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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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ある家族の物語/映画・唐山大地震

2015-04-20 00:33:57 | 見たもの(Webサイト・TV)
○馮小剛(フォン・シャオガン)監督『唐山大地震』(土浦セントラルシネマ)

 見たかった映画をようやく見ることができた。映画は、1976年、中国河北省唐山市で起きた大地震を題材に、ある家族の別れと再会(再生)を描く。2008年の四川大地震もエピソードに取り入れられている。中国では2010年に公開され、興行収入が歴代1位となるヒットを記録した。翌年、日本でも封切られるはずだったが、2011年3月11日、東日本大震災の発生。ああ、これは当分公開延期になっても仕方ないなと感じた。

 驚いたのは、まさに当日、天井の崩落で死者を出した九段会館では、この映画の試写会が行われる予定だったという事実だ。このことに触れた報道は少なかったし、私もずいぶん後になって知った。たぶん「エキサイトレビュー」のとみさわ昭仁氏の記事(2011/3/16)を読んで知ったのではないかと思う。それから4年間、ぜったいこの映画は見なければならないと思い続けてきた。

 この春、ようやく念願がかなった。主人公は、1976年の中国に暮らす四人家族。方大強(ファン・ダーチアン)と李元妮(リー・ユェンニー)の若夫婦には、姉の登(ドン)と弟の達(ダー)という幼い双子がいた。7月28日、一帯を襲った大地震によって、家族の幸福は引き裂かれてしまう。妻をかばって命を落とした夫。瓦礫の下に埋まった姉弟のどちらかしか助けられないと迫られて「弟」を選んだ母。命は助かったが、片腕を失った達(ダー)。死体置場で息を吹き返したものの、母や弟とはぐれ、新しい養父母に引き取られることになった登(ドン)。

 大地震のスペクタクルな映像はよく出来ている。命を根こそぎ薙ぎ倒す、容赦のない暴力的な描写だ。これは確かに東日本大震災をリアルに経験した直後に観るのはつらいな、と思った。しかし、この映画の見どころは、むしろ地震のあとの長い長い時の経過の描き方である。

 中国の社会そのものが大きく変わっていく時代だった。1976年9月9日(唐山大地震から1ヶ月半だ)毛沢東死去。映画にはあまり描かれていなかったけど、四人組の逮捕、裁判、そして、改革開放の80年代が始まる。息子を育てながら働く母親が、工場をリストラされて仕立て屋の個人商店を始めるのも、そんな社会背景があるのだろう。彼女が、大学くらい出なければ嫁の来手がないと言って、必死で息子を勉強させようとするのも。

 若い世代はもっと自由だ。達(ダー)はハンデキャップをものともせず、商売に成功して、故郷に戻ってくる。母親に新しい家を買おうとするが、母親は頑なに引っ越しを受け入れない。夫と娘(の霊魂)が戻ってこられなくなってしまう、というのだ。毎年、お盆(だと思う)には紙銭を燃やしながら、あなたたちの戻ってくる家は、……だよ、と語りかけ続けてきた母親。ふと、論語の「いますが如くす」という一節を思い出した。死者は、どこか遠い天国にいるのではなくて、すぐ近くにいて、ときどき帰ってくる。だから生きる者の「場所」はとても大切なのだ。生きる者の都合だけで、死者の記憶の残る「場所(家)」を変えるわけにはいかない。たぶんこの感覚は、ある年代以上の日本人にも共感されるのではないかと思う。

 若い世代は場所にとらわれず、必死に生きる。登(ドン)は養父母のもとを出て、杭州(たぶん)の大学で医学を学ぶ。恋をして妊娠するが、中絶を望む恋人と別れ、未婚の母となる。のちに外国人の夫を得て、娘を連れてカナダに移住する。2008年、四川大地震が起きる。達(ダー)は救援物資を持って、登(ドン)は医療技術を役立てようと「唐山救援隊」に参加し、姉弟は32年ぶりの再会を果たす。未曾有の大災害が、引き裂かれた家族を再び引き合わせる。ただし「再会」の直接的な描写を避けているところは面白いし、好感が持てた。どう描いてもウソっぽいものな。

 映画は、弟が姉を母親に引き合わせるところがクライマックスである。二人は抑えきれない感情をぶつけあう。母親が「謝らなければ」と膝をついたものの、娘を責める言葉がほとばしり出てしまう。それから、母と娘は家族の写真を見せ合い、それぞれが過ごしてきた年月の幸福と不幸を語り合う。「対不起(ごめんなさい)」という普通の言葉が、いかにも重たく、感動的に耳に残る。長い歳月の中で、憎み合ったり許したりしながら生きていく人間を描くのは中国映画の得意とするところで、やっぱり面白い。そして、あの東日本大震災から4年というのは、日本人がこの映画を見るには、ちょうどよい頃合かもしれない(被災の記憶を背負って生きていく人々の長い人生を考えるためにも)とも思った。
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2015年元旦と私的電子書籍元年?

