「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

我が家のオーディオは「9割・90点主義」

2022年02月09日 | オーディオ談義

いつも、ああでもないこうでもないと「100点」満点を目指して気を張り詰めながら真剣にオーディオに取り組んできたが、さすがに寄る年波には勝てず(笑)、少々気疲れするようになった。

で、この頃では手を抜き加減にして、
むしろ(オーディオを)「100点未満」の段階に意識的に留めておくほうがいいんじゃないかと思い直すようになった。

つまり、機器の能力を「9割」ぐらい引きだせればそれで「御(おん)の字」だし、音質だって「90点」ぐらい行けばもう十分。残りの1割と10点はこれからの楽しみにとっておこうというわけ。

言い換えると「足るを知る境地」(森鴎外「高瀬舟」)とでもいいますか。

成長したのかなあ~(笑)。

とはいえ「80点主義」という言葉にもあるように、「8割・80点」でもいいんだけど我が家ではちょっと手を抜きすぎる感がするのでやはりここは「9割・90点」じゃないとダメ。

とまあ、勝手に自分自身に言い聞かせているところだが、具体的に実践例を挙げてみよう。

以下、相変わらず自画自賛気味になるので気になる方はここで撤退されても結構ですからね(笑)。

まずスピーカー(以下「SP」)群の中で我が家の顔ともいえる「AXIOM80」。



グッドマン社(英国)はユニットを製作し販売したが、タンノイのように箱を作らなかった。日本国内で販売されているのはグッドマン社の指定を受けたヤマハ製の箱だと聞いている。

この箱でもいいんだろうが自分には満足できなかった。点数で行けば70点くらい。補助バッフルをつけてウェストミンスターの箱にも取り付けて鳴らしてみたがうまくいくはずもなかった。今となってみると当時はまったくわかってなかったですね。

で、次に取り組んだのが専門誌「管球王国」の記事に刺激されて薄い板厚(1.5cm)の箱を自作したところようやく80点ぐらいに到達。

そして、先日の「AXIOM150マークⅡ」を「重石代わり」と「ドロンコーン」を兼ねて箱に取り付け、「ARU」にちょっとした工夫をすることでようやく90点レベルぐらいに行けたかなあ・・。

あくまでも自己採点ですよ~(笑)。

そして残り1割の「伸び代」となると、さらに大きめの板厚の薄い箱に容れるしかないかなあと思っている。

そして、次に「音質=90点」へ向けての取り組みといこう。

AXIOM80を生かすための「縁の下の力持ち」となる一連のシステムの顔ぶれがこれ。

まずDAコンバーターには「エルガープラス」(英国dCS)の起用。



20年以上も前の製品だが最新機器と比べていっさい聴き劣りしないのだから、つい「腐っても鯛」という言葉を進呈したくなる。

情報量が豊かな音という表現に尽きるが、さらには出力電圧が一番高いのでプリアンプのボリュームをつい落とし気味になる。つまりプリアンプの負担が軽くなる。

「PL100」などの低能率SPを相手にするときなどは、まさに「エルガー プラス」様サマとなる。

次にプリアンプ。

現在3台あるのだが、「AXIOM80」と一番相性がいいのは「安井式」プリ。

一昨日(6日)のこと、読者のお一人から問い合わせがあって、「オーディオ専門誌「無線と実験」に記載されていた安井式プリアンプに大いに興味があります。製作者を紹介していただけませんか」

エッ、20年前の「無線と実験」誌を覚えておられるのだから相当ご熱心なお方である。

「製作者は大分市の方ですが、残念なことに最近身内にご不幸があってとても製作を依頼する状況ではないようです。プリアンプはパワーアンプ以上に音質が変わりますから慎重に選択されることをお勧めします。購入する前に自宅で試聴されたほうがいいですよ」と返事を出しておいた。

そして、パワーアンプは最近、すっかり覚醒した感がある「PX25」。



つい最近紹介したばかりなので概要を省くが前段管に変化があった。

このアンプは「ミュー(増幅率)」の値に応じて3段階の「バイアス」切り替えスイッチが付けられているが、「3A/109B」に代えて「北国の真空管博士」ご了解のもとに、スイッチをそのままにしてミューがやや高い「LS7」(GEC)に代えたところすごく元気のいい音が出てきた。

プリアンプのボリュームを11時から9時に落としたほどで、こっちのほうがいいかなあ・・と、思案中。

電圧増幅管をどういう数値設定で動作させるかで音質がガラッと変わる、それが真空管アンプの魅力であり永遠のテーマだそうですよ。

まあ、しばらくこの状態で聴いてみることにしたが、「9割・90点主義」をモットーにすると随分気が楽になってますますオーディオが楽しめそうですよ~(笑)。



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女性指揮者が大成しないのはなぜ?

