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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。
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韓国旅行写真帖(2)慶州その1

2003-08-31 18:40:41 | ■アジア(中国以外)

■掛陵(けりょう)

典型的な韓国の陵墓の風景である。松林の中に開けた草地。なだらかな緑の土饅頭。韓国では、墳墓に樹木を植えると、その根が地中の死者を苦しめると思われているので、絶対に植えないとの話。

■仏国寺(プルグクサ)

典型的な韓国の仏像。金ピカ、目鼻立ちくっきり。後背がなく、代わりに極彩色で大画面の仏画を背負っている。これはこれで、見慣れてくると趣きがあるのだが。。。合掌。

■仏国寺(プルグクサ)の回廊

「エンタシスだね」と指摘するのが気恥ずかしくなるくらい、はっきりしたエンタシスの列柱である。

■瞻星台(チョムソンデ)

東アジア最古(7世紀)の天文観測台と言われている。使われている石の数は362個で太陰暦の1年の日数と一致するとか。

■市場

 

左:看板の「トク」は「餅」。棚に並んだ、アメリカのジェリービーンズのようにカラフルな商品は全て餅菓子である。

右:唐辛子ショップ。原材料から、引き立ての粉まで(コーヒー店みたい)。

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韓国旅行写真帖(1)釜山~安東周辺

2003-08-31 18:31:52 | ■アジア(中国以外)

■釜山

朝7時過ぎのチャガルチ市場。海岸に沿った一本道沿いの細長い一角で、ほとんどが鮮魚店か乾物店。海岸に背を向けた側には、仮設小屋や、屋根もない路上商売の列。海岸に面した側には、2階建て・3階建ての大きな店舗が並ぶ。

■通度寺(トンドサ)

韓国の大きな寺院には、地面から少し高くしつらえた鼓楼があって、大きな太鼓を守るように「木魚」が下がっている。日本や中国の禅宗寺院では「魚板」(かいぱん)と呼ばれ、楽器として打ち鳴らされるが、韓国では叩かれている様子はない。単なる飾り物である。お寺によって個性があって、かわいい。必ず玉をくわえている。

■同じく通度寺(トンドサ)

お寺の鐘は、非常に低く、地面すれすれに吊るすのが通例。しかも真下の地面をすりばち状に掘り下げている。

■河回村(ハフェマウル)の仮面劇

お面は木彫りに彩色したもの。大きさは多様だが、顔の全面を覆ってしまうタイプ(日本の能面よりかなり大ぶり)が多い。

■屏山書院

門扉には赤と青の「大極図」が描かれている。ほかの書院も同様だった。このデザインは、韓国の国旗や大韓航空の翼のマークとしてもおなじみ。陰陽の哲理をあらわしたものらしいが、なぜ韓国では白と黒ではなくて、赤と青なんだろう?

■鳳停寺(ポンジョンサ)

韓国寺院の典型的な山門。屋根が頭でっかちで脚部が細い。一柱門(いっちゅうもん)と言う。これをくぐって参道をしばらく歩くと、巨大な四天王が窮屈そうに常駐する天王門に行き当たる。

■鳳停寺(ポンジョンサ)の帰り道

我々のためにリンゴを物色するガイドさんたち。水色のブラウスが鄭さん。グレーのズボンが宋さん。

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韓国旅行2003【最終日】ソウル→成田

2003-08-30 18:21:10 | ■アジア(中国以外)

 最終日のフリータイムをいかに有効に使うか、昨日から入念な協議の結果、まず国立中央博物館へ向かう。開館と同時に入館し、興味に応じて自由行動。1階の高麗青磁と白磁を「まさに圧巻」と賞美したのはSGさん。私は2階の考古資料と地階の仏像に重点を置き、1階を中抜きした。

 すばやく地下鉄で移動して昌徳宮(チャンドックン)へ。ソウルには5つの古宮があるが、ここは最も華麗な宮殿建築が残っている。自由参観ができず、定時に出発するガイドツアーに参加しなければならないため、10:30の日本語ツアーに参加する予定であった。チケットを購入して、混雑する入場ゲートを通り抜け、ガイドさんの周りを見回すと、SGさんとISさんしかいない。他の面々はゲートで止められていたのである。慌てて日本語の分かる係員に聞いてみると、「次の日本語ツアーが5分後に出ます」とのことで、先に入った3名は後続の入場を待つ。思わぬ38度線もどきになるところでした。

