☆ 世田谷一家殺人事件
年末になると、何となく思いだすのが「世田谷一家殺人事件」である。事件が起きたのは2000年の12月30日で、幼い子供を含めて一家4人皆殺しで、刃物によるその凄惨な殺され方も話題を呼んだ。
しかも事件後、犯人が長時間居座って、パソコンをいじったり、アイスクリームを食べたりと、異様な行動も明らかとなっているが、今年で24年経ったもののいまだに犯人は見つからず「迷宮入り」となっている。
その未解決事件に対して、フリージャーナリストの著者が事件の真相に迫った力作だといえる。
結論から言えば、犯人像は軍人上がりの韓国人で、もはや死んでいて日本に墓もある、そして事件の背景には土地の立ち退きに迫る利害関係があって、黒幕が居た・・、ということになる。
指紋を始めとして、沢山の遺留品があるのに杳(よう)として犯人の行方が分からないので、死亡説も頷けるところ。
ただし、本書によって警察が動いた形跡もないので、あくまでも参考意見の一つなのだろう。
事件に興味のある方はぜひご一読をお薦めしたい。
いずれにしても、とかく年末は物騒なので日中でも家のカギ閉めを怠らないようにしましょうね(笑)。
☆ 言語学者も知らない謎な日本語
一言でいえば、日本語の研究をしている言語学者が近年の「若者言葉」を解説した本である。
〇 「親ガチャ」
「日本社会の所得格差と教育格差を背景に世間に広まったのが2021年ごろ~。ガチャというのはインターネット上のゲームのガチャで自分の欲しいアイテムが自分で選べず、運任せになるように、どの親のもとに生まれるかもまた自分で選べず、運任せになることを指す。
つまり、ハズレの親を引いてしまうと、自分の能力や努力では容易に越えられない壁が生まれ、それによって自分の将来が決まってしまうことを指す。
で、親のみならず会社では「配属ガチャ」「上司ガチャ」など、自宅では「隣人ガチャ」、大きな病院では「医者ガチャ」などが起こる。
結局、運の良し悪しが人生を左右することを意識するきっかけを「親ガチャ」が作り出したといえるのかもしれない。
というわけです。せめて、娘から「親ガチャ」だと思われたくないなあ~(笑)。
〇 よく調べてみると新語だった
たとえば「タメ口」は上下関係のある相手と対等な口の利き方をするときに使う言葉、視線が置き換わった「目線」、立脚点を表す「立ち位置」などを新語と意識せずに使っている。
他にも「一択」がある。実は「四択」「三択」「二択」はあっても「一択」は辞典に載っていない。
選択肢が表面上は複数あっても、諸条件を考慮すると事実上他の選択肢は選べずに一つに決まることを指す。
振り返ってみると、人生の3大岐路ともいえる「志望校の選択」「就職先の選択」「伴侶の選択」において、すべて「一択」だったなあ~(笑)。
〇 「神」
いつからか、日本語の世界に「神」という言葉が溢れるようになった。人の心を揺さぶるような奇跡のような出逢いには「神」がつくようになった。
スポーツなどで神がかったプレイは「神ってる」、料理では「神的な美味しさ」、落とした財布が無事に戻ってきたときには「マジ神」と称される。
ちなみにキリストのことを「マジ神」とは言わない。日本語における神は人間の延長線上にある神のような存在である。つまり、絶対神であるキリスト教の神に対し、日本の伝統的な神は比喩としての神であり、奇跡に近いような「やばい」存在であれば人でも物でもすべて神になれるのです。
せめて我が家では「この音は神ってる!」といきたいものすね~(笑)。
本書にはほかにもたくさんの「若者言葉」が羅列されているので、興味のある方はぜひご一読をお薦めします。
「推し」「限界オタク」「ブーメラン」「モブ」「フラグ」「罪の味」「崩壊」「誰得」「マジレス」「リアタイ」「やばい」「えぐい」
わかります?
