○ジャ・ジャンクー監督・脚本 映画『長江哀歌(エレジー)』
http://bitte942.rsjp.net/choukou/
私が中国映画を積極的に見始めたのは90年代半ばである。だから、第五世代の張芸謀(チャン・イーモウ)や陳凱歌(チェン・カイコー)の作品は、ずいぶん遅れて見た。
第六世代の賈樟柯(ジャ・ジャンクー)のデビュー作『一瞬の夢』(1997年→日本公開98年?)は、リアルタイムに映画館で見た覚えがある。何だか捉えどころのないヘンな映画だった。好きになったわけではないのに、ジャ・ジャンクーの名前は胸のしこりのように残っていて、2作目の『プラットホーム』(2000年→01年公開)も見に行ってしまった。1作目以上にヘンな映画だった。3作目の『青の稲妻』と4作目の『世界』は見逃してしまい(だって上映館が少ないんだもん!)、6年ぶりで彼の作品を見ることになった。
金曜の夜の映画館は、思ったよりも混んでいて、私はびっくりした。見たところ、ちょっと年齢層は高いが、普通のおじさん、おばさんたちである。ポップコーンなんか持っちゃって。大丈夫かなー。ジャ・ジャンクーの映画は、あまり観客に優しくない(媚びない)。分からなければそれでいいよ、と突き放すような風情がある。意味無く気を揉んでいるうちに、暗くなって映画が始まった。
舞台は重慶(だと思う)。はるばる山西省からやってきた一文無しのハン・サンミンは、16年前に別れた妻のヤオメイを訪ねてきた。次第に明かされていく事情によれば、サンミンは、貧困家庭に生まれたヤオメイを金で妻として買った(3万元と言ってた?)。しかし、その妻は彼を捨てて故郷に逃げ帰ってしまった。重慶市と山西省。中国の地図を思い浮かべて、私は溜め息をつく。その距離は、いくつもの国境を越えるに等しい。映画の中に描かれていたように、言葉さえ通じ難いのだ。
重慶までの旅費を貯め、妻を連れ戻しに来たサンミン。今はここにいないという彼女の帰りを、サンミンは住宅取り壊し現場の日雇い労働で生活費を稼ぎながら待つ。ようやく会えたヤオメイは、身内のために借金をしている老人のそばを離れることができないという。サンミンは、再び金を貯めて、ヤオメイを迎えにくることに決め、故郷に戻っていく。山西省には、生命の危険を伴うが、それなりの金になる炭鉱夫の仕事があるのだ。
映画では、サンミン夫婦とすれ違うように、もう1組の夫婦の物語が描かれる。2年間音信不通の夫を探しに、やはり山西省からやってきた女性シェン・ホン。この土地で成功した夫に、新しい女性がいることを知った彼女は、離婚を決意し、未練を見せる夫のもとを去っていく。
妻と再出発するために困難に立ち向かうことを決意する男と、ひとりで新しい人生に踏み出していく女。どちらの決意も、周到なまでに抑制された表現で描かれる。彼らの内心の葛藤について、説明的なセリフは一切無く、カメラが捉える役者の表情さえ変化に乏しい。ああ、我々の「リアル・ライフ」というのはこういうものだ、と気づく。派手な演出やBGMはなく、無駄とも思える日常風景の長回しがあったり、たまたまその場に流れていた歌謡曲(携帯電話の着メロや、近所の悪ガキが歌っている)だけが、切なく耳に残る。以前の作品と同じだな、と思った。
でも、この作品は、ジャ・ジャンクーの映画としては、分かりやすかった。若者を主人公にした初期の作品と違って、市井の生活に着地した中年の男女を描いているからかも知れない。中国という社会に生きることの厳しさ(そりゃあ、13億人の国にとって、ひとりひとりの人生なんて小さく無価値なものにならざるを得ない)と、それを取り巻く無慈悲な自然があらわす抒情は、最近の、商業路線に転換した中国映画では書けなくなってしまったものだ。
邦題「長江哀歌(エレジー)」は、長江に思い入れのある日本人向き。原題「三峡好人」、英語題「Still Life(静物)」もいい題名だと思う。この作品で、ジャ・ジャンクーの認知度が上がれば、ちょっと嬉しい。