 参観を終え、一足先の飛行機で関西に帰るNMさんとはここでお別れ。東京組はいましばらく観光を続ける。隣の昌慶宮(チャンギョンクン)は観光客も少なく、のんびりした雰囲気だった。ブリッジを渡って、地続きの宗廟(チョンミョ)に入ると、管理員らしいお兄さんが近寄ってきて「私はガイドではありませんが、少し説明してあげましょう」と日本語で申し出る。ここは朝鮮王朝歴代の王と王妃の位牌を祀る霊屋(みたまや)。御廟の中心に向かって、黒い瓦を敷いた排水溝のような細道が延びているのは魂の通り道だという。「魂の道を、歩いちゃったりして」なんて、バチあたりなことを考えたのがいけなかったのか、出口にたどり着く直前、突然、バケツをひっくり返したような大雨が降り始めた。あるいは南山で雨を止めた天の神様が、最後に「帳尻あわせ」を試みたかのようである。大門の庇の下でしばし雨止みを待つ。

 なんとか小降りになってきたので、覚悟を決めて歩き出し、タプコル公園を経て仁寺洞(インサドン)に至る。特に目的はないものの、雑貨屋さんや韓紙屋さんを覗きたかったが、「やっぱりご飯だよね」というKRさんの意見に従い、ビビンバで昼食。「簡単に済ませて」と言ったって、ビールが入ればそうはいかない。結局、時間切れでホテルに直帰。

 しかし、約束の15:00にホテルに戻ってみると、ロビーには専用車の運転手さんの姿しかない。NMさんの出発を見送って戻ってくるはずの金さんから、フロントに電話が入る。交通渋滞で30分ほど遅れているとのこと。分かっていれば仁寺洞でもうちょっと観光できたのに、ちょっと残念。

 ロビーのお土産屋を冷やかして待ち続けたが、15:30近くなっても金さんは現れない。そのうち、ISさんが「運転手さん、出発するって」と告げる(運転手さん=日本語だめ、ISさん=韓国語怪しい、ということで身振り手振りで意思疎通したと思う、とISさん)。しかし、一体、金さんはどこでどうやって合流するつもりなのか。バスは交通渋滞のソウル市内をのろのろ進んでいく。

 延世大学の付近で車に走り寄る人影があり、ドアがノックされる。ドラッグストアの店内で車の流れを見張っていた金さんだった。「何も買わないわけにもいかなかったので」と、金さんからビタミンドリンクを1本ずつプレゼントされ、韓国最後の乾杯?となりました。

 こうして多少のドタバタのうちに韓国ツアーは閉幕し、成田に帰り着いたのは予定どおり夜の9時過ぎ。プチ贅沢を決め込み、成田エクスプレスで各自の家路に着いたのでした。(終)

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韓国旅行2003【8日目】儒城→ソウル

2003-08-29 18:16:15 | ■アジア(中国以外)

 それぞれ早起きしてホテル併設の温泉へ。ジャグジー、サウナ、水風呂などのほか、オンドル床に上がって麻袋をかぶる韓国式サウナ(汗蒸幕=ハンジュンマク)の設備もあり、マッサージ用の寝台には黒ビキニのおばさん(マッサージ師)が待機していた。ちなみに男湯の観察によれば、韓国人は前を隠さないそうで、全裸でマグロのように寝そべっているおじさんもいたとか。女湯でも洗い場にぺたりと座り込んで石仏にように動かないおばさんを見かけた。

 ガイドの金さんから「今日は時間の余裕があるので、ソウルに着く時間が遅くなってもよければ、扶余にもう一度行くこともできます」との提案。そこで甲寺(カプサ)見学のあと、再び扶余に向かうことにする。昨日は見るだけだった扶蘇山城址を歩き、百済滅亡の際、三千人の宮女が身を投げたという百花亭、その霊を慰めるために建てられた皐蘭寺(コランサ)を見る。白馬江(この下流が白村江)では遊覧船にも乗れて満足。