〇 漢文で知る中国 名言が教える人生の知恵
現代中国は大嫌いだけど古代中国は好きという方が多いのでなかろうか。古来、中国が日本文化に多大の影響を与えたことは否めませんからね。
67頁に「遊戯三昧」(ゆげざんまい)という言葉があった。副題として「喜びも苦しみも含めて人生というゲームを楽しもう」
「仏教の言葉。時代や使う人ごとに意味用法は微妙に異なる。現代においては、
<この世はゲーム。自分はゲームの中のキャラクター。生老病死、喜怒哀楽、幸運も不運も、酸いも甘いも、みな人生というゲームの一部だ。挫折や苦労も含めて、一度限りの人生を楽しもう>
と達観した境地を意味することが多い。
で、文豪「シェイクスピア」は「すべてこの世は舞台、人はみな役者」と言ったそうだが、なんだか共通点があるとは思いませんか?
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「杉江 松恋(Sugie Mckoy)」氏の著作「日本の犯罪小説」を一読したところ、たいへんな力作だと思った。
あまりにも丹念かつ詳細な考証に「書き下ろし」ではこうも行くまいと思っていたところ、やはり「ジャーロ」というミステリー雑誌に隔月で3年間に亘って連載されたものを集大成した本だった。
ミステリー・ファンには一読の価値ありです。
ちなみにペンネームの「松恋」を「マッコイ」と読ませる粋なネーミングに感心しました(笑)。
たしかジャズ・ピアニストに「マッコイ・タイナー」という人が居ましたよね。
それでは、ネットレヴューから2件引用。
「帯文の言葉を借りると、本書は〝18人の作家の創作の秘密に、「犯罪」のキーワードから迫る、迫真の文芸評論〟だ。まったく手を出していなかった作家さんもいれば、既読ながらすっかり忘れている作品もあったが、読んでみたくなったり、読み返したくなった作品がわんさか。
この作家さんはこんな経緯であのスタイルに辿り着いたのか、なども興味深く、とにかくなるほどの連続だった。杉江氏の豊富な知識と真摯な眼差しで記された作家論・作品論集であり、自分にとっては、めちゃくちゃおもしろい「犯罪小説」の参考書兼副読本。付箋まみれですわよ。」
2件目
「普段からYouTubeでわかりやすくミステリを紹介されているので、ついつい作者の本も買ってしまうが犯罪小説という切り口の本はあまりなくて、ミステリの書評は数あれどあまり取り上げられてこなった作家も読めて興味深いですが、本人のせいではないが、労作だと思うけどやや高い値段設定が悔やまれる。」
次いで、「松本清張はよみがえる~国民作家の名作への旅~」
国民的作家といえばイメージとして浮かぶのはまず「司馬遼太郎」さんだが、「松本清張」さんだって引けを取らないと思う。
本書の前書きにこうある。
「戦後日本を代表するベストセラー作家であり、映像メディアの世界にも巨大な足跡を残した国民作家だった。映画化された作品が36本、ドラマ化された作品は無数にあり、放送回数は千回をゆうに超える。「張り込み」「一年半待て」「霧の旗」「天城越え」「わるいやつら」「黒革の手帳」などの映像作品が時間を経ても変化しない人間の欲望や感情を巧みにとらえている。」
たとえば、毎月、1か月間のテレビ番組を紹介した「デジタルTVガイド」を購入しているが、頻繁に見かけるのが「清張ミステリー」と銘打った2時間番組で、膨大な量に上るミステリー作品をもはや録画する気になれないほど繰り返し、繰り返し放映されている。
しかも社会派という色彩が色濃く反映されており、ありふれた市井の人間がふとしたきっかけで犯罪者や被害者になる怖さといったら・・、いつの時代にもありそうな話なので古びた感じがしないところも、今でも重宝されている理由だろう。それに「タイトルの命名」が実に巧いと思う。
「ゼロの焦点」「点と線」「波の塔」「歪(ゆが)んだ複写」「球形の荒野」「時間の習俗」「Dの複合」「砂漠の塩」「砂の器」