http://bitte942.rsjp.net/choukou/
私が中国映画を積極的に見始めたのは90年代半ばである。だから、第五世代の張芸謀(チャン・イーモウ)や陳凱歌(チェン・カイコー)の作品は、ずいぶん遅れて見た。
第六世代の賈樟柯(ジャ・ジャンクー)のデビュー作『一瞬の夢』(1997年→日本公開98年?)は、リアルタイムに映画館で見た覚えがある。何だか捉えどころのないヘンな映画だった。好きになったわけではないのに、ジャ・ジャンクーの名前は胸のしこりのように残っていて、2作目の『プラットホーム』(2000年→01年公開)も見に行ってしまった。1作目以上にヘンな映画だった。3作目の『青の稲妻』と4作目の『世界』は見逃してしまい(だって上映館が少ないんだもん!)、6年ぶりで彼の作品を見ることになった。
金曜の夜の映画館は、思ったよりも混んでいて、私はびっくりした。見たところ、ちょっと年齢層は高いが、普通のおじさん、おばさんたちである。ポップコーンなんか持っちゃって。大丈夫かなー。ジャ・ジャンクーの映画は、あまり観客に優しくない(媚びない)。分からなければそれでいいよ、と突き放すような風情がある。意味無く気を揉んでいるうちに、暗くなって映画が始まった。
舞台は重慶(だと思う)。はるばる山西省からやってきた一文無しのハン・サンミンは、16年前に別れた妻のヤオメイを訪ねてきた。次第に明かされていく事情によれば、サンミンは、貧困家庭に生まれたヤオメイを金で妻として買った(3万元と言ってた?)。しかし、その妻は彼を捨てて故郷に逃げ帰ってしまった。重慶市と山西省。中国の地図を思い浮かべて、私は溜め息をつく。その距離は、いくつもの国境を越えるに等しい。映画の中に描かれていたように、言葉さえ通じ難いのだ。
重慶までの旅費を貯め、妻を連れ戻しに来たサンミン。今はここにいないという彼女の帰りを、サンミンは住宅取り壊し現場の日雇い労働で生活費を稼ぎながら待つ。ようやく会えたヤオメイは、身内のために借金をしている老人のそばを離れることができないという。サンミンは、再び金を貯めて、ヤオメイを迎えにくることに決め、故郷に戻っていく。山西省には、生命の危険を伴うが、それなりの金になる炭鉱夫の仕事があるのだ。
映画では、サンミン夫婦とすれ違うように、もう1組の夫婦の物語が描かれる。2年間音信不通の夫を探しに、やはり山西省からやってきた女性シェン・ホン。この土地で成功した夫に、新しい女性がいることを知った彼女は、離婚を決意し、未練を見せる夫のもとを去っていく。
妻と再出発するために困難に立ち向かうことを決意する男と、ひとりで新しい人生に踏み出していく女。どちらの決意も、周到なまでに抑制された表現で描かれる。彼らの内心の葛藤について、説明的なセリフは一切無く、カメラが捉える役者の表情さえ変化に乏しい。ああ、我々の「リアル・ライフ」というのはこういうものだ、と気づく。派手な演出やBGMはなく、無駄とも思える日常風景の長回しがあったり、たまたまその場に流れていた歌謡曲(携帯電話の着メロや、近所の悪ガキが歌っている)だけが、切なく耳に残る。以前の作品と同じだな、と思った。
でも、この作品は、ジャ・ジャンクーの映画としては、分かりやすかった。若者を主人公にした初期の作品と違って、市井の生活に着地した中年の男女を描いているからかも知れない。中国という社会に生きることの厳しさ(そりゃあ、13億人の国にとって、ひとりひとりの人生なんて小さく無価値なものにならざるを得ない)と、それを取り巻く無慈悲な自然があらわす抒情は、最近の、商業路線に転換した中国映画では書けなくなってしまったものだ。
邦題「長江哀歌(エレジー)」は、長江に思い入れのある日本人向き。原題「三峡好人」、英語題「Still Life(静物)」もいい題名だと思う。この作品で、ジャ・ジャンクーの認知度が上がれば、ちょっと嬉しい。