2022年02月07日 | 音楽談義

「男女共同参画社会」の御旗(みはた)のもと、女性の社会進出は目覚しい。いろんな企業の女性社長も珍しいことではなくなった。

それに女性は真面目でコツコツと勉強するせいだろうか、高学歴化とともに資格試験をはじめ各種の採用試験にも力を発揮して着実に割合が増加している。

とてもいいことだと思うが、指揮者については不思議なことに女性の活躍ぶりをあまり聞かない。指揮者にも知名度の面でいろいろレベルがあるのだろうが、1~2名、音楽誌で見た記憶があるが、それにしても少ない。

その理由についてだが、一流の指揮者になるまでの修行は並大抵ではないので、練習時間などの肉体的なタフさの問題、あるいは楽団員に男性が多いことからコミュニケーションの問題もあるのかと推察していたところ、こちらの盲点をつくような興味深いエピソードに出会った。

日本の女流ピアニスト青柳いずみこさんの著作は軽妙洒脱な文章でいつも興味深く読ませてもらっている。

「ピアニストは指先で考える」(中央公論新社刊)

    

本書の257頁に掲載されていたもので以下、引用すると次のとおり。

芸大時代の(著者の)同級生(ピアノ科:女性)に指揮者志望の人がいて、管楽器奏者(男性)に〔指揮者への近道を)相談したところこう言われたという。

”ダメダメ、あんたには胸に余計なものがついている。そんなものをゆさゆさやられた日にゃ、男どもは気が散ってしょうがない”」

思わず笑ってしまったが男女平等とはいいながら、どうしようもない性差についてこれほど如実に言い表している例も珍しいと思う。

豊かなバストを持つ女性が指揮をしている姿を想像すると、さすがにちょっと・・・(笑)。

しかし、一方ではこの「胸に余計なものがついている云々」について、うがち過ぎかもしれないが、性差にかこつけて本人の自尊心を傷つけることなく、それとなく辛くて厳しい「指揮者への道」をあきらめるよう冗談めかして諭したとも考えられるような気がするがどうなんだろう。

さて、同書ではこの文章に続いて、「西本智美さんなどは、宝塚の男っぽいカッコイイスーツに身を包み、全然ゆさゆささせていないように見えるが・・・」とあった。

指揮を志す女性は「ペチャパイ」に限るというわけでもあるまいが、有利なことはたしかかもしれない。ただし、これは指揮能力とは別次元の問題。

以下、「指揮者希望」の小題のもとに、青柳さん流の指揮者論が展開されるが、ピアニスト出身の指揮者が多いのは、音楽的欲求が強く、ピアノという楽器や自分自身の手の可能性との間にギャップを感じてしまうようなタイプだとのこと。

音楽評論家の青澤忠夫氏は、指揮者にとっての「技術」とは「オーケストラに巧く音を出してもらう能力」と定義されている。

たとえば「楽員たちを掌握する力も含まれるし、作品解釈や説得力、人間性、政治力、複雑な人間関係なども絡んでくる。そして、他人の出した音に対して管理者として責任を取らされる」(「名指揮者との対話」春秋社)。

「悪いオーケストラはない、悪い指揮者がいるだけだ」という言葉を思い出す。

さて、世界的に著名だったピアニストの「アシュケナージ」は指揮者への転向を見事に果たしたが、責任が分担されるから指揮のほうが気が楽だと感じているらしい。

「仮にぼくがミスをしても、いいオーケストラなら、なんとかカバーして僕を助けてくれますからね。ピアノを弾くときは、誰も助けてくれませんよ」

指揮をするにあたって、ピアニスト出身者は断然有利だというのが彼の見解。ピアノはヴァイオリンなどと違って広い音域を再現できる楽器だから、容易にオーケストラという媒体に移行できるとのこと。

あのリヒテルもコンドラシンの手ほどきで10日間で指揮法を学びプロコフィエフの「協奏交響曲」を指揮し、作曲家本人は満足したが肝心のご本人は金輪際ごめんだと思ったらしい。

「嫌いなことがふたつあるからです。分析と権力です。オーケストラ指揮者はどちらも免れることはできません。私向きではありません」。

芸術の世界といえども権力志向の人間が少なからずいる中、リヒテルの質朴な人間性を垣間見る思いがする。

因みに、バッハの作品演奏にあたって三大名演奏があるという。

カール・リヒター指揮のマタイ受難曲、タチアナ・ニコラーエワ女史(ピアニスト)の「フーガの技法」、そしてリヒテルの「平均律クラヴィーア曲集」。

話が戻って、こうしてみると、指揮者とは音楽の才能ももちろん必要だがそれ以外にも管理、監督、権力行使、複雑な人間関係の処理や政治力などいろんな能力が必要とされるようで、どうやらこの辺にドロ臭さが漂っていて、女性指揮者が育たない、活躍できない真因が隠されているような気がするが皆様はいかがお考えでしょうか。