次いで、ネットレヴューから4件紹介。
「清張の代表作50作を紹介した入門書。作品のテーマ、当時の世相、題材となった事件、作者の思想を一作一作丁寧に解説している。面白いのは作品ごとに他の作家の類似作を挙げていること、例えば「張込み」には角田光代の「空中庭園」のように。これが50作全部に。それから文中しきりに「感情の訛り」という言い回しが使われているがこれは清張の文章にはないように思うので、著者の造語だろうか。特に注釈もなくて気になる表現だ。清張の作中人物に見られる特有の感情の動きを指しているようで、分かったような分からないような不思議な表現だ。」
「2022~3年にかけて西日本新聞に連載されたものとのこと。筆者の印象に残る50作を、年代順に並べて粗筋や見どころの紹介をしている。なかなか読み応えがあって良かった。あと表紙もそうだけど鉛筆画?の挿絵のインパクトと味がすごい。時々恐い。連載時にも掲載されていたのかな。 未読作品中、気になるものを図書館のリストに登録していたら、『花実のない森』が2冊とも貸出中だった。きっとこの本の影響だ!」
「オススメの清張作品を50個、挿し絵付きで紹介している。作品の概略と、類似した現代小説も紹介されており読書体験が広がりそう。また、清張さんが作家になる前の戦中戦後の苦難がどのように作品に影響しているかという言及もあった。
私は、松本清張記念館でそのような苦難を初めて知り、それがきっかけで作家本人を好きになった経緯があるのでここは興味深かった。挿し絵もとても良い!ポストカードがあれば買いたい!まず挿し絵だけ見て作品名を当てるゲームをひとりでしていた。難問多し(笑)『西郷札』は秀作だった。」
「清張の作品解説として面白く読み通した。ドラマや映画などの映像が清張作品を高めたのは確か。未だに時代に合わせた変化を持たせながら発展しているのもすごいと思う。筆者が挙げた類似作を読んでみようと思う。」
清張さんに興味のある方は一読の価値ありです。
厳冬期は出歩く機会が少なくなるので、「読書とオーディオ」にピッタリの季節だと思うんだけどなあ~(笑)。
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指揮者の「岩城(いわき)宏之」さん(1932~2006)といえば、N響の指揮者を中心に活躍された方だが、亡くなられてからもう18年が経つことに驚いた・・、光陰は矢のごとし。
指揮者の傍ら洒脱な「音楽エッセイ」を何本も執筆されている。このブログでも過去に「オーケストラのいじめの風景」を取り上げたことをご記憶でしょうか。
指揮者ならではの独特の見方は一読するに値すると思うので、たまたま図書館で見かけたこの本を読んでみた。
まずはネットのレヴューから。
「12冊目は名指揮者によるエッセイ。音楽家で文章もうまい人といえば山下洋輔ですがクラシック界ならこの人がピカイチです◆一日の指揮棒を振る回数を数えたり「大物指揮者に見える秘訣」を考えたり、さらには暗譜をめぐる議論から引退の時期まで「言われてみれば気になる」指揮者をめぐるトリビアが満載です◆印象的だったのは言葉をめぐる話。
どの指揮者も、母国のオーケストラを振るのが一番難しい。理由は「母国語だとリハーサルでしゃべりすぎるから」。不自由な外国語のほうが、かえって言いたいことを端的に伝えられるのだそうです。」
もう一つ。
「指揮者というお仕事紹介エッセー。オチョクリ四分の三、専門的な本音四分の一で、指揮台から落ちた話やらお菜箸を削って指揮棒を作る話など裏話から舞台上の失敗まで面白く教えてくれる。その根底には音楽への情熱がしっかりと読み取れる。
オーケストラの指揮に興味がある人向きとは思うが、昭和ヒトケタ生まれ男子が世界進出していく物語としても面白かった。昭和ヒトケタパワーは凄い。このエッセイの最終話が書かれたのが1998年。8年後、2006年に亡くなっている。晩年に書かれたものがあれば、また読んでみたい。」