2015-01-01 13:33:15 | 見たもの(Webサイト・TV)
「群書類従」も電子化、2014年の国内電子書籍は専門書が充実の傾向 (INTERNET Watch 2014/12/26)

 明けましておめでとうございます。

 この数年(十数年?)正月三が日は実家で過ごしている。私も含めて、年ごとに家族が老いて行くことを除けば、ずっと変わり映えのしない正月だが、変化がないことは幸いと感じるようになってきた。

 さて、今年の投稿は、気になっている話題から。この年末年始、電子書籍リーダーを買おうかどうしようか、かなり本気で迷っている。最初のきっかけは、↓このニュース。

Amazon.co.jp、国会図書館のパブリックドメイン古書をKindleで販売(ITmedia 2014/10/29)

 「国立国会図書館が所蔵し、『近代デジタルライブラリー』で公開しているパブリックドメインの古書のKindle版の販売がAmazon.co.jpでスタートした」というもの。無料ではなく、1点50~100円の「販売」なので、「血税を投じたデータにタダ乗り?」という批判の声もある。しかし国会図書館のサイトでは、これまでどおり無料公開されているので、Kindleで読めるという利便性に100円なら、私は払ってもいい。そろそろ新刊書を追いかける読書生活から隠居して、電子書籍リーダーで古書だけ読んで暮らすのもいいなあと思う次第である。

 その後、冒頭の記事にある『群書類従』電子化のニュースも知った。こちらは利用料150万円(税抜き)というから、個人購入は考えられないが、嬉しいニュースである。『群書類従』は、もちろん日本の歴史・文化を知るための調べものツールだが、座右にあれば、むしろ読みものとして楽しめると思う。

 普通の新刊書も、気をつけていると、冊子と電子書籍を同時発売するものが増えてきた。思えば、電子書籍元年と言われて、もう何回目の正月だろう。当初は漫画やライトノベルばかりで、大人向けのコンテンツが一向に増える気配がなく、全く食指が動かなかったが、そろそろ試してみてもいいタイミングかもしれない。

 年の暮れに久しぶりに神保町の書店街に行った。書棚をゆっくり眺めていると、おやこんな本が、という発見があり、適当に開いたページで、買うべきか否かを品定めするのはスリリングで楽しい。これはこれで、リアル書店とリアル書物のいいところである。ついでなので、年末に読んだ浦沢直樹さんのインタビュー記事をここに挙げておく。

「読者がお金を払わなければ、"あるべき関係性"が結べない」―漫画家・浦沢直樹さんインタビュー(The Huffington Post 2014/12/30)

 「僕は作品を1回も電子書籍化したことがない」って、そうだったのか、浦沢さん! 本は買って読むものと頑固に決めている私は、標題の主張に全面的に同感する。それから「漫画って見開きで読む形態なので、それがキープできない媒体では、見てほしくないんですよ」という意見も、小さいようで、実は大きな問題を提起していると思う。

 でも、本の選び方は、これから大きく変わっていきそうな気がする。あと数年後、神保町の大型書店は、まだ生き残っているだろうか。
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気になるニュース・ボーカロイドオペラ 葵上 with 文楽人形

2014-05-31 23:31:51 | 見たもの(Webサイト・TV)
ボーカロイドオペラ 葵上 with 文楽人形(Vocaloid the Opera Aoi with Bunraku Puppets)

 ネットで見かけた情報が気になったので、記録しておく。「伝統芸能と最新技術が融合した映像作品『ボーカロイドオペラ 葵上 with 文楽人形』が、7月25日から3日間開催されるイギリス・ロンドンの日本文化紹介イベント『ハイパージャパン』でプレミア上映されることが決まった」のだそうだ。

 2分ちょっとの短い予告編が「Aoi」の公式サイトおよびYoutubeに公開されている。本編は30分程度だというから、本当にごく一部だけだ。主人公の葵上らしき文楽人形が、夢うつつの世界から、ゆっくり身を起こすところしか見られない。物憂げで色っぽいけど、まだ「人形」の顔をしている、と思った。原典「葵上」の物語から類推すれば、このあと、人間の業を描いたストーリーに従い、自分でも制御できない深い感情(嫉妬)に苦しむ女性の様子を演じることになるのだろう。文楽人形にはお手の物の表現だ。『摂州合邦辻』の玉手御前みたいな感じかしら、などと想像がふくらむ。