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「本の展示」を工夫する図書館

2022年02月06日 | 読書コーナー

「何か面白い新刊が入ってないかなあ」と2~3日おきに訪れている「県立図書館」だが、残念なことに「本の整理」とやらで1月24日~2月7日(月)まで15日間の閉館状態にある。

ちょっと休みが長すぎるんじゃないかっ!(笑)

仕方がないので隣町の図書館に足繫(しげ)く通っているが、言い方は悪いが鄙びた町なのに図書館は広くて立派な建物に入っており、地元の別府市の図書館とは大違い。

図書館の充実度は地域の文化レベルと比例すると言われているが、住んでいる町の悪口を言いたくはないものの、おそらく人口10万人以上の都市でこんなにお粗末な図書館は別府市が日本全国広しといえども「ワースト1」ではなかろうか。何しろ展示スペースは狭いし、専用の駐車場も無いんだから~。

その原因となると、まず政治家である市長と市会議員の自覚に起因するだろうし、ひいては「図書館の充実」を選挙で訴えたところで票に繋がらないので、市民にも一端の責任があるのだろうし、最終的には文化的な「風土」にも及んでくる。


それはさておき、(隣町の)素敵な館内の一角にある「新刊コーナー」で、めぼしい本が見つからなかったので、同じフロアーの少し離れた場所で「あいうえお順」(作家名)に並んだ書籍コーナーをぶらついていたら「本屋大賞コーナー」という仕切られた箇所があった。

んっ、「本屋大賞」ご存知ですよね!

念のためググってみました。

「2004年に設立されたNPO法人・本屋大賞実行委員会が運営する文学賞である。

一般的に日本国内の文学賞は主催が出版社であったり、選考委員が作家や文学者であることが多いが、この本屋大賞は新刊を扱う書店の店員(約100名)の投票によってノミネート作品及び受賞作が決定される。

現在は直木賞や芥川賞を受賞した作品よりも売り上げ部数が伸びるとして大きな注目を浴びている。」


思わず、この「展示コーナー」に感心した。

過去20年近い「本屋大賞」あるいはノミネートされた本を手分けして探し出して展示するのはさぞやたいへんな手間がかかったことだろう。

読者に何とか面白い本を提供したい、あるいは読書癖をつけてもらいたいことの証だろうが、「県立図書館」なんぞではついぞお目にかかれない発想である。

さっそく、その中から3冊借りてきた。


 

 伊坂幸太郎さんの「アヒルと鴨のコインロッカー」は、県立図書館で貸し出し中だったのでやむなく諦めていたがここで見つかったのは僥倖だった。

メル友の「I」さんが愛読されている作家で、一気に読むと楽しみが減るとかで1冊づつ丁寧にそれこそ舐めるように読んでおられるそうで、それほどの作家なら読んでみようと思い立った。

先日、「ひかりテレビ」で「伊坂」さんの著作「重力ピエロ」が映画化され放映されていたので何の気なしに観たがタイトルから想像した内容とは大違いで、あまりにも重たいテーマに打ちのめされた。

優しい夫と可愛い男の子にめぐまれ幸せな家庭生活を送っていた美貌の主婦が白昼自宅でいきなり侵入してきた男にレイプされ、その子を産んで・・。

しまった! 原作を先に読めばよかった(笑)。

最後に、悪口を言った別府市だがようやく重い腰を上げて図書館構想が動き出したようだ。

ただし、何年先になることやら~、自分の寿命からしてもう間に合いそうにない(笑)。



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疾風に勁草を知る

2022年02月05日 | オーディオ談義

ご存知の方も多いと思うが「疾風に勁草(けいそう)を知る」という故事がある。

「強い風が吹いてきたときに簡単に倒れない草かどうかがわかる」、転じて「困難に直面したときにその人間の真価がわかる」。

(そういえば「勁草書房」という出版社がありましたね。この故事をもじった名前だと思うのだが今も健在かな・・。)

とはいえ、いくら偉そうなことを言っても自分はいつも逃げてばっかりだったけどね。ほら「三十六計逃げるに如かず」という言葉があるでしょうが(笑)。

それはともかく、この故事はどうやら我が家のオーディオにも当てはまりそうな気がする。


というのも、我が家には数系統のSPがあるが、それぞれに個性があって楽しませてくれているが、その中で鳴らしにくいSPの両雄が「AXIOM80」と「PL100」である。