続いて、ブログ主が興味を惹かれた部分を抜粋してみよう。
〇 大物指揮者になるための一番の近道はユダヤ人になることだ。指揮者に限らず世界的な演奏家の90%以上はユダヤ人である。どうしてあれほど音楽の才能、特に演奏の才能があるのだろう。
作曲家の場合はそれほどのパーセンテージではないかもしれないが、ヴァイオリンやチェロなどの弦楽器の大物の99%はユダヤ人だといっていだろう。
〇 もう一つ、世界的な大物の音楽家であるための強力な資格があるのだ。ホモセクシャルである。この割合も過半数をはるかに超える。チャイコフスキーをはじめKもBも、あの人もこの人もそうかと、うんざりするほど、偉大な男の音楽家のホモセクシャル率は大きい。
〇 30年ほど前、アメリカのあるオーケストラを客演した時、練習を終えて廊下を歩いていたら一枚の紙が落ちていた。アンケ―ト用紙だった。
質問は25項目あった。
「この指揮者の耳はどうか」「バトン・テクニックはどうか」「練習の時間の使い方はどうか」「たびたびゲストとして招くに値するか」「将来、常任指揮者になって欲しいか」・・、それぞれに10点までの採点をかくようになっている。アメリカのオーケストラはこうやって指揮者の勤務評定をしているのかと感心した。
最後の二つの質問が凄かった。「オーケストラメンバーのミスに追い打ちを掛ける、イヤな性質があるか」もう一つは「この指揮者はユーモアを理解する人間であるか、適当なジョークでリハーサルを円滑に行うか」
ぼくがこれまでに知っている大指揮者たちは、誰もが素晴らしいユーモアのセンスの持ち主だった。普段ニコリともしないコワーイ人でも、時にはちらっとジョークを飛ばして、硬い雰囲気をガラッと変えてしまうのだ。
というわけです。
芸術の殿堂であるはずのクラシック音楽界・・、外から見るのと内から見るのとでは様相が随分違うようで、かなり人間臭いところがありますな(笑)。
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「江戸川乱歩賞」とは・・、1954年、日本ミステリー界の始祖ともいえる江戸川乱歩が私財を投げ打ってつくった基金を運用して、日本推理作家協会により探偵小説を奨励するために制定された文学賞。
今年で創立70年を迎えており、過去に受賞した作家の一部を挙げると、
「西村京太郎」「森村誠一」「井沢元彦」「高橋克彦」「東野圭吾」「桐野夏生」「池井戸 潤」「荘田 寛」
といった、錚々たる作家を輩出している。
ちなみに、個人的に歴代の最高傑作と思うのは「写楽殺人事件」(高橋克彦)ではないかな~。今だに正体不明の謎の人物とされる浮世絵師「写楽」の人物考証と殺人事件が見事に融合した歴史ミステリーの快作だった。
そして、この賞の魅力は何といっても多額の「賞金」で随分長いこと「1000万円」だったが、近年は「500万円」に落とされている模様・・、随分と世知辛い世の中になった(笑)。
それが原因かどうかはわからないが、どうも最近の受賞作はイマイチの感が強いんだよねえ~。昔は受賞作といえば「百発百中」のように優れた作品が目白押しだった。
もちろんブログ主の読解力が衰えている可能性も十分考えられるので、以下あくまでも個人的な意見として読んで欲しい。
オーディオで本人がいくら「いい音」だと主張しても、他人が聴くと「それほどでもない」という、よく似たケースがごまんとありますからね(笑)。
で、はじめてそういう気にさせられたのが「カラマーゾフの妹」という受賞作だった。当時、「こういうのが受賞作とは乱歩賞も落ちたもんだ」とガッカリしたことだったが、これを皮切りに次から次に「こんな作品が・・」と出現してくるのだ。
たとえば、「蒼天の鳥たち」「老虎残夢」と枚挙に暇がないが、令和6年受賞の最新の「遊郭島心中譚」には本当にがっかりした。