 こういう新しい分野への挑戦は、ぜひ続けてほしい。もちろん、古典はそう簡単に乗り越えられるものではないけれど。古典文楽も見てみようという新しいファンを呼び込んでくれれば嬉しい。

 ボーカロイドによる不動明王の真言「慈救咒」は優しく耳に残る。だいたい声明などの仏教音楽は、人間の声なのに人間離れしたところ(個性や自然な感情表現を取り払ったところ)が私は好きなので、ボーカロイドとの相性はいいはずだと思う。
 
 記事(ねとらぼ)によれば、ロンドン上映のあと「2014年秋に東京都内の劇場での上映が予定されている」とのこと。都内か…。見たいなあ。
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JMOOCで五十の手習い・日本中世の自由と平等(本郷和人)

2014-05-28 22:24:06 | 見たもの(Webサイト・TV)
gacco The Japan MOOC/無料オンライン大学講座『日本中世の自由と平等』(講師:本郷和人)

 「オープンエデュケーション」と呼ばれる学習のしくみが注目されている。教育機関の立場から言えば「講義や教材などインターネットを使って配信し、社会に大学で生まれた知を還元する教育活動」のことであり、学習者の立場から言えば「世界のどこにいようとインターネットさえあれば、さまざまな講義ビデオや教材から学ぶことができる仕組み」のことである。成績に応じて履修証明証のもらえる大学の講義配信サービスは、「MOOCs(ムークス):Massive Open Online Courses」と呼ばれることが多い。代表的なサービスにはCoursera(コーセラ)とedX(エデックス)がある。

 東京大学は、昨年9月に村山斉特任教授の講義「ビッグバンからダークエネルギーまで(From the Big Bang to Dark Energy)」を、翌10月に藤原帰一教授の講義「戦争と平和の条件(Conditions of War and Peace)」を、Courseraプラットホーム上に配信した。特に後者には興味があったが「英語による大学講義」に恐れを感じて、結局受講できなかった。

 そうしたら、11月に日本オープンオンライン教育推進協議会(略称:JMOOC)の設立が報じられ、この春から配信が始まった。これは日本語の講義なので、かなりハードルが低い。しかも第1弾は、本郷和人先生の「日本中世の自由と平等」だなんて、嬉しすぎる。さっそく登録して、受講してみることにした。講義は全4回。4/14(月)から、毎週月曜日に講義と課題(選択式の理解度テスト)が公開され、2週間以内(翌々週の日曜まで)に課題を提出しなければならない。

 社会人の身では、月~金にまとまった時間が取れず、どうしても週末受講が中心となる。旅行や帰省で週末が1回つぶれると、次の週末には必ず課題を提出しなければならないので、スケジュール管理に神経をつかった。忙しければ、1回(1週)分の講義を10~15分ずつ細切れでも受講できるが、まとめて視聴したほうが内容を理解しやすく、課題にも回答しやすい。完全なオンデマンドではなく、ある程度の進捗管理が課せられるのは重要なことだと思う。

 受講生の掲示板に「ノートは取った方がいい」という書き込みがあり、これに従ったことは、非常によかった。ノートがないので、チラシの裏や無地の紙袋を使っていたけど、私の場合、むかしから筆記することで、要点が整理され、記憶が定着するのだ。最終レポート(800字)は、提出時刻を間違え(日本時間と世界時刻を混同した)、無意味にあせって2時間弱で書き上げたが、チラ裏「ノート」のおかげで満点をいただけた。

 興味深かったのは、日本の中世は、ひとつの絶対的な頂点を持たずに多くの主従関係が錯綜する「リゾーム」形の社会構造であったという指摘。鎌倉新仏教には、この社会構造と親和する面があった。だからこそ、天下統一を目指した織田信長が絶対に許容できなかったのが、こうした宗教集団であり、激しい闘争の結果、宗教集団は壊滅させられる。厳格な「ツリー」型の近世社会では、失われた「自由」や「平等」と引き換えに「安定」と「平和」が実現する。ここはとっても納得。

