「男女共同参画社会」の御旗(みはた)のもと、女性の社会進出は目覚しい。いろんな企業の女性社長も珍しいことではなくなった。
それに女性は真面目でコツコツと勉強するせいだろうか、高学歴化とともに資格試験をはじめ各種の採用試験にも力を発揮して着実に割合が増加している。
とてもいいことだと思うが、指揮者については不思議なことに女性の活躍ぶりをあまり聞かない。指揮者にも知名度の面でいろいろレベルがあるのだろうが、1~2名、音楽誌で見た記憶があるが、それにしても少ない。
その理由についてだが、一流の指揮者になるまでの修行は並大抵ではないので、練習時間などの肉体的なタフさの問題、あるいは楽団員に男性が多いことからコミュニケーションの問題もあるのかと推察していたところ、こちらの盲点をつくような興味深いエピソードに出会った。
日本の女流ピアニスト青柳いずみこさんの著作は軽妙洒脱な文章でいつも興味深く読ませてもらっている。
「ピアニストは指先で考える」(中央公論新社刊)
本書の257頁に掲載されていたもので以下、引用すると次のとおり。
「芸大時代の(著者の)同級生(ピアノ科:女性)に指揮者志望の人がいて、管楽器奏者(男性)に〔指揮者への近道を)相談したところこう言われたという。
”ダメダメ、あんたには胸に余計なものがついている。そんなものをゆさゆさやられた日にゃ、男どもは気が散ってしょうがない”」
思わず笑ってしまったが男女平等とはいいながら、どうしようもない性差についてこれほど如実に言い表している例も珍しいと思う。
豊かなバストを持つ女性が指揮をしている姿を想像すると、さすがにちょっと・・・(笑)。
しかし、一方ではこの「胸に余計なものがついている云々」について、うがち過ぎかもしれないが、性差にかこつけて本人の自尊心を傷つけることなく、それとなく辛くて厳しい「指揮者への道」をあきらめるよう冗談めかして諭したとも考えられるような気がするがどうなんだろう。
さて、同書ではこの文章に続いて、「西本智美さんなどは、宝塚の男っぽいカッコイイスーツに身を包み、全然ゆさゆささせていないように見えるが・・・」とあった。
指揮を志す女性は「ペチャパイ」に限るというわけでもあるまいが、有利なことはたしかかもしれない。ただし、これは指揮能力とは別次元の問題。
以下、「指揮者希望」の小題のもとに、青柳さん流の指揮者論が展開されるが、ピアニスト出身の指揮者が多いのは、音楽的欲求が強く、ピアノという楽器や自分自身の手の可能性との間にギャップを感じてしまうようなタイプだとのこと。
音楽評論家の青澤忠夫氏は、指揮者にとっての「技術」とは「オーケストラに巧く音を出してもらう能力」と定義されている。
たとえば「楽員たちを掌握する力も含まれるし、作品解釈や説得力、人間性、政治力、複雑な人間関係なども絡んでくる。そして、他人の出した音に対して管理者として責任を取らされる」(「名指揮者との対話」春秋社)。
「悪いオーケストラはない、悪い指揮者がいるだけだ」という言葉を思い出す。
さて、世界的に著名だったピアニストの「アシュケナージ」は指揮者への転向を見事に果たしたが、責任が分担されるから指揮のほうが気が楽だと感じているらしい。
「仮にぼくがミスをしても、いいオーケストラなら、なんとかカバーして僕を助けてくれますからね。ピアノを弾くときは、誰も助けてくれませんよ」。
指揮をするにあたって、ピアニスト出身者は断然有利だというのが彼の見解。ピアノはヴァイオリンなどと違って広い音域を再現できる楽器だから、容易にオーケストラという媒体に移行できるとのこと。
あのリヒテルもコンドラシンの手ほどきで10日間で指揮法を学びプロコフィエフの「協奏交響曲」を指揮し、作曲家本人は満足したが肝心のご本人は金輪際ごめんだと思ったらしい。
「嫌いなことがふたつあるからです。分析と権力です。オーケストラ指揮者はどちらも免れることはできません。私向きではありません」。
芸術の世界といえども権力志向の人間が少なからずいる中、リヒテルの質朴な人間性を垣間見る思いがする。
因みに、バッハの作品演奏にあたって三大名演奏があるという。
カール・リヒター指揮のマタイ受難曲、タチアナ・ニコラーエワ女史(ピアニスト)の「フーガの技法」、そしてリヒテルの「平均律クラヴィーア曲集」。
話が戻って、こうしてみると、指揮者とは音楽の才能ももちろん必要だがそれ以外にも管理、監督、権力行使、複雑な人間関係の処理や政治力などいろんな能力が必要とされるようで、どうやらこの辺にドロ臭さが漂っていて、女性指揮者が育たない、活躍できない真因が隠されているような気がするが皆様はいかがお考えでしょうか。
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