読み進んでいくうちにワクワクさせるものがない、もう救いようがない作品だと思うが、こんな作品を7名の「審査員」(現代作家)たちが寄ってたかってよくもまあ推したものだと不思議~。
で、大いに期待して読んだだけに、その反動も大きくなる(笑)。
くそっと思いながら、過去の受賞作品をまとめて4冊借りてきて改めて検証することにした。これはオーディオで思うような音が出ないときの荒療治に等しい(笑)。
女性作家が3名を占めている! この世界でも女性の進出が目覚ましいようだが、結論からいえば、少し救われた思いがした。どれもこれも結構面白いのだ(笑)。
それぞれの感想はネットから引用。
「北緯43度のコールドケース」
「博士号を持っている警察官、沢村は、事件解決までの糸口を見つけたり、監察官調査での対応などで知性を感じさせる。しかし、どこか不器用で他の人とのやり取りや社会に対する不信感などは共感する。
終盤の展開はすべてが繋がっていって大変面白かった。古びた倉庫で見つかった少女の遺体が、事件に巻き込まれてとはいえ、あまりにも悲しく辛い。次巻の数学の女王も読んでみたい。」
「此の世の果ての殺人」
「2ヶ月後、地球に落下する隕石のために破滅が確定している世界で起きた殺人事件。それを追う小春とイサガワはどちらも名前の一部しか明かされないので性別誤認トリックかと思ったけど違いました。
人物の造形にやや極端さと掘り下げ不足を感じるのと、ポストアポカリプスの一歩手前の世界観のはずなのに、この日本でここまでイカれた状況になるかなという疑問はあるものの、総じて言えば面白かったです。史上最年少での乱歩賞受賞者とのことで、これからに期待します!」
「完盗オンサイト」
「オンサイト(=クライミング用語で、初めてのルートを一切の情報を持たずに初見で完登すること)をタイトルに掲げた通り、クライミングの話ではあるが、その対象が岩山ではなく皇居というのがユニーク。子供を置いてくる部分は酷い気がしたし、そのほかにもいくつか気になる部分はあったものの、全体的には読みやすく面白かった。」
「襲名犯」
「連続殺人犯の死刑執行後、同じ異名を現場に記した事件が発生。犯人は何を継いだのかが気になり読み進めた。過去の事件記録から主人公との接点が浮かび、時折挟まれる回想シーンでは誰が誰かを考えさせられ推測する面白さがあった。
しかし被害者の数は多く、主人公が抱える心の闇が物語全体を覆っていてどんよりと重い、乱歩賞らしいムードだ。後半オリジナル犯の足跡が明らかになると、主人公との共通点を意識させられ、さらに類友というワードが浮かんだ。模倣犯だけれど、動機はすべからく本人のものとして犯行に至った同化が興味深かった。」
結局、以上を通して「江戸川乱歩賞」受賞作品ははじめから完成された作品として読むのは不適当で、まさにプロ野球の「新人賞」クラスとして扱うべきものだと悟った。
「いまさら気付くのが遅い!」と言われそうだが(笑)
そりゃそうだよねえ、過去の蓄積と人生経験に乏しい新人が最初から「MVP」並みの力を発揮できるはずがないもの。
で、過去の受賞者から推測すると売れっ子作家に成長するのは1/10くらいで、プロ野球のドラフト上位選手がその後に活躍するのと同じくらいの確率でしょうか。
「筆力=書く才能」も「運動神経」と同様にやはり難しい世界だと思いました。
その意味で、まったくアイデアなどの発想の枯渇が感じられない「東野圭吾」さんは敬服に値しますね~。
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日本経済新聞の「土曜・日曜」版は、日頃のお堅い「経済記事」のほかに読書や音楽などの誌面が充実していてなかなか楽しい。
こういう記事があった。
「文豪 芥川龍之介のご子息「芥川比呂志」さんのエッセイは話題に滋味があるだけでなく、上質なユーモアとウィットに富んでおり、そして文章に魅力がある」とくれば、放っておくわけにはいかない。
さっそく2冊のエッセイを借りてきてここ2日ばかり読みふけった。