 一方で、網野善彦が重視した「アジール」の「自由」を講師は疑問視する。絶対的な強者(主権者)が存在しないということは、権利の源泉が不明確で、正義や権利の主張を誰も担保してくれない状態のことである。それって国際法の世界だ!と思った。力の強い者が何でも奪い取れるという状態は、弱者にとって、実質的な自由のない社会だったのではないか、と講師。私はこれには少し疑問があって、所有権が保護されない状態を「危機」と捉えるのは、すでに財産を持っている者に限られるので、全く失うもののない最底辺の弱者にとっては、「所有権の未成熟」な社会のほうが、生きていく隙間が多くて、暮らしやすかったんじゃないかなあ、という想像を捨てきれない。まあ、社会の総和としては、近世型の社会構造のほうが多くの人口を養えたのだから、反論の余地はないけど。

 講師と同世代である私は、今でも基本的に網野善彦が好きなので、久しぶりに網野史学について考えることができて楽しかった。このオンライン講義を通じて、中学生や高校生など、若い世代が網野善彦の名前を覚え、著書に興味を持ってくれたらとても嬉しいな。
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忘れぬうちに・連続テレビ小説『ごちそうさん』

2014-04-22 22:49:00 | 見たもの(Webサイト・TV)
○『ごちそうさん』(2013年9月30日~2014年3月29日、全150回)

 2013年度は「朝ドラ」開眼の1年だった。春から夏にかけて、社会現象にもなった『あまちゃん』のおかげで、人生初めて「朝ドラ」の視聴習慣を身につけた(実際に見ていたのは夜だけど)。引き続き、後番組の『ごちそうさん』を見てみたら、これが面白い。はじめのうちこそ、過度に『あまちゃん』びいきの世論に意地を張るつもりで見ていたのだが、だんだん本当に面白くなって、やめられなくなった。

 いま、昨年9月に自分が書いた『あまちゃん』感想メモを読み返したら「分かるヤツだけ分かればいい小ネタと、世代や国籍を超えて普遍的な人間ドラマの同居」なんて書いている。それに比べると『ごちそうさん』は「歴史」を感じさせるドラマだった。主人公・卯野め以子の実家である洋食屋の「開明軒」も、文士の室井さんも、建築家の竹元先生も、ドラマの開始直後こそ、歴史好きの視聴者が、あれこれモデルを穿鑿していたが、基本的には架空の存在だった。にもかかわらず、脚本の背骨には、太い「歴史」の流れが通っていたように思う。

 そこが、この作品の好き・嫌いを分けるところではないかと思うが、私はハマった。どこにでもいる普通の人々の喜怒哀楽と、一回限りのドラマチックな「歴史」が交錯する物語が、私は大好きなのである。脚本の森下佳子さんは『JIN-仁-』でも、そうした世界を見せてくれたが、この作品も然りだった。私は中国映画の『芙蓉鎮』とか『活きる』が好きで、登場人物を翻弄する破天荒な「中国近代史」が面白すぎて、かなわないなあ、と思ったことがあるが、『ごちそうさん』を見て、日本の近代史だって、なかなか波乱に富んでいて、地道にまっすぐ生きようとした庶民を翻弄(あるいは愚弄)してきたじゃないか、と思い直した。

 『ごちそうさん』に好きなエピソードはたくさんあるが、め以子の夫・西門悠太郎の父・正蔵が、鉱山技師として国家の発展に寄与していることを誇りにしていたにもかかわらず、鉱毒事件の加害者となってしまうという設定は好きだった。戦争の描き方は、1ヶ月足らずの戦後編も含めて巧かったなあ。善悪の判断以前に、大きな「歴史」の流れに呑みこまれてしまう庶民の無力さと、それでも精一杯の抵抗、防御、自己主張する様子が丁寧に描かれていた。昨今、歴史問題に対するNHKの姿勢は、右からも左からも不信の目で見られているが、このドラマを見る限り、制作現場の良心は保たれていると感じた。時には、かなり「毒」のある良心だと思ったこともある。

 ただ、脚本にしても出演者にしても「丁寧な作り」が分かり過ぎるきらいはあったかもしれない。私は、頭のいい出演者が、意識的に阿呆を演じるドラマが大好きだが、もっと「ナチュラル」なドラマのほうが、いまの視聴者の好みに合うかもしれない、と思うこともあった。特に「とんだごちそう」の最終回は、予想もしなかった結末で、脚本家は「してやったり」という気持ちだっただろう。私は爽快な「してやられたり」を味わったが、ああいうところも、ナチュラルに感動させてほしかった視聴者が多かったのではないかと思う。

 ちなみに、本編が終わってすぐに感想を書かなかったのは、4月19日放送のスピンオフドラマ、ザ・プレミアム『ごちそうさんっていわしたい!』を待っていたからである。これは面白かったには面白かったが、本編とは別物だった。脚本は加藤綾子氏。本編のファンによるファンのためのオマージュ作品という感じがした。なるほど、ドラマは脚本が生命(いのち)だと私は思っているけれど、出演者や演出家など、最終的にはいろいろな人の手を経て生まれるものだから、設定のみを受け継いで、別人が脚本を書くというのもありなんだなあ、と不思議な感慨を持った。
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フクシマの寓話/映画・家路