双方ともに「一癖」も「二癖」もあって、相性の悪いアンプをあてがうとものすごくご機嫌が悪くなる。とても神経質だけどピタリとハマったときはそれはそれは得(え)も言われぬ美しい音を出すので、苦労のし甲斐が大いにある。

まあ、アンプは鳴らしやすいSPばかり相手にしているといつも「ぬるま湯」に浸ったみたいで、アンプのほんとうの実力は発揮されないともいえる。

つまり、「疾風に・・」というわけ(笑)。

で、具体論に入ろう。

このところといっても4日ぐらい経つが、ずっとレギュラーの位置を占めている「PL100」スピーカー。

音の魅力は「ブリティッシュサウンド」そのもので「AXIOM80」と並んで我が家の両雄の地位を占めるのに相応しい。



で、今さらだが改めて気が付いた点を二つほど述べてみよう。もちろん、「我が家のオーディオ環境では」という条件付きでの話。

1 アンプの個性を見事に映し出す

先日のブログでも述べたように「低インピーダンス=4Ω」、「低能率=88db」なので、自ずと鳴らせる真空管アンプが限られてくる。

当初は8台のうち小出力の「71系」を除いて4台に資格があると思っていたが、「エンヤ」の曲目で強い入力時に歪む箇所が出てきて「6AR6」アンプ(3極管接続)があえなく脱落。歪みが無ければ、色彩感に富んでいてとても良かったけれど実に惜しい。

で、残るは3台のアンプだが「2A3」アンプは先日のブログで述べたように、取り立てて欠点を感じさせることがなく実に頼もしい。

そして「WE300B」アンプを試してみたところ広大なレンジには気に入ったが、ときによってごくわずかだが歪み気味のところがあり、けっして「PL100」とは相性がいいとはいえないようだ。

たとえて言えば、氏素性はいいもののやや線が細くて強風に弱そうな300B
・・、それにひきかえ「2A3」は地頭(じあたま)が良くて、野性味があり実社会に出てもひるむことなく実力を発揮しそうなタイプ、かな(笑)。


明らかに、「PL100」については「2A3」が一歩リードである。

で、残る「英国貴族出身」を忘れてはいませんかというわけで「PX25」アンプを登場させてみた。



およそ3か月ぶりぐらいの通電になる~。

概要は、前段管が「3A/109B」(STC)、「出力管」が「PX25」(ナス管)、整流管が「WE422A」(1959年製)

インターステージトランスが「A19」(UTC)だが、惜しいことにもう少し「容量」が欲しいそうで、それがちょっと引っ掛かっていて長期休養の理由(笑)。

しかし、結果的にはこのアンプが「PL100」と一番相性が良かった。

落ち着き感、奥行き感、色彩感、透明感、品の良さといい、見事な筆遣いの水彩画を思わせるものがある。
さすがに出力管とSPの国籍(英国)が一致するだけのことはあるようで。

想像以上の出来栄えで「PL100」にはこのアンプで決まりといこう~。

「PX25」のスペアが急に心配になってきた(笑)。

第2点目は、

2 低音域に不満が出ないのはどうして?

前掲の画像を見て、読者が懸念されるのは「えらい小ぶりなSPだが低音域がちゃんと出てるの?」ということだろう。

オーディオはすべて簡単にはいかないが、とりわけ低音対策が一番難しいと思っている。本格的に対処しようと思ったら一番お金がかかるし、うまくいくかどうかも保証の限りではない。

で、今回のケースでは「サブウーファー」で補う気がしないのが不思議。

たしかにウェストミンスター(100ヘルツ以下)ほどの低音は望むべくもないが、そんな低音が出なくても十分音楽が聴けるという感じ。

「ハーモニー」が美しいので、そちらのほうに耳が集中しているせいなのか・・。

システムの音に自然に耳を合わせられるようになると、お金がかからなくなるので最高ですけどね(笑)。

ま、しばらくこの状態で聴いてみておいおい答えらしきものを探してみましょう。



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肩の凝らない「音楽こぼれ話」

2022年02月04日 | 音楽談義

昨日(3日)のこと、「I」さん(東海地方)から、「このところ重量級のブログが続いてますね」とのメールが入った。

なるほど、気付かないうちに「身の程」知らずのテーマに挑戦しているのかもしれないですね。

たとえて言えば「音楽&オーディオ」という広大な海原に小さな船で漂流しているようなものですか(笑)。

というわけで、今回は気分一新して肩の凝らない「音楽こぼれ話」をいくつか紹介。

いずれも実話で、たわいのない話のかげにも芸術家のちょっとした人間性が伺われるところが面白い。
 

「休止符のおしゃべり」(渡辺 護著、音楽の友社刊)  
             
                   

