○岩崎稔ほか編著『戦後日本スタディーズ2:60・70年代』 紀伊国屋書店 2009.5
書店で手に取って、思わず、フッと鼻で笑ってしまった。いかんいかん、ごめんなさい。黒地に緋文字の「かつて『革命』を信じた時代があった」という、おどろおどろしいキャッチコピーが目に入った――わけではない。「60・70年代」と聞くだけで、私は用心深く、冷笑で身構えずにはいられないのである。
60・70年代とは、「世界的な規模での68年革命を挟む前後の10年」と捉えることができる。これにふさわしく、本書には「沖縄」「文革」「水俣」「三里塚」「安保」「日本赤軍」などの「革命」的問題系が並ぶ。ただし、本書には、この時代を「68年時代(全共闘世代)」の占有物のように語るのはよろしくない、という発言が、どこかにあったと思う(いま、探し出せない)。同感である。私が、年長者の60・70年代語りを遠ざけたいと思うのは、「所詮オマエらには分かるまい」的な傲慢さにうんざりするからである。本書の書き手は全体に若い。けれども「安保」にしても「沖縄」にしても、著者が実際に体験した事件でないために、記述の客観性が保たれていて、かえって私には読みやすかった。
この時代に信じられた「政治革命」は実現しなかったが、「生活革命」は確実に進行した(上野千鶴子が詳述)。成田龍一氏は、「網野善彦流に言うと、日本民族の転換点のひとつである応仁の乱の次の変化」ではないかと評しているが、あながち大げさではないのかもしれない。
文化(サブカルチャー)論は「少年マンガ」と「唐十郎」の2本。ほとんど知識のない分野だが、唐十郎を起点とする現代演劇論(室井尚)には強く興味をひかれた。政党政治論は「五五年体制」と題して杉田敦氏が平明に語っている。政権交代は求めないが、ときどき自民党にお灸を据える。「日本の有権者のそういう考え方が、私はそんなに嫌いではありません」と杉田氏は言う。この高度な「馴れ合い」感覚は、後述のベ平連と警察の関係にもつながっているように思う。
巻末には、べ平連の事務局長をつとめた吉川勇一氏と、ウーマンリブの中心的存在だった田中美津氏へのロング・インタビューを収録。吉川氏の談話を読むと、べ平連の内部でも、68年頃から増加した急進的な学生たちを、年長メンバーが「困ったものだ」と思っていた様子が分かって興味深かった。
1冊を読み終えて印象に残るのは、「個」に向かう欲望と「集団」に向かう欲望の葛藤である。冒頭の「ガイドマップ」で小森陽一氏は、冗談めかしながら「反革命四人組」について語っている。70年代、吉田拓郎、井上陽水、小椋佳、松任谷由美の登場によって「徹底して自己完結した私生活主義的な歌の世界が、一気に社会全体を覆った」ことにより、雪崩れを打って若者たちが非政治化した。私はこの箇所を笑いながら読んだが、一方で田中美津氏は、今の「自立志向の女性たち」の抱える重荷について、こう語る。「意味のあること、世のため他人のためになるようなこと、また自分を認めさせることができる仕事などだとエネルギーもお金も時間も使える。でも自分のためには花一本買えない」。ああ、確かにいるなあ、このタイプ(男女問わず)。私生活主義の蔓延する時代であればこそ、そこに取り残された人々の「闇は濃い」のであろう。
日本赤軍をはじめとして、この時代のさまざまな社会運動の先細りには、いずれも「個」と「集団主義」の葛藤があったように感ずる。「家族からは離れたい、でも擬似家族の暖かさがないと生きていかれない」(田中)という箇所を読んで、当時の状況が腑に落ちた感じがした。私自身は、上述のような集団帰属を求める感性がよく実感できないのであるが、集団に回収されず、私生活主義とも異なる個のありかたって、難しいのだな、と思う。この点に関しては、ベ平連の吉川氏が、あくまで「個人原理」の側に立ち、「個人の自立と自覚によって組み立てる運動が、初めて大衆運動として成立した」と静かな自信を込めて振り返っていることは示唆的だと思った。
