○雑誌『芸術新潮』2018年9月号「特集・やまとうた2000年 古今オールスターズ決定戦!/いまこそ読みたい新・三十六歌仙」 新潮社 2018.10
久しぶりに雑誌『芸術新潮』を購入。和歌文学に興味があるのと、「ベスト10」とか「100選」とか、数を限って何かを選ぶ企画はつい気になってしまう。「三十六歌仙」は、もちろん藤原公任(966-1041)の『三十六人撰』に選ばれた歌人をいう。今号のメイン企画は、21世紀のいま、古代から現代までのパースペクティブで新たなる三十六歌仙を決めようというものだ。撰者は、万葉学者の上野誠氏、和歌文学研究者(専門は中世)の渡部泰明氏、歌人の馬場あき子氏。司会は美術ライターの橋本麻里さん。
雑誌の構成としては、まず選ばれた36人の紹介がある。1人1ページ1首が原則だが、歌人によっては文中を含め、2首、3首以上、取り上げられている場合もある。私は丹下京子さんのイラスト(歌人の全身像)が気に入っている。伝統的な歌仙絵や肖像画を参考にしている部分と勝手にイメージをふくらませた部分のバランスがとてもいい。曽根好忠のキャラ立ちぶりには笑ってしまった。
36人の顔ぶれを眺めた上で、撰者の座談会記録に移る。撰者はそれぞれ候補となる歌人(36人前後)のリストを持ち寄っており、これをもとに古代から検討が進んでいく。しかし、正直なところ、この座談会は思ったほど面白くなかった。まず2000年の歴史に対して36人は少なすぎる。誰が見ても穏当な歌人(つまり超一流)だけで、ほぼ全ての席が占められてしまう。これが百人くらいだったら、撰者の独断と偏愛で意外な歌人をもぐり込ませることができるかもしれないが、36人では、そういう遊びの余地がないのだ。
「〇〇はどうですか?」という話題が出ても、馬場あき子先生が「〇〇を入れると、△△も□□も入れなければならないから…」と却下意見を述べて終わってしまう。印象だが、研究者のお二人は、歌人の馬場先生に異論を唱えられない感じがした。歌人と研究者ではなくて、詩人とか小説家とか、専門外の和歌好きが選んだほうが面白かったのではないかと思うが、そもそもそんな教養の持ち主が見当たらないだろうか。あと司会の橋本麻里さんも文中では進行役にしかなっていないのがもったいない。
しかし、もちろん読みどころもある。上野先生の「和泉式部は演歌の世界で言うと藤圭子。力が入らない歌い方なのにうまい」とか「橘曙覧の歌って、幸せいっぱいのルノアールの絵みたい」という比喩は、うまいこというなあと感心した。躬恒について、白河院の御所で貫之・躬恒論争になったとき、源俊頼が「躬恒をば、な侮り給ひそ」と繰り返した(無名抄)というのも面白い。俊頼は渡部先生の強い推薦もあって、新・三十六歌仙に選ばれている。あと俊成は歌合の判詞が最高によくて、普通の判者は欠点をいうのに俊成は褒めるのだそうだ。これも渡部先生の話。
最終的な36人を見て、ちょっと意外だったのは家隆、良経が入らなかったこと。今、新古今って以前ほど人気がないのだろうか。近世以前の歌人は、だいたい1首くらいは作品が浮かぶのだが、ひとりだけ永福門院はすぐにイメージが湧かなかった。渡部先生の卒論のテーマだそうで「永福門院って荒野にポツンと木があって、そこにだけ日が射している感じ」というのを聞いて、読んでみたくなった。
なお、今号には出光美術館学芸員の笠嶋忠幸さんが「歌仙絵」と「古筆」について2つのコラムを書いている。歌仙絵について、人麻呂影供という儀礼が六条藤家の歌壇戦略から出てきたのに対し、御子左家の子孫である冷泉家には人麻呂像がほとんど残っておらず、そのかわり非常に古い俊成・定家の像が残っているというのが面白かった。古筆について、実技にも詳しい笠嶋さんが感心するのは『中務集』だという。知的でモダン。次の機会には、気をつけて見よう。