 ドイツの大ピアニストであるウィルヘルム・バックハウスが中米のある町で演奏したときのこと、客席に一人の女性が幼児を連れて座っていたが、その子が笑ったり、ガタガタ音を立てたりしてうるさくてしようがない。

バックハウスはマネジャーを通じてその夫人に立ち去るよう要請した。彼女は立ち去り際に、憤慨した様子で聞こえよがしにこう言った。

「ふん、一人前のピアニストとはいえないね。私の妹なんかは、この子がそばでどんなに騒いでいても、ちゃんとピアノが弾けるんだよ!」

 名指揮者カール・ベームは友人とチレア作曲のオペラ「アドリアーナ・ルクヴルール」を見に行った。しかし、ベームはどうしてもこのオペラにあまり感心できない。

見ると客席の二列前にひとりの老人が気持ち良さそうに眠っていた。ベームは連れの友人に言った。

「あれを見たまえ、このオペラに対する最も妥当な鑑賞法はあれだね!」

「しっ!」友人は驚いて、ベームにささやいた。「あの老人はほかならぬ作曲者のチレアなんだよ!」

 1956年6月、ウィーン国立歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」がカラヤン指揮で上演された。

その総練習のとき、イゾルデ役を演じるビルギット・ニルソンのつけていた真珠の首飾りの糸が切れて、真珠が舞台上にばらまかれてしまった。

みんながそれを拾いはじめたが、カラヤンもまた手助けして数個を拾いあげた。

「これは素晴らしい真珠ですね。きっとスカラ座出演の報酬でお求めになったのでしょう」と、当時ウィーン国立歌劇場総監督の地位にあったカラヤンが皮肉を言った。

ニルソンも負けてはいない。
「いいえ、これはイミテーションです。ウィーン国立歌劇場の報酬で買ったものです。」

 「あいつがぼくよりギャラが高いのは、いったいどういう訳なんだ!」音楽家の間でのこういう”やっかみ”はよく聞かれること。

作曲家ピエトロ・マスカーニはあるとき、ミラノのスカラ座から客演指揮を依頼された。

「喜んでやりましょう」、彼は答える、「ただその報酬の額についてだが、トスカニーニより1リラだけ高い額を支払ってくださることを条件とします。」

スカラ座のマネジメントはこれを承知した。マスカーニの指揮が成功のうちに終わったあとスカラ座の総監督は彼にうやうやしく金一封を捧げた。

マスカ-ニがそれを開けてみると、ただ1リラの金額の小切手が入っているばかり。「これは何だね?」、総監督は”
ずるそう”に笑って答えた。

「マエストロ(トスカニーニ)がスカラ座で振って下さるときは、決して報酬をお受け取りにならないのです。」

☆ 新米(しんまい)の指揮者がオーケストラから尊敬を得るようにするにはたいへんな努力が要る。ある若い指揮者は自分の音感の鋭さで楽団員を驚かせてやろうと一計を案じた。

第三トロンボーンのパート譜のある音符の前に、ひそかにシャープ(♯)を書き入れておいた。

そして、総練習のとき強烈なフォルティッシモの全合奏のあと、彼は演奏を止めさせ、楽団員に向かって丁寧に言った。

「中断して申し訳ないが・・・、第三トロンボーン、あなたはDから八小節目で嬰ハ音を吹きましたね。これはもちろんハ音でなければならないのです。」

そのトロンボーン奏者はこう返した。

「私は嬰ハ音を吹きませんでしたよ。どこかの馬鹿野郎がハの音符の前にシャープを書き入れたんですが、私はそうは吹きませんでした。だってこの曲を私は暗譜しているんですから」 

筆者注:その後の展開が知りたい(笑)



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「微妙な差」を嗅ぎ分ける醍醐味

2022年02月03日 | 独り言

先日のブログでも触れたように、我が家のオーディオにとって20年以上にも及ぶ「ネット・オークション」は必須のツールだが、その一方ではかってのオーディオ機器の栄枯盛衰を窺い知るのにも大いに役立っている。

たとえば先日のオークションでのことだった。

まずはクラシック音楽愛好家なら誰もが一度は憧れるタンノイの「オートグラフ」が出品されていた。音楽&オーディオの先達として有名な「五味康介」さんが愛好されたことでもよく知られている大型スピーカーである。

オークションのタイトルは「Autograph HPD385A +エンクロージャー 進工舎製国産箱」だった。

          

ご覧のとおり凝ったツクリの堂々たるスピーカーだが、落札価格となると信じられないほどの安いお値段で「39万2千円」だった。定価となると確実に百万円を超える代物である。

若い頃だったらまず確実に入札していただろう。

そして日をおかず出品されていたのが同じオートグラフでも「ミニ」の方だった。

        

見るからに「小振り」だが、この落札価格となると「25万1千円」だった。

大型とミニの差は、そりゃあ個人ごとの「好き嫌い」があるだろうし、今の自分ならおそらくミニの方を選ぶが、お値段の差がたったの「14万円」ということに恐れおののいてしまった(笑)。

大型スピーカーは人気がない!