タイトルは「憶えきれないせりふ」と「肩の凝らないせりふ」
読後感想としては、期待したほどではなかったが「流石!」と頷けるものだった。
どういうエッセイか試しに小編をご紹介するので気が向いた方はご一読を。
タイトルは「優雅散録」。(「憶えきれないせりふ」255頁)
「優雅についてあれこれと論じるのは、どうもあまり優雅なことではないような気がする。
やさしく気品があって、しとやかで、美しいだけでは優雅とはいえない。
言葉づかい、立ち居振る舞い、生活のあらゆる面にわたって世俗の気を帯びず、前代の良い慣習や遺風をごく自然に身をつけている人でなくては、優雅な人とはいえない。すなわち優雅は、風流や伝統と切り離せない。
したがって、優雅は、人間ばなれや時代ばなれを起こし易い。優雅は薄気味悪さや滑稽と紙一重であり、鼻持ちならぬ嫌味とぴったり背中を合わせている。
イギリス人にとって優雅な狩猟とはたとえば次のようなものだ。
友人としかるべき話題(政治や宗教、とりわけ狩猟を除く)について、楽しいおしゃべりをしながら、ゆっくり歩いていく。
「今度のオリヴィエのシャイロックは少し悲劇的すぎやしないかい?」
「そう。しかし思い切って現代風にしたところがなかなか面白かったじゃないか」と、茂みから鳥が飛び立つ。それを横目で見ながら、平然と会話を続ける。(ここが大切)
「まあ、悪くはないがね」
それから素早く銃を構え、射程距離に逃れようとする寸前の鳥に向けて、引き金を引く。(この行動は一瞬のうちに行われなければならぬ。ここも大切)、再び会話をつづけながら、またゆっくりと歩き出す。
ある成果を上げるために費やした努力を、できるだけ隠し、人に感じさせぬこと。優雅はいつも涼しい顔をしていなければならぬ。
~以下、省略。
が~んと頭を殴られた感じがした。
そういうイギリス人がつくったスピーカー「AXIOM80」・・、たしかに「優雅の極み」ともいうべき音を出してくれるのだが、溺愛している自分はといえば「優雅」とは程遠く、あまりに落差が激しすぎる・・(笑)。
涼しい顔どころか、ギラギラした一連の「オーディオ闘争録」がそれを物語っている。
とはいえ、あからさまに書かないと、とうてい読者にはわかってもらえそうもないしね~。どういう表現が適切でベターなのか、このエッセイを読んでちょっぴり考えさせられました。
とはいえ・・、文中にあるように
優雅は、人間ばなれや時代ばなれを起こし易い。優雅は薄気味悪さや滑稽と紙一重であり、鼻持ちならぬ嫌味とぴったり背中を合わせている。
現代は「SNS」に象徴されるように「質よりも量」が重視され「できるだけ早く広範に」が売り物になっている、それに出世するためにはアピール力も必要だ・・、こういう時代には優雅な言動はますます縁遠くなるばかりで、第一「かったるい」よね(笑)。
とはいえ、視点を変えて、老いも若きも、そしてお金持ちや貧乏人の区別なくクラシック音楽を聴くことは「優雅な暮らし方」の象徴ではないですかね~、そう思いませんか?(笑)。
※ 芥川比呂志さんは1981年に61歳で死亡(肺結核)。「劇団四季」の創設者で演出家兼俳優。「ハムレット」の名演技は今でも語り草になっているとのこと。
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小さい頃からなぜかミステリーが大好きで、江戸川乱歩やコナン・ドイルにはじまって、名作「Yの悲劇」で有名なエラリー・クィーン、あるいは推理作家の登竜門といわれる江戸川乱歩賞受賞作品まで内外の話題作はほとんど読んでいるつもり。
我が読書の原点になるわけだが、もちろん謎解きの面白さに加えて雑学的にもタメになることが多いのも特徴だ。
で、偶然読む機会があって面白いと思ったのが次の本。
著者は馬場啓一氏。この中の「古今東西”音のエチケット”」が特に印象に残ったので紹介しよう。
さて「マフィアに”おなら”」とかけて何と解く?
