「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

眼に蓋あれど耳にふたなし~その2~

2017年04月30日 | 復刻シリーズ

(前回からの続きです)

「苦情社会の騒音トラブル学」という本は、読んで字のごとく「騒音トラブル」に対して様々な角度から分析した学術専門書だった。

図書館で、ふと見かけた「騒音トラブル」の文字が気になって、手に取ってざっと目を通したところタメになりそうだったので借りてきたが、実際に読み出すと想像以上に堅苦しい内容。とても半端な覚悟では読みづらいこと間違いなしなので、けっして万人向けではない。
                          

著者の「橋本典久」氏は、大学教授でご専門は音環境工学。

「騒音トラブル」といえば一般的に、二重窓にしたり防音室を作ったり、とかくハード面から考えがちだが、本書では「概論」「音響工学」「心理学」社会学」「歴史学」「解決学」といった、様々な角度から同じような比重で分析されており、視野の広さを感じさせる。

とりわけ、心理学の面から騒音問題を考察している部分がとても面白かった。以下、そっくりそのまま「受け売り」として抜粋させてもらおう。なお※部分は筆者が付け足した部分。

 騒音の定義とは音響用語辞典によると、端的には「いかなる音でも聞き手にとって不快な音、邪魔な音と受け止められると、その音は騒音となる」。このことは騒音が極めて主観的な感覚によって左右されることを物語っている。これではまるでセクハラと同じである。

※ 好ましい異性からのアプローチはセクハラやストーカー行為にはなりえない。同様に、好ましい相手が出す音は当人にとって騒音にはなりにくいというのは興味深い!(笑)

 上記の定義を別の表現で示せば「”うるさい”と思った音が騒音」となるが、なぜ”うるさい”と感じるかは学問的に明らかにされていない。音量の大きさが指標となるわけでもない。たとえば若者はロックコンサートの大音量をうるさいとは思わないし、また風鈴の風情ある小さな音でもうるさいと感じることがある。複雑な聴覚心理のメカニズムが騒音トラブルを生む大きな要因となっているが、これは今後の重要な研究課題である。 

 明治の物理学者「寺田寅彦」は次のように述べている。「眼はいつでも思ったときにすぐ閉じられるようにできている。しかし、耳の方は、自分で閉じられないようにできている。いったいなぜだろう。」これは俗に「眼に蓋あれど、耳に蓋なし」と称されるが、「騒音トラブル」を考えるうえで、たいへん示唆に富んだ言葉である。 

 人間の体はミクロ領域の生体メカニズムからマクロ領域の身体形態までたいへん精緻に作られており、耳に開閉機構がない事にも当然の理がある。これは人間だけではなく、犬や猫などほとんどの動物が基本的に同じだが、その理由の第一は「外敵への備え」である。敵が発する音はもっとも重要な情報源であり、たとえ眠っているときでも常に耳で察知して目を覚まさなければいけないからである。

 騒音トラブルの相手とはつまり外敵にあたる。その外敵が発する音は自分を脅かす音であり、動物的な本能の働きとして否応なしに注力して聞いてしまうものである。こういう聴覚特有の働きが、現代社会に生きる人間の場合でもトラブルに巻き込まれたとき現れてくるのではないだろうか。

 こういう話がある。「ある著名な音楽家が引っ越しをした先で、どこからか子供のピアノの練習音が微(かす)かに聞えてきた。そのピアノは、練習曲のいつも同じ場所で間違うのである。最初のうちは、また間違ったというぐらいであったが、そのうち、その間違いの箇所に近づいてくると、「そら間違うぞ、そら間違うぞ、やっぱり間違った」と気になり始め、ついには、そのピアノの音が聞えてくると碌に仕事も手につかなくなった。その微かにしか聞こえないピアノの音はいつしか音楽家にとっては堪えがたい苦痛になり、ついには我慢できず、結局、また引っ越しをする羽目になった」。

 なぜそんなに微かな音を一生懸命聞いてしまうのか。それは普通の人には何でもない音であるが、音楽家にとって間違った音というのは一種の敵だからである。敵に遭遇すると自然に動物的な本能が働き、敵の音を一生懸命に聞いてしまうのである。これは音に敏感とか鈍感とかの問題ではなく動物としての本能であり、敵意がある限り、このジレンマからは逃れることができない。

※ これを読んでふと思いついたのだが、もしかして、常に生の音に接している指揮者や演奏家にとって電気回路を通したオーディオの音とは「不自然な音」として外敵に当たるのではないだろうか。
音楽家にオーディオ・マニアがほとんど見当たらないのも、そもそも「聞くと不快になる」のがその理由なのかもしれない。 そして、気の合う仲間のオーディオは「いい音」に聞え、そうでない人のオーディオは「ことさらにアラを探したくなる」のもこの外敵意識が微妙に影響しているかもしれないと思うがどうだろうか。

 一方、敵意がない場合はかなり大きな音でもうるさくは感じない。たとえば先の阪神大震災の折、大阪の淀川堤防の一部が液状化のため破壊された。大雨でも降れば洪水を引き起こしかねないと、昼夜を分かたず急ピッチで復旧工事が行われたが、数週間にわたるこの工事騒音は近隣の住宅にとって大変大きなものだったろう。

しかし、当然のことながら、夜寝られないなどの苦情は一切寄せられなかった。むしろ、夜に鳴り響く工事の騒音を復旧のために一生懸命働いてくれる心強い槌音(つちおと)と感じていたことであろう。

とまあ、いろんなエピソードを挙げればきりがないほどだが、281頁以降の肝心の「騒音トラブルの解決学」を見ると、初期対応の重要性が指摘されており、手に負えないときは公的機関の相談窓口も紹介してあるが、法曹界には「近隣関係は法に入らず」という格言があるように、あまり当てにはできないようだ。

結局、「騒音トラブル」対策の要諦は「その1」の冒頭に掲げた「ピアノ殺人事件」のように、「迷惑かけているんだからスミマセンの一言くらい言え、気分の問題だ・・・・・・」に象徴されるようである。

誰にとっても「人間は不可思議な生き物、この生き物を理解することは一番難しくて永遠の課題」だが、なるべく日頃からご近所とは仲良くとまではいかないまでも、せめて「外敵と見做されないように」工夫することが、騒音トラブル回避の要諦のようだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする