「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

指揮者「トスカニーニ」の虚しい顔

2017年05月21日 | 復刻シリーズ

大好きなオペラ「魔笛」(モーツァルト)の50セット近くに亘るCD盤、DVD盤の視聴を飽きもせず繰り返し聴いているが、久しぶりに見方を変えて指揮者に焦点を当ててみよう。

綺羅星の如く並ぶ数ある指揮者の中で一番印象に残るのは1937年のライブ演奏をCD盤(当時はSP盤)に遺してくれた伝説の指揮者「
トスカニーニ」である。

          

トスカニーニの芸術を表現するにはこれ以上ない名文があるのでそっくり引用させてもらう。引用先は
「栄光のオペラ歌手を聴く」(2002年4月、音楽の友社刊)の序文。

「アルトゥーロ・トスカニーニ。20世紀に活躍した指揮者たちの中でも、その偉大さと名声において、疑いなく五指のうちに入る人物である。その彼が、ときにひどく虚しい顔をしていることがあったという。

自分が指揮した演奏会の後に、である。うまくいかなかったから、ではないらしい。オーケストラがミスをしたから、でもないらしい。それなら、彼は烈火のごとく怒り狂うばかりで、おとなしくしているはずがない。

演奏会が特に良い出来で、指揮者も演奏者も聴衆も、一体となって完全燃焼できたような晩にこそ、彼は虚しい顔をした、というのである。

理由は、想像するに難くない。

今、たった今体験した音楽が、もはやあとかたもなく虚空に消えて、自分の肉体だけが現世に残っていることに、彼はどうしようもない喪失感を味わわされていたのだろう。

それが演奏家たるものの宿命であった。

画家は絵を、彫刻家は彫像を、建築家は建造物を、詩人は詩を、作曲家は楽譜を形として現世に遺す。

しかし、演奏家は、トスカニーニが生まれた19世紀後半までの演奏家達は、聴衆の思い出の中にしかその芸術を留めることができなかった。彼と、彼の聴衆が死に絶えれば、その芸術は痕跡すら残らない。以下略」

以上、音楽に完全燃焼する指揮者トスカニーニの面目躍如たる姿を伝えている文章である。これは彼がいかに演奏に熱心に取り組み愛しぬいていたかの証左であり、そのまま作品の充実感、完成度につながっていく。これほどの感情移入がなければ名演、名盤は生まれてこない。

この魔笛のライブが終了したときにも同様にきっと彼は虚しい顔をしたに違いない。この日から、今日まで80年が経過している。当時、劇場にいて鑑賞年齢にふさわしい30歳以上の人が現在まで生きているとすれば全員が110歳以上になる。まず、大多数が生き残っておらず、当日の演奏の模様を詳しく語れる人はもういない。

しかし、私達は当日の演奏を機器の性能が十分でないためまことに雑音の多いソースとなったが、このCDライブ盤により微かにでもその痕跡を偲ぶことができる。よくぞ形として遺してくれたと思う。それほど、この魔笛CDライブは不滅の輝きを放っている。

中でも、当時の名歌手ヘルゲ・ロスヴェンゲ(タミーノ役:テノール)の熱唱が際立っている。ロスヴェンゲは同じ1937年にビーチャム盤にも出演して録音しているがまるっきり緊張度、歌唱の密度が違う。いろんな見方があるのだろうが、指揮者によって歌手とはこんなに燃え方が違うものかといういい見本だろう。

トスカニーニ(1867~1957:イタリア)は指揮者というまだ海のものとも山のものともいえない職業に決定的な意味をもたらした最初の人物といわれている。

原譜に忠実で、いかなる主観的な解釈も許さないという姿勢を貫いた。この高度な要求を実現するためにオーケストラとも妥協せず、自分の意に添わない楽員の演奏には激しい怒りの爆発でまくしたてた。このため、楽員の誰もが緊張感に張りつめて全力で演奏しようとした。

オペラを指揮するときも同様で、「椿姫」のプローベ(予行演習)のときに求めるリズムに従わなかったという理由で、有名なバリトン歌手ロバート・メリルのところに駆けつけて頭を指揮棒でたたいたという。(「指揮台の神々」134頁)

それでもこうした侮辱的な目にたえず遭っていながら、楽員や歌手達からは真の意味での賛辞が捧げられた。

こうしたマエストロに似たタイプが現代の音楽界に是非蘇ってきて欲しいし、それはとても意義あることと思うが、才能以前の問題としてオーケストラ楽団員の「人間性と自発性」の尊重などで時代がすっかり変わってきているのでとても無理な相談だろう。

今どきの指揮者がトスカニーニみたいなことをやっていたらすぐに「ボイコット運動」が始まってしまうのがオチだ。


しかし、近年の音楽界を見ると、いい演奏にとって果たして「和気合い合いの民主主義がいいのかどうか」素朴な疑問が湧いてくる。やはり昔の幾多の名演を知る者にとっては現状は少々物足りない。やたらにスマート過ぎて、胸が打たれるような演奏がないのだ。

聴衆にとっては、上質の音楽が鑑賞できさえすればよいのであって必ずしも民主的なやり方にこだわる必要は何もないと思うのだが、やっぱり無理かなあ~。
                      


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