 そろそろお昼時だが、次の目的地の水原(スウォン)がカルビの名産地のため、我慢して水原に向かう。水原華城は周囲を城壁に囲まれた城郭都市。ソウルから手頃な日帰り観光地なので、龍の頭を付けた観光トラムも巡回している。ちょうど下校時間にあたり、華虹門の前を、白いブラウスにタータンチェックスカートの制服を着た女子高生が続々と通っていく。さすがに渋谷の女子高生のようなミニスカート娘はひとりもいない。

 交通渋滞に悩まされながらソウルに到着。仏教寺院や古代の史跡をまわっている限り、同じ漢字圏の気安さがあったが、ソウルでは一挙にハングル文字の世界に放り込まれる。夜は貞洞劇場で伝統芸能の公演を鑑賞。現代的な作為を加え過ぎの感もあったが、迫力があって面白かった。

 南大門市場を通ってホテルに戻る。24時間営業の屋台や食堂から香ばしい匂いが流れてくるので「ここで夕食にしようよ~」と訴えるが、団長のISさんは「却下」とつれない。それでも団長の目を盗み、トッポッキ(餅の甘辛煮込み)やキムパプ(のりまき)を買い食いする。

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韓国旅行2003【7日目】光州→儒城

2003-08-28 18:12:29 | ■アジア(中国以外)

 光州を出発。ツアー後半の舞台となる韓国西部は、山がちな東部と異なり、山の稜線がなだらかで、開放的な風景が続く。心なしか大和盆地に似ている。朝、バスの中で携帯電話に着信を受けた金さんが、恥ずかしそうに「父からです」と告白。「もう30歳を過ぎているのに」仕事で地方に出ると、毎日、必ず、娘の予定を確認する電話が入るのだそうだ。

 金山寺(クムサンサ)を経て、百済王朝の最後の都、扶余に至る。定林寺(チョムリンサ)址には五重塔と巨大な石仏が残っている。ベレー帽をかぶったテルテル坊主のような石仏の異形ぶりに感嘆(石窟庵の石仏とあまりにも対照的!)。蓮の咲きそろう宮南池をそぞろ歩き、葉っぱ包みご飯(サムパプ)で昼食。皿の上には、野草なのか野菜なのか、あらゆる色とかたちの葉っぱが山盛りにされており、これに肉や野菜を包んで食べる。

 今日の予定は盛りだくさん過ぎて、ガイドの金さんは困り気味。「扶蘇山と白馬江は見るだけにして博物館で時間をとりましょう」と提案。扶余博物館では、てのひらサイズの金銅仏に百済仏教美術の栄華を偲ぶ。韓国には大型の古仏はほとんど残っていない。壬辰・丁酉の倭乱(文禄・慶長の役)で破壊し尽くされたことになっているのだが、実は意外に残存しているにもかかわらず、金メッキ仏に姿を変えているため、古美術愛好家の印象に残らないのではないかと思う。如何?

 続いて公州に向かい、『日本書紀』にも登場する武寧王の御陵を見学。むかしは本物の墳墓に入れたらしいが、現在は模造館で擬似体験しかできない。公州博物館では、前庭に置かれた動物の石像がキュートで笑えた。ここでなぜか慶州のスマイル瓦をモチーフにしたハンカチを発見し、SGさんとKRさんはお土産用に10数枚を買い占める。百済の王城であった公山城址は緑豊かな公園になっており、子犬を連れて散歩する女性や、じっと糸を垂れる釣り人の姿も見られた。

 儒城(ユソン)温泉に到着。夕食はトガニタン(牛の膝や軟骨の煮込みスープ)で、この手の料理を苦手とする私もこわごわ挑戦する。思ったよりくせがない。

 ホテルに戻る途中、コンビニでIKさんの調達したワインは、この夜、栓抜きを持った天使が久々に来臨して頂戴してしまった。いつもの中国ツアーは夕食時にビールしか飲まないため、夜の宴会に流れ込むのだが、今回は夕食の席で腰を落ち着けて飲んでしまうことが多く、宴会の回数は少なかった。しかし、初参加者の功も大いにあり、ツアーを通してのアルコール摂取量は大幅に増加していたと思われる。

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韓国旅行2003【6日目】慶州→光州

2003-08-27 18:08:47 | ■アジア(中国以外)