※参考:『戦後日本スタディーズ3:80・90年代』(紀伊国屋書店、2008.12)
書店で手に取って、思わず、フッと鼻で笑ってしまった。いかんいかん、ごめんなさい。黒地に緋文字の「かつて『革命』を信じた時代があった」という、おどろおどろしいキャッチコピーが目に入った――わけではない。「60・70年代」と聞くだけで、私は用心深く、冷笑で身構えずにはいられないのである。
60・70年代とは、「世界的な規模での68年革命を挟む前後の10年」と捉えることができる。これにふさわしく、本書には「沖縄」「文革」「水俣」「三里塚」「安保」「日本赤軍」などの「革命」的問題系が並ぶ。ただし、本書には、この時代を「68年時代(全共闘世代)」の占有物のように語るのはよろしくない、という発言が、どこかにあったと思う(いま、探し出せない)。同感である。私が、年長者の60・70年代語りを遠ざけたいと思うのは、「所詮オマエらには分かるまい」的な傲慢さにうんざりするからである。本書の書き手は全体に若い。けれども「安保」にしても「沖縄」にしても、著者が実際に体験した事件でないために、記述の客観性が保たれていて、かえって私には読みやすかった。
この時代に信じられた「政治革命」は実現しなかったが、「生活革命」は確実に進行した(上野千鶴子が詳述)。成田龍一氏は、「網野善彦流に言うと、日本民族の転換点のひとつである応仁の乱の次の変化」ではないかと評しているが、あながち大げさではないのかもしれない。
文化(サブカルチャー)論は「少年マンガ」と「唐十郎」の2本。ほとんど知識のない分野だが、唐十郎を起点とする現代演劇論(室井尚)には強く興味をひかれた。政党政治論は「五五年体制」と題して杉田敦氏が平明に語っている。政権交代は求めないが、ときどき自民党にお灸を据える。「日本の有権者のそういう考え方が、私はそんなに嫌いではありません」と杉田氏は言う。この高度な「馴れ合い」感覚は、後述のベ平連と警察の関係にもつながっているように思う。
巻末には、べ平連の事務局長をつとめた吉川勇一氏と、ウーマンリブの中心的存在だった田中美津氏へのロング・インタビューを収録。吉川氏の談話を読むと、べ平連の内部でも、68年頃から増加した急進的な学生たちを、年長メンバーが「困ったものだ」と思っていた様子が分かって興味深かった。
1冊を読み終えて印象に残るのは、「個」に向かう欲望と「集団」に向かう欲望の葛藤である。冒頭の「ガイドマップ」で小森陽一氏は、冗談めかしながら「反革命四人組」について語っている。70年代、吉田拓郎、井上陽水、小椋佳、松任谷由美の登場によって「徹底して自己完結した私生活主義的な歌の世界が、一気に社会全体を覆った」ことにより、雪崩れを打って若者たちが非政治化した。私はこの箇所を笑いながら読んだが、一方で田中美津氏は、今の「自立志向の女性たち」の抱える重荷について、こう語る。「意味のあること、世のため他人のためになるようなこと、また自分を認めさせることができる仕事などだとエネルギーもお金も時間も使える。でも自分のためには花一本買えない」。ああ、確かにいるなあ、このタイプ(男女問わず)。私生活主義の蔓延する時代であればこそ、そこに取り残された人々の「闇は濃い」のであろう。
日本赤軍をはじめとして、この時代のさまざまな社会運動の先細りには、いずれも「個」と「集団主義」の葛藤があったように感ずる。「家族からは離れたい、でも擬似家族の暖かさがないと生きていかれない」(田中)という箇所を読んで、当時の状況が腑に落ちた感じがした。私自身は、上述のような集団帰属を求める感性がよく実感できないのであるが、集団に回収されず、私生活主義とも異なる個のありかたって、難しいのだな、と思う。この点に関しては、ベ平連の吉川氏が、あくまで「個人原理」の側に立ち、「個人の自立と自覚によって組み立てる運動が、初めて大衆運動として成立した」と静かな自信を込めて振り返っていることは示唆的だと思った。
※参考:『戦後日本スタディーズ3:80・90年代』(紀伊国屋書店、2008.12)