このことからいったい何が推し量られるのか、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」ではないが、勝手に類推させてもらおう。

1 マンション・オーディオの蔓延

今や都会は高層マンションだらけといっても過言ではないほどだが、そうすると大型スピーカーを置こうにもスペースがない、そして隣近所に遠慮して大きな音を出すわけにもいかずせっかくの大型機能が生かせない。

と、いったところだろうか。

人的交流を含めて豊かな文化と便利さが享受できるものの居住スタイルが限定されがちな都会生活
、その一方スペースに恵まれた居住スタイルの機会が多いものの文化程度が貧弱な地方の生活のどちらがいいか、それぞれ個人毎の価値判断に委ねられるところだろう。

もちろん自分の場合は「音楽&オーディオ」至上主義者なので後者を無意識のうちに選んだが、やっぱりときどき一抹の淋しさ
にかられるのは否定できませんねえ(笑)。

2 オーディオの衰退

先日、オーディオ仲間と話していたところオーディオ専門誌「無線と実験」の「(オーディオ機器を)売ります買います」欄で「遺品整理のため」という言葉がやたらに多くなったとのことだった。

中には「タダで進呈します。」とあったりもして、今は亡きご主人のオーディオ道楽の後始末に遺族がほとほと困っている様子が散見されると言っていた。

思わず「我が家もいずれ同じようなことが・・・」と、身につまされたことだった(笑)。

1970年代のオーディオ全盛期を体験した年齢層は今や高齢者軍団と化しており、本格的なオーディオ愛好家は高齢者に集中しているといっても過言ではないが、これからも続々と途切れることなく鬼籍に入っていくのだからオーディオ人口が減るばかりである。

何しろ若い人たちはオーディオに価値を見出さないのが大半なので補給が追い付いていかない。

優れたオーディオシステムで音楽を聴くと音楽観が一変するほどの衝撃を受けると思うのだが、そういう機会もまずない。オーディオショップで聴く音はいくら豪華なシステムでも所詮は借り物の音で家庭でよくチューニングされた音には到底及ぶべくもないだろう。

こういう負の連鎖を断ち切る方法はないものかと、身の程知らずながらつい考えてしまう


3 クラシック音楽の衰退

その昔「ブルーノ・ワルター」という指揮者がいたが、当時次のような警告を発していた。何度も引用したので「くどい」と思われる方もいるだろうが「反復は力なり」(?)なので再度掲載させてもらおう。

「いまや芸術に対して社会生活の中で今までよりも低い平面が割り当てられるようになって、その平面では芸術と日常的な娯楽との水準の相違はほとんど存在しない。

本来芸術作品が持っている人の心を動かし魂を高揚させる働き
に代わり、単なる気晴らしとか暇つぶしのための娯楽が追い求められている。

これらは「文明」の発達によりテレビやラジオを通じて洪水のように流れ、いわゆる「時代の趣味」に迎合することに汲々としている。

こうなると文明は文化の僕(しもべ)ではなくて敵であり、しかもこの敵は味方の顔をして文化の陣営にいるだけに危険なのだ。」

以上のとおりだが、残念なことにクラシック音楽の地盤沈下は留まることを知らない。1950年代前後が黄金時代だとすると、取り巻く環境が激変していて刺激性のある娯楽が目白押し。

それに、別にクラシックを聴かなくても生きていけるし、賢くなれるわけでもないし、お金持ちにもなれるわけでもないが、人生を豊かに彩ってくれることだけはたしかである。

その流れで、「村上春樹」さんの言葉を紹介してみよう。

「僕にとって音楽というものの最大の素晴らしさは何か?

それは、いいものと悪いものの差がはっきり分かる、というところじゃないかな。大きな差もわかるし、中くらいの差もわかるし、場合によってはものすごく微妙な小さな差も識別できる。

もちろんそれは自分にとってのいいもの、悪いもの、ということであって、ただの個人的な基準に過ぎないわけだけど、その差がわかるのとわからないのとでは、人生の質みたいなのは大きく違ってきますよね。

価値判断の絶え間ない堆積が僕らの人生をつくっていく。

それは人によって絵画であったり、ワインであったり、料理であったりするわけだけど、僕の場合は音楽です。

それだけに本当にいい音楽に巡り合ったときの喜びというのは、文句なく素晴らしいです。極端な話、生きてて良かったなあと思います。」

以上のとおりだが、これを我が家に当てはめてみると、

このブログの読者の中にはそんなに沢山の「魔笛」さらにはアンプやSPを持っていても仕方がないだろうと「軽蔑あるいは疑問の眼」で見ておられる方がきっといるに違いないが、その答えの一つとして「それぞれの微妙な差を嗅ぎ分けるのが楽しみなんです」に、ご賛同していただけようか。