 朝から「筋肉痛出てる?」「まだ大丈夫」など中高年会話を交わしつつ、慶州をあとに、海印寺(ヘインサ)へ向かう。今日も天気はすぐれない。海印寺は高麗大蔵経の版木8万枚余を収蔵する名刹で、世界遺産にも指定されている。境内に到着するとまもなく雨は本降りとなった。版木の収蔵閣は簡素な土壁造り、荒い格子の窓から雨が吹き込むのではないかと心配するが、よく風を通し、湿気を素通りさせることで黴を生じさせないのだという。資料を厳重に閉じ込め、温度や湿度を一定に管理する近代的な収蔵庫を見慣れた目にはあまりにも新鮮であった。

 新しい博物館を見学し、墨染めの布を用いたセンスのいい海印寺グッズをあわただしく購入。この時点で、既にタイムスケジュールを大幅に超過している。昼食は「車中でいいじゃない」と衆議一決。参道の小さな食堂で雨宿りをさせてもらいながら、おばさんが手際よく焼き上げたチヂミ(またしても)をテイクアウトしてバスへ。紙コップを取り皿代わりにして車中で昼食。もちろん缶ビールは忘れない。

 韓国の名刹は山寺が多いが、とりわけこの日訪ねた3つのお寺はいずれも深い山中にあった。華厳寺(ファオンサ)では、お堂や塔の軒下に吊り下げられた風鐸の軽やかな音が、周囲の峰々に吸い込まれるように消えていく。四体の獅子が頭にかついだ石塔のデザインがかわいい。

 夕方、松広寺(ソングァンサ)に到着。山門を兼ねた鼓楼の上で、数人の若いお坊さんがダンスのように入れ替わりながら、大きな太鼓を連打している。夕方のお勤めが始まる合図らしい。先に到着していた若者の一団は、仏教関係の学生でもあるのか、お堂に招き入れられたが、我々は写真撮影をやんわりと禁じられ、奥に進むことも止められてしまった。韓国では「仏」の通度寺、「法」の海印寺、「僧」の松厳寺を三大名刹と称している。ここは僧侶の修行の場として今も生きているお寺なので、残念だがしかたない。

 とっぷり日も暮れてしまったので、門前の食堂で夕食とする。野趣豊かな山菜御膳が並んで大満足。ほろ酔い機嫌でテレビを見ていた店主のおじいちゃんは日本語教育を受けた世代で、白髪の目立つKRさんのご主人に「あんたはあたしと同い年だね、74歳」、茶髪のNMさんには「あんたは18歳」と次々に年齢当てのサカナにされる。「いや~楽しいねえ」とご満悦。この日は光州泊。

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韓国旅行2003【5日目】慶州南山ハイキング

2003-08-26 18:01:24 | ■アジア(中国以外)

 この日は慶州南山(ナムサン)で石仏巡りハイキングの予定。最も天候が気にかかる1日である。これまで我々の中国ツアーは、五台山、長白山、峨眉山など「名山に登ると雨に遭う」ジンクスにつきまとわれてきた。唯一、好天に恵まれた泰山ツアーはIKさんが不参加だったため、以来、IKさんに雨男の嫌疑が懸かっている。

 3つの御陵が縦一列に並ぶ三陵に到着すると、果たして雨が落ち始めた。しかもハイキングコースの入口である三陵谷は、昨夜の雨で通行止めだという。拝里三尊と呼ばれる石仏を拝観しながら雨止みを待つ。曲水の宴の址といわれる鮑石亭(ポソクチョン)(それにしては回転寿司のカウンターみたいに小規模)の脇から別ルートがあるという情報を得て、「まあ、行けるところまで行ってみましょう」と気楽に断ずる宋さん。これから何時間歩くつもりなのか?どんな道なのか?何があるのか?よく分からないまま、我々は素直に付き従う。

 次第に上り坂になってはいくものの、比較的なだらかな道が続く。途中、山林保安員のお兄さんに「そんなペースで歩いていたら日が暮れるよ」と揶揄されたり、日本語の分かるおじいちゃんの登山グループと連れ立ったりする。しかし、石仏巡りと聞いていたわりには、一向にそれらしいものに当たらない。

 最初の目的地の茸長寺(ヨンジャンサ)址と呼ばれる地点が近くなった頃、中学生くらいの男の子たちの遠足集団に取り囲まれた。山ザルみたいに身軽で元気な男の子たちを、これも元気で声の大きい女の先生が引率している。狭い急坂を山ザル集団と一緒に下っていくと、急に視界が開けて、絶壁の突端に三層の石塔が立っていた。