ご承知かと思うが欧米では身体から発する音は全てエチケット違反である。おならに限らず、ゲップもダメ、お腹が鳴る音もだめ、ものを飲み込む音でさえもアウト。
これらを我慢するのは日本人にとっては結構苦労するものだが、なにしろ生活上のルールだから彼らとお付き合いをする以上従わなければしようがない。
当然スープを飲む音もダメでバリバリとかバシャバシャと噛む音も絶対ダメなのである。欧米人には民族的歴史や経験の違いがあるのだろうが、彼らは固いフランスパンだって音もなく食べてしまう。
深田祐介氏のエッセイに部下にラーメンを音を立てて食べろと命令するのがある。ところがこの部下が英国人であったから、この命令がとてつもなく大きな意味を持ってくる。
取り澄ました紳士の代名詞である英国紳士に、音を立ててラーメンを食べさせようというのである。さあ、どうなる?
結果は英国人の負けで、彼はどうしてもズルズルと音を立てて食することが出来なかったのである。もちろん、英国人だってラーメンをズルズル食べることは可能である。
しかし、それは英国人である誇りとメンツを失うに等しい、というのがその部下の本音だったのであろう。彼の歯と口には音を立ててものを食するというデータがインプットされておらず、それを行うには民族としての誇りを失う必要があったのである。こうして「エチケット=マナー」には意外と深い意味が込められているのだ。
冗談でよくいわれるのは、もし日本が太平洋戦争に勝っていたら、食後に歯を楊枝でシーハーする作法を世界中の人々が学ばねばならなかっただろうという話で、この逸話はマナーというものには絶対的な基準というものがなく相対的な存在であることを示している。
戦争に強いアングロ・サクソン系のマナーが、幸か不幸か世界の一般的常識となってしまったのでやむなく我々東洋人もこれに右を倣えしなくてはならないのだ。
さて随分と寄り道をしたが「マフィアに”おなら”」への解答である。
リチャード・コンドンの書いた「プリッツイズ・ファミリー」でいつでも好きなときに低音から高音まで自由自在に音を発する”おなら”の名人が登場し、マフィア・ファミリーの余興の人気者になる。
西洋人にとって大切なルールを平気で破る芸をあえて賞賛することで治外法権といえば大げさだが”ムラ”的な存在であるマフィアと”おなら”とが、彼らの中で一本ちゃんとつながっているのが分る。
したがって「マフィアに”おなら”」とは、「ファミリー独自のルール=マナーでお互いに結束を確認し合っている」と解く。
これを敷衍すると、よく洋画などで登場人物がヒックをしたりゲップをしているシーンを時折見かけるが、あれはその人物がルールに従わない人間であることを暗示しており、またその場に相手がいる場合にはその人物を軽んじていることを示唆していると受け取れる。
で、そもそも論だが「なぜ身体から発する音はタブーなのか?」
久しぶりに「チャットGPT」の出番です。
「あいまい・ぼんやり語辞典」というのがある。
日常的にそれほど「詰める」タイプではなく「アバウト人間」なのを自覚しているので「曖昧さ」があってもあまり気にならない。大好きな「音楽&オーディオ」は別ですけどね~(笑)。
いつも「ま、いっか」が口癖だし、この世知辛い世の中で何もかも「白黒」をはっきりさせない方がいい場合だってある、ときにはぼんやりした灰色もあっていいんじゃないか、それが「大人の知恵」というものだろう。
というわけで、本書は自分にとって格好の本である。
興味を惹かれた言葉をピックアップして記録しておこう。
トップバッターはこれ。(以下、引用)
1 「どうも」(118頁)
「どうも」はお礼でもお詫びでも使える。出会いでも別れでも一応のあいさつになる。まことに便利な言葉である。
「ありがとうございます」「申し訳ありません」などのしっかり内容の定まった言葉ではない点でお礼やお詫びとしては軽いが、逆に、軽いことに対してもしっかり挨拶をするという意味で失礼な挨拶ではない。
また、出会いや別れでも気を遣う相手に対しての挨拶として成立している。曖昧といえば曖昧な、逆に言えばきわめて便利な言葉である。
(独り言:たしかにいつも「どうも」を常用しているのでこのくらい便利な言葉はないと思う。自分にピッタリの言葉だと思う)
ただ、「どうも」には謎がある。なぜか家族などの親しい関係ではあまり使わないのである。子供もあまり言わないのではないだろうか。三、四歳くらいの幼児が「どうも!」という挨拶をすることはまず考えられない。
「どうも」だけで終わる挨拶は大人くさくなるのである。これには次のような理由が考えられる。
「どうも」は「どう+も」だが本来この副詞には「どうもうまくいかない」「どうも変だ」のような使い方がある。
いわば気がかりなことがすっきりおさまっていない感情を表すのである。
それが「いやはや、どうも何と言っていいか・・」などというように感謝、謝罪の気持ちを表す際の「簡単にお礼やお詫びを言うだけではうまく解決できない言い表せない気持ち、そのままでは済ませられないという気がかりの強調」という使い方になったものと考えられる。
「いやはやどうも何と言ったらいいか、(むにゃむにゃ・・)というような感じで、いろいろと相手への思いを巡らすというのは大人の心遣いである。
またあとに来る実質的な感謝や謝罪の表現がなくても「どうも」だけでそういう気配りがあるということが示せる。いわばよそ行きの言葉と言って良い。この「よそ行き」感が出会いや別れの軽い挨拶にもなると考えられる。
(そのとおり!)