2014-03-09 00:05:53 | 見たもの(Webサイト・TV)
○久保田直監督、青木研次脚本『家路』(札幌シネマフロンティア)

 映画はあまり見ないほうだが、それにしても1年以上何も見ていなかった気がする。初めて札幌の映画館で映画を見て来た。舞台は震災後の福島。原発事故によって立入禁止区域となった「家」に、東京からひそかに帰ってきて、荒れ放題の畑を耕し、ひとりで暮らし始める若者・次郎(松山ケンイチ)。その母(田中裕子)と兄(内野聖陽)の家族は、狭い仮設住宅で逼塞した生活を強いられていた。

 私は、NHK大河ドラマの短い視聴歴の中で、好きな作品の双璧が『風林火山』と『平清盛』なので、その両主演俳優が揃い踏みだからというのが、この映画を見たいと思った動機だった。しかし、この映画は、大河ドラマ的な「作り」からは、全く遠いところにあった。「ドラマ」は実に淡々と進む。見る側が積極的に想像や共感を働かせない限り、ほとんど「ドラマ」がないと言ってもいいくらいだ。監督がドキュメンタリー出身だというのは、非常にうなずける。

 私は、いくつかの中国映画の秀作を思い出していた。抑制されたドキュメンタリータッチの中に深い詩情をしのばせる、たとえば、ジャ・ジャンクー(賈樟柯)の作品。と思って検索をかけたら、ジャ・ジャンクー作品の配給を手掛けているのも、この映画と同じ「ビターズ・エンド」なのだ。偶然とは思えない。

 主演の松山ケンイチは、高校生みたいに初々しく見える。故郷を捨て(させられ)、東京で嘗めてきた苦労を語らず、恨みも怒りも忘れたように、ただ故郷に帰ってきたことを喜び、ひたすら土に鍬を入れ、苗を愛おしみ、老いた母をいたわる。脚本は、議員として電力会社を誘致し、故郷に利益誘導を図った父親の記憶の映像をはさみ、善人だがたよりない兄と聡明でしっかり者の弟(血はつながっていない)の間にあった葛藤を、曖昧に提示する。しかし、全ては次郎の穏やかな笑顔の向こうにある。

 しばらく次郎のもとに身を寄せる同級生の北村を山中崇。これがすごくいい。ドラマの核は、次郎たち家族の物語なんだけど、導入部で次郎の不可思議な行動に寄り添い、また去っていく彼の存在が効いている。

 そして、ドラマの中で彼らがどうなったのか。現実にこういう「事件」があったら、どういう結末を迎えるのか、幸福なのか不幸なのかはよく分からない。でも、こんな寓話がひとつくらい語られてもいいような気がする。
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ソチ五輪・羽生結弦とプルシェンコ(男子フィギュア)のことなど

2014-02-21 23:53:30 | 見たもの(Webサイト・TV)
 ソチ・オリンピック(2014年2月7日~23日)が始まったときは、バンクーバーから4年経ったのかと感慨深かった。冬季五輪の種目に一切興味がなかった私は、バンクーバーで男子フィギュアにがっつりハマってしまった。その経緯は「バンクーバー五輪・プルシェンコ(男子フィギュア)にハマる」(2010/3/2)という記事に書いたとおり。まずロシアのプルシェンコにハマり、しばらく動画サイトをめぐり歩いて、この選手もいいなーこのスケーターも素敵…と、ご贔屓さんが増えていった。シニアデビューしたばかりの羽生結弦くんを知ったのもこの頃である。

 やがてフィギュアスケートを生で見たくなり、何度かアイスショーにも足を運んだ。いつも最大のお目当ては、プルシェンコと羽生くんだったように思う。どんどん強くなる羽生くんを見守る楽しさと、身体の限界と戦いながら、ソチオリンピック出場を目指すプルシェンコの情報をチェックする一喜一憂(次第に「憂」が長くなる)で、4年間が過ぎていった。

 そして、二人が同じ舞台で「激突」するという、私にとっては夢のような瞬間が訪れようとしていた。13日(14日未明)に行われた男子フィギュアのSP(ショートプログラム)。でも私は夢の瞬間を見るに忍びなくて寝てしまった。プルシェンコについて、どんな結果(成績)も受け入れるつもりで。しかし、翌朝、寝床でスマホを開いて「プルシェンコ、SPを棄権 引退を表明」の文字を見たときは、混乱で頭が壊れそうになった。羽生のSP首位を喜ぶことを忘れるほど。