 どうやら雨の心配はなくなったので、このまま先に進むことに決定。同時に、昼食抜きも決定である。「こういうこともあるかと思ったのよ!」と準備のいいKRさんが、初日の機内食の残りであるパンとバターを取り出し、一同、ささやかな配給を受ける。なんだか、山上の垂訓みたい。

 しばらく平坦な尾根道が続いたあと、岩の間を縫うような険しいアップダウンの繰り返しに入る。ところどころ、両手両足でバランスを確保しながら上り下りしなければならない。木の枝に結ばれたリボンの道案内をたよりに、先頭を行くのは宋さん。鄭さんは気をもんで「先輩、大丈夫ですか~!?」と日本語と韓国語で何度も声をかけるが、宋さんは悠然とマイペースで進んでいく。一方、「皆さん、こんなコースだって知ってたんですか?私、もう二度と来ないですよ~」と素直にへこたれる鄭さん。

 いくつか山頂を越えると、脇道に「→神仙庵」の標識(むろんハングル)。ISさんが行ってみようとするが、垂直の崖にわずかに張り出しただけの細道を見て「やめたほうがいい」と躊躇。「何があるの?」と聞くと「磨崖仏があるはず」というので、私が前に出る。傍目に感じるほど危険な足場ではなく、岩壁伝いに反対側に回り込むと、線刻の菩薩半跏像が、虚空に向かって微笑んで待っていました。しばしの眼福。

 神仙庵から急坂を下ると、ちょうどさっきの磨崖仏の真下に七仏庵がある。岩壁に三尊を刻み、その前に置かれた直方体の岩にも四面石仏を刻んで(名づけて「サイコロ石仏」by みうらじゅん)、計七仏となる。隣にはこの石仏を奉ずる庵主の家があり、トイレと水道を借りる。KRさんの話では、いさぎよく顔を洗おうとしたとき、宋さんに「お化粧は?」と心配されたとか。KRさんのご主人の観察では、白い手袋でガードした宋さんの指先にはきれいなマニキュアが施されていたそうで「こういう気遣いが若さを保つ秘訣なんだよ」と、一部の女性陣に耳の痛い教訓。

 さらに険しい坂道を一気に山裾まで下る。唐辛子畑の脇に出て、断食修行の一日が終わったのはほぼ夕方の4時でした。手打ち麺の食堂に向かい、胡麻だれの冷し麺、どんぐり豆腐のサラダ、チヂミ等々を、あっという間の完食。そしてビールの美味しかったこと。

 この日、ハイキングが早めに終われば、当初の予定には入っていないが、慶州博物館に行きたいと考えていた。「5時閉館だからもう無理でしょう」と宋さん。しかし、私の『地球の歩き方』には8時までとあるので、電話で聞いてもらう。その結果、7時まで開館と判明。早々に食事を済ませて、博物館まで送ってもらう。宋さんと鄭さんのお仕事は今日で終了のため、名残惜しいが、ここでお別れである。最後まできっちり仕事をする宋さんは、博物館の門衛のおじさんに事情を話して、7時にタクシーを呼んでもらう約束を取り付けてくれた。

 この博物館、ISさんとIKさんはリピーターのため、散開して自由行動とする。しかし、複数の建物が構内に散らばっていて初心者には分かりにくい。私は、ラッキーにも誰かが置き忘れた館内の案内冊子を拾い、これを参考に全館を漏らさず参観。慶州観光のシンボルになっている謎の「スマイル瓦」も見つけました。

 ホテルでは、ツアー後半を担当する、新しいガイドの金さん(35歳、おっとりした独身女性)と対面。最後まで慶州の夜を楽しみたい一同は、ホテル近くの野外劇場で行われている伝統舞踊の公演を見に出かける。KRさんから「ところで夕食はどうするの?」という質問あり。さっきの食事から4時間しか経っていないが、もう1食、食べられないわけでもない。

 そこで、飲みもの班と食べもの班に分かれ、飲みもの班はコンビニで缶ビールを調達。食べもの班は食堂でチヂミを2皿テイクアウト。野外劇場の客席で、風に吹かれて伝統舞踊を鑑賞しながら夕食とする。このツアー、手頃なファーストフードであるチヂミ(薄いお好み焼き)にはすっかりお世話になりました。

