〇森万佑子『韓国併合:大韓帝国の成立から崩壊まで』(中公新書) 中央公論新社 2022.8
本書は、19世紀の東アジアの国際関係の概観から始まる。19世紀の東アジアは中国(清)を中心とする「朝貢体制」にあった。朝鮮は中国の「属国」であったが、内政外交の自主は保たれていた。また、儒教国家・朝鮮にとって、清は崇拝する明を倒した野蛮人の国で、朝鮮こそが明朝中華を継承すると自負する「小中華思想」を強く抱いていた。そんな古い話、と思いがちだが、この経験と認識が、その後の朝鮮(韓国)の運命に大きくかかわっていく。
19世紀後半には、西洋列強が持ち込んだ「条約体制」が東アジアに浸透していく。日本の近代化に学んだ官僚・知識人たちは、朝鮮の自主独立を志向するが、清との関係を基軸と考える政権中枢の支持は得られなかった。しかし、日清戦争に日本が勝利したことで清に気兼ねなく政治が行えるようになると、国王高宗は「明朝中華の系譜を継ぐ朝鮮中華主義」の実現のため、皇帝に即位する(1897年、大韓帝国の成立)。日本の明治維新では、天皇はほぼお飾りで、明治天皇の国家構想など誰も気にしないのだが、韓国の近代化は違うみたいだ。各種勢力を調整しながらも、基本的に儒教宗主としての専制君主を目指した高宗。近代的な国家と国民の創出を求める知識人たちの独立協会。そこに介入する外国勢力、ロシアと日本。
やがて大韓帝国をめぐる日露の対立が決定的となり、開戦必至の状況で、日韓密約交渉が行われ、1904年2月、日本がロシアへの軍事行動を開始した直後に「日韓議定書」が結ばれ、同年8月に「第一次日韓協約」が結ばれる。そして日本が日露戦争に勝利した後、1905年11月に「第二次日韓協約」(乙巳保護条約)が結ばれ、日本は大韓帝国の外交・内政全般を支配することになった。この保護条約を高宗に強要したのが伊藤博文かあ…。著者によれば、高宗は、中華帝国のなかで中国の「属国」であっても外交内政の自由を保ってきた経験から、日本に対し、大韓帝国の独立国家としての形式だけは残してほしいと強く希望した。しかし伊藤は譲歩しなかった。
伊藤は、万機すべて皇帝が決するという大韓帝国の制度を逆手にとって高宗に決断を迫った。見方によっては、この政治力、交渉力は大したものである。しかし韓国民衆の恨みを買っても仕方ないなあと思う。高宗は、日本の暴挙を国際社会に訴えて、大韓帝国に対する諸外国の支援を得ようとしたが、目的は果たせなかった(ハーグ密使事件)。日本は、かえってこの機に韓国内政に関する全権を掌握することを目指し、1907年7月、高宗を強制的に譲位させた(純宗即位)。「第三次日韓協約」の締結により、日本の支配はさらに強化されていく。
統監の伊藤博文は、司法改革、地方行政改革、教育の普及などに取り組み、民心を懐柔するため、純宗皇帝の南北巡幸をおこなった。同行した伊藤は、各地で抗日運動を目の当たりにする。日本政府は統監府統治の失敗を認識し、韓国併合を実行することとし、伊藤もこれを容認した。感謝されると思った政策が、かえって民衆の不満や抵抗を掻き立てたことへの困惑。伊藤博文のこの点、少し袁世凱に重なるところがある。伊藤の暗殺を経て、1910年8月、「韓国併合条約」が調印される。
これに先立ち、首相の李完用は、国号に「韓国」を残し、皇帝には「王」の尊号を与えることを願い出ている。かつて「清国に隷属」していた時代にも国王の称号はあったというのがその理由だ。結局、日本政府は、大韓帝国の皇族を日本の皇族に入れることはせず、「王公族」という身分を創出し、純宗は「李王」として日本の天皇より冊封された。冊封! 前例として、1872年に天皇が琉球国王を冊封し、7年後に琉球藩を廃して沖縄県を設置した事例があるという。琉球処分にしろ、韓国併合にしろ、その過程で古代以来の「冊封」が行われていたなんて、思いもよらなかった。もちろん「冊封」の実態は古代や中世とは大きく異なる。朝鮮国王は中国皇帝に冊封されていても、内政外交の「自主」は保たれてきた。しかし帝国主義の時代、大日本帝国の支配は一切の自由を許さないものとなる。
本書を読んで感じたのは、近代化の初期、朝鮮の王族や官僚が、古い「属国自主」や「小中華」の思想に囚われていて、全く適切な対応ができていないことだ。だから日本が、保護国化するという理屈は成り立たないだろう。しかし、韓国に内在した混乱・停滞の種もきちんと見ておくことが必要だと思う。