 それでも半日くらい経つと落ち着いてきて、羽生の金メダルはしっかり見届けた(ただしこれも録画で)。二位のP.チャンの苦笑い顔も印象的だった。このひとも好きなのだ。団体戦のプルシェンコの演技は、動画サイトで一、二回見たが、引退表明を聞いてからは、苦しくて見られなくなってしまった。もう少し自分の気持ちが落ち着くのを待っている。

 私は、いまだにジャンプの種類も見分けられない素人だが、4年間、フィギュアスケートを気にしてきたことで、多少、採点方法や順位の決まり方が分かるようになった。転倒を含む「失敗」演技でも得点が高かったり、一見「見事な」演技でも、基礎構成点が低くて、得点が伸びないこともある。そう分かると、日本のマスコミは、かなり無責任な印象批評を垂れ流しているなあ、と悩ましく思うところがあった。

 あと、オリンピックは確かに特別なのかもしれないが、選手たちは、オリンピックのある年もない年も、繰り返し繰り返し闘い続けているということ。一度負けても、リベンジの機会は繰り返し来る。そして、孤独と重圧に耐えて闘い続ける選手たちは、同じ環境にある者どうし、お互いをリスペクトする作法をちゃんと共有している。これは、女子フィギュアでも感じたことだ。

 さらに、私はどうしてもここに記録しておきたいことがひとつある。東京大学政策ビジョン研究センターのホームページが、先週からなぜかTOPページに羽生結弦選手の写真を使っている。フリーの衣装のまま、日の丸を後ろ手に持ち、氷上で姿勢正しく、深々とお辞儀をする羽生選手を斜め上方向から捉えたもの。清々しい写真だと思う。誰よりも強く、誰よりも美しく、誰よりも謙虚。私が日本という国に求める品格は、まさにこの写真なんだけどな。
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連続テレビ小説『あまちゃん』と2013年秋のNHK新ドラマ

2013-10-06 23:02:09 | 見たもの(Webサイト・TV)
○『あまちゃん』(2013年4月1日~9月28日、全156回)

 2013年の春から夏、社会的話題となった『あまちゃん』ブーム。私も第6週(5月初め)に視聴したのがきっかけで、以後1回も欠かさず、最終回まで見てしまった。半世紀の人生で、初めてのことだ。

 私は、あれほど国民的人気を誇った『おしん』も見ていないし、最近の人気作『ゲゲゲの女房』も『カーネーション』も見ていない。理由は、家にBS環境も録画設備もなかったからである。この4月に引っ越して、新居(宿舎)でテレビをつないでみたら、BSが見られることが分かった。土曜の朝、たまたまBSにチャンネルを合わせていたら、1週間分のまとめ放送が始まって、見てしまった。主人公アキの祖父・天野忠兵衛が初登場した週で、前後して、憧れの種市先輩、のちにアキのマネージャーになる水口など、主要な登場人物が揃い、母・春子の過去の一部が明かされて、ちょうど物語が動き始めた頃だった。

 詳しいストーリーは書かないが、宮藤官九郎の脚本は、最後まで面白かった。分かるヤツだけ分かればいい小ネタと、世代や国籍を超えて普遍的な人間ドラマの同居。ターニングポイントでは、いつも気持ちよく裏切られた。シロウトの予測など及びもつかないところに連れていかれる快感が、だんだん癖になっていった。ドラマと伴走し続けた、大友良英の音楽も抜群によかった。

 2008年から2012年の北三陸を舞台としたドラマでは、東日本大震災の「被災」と、それに続く「復興」の日々も描かれた。制作者は、これは東日本大震災を描くドラマではないと語っていたそうだが、東北の(というより、本当は日本列島の)「今」を生きている人たちを描くとき、震災の体験を外すことはできない。目をそらしてもいけないが、さりとてそれが、彼らの人生の全てでもない。そんなことも考えさせられた。人情コメディを基盤にしながら、けっこう毒の効いた社会批判も含んでいたドラマだと思う。

 9月28日に全編が終わって、どれだけ「あまロス」になるかと思っていたが、意外と喪失感がない。最終週の脚本が、多くの登場人物を、丁寧に幸せに導いてくれたおかげではないかと思う。「めでたし、めでたし」で終わる幸福な物語を読み終えた気分。