ただし、日常生活では気付かないことが多く「貴方はほんとに疎いわねえ」と、家内からいつも揶揄されているが、不思議と「音楽&オーディオ」に限っては別なんですよねえ(笑)。



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惚れ直したスピーカー

2022年02月02日 | オーディオ談義

つい先日、投稿した「オーディオ愛好家は日頃からいい音で聴いてはいけない」は、ありがたいことに予想外の好評を博した。

その証拠に、投稿から3日経っても次のようなアクセス状況に。



「仏教徒は
他の宗教に比べて自分に甘過ぎる」ことに共感が寄せられたと勝手に解釈させてもらおう。

で、そのことを身を以って実践するため、3日間ほどぶっ続けで聴いた「AXIOM80」(オリジナル版)に代えて、やや落ちる別のSPで聴くことにした(笑)。

さて、どのSPにしようか・・。

グッドマン「トライアクショム」、JBL「D123+075」、リチャードアレン「NG8」、ワーフェデール「スーパー10」(赤帯マグネット)と、より取り見取りだが、久しぶりに「PL100」(英国:モニターオーディオ)を聴いてみる気になった。



4か月ほど前に「清水寺の舞台から飛び降りる」思いで購入したSPだが、当初は熱中したものの、その後の3か月間は空白が生じた。なぜだかは自分でもわからない(笑)。

音楽&オーディオはどちらかといえば感覚の世界だから言葉で説明できないことの方が多い。

それはさておき、4か月前とはオーディオ環境が変わったので「PL100」の印象がどう変わるかが楽しみ。

一番の変化は「プリアンプ」の球を代えたことにある。

我が家の3台のプリアンプのうち一番重量級の「安井式」プリにはお馴染みの「12AU7」が4本使ってあるが、ややおとなし過ぎて物足りなかったのでそのうちの2本をμ(ミュー=増幅度)が2倍ほどある「Y球」に代えてから毎日がルンルン気分だがはたして「PL100」に通用するかどうか。

ただし、このSPの場合一番のネックは起用するパワーアンプにある。

何しろ「低インピーダンス=4Ω」「低能率=88db」の持ち主である。

周知のとおりオームの法則「電圧(V)=抵抗(Ω)×電流(A)」により、家庭内電圧は一定の100Vだから、抵抗が低いほど大きな電流が必要となる。

ちなみに「AXIOM80」は「15Ω」「95db前後」だから、鳴らしやすさにかけては「PL100」の比ではなく、真空管アンプで十分対処できる。

つまり「PL100]は「TRアンプ」で鳴らすことを前提にしているSPといえるが、「無理を承知」でパワーの面で劣る真空管アンプで鳴らそうというのだから厳しい局面だ。

まず、はじめから小出力の「71系」が使えないのは痛い。

結局、鳴らす資格がありそうなのは「WE300B」「PX25」「2A3」「6AR6」(3極管接続)の4台となる。

で、このところ出番が少ない「2A3シングル」アンプの起用へと踏み切った。

この2A3球は定評のある「VISSEAUX」(フランス製:刻印)を使っているが、結果的にはこれが大当たり~(笑)。



「音源」が小さいせいか、音響空間上の「音の佇まい」がとてもいい。

実にさりげなく、それでいて奥行きが深くて密度の高い音・・。

さらに、両方のスピーカーの間に(聴感上の)ステージ(舞台)を作ることが出来ることを確認した。音像定位が乱れているとこうはいかない。それに小型の割には低音域もよく伸びている。

「ブルーレイ」のリモコンで「エンヤ」「ちあきなおみ」、「小椋佳」などを次から次に聴いて、小型SPの特質である引き締まった「歌手の口元」を堪能してから、いよいよ真打のモーツァルトの「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K.364」に移った。

第一印象は、弦楽器のハモリ具合がたいへん美しい!