 結局、石仏は数えるほどしか見ることができなかったが(通行止めで迂回した三陵谷の周辺が石仏のメッカらしい)、日本でも滅多にしない本格ハイキングで、それなりに楽しめた。それにつけても、登山運の悪い我々が、ついに雨に遭わなかったのは何故?この日1日、IKさんが、膝の痛むSGさんをいたわり、代わりにデイパックを背負ってあげた功徳なのではないか、と噂し合い、ここに新たな伝説が生まれたのでした。

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韓国旅行2003【4日目】慶州

2003-08-25 17:56:18 | ■アジア(中国以外)

 朝、韓国のテレビをつけたところ、暴風雨の中、レポーターが今にも濁流に沈みそうな橋をレポートしている。どこの話か分からないまま、画面が切り替わってしまったが、前夜のソウルは大雨だったらしい。

 この日の慶州もはっきりしない空模様だった。まず、東部海岸に出て、文武王陵を見学。御陵は海岸線から200メートルほど隔たった海中の岩場なので(鎌倉の和賀江島みたい)、波打ち際からこれを望む。この海中陵から龍に化身した文武王が通ったといわれるのが感恩寺(カムウンサ)址。緑したたる田地の中に、訪れる人もまれに2つの石塔が並び立っている。

 次に掛陵(けりょう)へ。韓国の陵墓は周囲を樹林に囲まれているが、墳墓自体には絶対に木を植えないそうだ。よく手入れされた緑の芝が清々しい。十二支のレリーフや参道の石像を見飽きなかったが、次第に雨が強くなってきたため、近所の焼き物工場に退避する。女主人の達者な日本語に乗せられて、コーヒーマグを購入。そうこうするうち、お昼になってしまったので、豆腐チゲの店で昼食。ガイドの鄭さんが休みの日に家族と来るというお奨め店だけあって、よく流行っていて美味しい。

 雨も止んできたところで、午後は慶州観光のメインである石窟庵と仏国寺に向かう。日本で言えば東大寺と法隆寺か、京都の清水寺と言うところ。サマーキャンプの子供たちや、ユニバーシアードの選手らしい大柄な西洋人の姿も散見する。

 「山の郵便配達が偶然発見した」という魅惑的な伝説つきの石窟庵(ソックラム)へは、曲がりくねったドライブウェイをどこまでも上がっていく。車を下りると、さらに遥かな丘の中腹にお堂の屋根が見えていて、気分を盛り上げながら石段を上がる。本尊はガラスで厳重に守られており、正面からしか見られないのだが、「手塚治虫の描くブッダのような」(byみうらじゅん)、完成度の高い美形仏だった。韓国では、仏像の鼻を削って飲むと男児にめぐまれるという俗信があるため、顔面の破壊された石仏が多いという。そんな中で、この美形仏の顔面が保たれたのは奇跡と言っていいだろう。

 このとき、石段の登り口の小さな小屋に、漢字で「朱印」と書かれたさりげない木札が出ているのを発見。あやしく胸がときめく。帰りは小屋を素通りしてしまったが、山門のそばのお土産屋さんにも「朱印stamps」という看板があったので、勇気を出して「ご朱印はありますか?」と聞いてみた(日本語)。しかし「ありません」とつれない返事。もうちょっと粘ってみれば、海外初のご朱印をゲットできたかなあ。

 仏国寺(プルグクサ)は、基壇に巨石をふんだんに用いた雄大な伽藍が参詣者を出迎え、多様なかたちの石塔が目を楽しませる。とりわけ秋は、無常の美学を演出する華やかな紅葉と、永遠を感じさせる石の芸術の対比が素晴らしいだろうと感じる。回廊には強いエンタシスの円柱が並び、仏像も多くて、見飽きない。

 これで本日の予定は終了だったが、私の希望で古墳公園の瞻星台(チョムソンデ)に連れていってもらう。基部の太いワインデカンタのような形をした瞻星台は、新羅の善徳女王時代の建造物で、東アジア最古の天文観測台と言われている。いつの間にか戻った青空の下、慶州金氏の始祖伝説の地、鶏林(ケリム)と呼ばれる樹林の周囲を散策する。イギリスかドイツの公園のようだった。

