教」と呼べるのは真宗しかないんだな、ということをじわじわと納得しつつある。やがて、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧侶・島地黙雷の建言によって、教部省が置かれ、民衆を教化する(キリシタンに陥らないよう導く)宗教官吏・教導職が定められた。はじめは神職者が優勢だったが、次第に仏教側が圧倒的な多数を占めるようになる。それはまあ、民衆教化に必要な「説教」能力では、僧侶に一日の長があるだろう。
というわけで、とりとめもないが、薄いベールを剥ぐように、明治初年の日本の風景が見えてくる本である。