見もの・読みもの日記

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「面白い」を追いかける/老後は上機嫌(池田清彦、南伸坊)

2024-06-16 22:35:20 | 読んだもの(書籍)

〇池田清彦、南伸坊『老後は上機嫌』(ちくま新書) 筑摩書房 2024.6

 生物学者の池田清彦先生とイラストレーターの南伸坊氏の語り下ろし(おそらく)の対談。私は南伸坊さんの著作は、もう30年以上愛読しているが、池田清彦さんのことは初めて知った。生物学だけでなく、進化論、科学論、環境問題、脳科学などを論じた著作が多数あり、昆虫採集マニアでもあるという。お二人は1947年生まれの同学年で、今年76歳になる。老人どうしの対談だが、若い者や最近の世相にあまり怒っていないのがいい。他人と違っても、自分の好きなもの、「面白い」と思うものを追い続けていると、こうなるのかもしれない。

 実は、書店で試し読みをしているとき、南伸坊氏が澁澤龍彦について語っている箇所に行きあたって、本書を買うことに決めた。南さんは、高校生の頃、印象派の絵画のどこが面白いのか分からず、当たり前のように褒めそやす美術評論家に反感があった。たまたま図書館で読んだ美術雑誌に澁澤龍彦が「私は印象派には全く興味がない」と書いているのを読んだときは、年上の人たちでそういうことを言ってくれる人がいなかったので、すごくうれしかったという。「自分が好きなものは面白い、自分が面白いと感じなければ、世の中でどんなに有難がられてるものに鼻も引っかけない、というのが澁澤さんのスタンスだったと思う」という言葉、「澁澤さんのものを読んでいれば、きっともっと面白いもんに出会えるって思うようになりました」っていう言葉、分かる分かる。私も南さんに10年か20年くらい遅れて、同じような体験をした。南さんが、やがて自分の好みが、澁澤さんと全て重なるわけではないことに気づいたというのも分かる。そしてこの、世間の評価とは無関係に「自分が好きなものは面白い」というのは、70年代から80年代はじめの、最初期の「オタク」(まだその言葉はなかったが)の基本的な心性だったと思う。

 絵画については、脳の使い方の話が面白かった。脳の発達はトレードオフなので、知的障害で言葉が全く喋れなかった少女が大人顔負けの絵を描けた事例は、言語を司る脳の部分を絵を描くことに使っていたのではないかという。しかし言葉訓練を受けて言葉を覚えるとともに、絵の才能は失われていった。いみじくも南さんが「混沌の話みたいですよね」と言ってた。

 それから、AIには似顔絵(人間が描くような)が描けないのではないかという話。人間が「似てる」と思って「面白がる」のは、モデルについての自分の認識と作者の認識が一致した喜びがあるのだろう、と南さんはいう。これを受けた池田さんが、似顔絵専用のパソコンを作れたら、いくらでも似顔絵を描けるだろうけど、最初に決めたルールどおりの似顔絵しか描けないだろうという。途中でルールが変わる「面白さ」は生物の力である。そもそも「似てる」という感覚をコンピュータに理解させるのは難しいという話に納得。

 「変わる」ことも重要で、偉い先生ほど意見を変える柔軟性があるという話が出てくる。池田先生、「なにか新しいものを生み出すのは、偶有性が必要」「首尾一貫はバカのやること」と厳しい。ただ、無理に環境に適応しようとする努力は無駄なので「頑張るんじゃなくて、頑張らなくてもできることをやれ」というのは面白い。確かに部下や後輩の育て方として、不得意なことを頑張らせるよりは、長所を伸ばすことに集中させるほうが、お互いハッピーである。

 「役に立つ」かどうかを考えない、というのにも共感した。人の役に立たなきゃいけないという感性は、最終的には国家の役に立てという話になるから、てめえが生きてりゃいい、てめえが楽しければいい、という基本線は忘れないようにしたい。

 池田先生、「南さんも俺も95歳ぐらいまで生きるかな」とおっしゃっている。あとがきでは「老人は切腹しろというやつがいても長生きする気満々なのだ」と笑い飛ばす。私もお二人の後に続いて、このくらい堂々とした態度で老後を生きていきたい。

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