久しぶりに雑誌『芸術新潮』を購入。和歌文学に興味があるのと、「ベスト10」とか「100選」とか、数を限って何かを選ぶ企画はつい気になってしまう。「三十六歌仙」は、もちろん藤原公任(966-1041)の『三十六人撰』に選ばれた歌人をいう。今号のメイン企画は、21世紀のいま、古代から現代までのパースペクティブで新たなる三十六歌仙を決めようというものだ。撰者は、万葉学者の上野誠氏、和歌文学研究者(専門は中世)の渡部泰明氏、歌人の馬場あき子氏。司会は美術ライターの橋本麻里さん。
雑誌の構成としては、まず選ばれた36人の紹介がある。1人1ページ1首が原則だが、歌人によっては文中を含め、2首、3首以上、取り上げられている場合もある。私は丹下京子さんのイラスト(歌人の全身像)が気に入っている。伝統的な歌仙絵や肖像画を参考にしている部分と勝手にイメージをふくらませた部分のバランスがとてもいい。曽根好忠のキャラ立ちぶりには笑ってしまった。
36人の顔ぶれを眺めた上で、撰者の座談会記録に移る。撰者はそれぞれ候補となる歌人(36人前後)のリストを持ち寄っており、これをもとに古代から検討が進んでいく。しかし、正直なところ、この座談会は思ったほど面白くなかった。まず2000年の歴史に対して36人は少なすぎる。誰が見ても穏当な歌人(つまり超一流)だけで、ほぼ全ての席が占められてしまう。これが百人くらいだったら、撰者の独断と偏愛で意外な歌人をもぐり込ませることができるかもしれないが、36人では、そういう遊びの余地がないのだ。
「〇〇はどうですか?」という話題が出ても、馬場あき子先生が「〇〇を入れると、△△も□□も入れなければならないから…」と却下意見を述べて終わってしまう。印象だが、研究者のお二人は、歌人の馬場先生に異論を唱えられない感じがした。歌人と研究者ではなくて、詩人とか小説家とか、専門外の和歌好きが選んだほうが面白かったのではないかと思うが、そもそもそんな教養の持ち主が見当たらないだろうか。あと司会の橋本麻里さんも文中では進行役にしかなっていないのがもったいない。
しかし、もちろん読みどころもある。上野先生の「和泉式部は演歌の世界で言うと藤圭子。力が入らない歌い方なのにうまい」とか「橘曙覧の歌って、幸せいっぱいのルノアールの絵みたい」という比喩は、うまいこというなあと感心した。躬恒について、白河院の御所で貫之・躬恒論争になったとき、源俊頼が「躬恒をば、な侮り給ひそ」と繰り返した(無名抄)というのも面白い。俊頼は渡部先生の強い推薦もあって、新・三十六歌仙に選ばれている。あと俊成は歌合の判詞が最高によくて、普通の判者は欠点をいうのに俊成は褒めるのだそうだ。これも渡部先生の話。
最終的な36人を見て、ちょっと意外だったのは家隆、良経が入らなかったこと。今、新古今って以前ほど人気がないのだろうか。近世以前の歌人は、だいたい1首くらいは作品が浮かぶのだが、ひとりだけ永福門院はすぐにイメージが湧かなかった。渡部先生の卒論のテーマだそうで「永福門院って荒野にポツンと木があって、そこにだけ日が射している感じ」というのを聞いて、読んでみたくなった。
なお、今号には出光美術館学芸員の笠嶋忠幸さんが「歌仙絵」と「古筆」について2つのコラムを書いている。歌仙絵について、人麻呂影供という儀礼が六条藤家の歌壇戦略から出てきたのに対し、御子左家の子孫である冷泉家には人麻呂像がほとんど残っておらず、そのかわり非常に古い俊成・定家の像が残っているというのが面白かった。古筆について、実技にも詳しい笠嶋さんが感心するのは『中務集』だという。知的でモダン。次の機会には、気をつけて見よう。