 その後、「ちょっと市場でも歩きましょう」という宋さんの提案で駅前の市場を散策。古いものにしか興味のないISさんとIKさんは時間をもてあますが、KRさん、SGさんは大いに買い物本能を刺激され、食材を大量購入。夕食は優雅な韓定食でした。

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韓国旅行2003【3日目】安東→慶州

2003-08-24 17:53:00 | ■アジア(中国以外)

 海鮮食堂で牡蠣雑炊の朝食(美味!)をすませ、浮石寺(プソクサ)に向かう。車中の説明を聞きながら、浮石寺が義湘と善妙ゆかりの寺であると初めて知り、そうか、義湘って新羅人だったんだ、とあらためて気づく。京都の高山寺に伝わる『華厳宗祖師絵伝』で、小さな善妙尼が海に飛び込み、巨大な龍に変貌する一瞬は、私の鍾愛する日本美術の逸品。ところで、本尊は高麗時代(10世紀~)の古仏だというのだが、前衛舞踏家みたいに全身金ピカ、顔にはくっきりと化粧が施されていて、どう見ても今出来の粗悪品にしか思えない。

 帰り道の参道で、テント掛けの売店から、ふかしトウモロコシとリンゴを買う。淡い黄色と濃紫色の粒が宝石のように並んだトウモロコシは、噛めば噛むほど甘い。リンゴはKRさんが後部座席で手際よく皮むきして皆さんに配給、これも果肉が締まっていて美味。

 昼食は紹修書院のそばで、山菜ビビンバ、鳥肉のトマトソース煮、トンドン酒という甘酸っぱいどぶろく風のお酒をいただく。

 山深い鳳停寺(ポンジョンサ)は立原正秋ゆかりの寺。姿は見えないが、今も修行僧が暮らしている気配があり、縁側に唐辛子が干してあったり、地面に半分埋まったキムチの壷が並んでいたり、立原の小説を思わせるような清浄な生活感が漂う。

 安東市の中心部に戻り、崖の上から車の流れを見守る泥川洞石仏(頭部は洗練された彫像なのに、体は自然の大岩を利用しているのが面白い)、陶山書院、新世洞七層磚塔を訪ねる。盛りだくさんの日程をどうやらこなし、慶州に向かって再び南下を始めた。

 ところが大邱(テグ)北郊で大渋滞にはまる。この日は旧盆に当たる秋夕(チュソッ)直前の日曜日。混雑の予想される旧盆は避けたつもりだったが、法事の前にまず一度、墓地の掃除や草取りに帰郷するのが、先祖を大事にする韓国の習慣らしい。この草取り帰省の渋滞にはまってしまったのだ。サービスエリアで小休憩を取り、NMさんが買ってきた鈴のかたちの人形焼(餡入り)を分け合って、しばし空腹を抑える。

 夜8時過ぎ、「いよいよ慶州です」とガイドの宋さん。しかし、新羅千年の都と称えられる慶州は、古代遺跡を守るため、中心部に厳しい建築規制が敷かれている。「いま博物館の前です」と説明されても真っ暗闇で何も見えない。ホテルやレストランのあるリゾート開発地区まで、さらに20分ほど車を走らせる。

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韓国旅行2003【2日目】釜山→安東

2003-08-23 17:49:41 | ■アジア(中国以外)

 二日酔いの心配なきにしもあらずだったが、翌朝はスッキリ早起き。焼酎は残らなくていい。海岸を目指して散歩に出る。ホテル周辺は閑散とした雰囲気だったが、チャガルチ市場と呼ばれる海鮮市場に到着すると、そこだけは別世界のように活気に満ちていた。市場の入口には、新鮮な朝陽を浴びて、豚の頭がころがっていた(ガイドの宋さんの話では、豚の頭はお祝い事にかかせない縁起物である由)。あとは海産物を並べた小さな店が文字どおり軒を連ねている。悠然とタライをかついだおばちゃんたちのダミ声には迫力があった。