それに加えて「スピーカーの存在を意識させない自然に音楽に没入できる音」、これは明らかに従来の「ブリティッシュ・サウンド」を踏襲していて、さすがは英国製ですね。

また、音が消え去っていくときの余韻がことのほか美しくて、音響空間の中ではかなく漂いながらそっと気配を絶っていく印象がお見事。2800ヘルツ以上を担当している「リボン型ツィーター」の面目躍如である。

もし「AXIOM80」を現代に甦えらせるとしたら、こういうスタイルしかないだろうなあ・・、と思わせるほど。

結局、4か月前よりも明らかにグレードアップしているので、「プリアンプ球の交換」効果は大だった。

というわけで、いつものように見苦しい「自画自賛」に終始したが(笑)、大いに「PL100」に惚れ直したのも事実。やはり小型SPじゃないと味わえない世界がありますね。

冒頭の「日頃からいい音で聴いてはいけない」の宗旨には反するが、人生の残された時間がそろそろ少なくなってきているのでどうか許して欲しい(笑)。



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音楽は「数学の一分野」なのか

2022年02月01日 | 独り言

今年の「大学入試センター試験」(1月 15日~16日)では、周知のとおり「目を瞠(みは)る」ようなことが起こった。

まずは高校2年生の男の子が「東大理三」(医学部)に固執し、成績が伸び悩んで自棄(やけ)を起こして受験会場で(受験生に)切りかかったり、さらには都内の大学に憧れるあまり、試験会場で問題を携帯で写して外部に流出させた19歳の女性など。

何だか哀れのような気もするが、いずれも「身の程」をきちんとわきまえておれば起きない事件だ。

「身の程」=広辞苑「自分の身分、地位、能力などの程度。分際。また、身分相応」

自分なんぞは物心がついたときから「身の程」を知り過ぎて「高嶺の花」との落差を嫌というほど味わってきたつもり(笑)。

さて、進路の選択に関連して今どきの受験生って「理系」「文系」の志望をどうやって決めているんだろう。

おそらく「数学、物理」が得意な子は理系へ、「国語、英語」が好きな子は文系へというのが大方のところだろう。それで大きな間違いはないんだろうが。

ここで、話がちょっと飛躍するが皆様は「理系人間は音楽好きが多い」ことを意識されたことがありますか。

というのも、ここ2年ほどのコロナ禍で我が家への訪問を遠慮している高校時代の仲間3名(福岡在住)について述べてみよう。


在学中はそれほど親しい仲でもなかったが、このブログを通じてお互いに音楽好きだと分かりお付き合いが始まった。

ところが、よく考えてみると3名とも理系出身である。高校卒業後の進路は建築科、機械科、電気科と見事に色分けされるし、自分だって理系の“端くれ”なのでいわば4人すべてが理系を専攻している。

”たまたま”かもしれないが「4人そろって」となると確率的にみてどう考えても意味がありそうである。

全員がオーディオというよりも音楽の方を優先しているタイプで音楽を聴くときに、より興趣を深めるために仕方なくオーディオに手を染めているというのが実状である。

つまり「音楽好きは理系人間に多い」。これは、なかなか興味深い事象である。

蒸し返すようだが、ほとんどの人が高校時代に大学受験のため「文系と理系のどちらに進むか」の選択を迫られるが、これはその後の人生をかなり大きく左右する要素の一つとなっている。

そのことは、一定の年齢に達した人たちのそれぞれが己の胸に問いかけてみるとお分かりだろう。


「自分がはたして理系、文系のどちらに向いているか」なんて、多感な青春時代の一時期に最終判断を求めるのは何だか酷のような気もするが、それぞれのその後の人生で自ずと答えが出されていくのだろう。


さて、ここからいよいよ本論に入るとして、なぜ、音楽好きは理系人間に多いのだろうか。

その理由について実に示唆に富んだ興味深い本がある。

「音楽と数学の交差」(桜井進、坂口博樹共著)
                      

音楽と数学の専門家によって書かれた本書の目次の一部を紹介してみよう。

1章 響き合う音楽と数学
   1 音を数えることから音楽は始まった
   2 数とは何か 
   3 宇宙の調和 根本原理を求めて
   4 音律と数列
   5 数学の中の音楽 素数の神秘
   6 音楽と数学の中の「無限」

といった調子だが、序文
「はじめに」の中で音楽と数学の関わり合いについてこう述べられている。

「私たちは、数の世界の背後には深い抽象性があることを、ほとんど無意識で感じています。音楽によって与えられる快感は、ときにはこの抽象世界の中を感覚的に漂う心地よさで高まり、それは広がっていく心の小宇宙に浮遊し、魂が解放されるような感動まで到達することがあります。~中略~。音楽は数の比によって成り立っており、それを考える数学の一分野です。」(抜粋)

抽象的だけどなかなか含蓄のある内容だと思うが、要するに音楽は数の比によって成り立っており「数学の一分野」というわけ。

音楽を聴くときに「数の比」とか「数学」を意識する人はまずいないと思うが、無意識のうちに脳の中にその抽象性が浸透している可能性が大いにありますね。

で、このことが「音楽好きは理系人間に多い」の一つの根拠だと思うのだがどうなんだろう。

皆様はいかがお考えですか。

「音楽=クラシック」を問わず、文系で「音楽好き」の方の反論を大いに歓迎します(笑)。



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