 NHKは、『あまちゃん』視聴者がツイッターなどで感想を共有する「ソーシャル視聴」に注目しているという。昨年の大河ドラマ『平清盛』で、回を追って「ソーシャル視聴」が盛り上がる様子をつぶさに体験した身としては、今更かい!と思わないでもない論評だが、家族で楽しむものから個人で楽しむものに移行したテレビ放送が、ソーシャルメディアによって、新たな楽しみ方を獲得しつつあることは確かである。

※NHK NEWSweb:「あまちゃん」が示すソーシャル視聴の先にあるもの(2013/10/4)

 だが、「ソーシャル視聴」は、プラスの面ばかりではない。『あまちゃん』の後番組として、9月30日(月)から始まった『ごちそうさん』。私は、ドラマ本編を見る時間がなかったので、金曜までツイッターで視聴者の感想だけを読んでいた。そうしたら「汚い」「可愛くない」「イラつく」など、批判的な感想の多いこと。しかし、土曜に1週間まとめ見をしたら、そんなに悪いドラマだとは思えなかった。いやー今の視聴者って、ドラマの主人公に、どれだけ完全主義を求めているんだか。主人公に品のない言動や暴力が許されるのは、「相手が先に手を出したから」「相手が不当な利益を貪っているから」という言い訳があるときに限るのだろう。

 『ごちそうさん』は大阪のドラマかと思っていたら、序盤の舞台は東京で、主人公の両親が営む洋食屋は帝国大学の近傍らしい。まんざら知らない土地でもないので、楽しみになってきた。主人公の相手役が建築家(をめざす帝大生)というのも面白い設定だと思う。大阪編で登場する新進気鋭の建築家のモデルは、武田五一だという情報もあり。非常に楽しみ。

 そのほか、秋から始まったドラマでは、まずBSプレミアム放送の『怪奇大作戦-ミステリー・ファイル-』(2013年10月5日~11月16日、全4話)に注目。第1話「血の玉」を見たが、初期の特撮ドラマの味わい(子供向けなのに、子供向けと思えないエグさ)がよみがえるようで、ゾクゾクした。いつ頃からだったかなあ、特撮の技術が進歩するのと反比例して、内容が幼稚になっていったのは。もうひとつ、BS時代劇『雲霧仁左衛門』(全6回)も面白かった。個性派揃いの配役に期待。

 というわけで、私はこの秋のNHK制作ドラマにかなり高評価をつけている。若者よりも、もともとテレビ視聴習慣で育った中高年層を狙い、ドラマの黄金期に回帰することで成功しているんじゃないかと思う。頑張れ、NHK。ああ、BS放送が見られる環境になってよかった。
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秘境の隣人/NHKスペシャル・シリーズ「深海の巨大生物」

2013-08-10 23:45:19 | 見たもの(Webサイト・TV)
○NHKスペシャル シリーズ「深海の巨大生物」(NHKオンデマンド)

 四月から札幌に移住して、いろいろ生活が変わった。宿舎でBSが見られることが分かって、テレビ視聴の機会が増えた。世間で話題の朝ドラ『あまちゃん』とかTBS『半沢直樹』を私も見ている。その波及で、NHKオンデマンドも「見逃し見放題パック」(月額945円)を契約してしまった。表題のシリーズは、

第1回「伝説のイカ 宿命の闘い」7月27日(土)19:30~
第2回「謎の海底サメ王国」7月28日(日)21:00~

と題して放送されたもの。この週末は東京に所用があって見られなかったが、オンデマンド配信で見ることができた。そうすると欲が出て、今年のはじめに見逃していた、

世界初撮影!深海の超巨大イカ」1月13日(日)21:00~  

もオンデマンドで視聴してしまった。もうね、これだけ視聴習慣が変わってくると、放送をリアルタイムに見ている視聴者だけを数える「視聴率」って、意味をなさないのではないかと思う。そして、テレビを見る人は減ったというけれど、ドラマでもドキュメンタリーでも、やっぱり私たちは、面白い番組を待っているのだ。

 このシリーズは、文句なく面白かった。世界で初めて撮影されたというダイオウイカの映像のインパクト。またその映像が、どんなSF作家にも演出家にも作り出せないくらい、美しいし神秘的だし(あのメタリック・ゴールド、大きな目)。あ、でも久石譲の音楽は、映像の魅力を三割増しくらいにしているかもしれない。