 釜山をあとに専用バスで北上する。通度寺(トンドサ)に立ち寄ると、木魚の音と読経の声が響いている。若いお坊さんが銀色の飯碗を両手に高く捧げ持ち、灰色の衣を翻しながら、早足で境内を行きつ戻りつしている。昼のお供物を差し上げる時間なのだろう。韓国のお寺はどこも日本に比べて信仰の現役度が高い。ちなみにこの通度寺は、みうらじゅんといとうせいこうの見仏コンビも訪れている。このツアー、『韓見仏記』の足跡とかなり重複しており、「カラフル&ポップな四天王」「韓国の仏像って絵が先なんだよ」など、彼らの観察が実に正鵠を射ていることを確認する楽しみがありました。

 昼食を高速道路のサービスエリアで簡単に済ませ、さらに北上。安東(アンドン)の河回村(ハフェマウル)に到着した。ここは両班(ヤンバン)と呼ばれる士族階級の村が野外博物館のようにまるごと保存されている。野外の円形劇場では、伝統的な仮面劇の公演が始まろうとしていた。これは、道端で小用する芸妓に色目をつかう坊主など、猥雑でストレートな滑稽を主題とした農民の娯楽。言わば田楽である。何番目かの演目で、貧乏な機織りの老婆が登場し、天を仰いで独白。と、老婆はIKさんの前に直行し、木椀を差し出して喜捨を乞うポーズ(客席で一番のお大尽に見えたのか?)。苦笑してやり過ごしたが、韓国人の観客は慣れたもので、俳優と即興の掛け合いに応じ、踊りの輪に引っ張り出されても楽しんでいる。

 仮面劇のあとは村内を散策。土塀の間を曲がりくねって続く道、ぶった切りの丸太をそのまま柱にした家など、庶民の家は曲線の美しさが際立つ。文禄の役に活躍した柳成龍(ユ・ソンリュン)、柳雲龍の宗家は、上流士族らしく、ひときわ整然とした門構えである。土産物屋や民宿を経営している家もあるので、中には興醒めの商業主義の看板もあるのかも知れないが、ハングルが読めないのが幸いして、無文字の村に来た気分を楽しめた。

 バスに戻り、西に傾く太陽に急かされながら、山道を分け入って屏山書院に向かう。書院とは儒学者の私塾である。今回訪ねた「嶺南の三大書院」は、いずれも風光明媚な山中(そして必ず河畔)にあったが、中でも屏山書院が私のお気に入りだった。滔々と流れる大河に面し、風の吹き抜けていく楼閣が、川床のようで気持ちいい。ここに寝転んで、一日、本でも読んでいたいと思う。

 安東市内に戻り、「カリフォルニアホテル」という、名前も造りも少々あやしいホテルに到着。夕食はフグ料理とのこと。こんな内陸で?と奇妙な感じがしたが、韓国では海鮮料理がご馳走の基本らしい。名産の安東焼酎で盛り上がる。

 「味はどうですか?」と心配して我々のテーブルに寄って来た鄭さん。車中や観光地での説明は宋さん、食事などの手配は鄭さんの受け持ちらしい。鄭さんは日本語の理解力・表現力も十分で、普通の日本人ツアーのガイドには何ら遜色ないと思う。しかし、我々の依頼したコースがあまりにマニアックだったため、「自信がない」と上司に相談。1都市から2人のガイドが付くことは普通考えられないが、鄭さんの所属する旅行社は、敢えて宋さんの同行を願い出たのである。

 宋さんが「名人ガイド」であることは、この1日で我々もすっかり納得していた。朝鮮史や日本史はもちろん、正確な知識を記憶から自在に引き出し、政財界の裏話から実際に見聞したお客さんのおもしろエピソードまで、硬軟とりまぜた話芸は無形文化財の域に達している。しかも、75歳にして、現状に満足せず、これから修士号を取って後進を指導する側に立ちたいという目標も持っているという。

 ツアーガイドは個人営業が基本なので、ひとり立ちしてしまうと同業者の仕事を見聞できる機会は滅多にない。そのため、今回、鄭さんは、宋さんのガイドぶりを徹底的に観察し記録するという重大な使命を帯びていた。宋さんが話し始めると、鄭さんはすかさず小型録音機をオンにして、我々以上の熱心さで宋さんの横にピタリと着く。「今回の録音を待っている後輩がたくさんいるんです」とのこと。とは言え、宋さんのパワーには早くも押され気味の様子で「絶対、言っちゃだめですよ」と念を押し、「先輩、朝の5時に起きるんですよ~」と愚痴をこぼしていた。最後は「これも修行です」とあきらめ顔。

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