見もの・読みもの日記

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戦うユートピア運動/太平天国(菊池秀明)

2021-01-30 22:36:56 | 読んだもの(書籍)

〇菊池秀明『太平天国:皇帝なき中国の挫折』(岩波新書) 岩波書店 2020.12

 太平天国は、19世紀半ばに中国で発生した民衆運動である。下級の読書人だった洪秀全を指導者とし、土着的な理解によるキリスト教を奉じて、清朝の打倒を目指したが、指導部の内紛などもあって、最後には鎮圧された。というのが、私の基本認識だ。清末の歴史は好きな方だが、乱を契機に歴史の表舞台に登場する曽国藩や李鴻章に思い入れがあるので、太平天国については、無知な民衆の反乱で鎮圧されて当然、という程度の認識しかなかった。本書は、そうした後世の価値判断を控えて、太平天国という運動が持っていた可能性をフラットに評価しようという試みで、興味深かった。約20年にわたる太平天国(上帝会)の転戦の軌跡を読みながら、中国を旅行したとき、さまざまな地方で太平天国の史跡や文物に出会って、影響範囲の意外な広さに驚いたことを思い出した。

 洪秀全(1814-1864)は広州生まれの客家人で、科挙の試験に失敗したあと、夢で「志尊の老人」に会い、のちにキリスト教の伝道パンフレットを読んで、夢で出会った老人がヤハウエであったと確信する。この話は、高校の世界史の授業で聞いたことを覚えている。あと、志尊の老人が「金髪に黒服姿」だったというのが、最近の中国ドラマ『将夜』の夫子っぽいなあと余計なことを考えてしまった。

 洪秀全は、キリスト教信仰は中国古代の理想(大同の世)への回帰であると考えた。広州でアメリカ人宣教師に洗礼を求めたが拒絶され、上帝会を創始して、広西・広東で勢力を拡大していく。信徒の大部分が客家(貧しい下層民)だったことは注意しなければならない。やがて客家人の楊秀清が加わり「天父下凡」(神がかり)を見せる。広西には降僮(ジャントン)と呼ばれる南方系のシャーマニズムの伝統があったとのこと。

 1851年頃から、彼らは太平天国を名乗り、清朝と本格的な戦闘を開始する。北上して武漢を占拠、次に南京を陥落させた。南京では多くの旗人が虐殺され、洪秀全らの入城後は天京と改称された。太平天国は、財産や食糧の公有制による「大同」世界の実現を目指したが、実際は不平等を解消することはできず、貧しい人々は、誰か諸王の庇護の下で生きることしかできなかった。これ、なんとなく、いまの共産主義中国を彷彿とさせる。それから、この復古主義的な擬似家族ユートピアは、華南の貧しい農民には歓迎されたが、格差を前提に繁栄を享受してきた江南(南京を含む)の人々には受け入れがたいものだったというのも興味深い。

 次に太平天国は北京攻略を目指し、天津郊外に到達するが、北伐は失敗に終わる。同時進行で行われた西征では曽国藩の湘軍と激闘を繰り返す。九江とか田家鎮とか、長江および鄱陽湖における水上の戦い。このへんは軍記物語として無責任に面白い。太平軍の石達開もなかなかの名将で、著者は太平軍と湘軍が「中国の次の時代を担う後継者の座をかけて争った」と見ている。

 1856年9月、洪秀全が楊秀清を殺害し、その一味を粛清する「天京事変」が起こる。清朝の皇帝を否定した洪秀全は、結局、自らも専制君主の不安と猜疑心から逃れることができなかった。この後、太平天国は、イギリスやフランスの傭兵部隊や湘軍に次第に追いつめられ、首都・天京を包囲され、洪秀全の病死とともに滅亡する。しかし運動の末期にも、洪仁玕、李秀成など、注目すべき人材がかかわっていたことを本書で知った。彼らが、もし湘軍の側にいたら、中国近代史にもっと大きな名を残しただろう。

 太平天国は、矛盾と混乱に満ちた運動だが、中国社会の伝統的な、そして今なお未解決の課題を浮き彫りにしているところがある。権力の分散とか、異質な者への寛容の難しさ。「中国は常に強大な権力によって統一されていなければいけない」という強迫観念から人々を解放するには、中国社会がもっていた可能性を検証していく必要があると著者は説いている。

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