 このプロジェクトに参加した科学者たちの、生き生きした表情も印象的だった。深海生物の出現や撮影に立ち会ったときの、子どものように無邪気な喜びかた。好きなことを仕事にするって、こういう表情をつくるんだな、と思った。とりわけ、40年にわたってダイオウイカを追ってきた窪寺恒己博士が潜水艇に乗り込み、ついに23分間、生きたダイオウイカとの邂逅を果たしたあと、チームメイトが拍手で迎えるシーンは感動的だった。窪寺博士と同様に、未知の何かのために人生を捧げている研究者が、世界中にいるんだろうな。そういう時間のかかる基礎研究を「税金の無駄遣い」で切り捨てないでほしいな…。

 私は子どもの頃、ジュール・ベルヌの『海底二万里』が大好きで、繰り返し貪り読んだ。ベルヌの作品の中では一番好きだったと思う。科学と虚構がほどよくブレンドされた「現実味のある空想科学小説」だったし。一方で登場人物には、子供心に謎を残す複雑な陰影があった。ノーチラス号が遭遇する巨大生物は、原文では「タコ」と「イカ」が混用されているという。私が読んだ本も、あるものは「イカ」、あるものは「タコ」になっていたと思う。

 それにしても、ダイオウイカの出現ポイントが小笠原諸島沖にあるとか、深海ザメの王国が駿河湾・相模湾にあるとか聞くと嬉しくなる。石油や鉱物資源があると聞くより嬉しい。どうか日本人が、この貴重な隣人と末永く付き合っていけますように。
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日本美術関連のAndroid版アプリ

2013-02-23 22:30:43 | 見たもの(Webサイト・TV)
 今年の正月に携帯をスマートフォンに変えた。若者みたいにガンガン使いこなすつもりはハナからないのだが、ようやく分相応に必要な使い方は分かってきた気がする。最近、落としてみたアプリが3つ。どれも無料だ。

「e国宝」

 東京国立博物館のサイトに、2013年2月5日付けで「Android版をリリースいたしました」というニュースが載って、やった!と思った。「国立文化財機構の4つの博物館(東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館、九州国立博物館)が所蔵する国宝・重要文化財を高精細画像で鑑賞できる」アプリである。2010年からWeb上に公開されている「e国宝」と内容は同じ(たぶん)。以前はiOS版しかなかったので、スマホを持つなら、やっぱりiPhoneかなーと、かなり真剣に悩む要因になっていたもの。

 Webアプリなので操作性は通信速度に依存する。私の機種だと、残念ながら詳細画像はサクサク閲覧というわけにはいかない。でもかなり嬉しい。正月に京博で展示していた十二天像や山水屏風もこれに入っているので、もうちょっと公開が早かったら、手元で拡大図を確認しながら現物を鑑賞することもできたのに、と思う。

根津美術館

 これもWebアプリ。開いたときに次々に画面を流れる高精細画像はかなり楽しい。しかし「デジタル・ギャラリー」から個別の作品を開こうとしたら「お使いの機種は Adobe Flash Player がサポートされていません」というメッセージが出てしまった。え? Android用フラッシュの配布が2012年8月15日に終了していたなんて、全然知らなかった(スマホ初心者です)。

 何か方法はあるに違いないと思い、Google Playを探しまわり、はじめはあやしいインストーラーに手を出して、慌てて削除したりしたあげく、昨日、「非公式」を名乗っているけれど、どうやら信用のできそうなインストーラーを見つけた。(2日前にこんな紹介記事が出ていたのを、さっき発見)

 flashをインストールすると、一部の画像は見られるようになったが、古いレビューどおり、細部まで拡大表示できる作品もあれば、画像は見られるけど拡大できない作品、いくら待っても表示されない作品もある。画像のバージョンとflash最新バージョンとの相性なのかな? 国宝『那智瀧図』は拡大再生できたけど、最大表示すると画像の精度が追いついていなくて、やや興ざめ。あと、そもそも絵巻の類は全体を流しながら見たいのに、Webギャラリーと同じで、ぶつ切りの部分画像しかないというのも不満に感じる。

細川家の名宝「長谷雄草紙」

 「本アプリケーションは、2012年1月より開催される九州国立博物館『細川家の至宝』展開催を記念して、2012年3月までの限定公開版アプリケーションです」とあるが、2013年の今でもGoogle Playで入手できる。以前、iPadアプリ「細川家の名宝」の発売(2011年)に驚いた記事を書いたことがあったが、偏愛する『長谷雄草紙』だけ入手できれば、私は満足。

 これはすごい。詞書も含め、巻頭から巻末まで一続きの画像を、指で左右にスライドさせながら、楽しむことができる。まさに掌中の絵巻ものだ。かなりの拡大にも堪える画質で、しかし重すぎないのがよい。これくらいの品質で、日本絵巻大成が全部アプリ化(電子書籍化)されたら幸せだなあ。むろん有償でも買うぞ。
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