「どうも」だけだと実質的な感謝や謝罪の表現がないので、きちんとした謝罪やお礼にはならない。しかし、気を遣っていることはよくわかる。出会いや別れでの「お世話になっています」感や「失礼します」感といった気遣いのこもった軽い挨拶をするにはぴったりとも言える。
気を遣っている相手への挨拶になるのだと考えると、家族間であまり言わないということ、子供があまり使わないということの理由がわかってくる。
「どうも」の奥には、どうも(?)大人っぽい深い気配りがありそうなのである。
2 やれやれ(192頁)
「やれやれ」を「新潮現代国語辞典」で引くと「深く物に感じた時、疲れた時、失望した時などに発する声」とある。
(自分もよく使っており、ネット記事などを見ながら、「やれやれどうしようもないな~」とか独り言を洩らしている~笑~)
というわけで、現代では「やれやれ、くたびれた」(疲れ)、「やれやれ、ようやくメドが立った」(安堵)、「やれやれ、また失敗か」(失望)といった用方が主であろう。
こうしてみると否定的な意味で用いられることが多いように見えるが、必ずしもそうではない。
「あなたにしかできない仕事ですよ」などと頼みごとをされた場合に、「やれやれ、しかたがないなあ」と、まんざらではない表情をして引き受けることもある。
表向きは「失望」のように見せながら、その実は相手に対して優位に立っていることに心地よさを感じているものである。「やれやれ」には少し余裕がある。
「やれやれ」に類似する感動詞として「あ~あ」があり「あ~あ、くたびれたorまた失敗か」(疲れ・失望)のように言うことはできるが、「あ~あ」に安堵の用法はない。
「やれやれ」の表す感情の領域はなかなかに複雑な形をしているようである。
3 ちょっと(100頁)
「ちょっと」の用法は、ちょっと(?)多岐にわたっている。
A この服はちょっと大きい。ほかにも、ちょっとお腹がすいた、ちょっと遅れます、など
B (上司が部下に)この書類、ちょっとわかりにくいね。
C 「今夜飲みに行かない?」「今夜はちょっと無理かな」
A、Bの用法では「ちょっと」を「少し」と置き換えることができる。その一方、Cのちょっとは断りによる相手の負担への配慮と考えられる。
「ちょっと映画でもどうですか」のように勧誘の場合に使うのも同様である。これは具体的な時間や量を想定しているのではなく、依頼や勧誘によって生じる負担が大きくないことを表そうとして「ちょっと」を使っていると考えられる。
「ちょっと~、なんでそんなことを言うのよ」のように文句を言うときにも使われるがこれらも相手に負担をかけない場合の用法から広がったものだろう。
さらには「今日はちょっと・・」「彼はちょっと・・・」などと曖昧にして続きの理解を聞き手に委ねることもある。
「ちょっと」の用法は幅広く、ときにちょっと(?)曖昧な印象をもたらしている。
以上、3つの「曖昧・ぼんやり言葉」を挙げてみましたがいかがでしたか?
「どうも」も含めて、外国語でこれらの用語に直接該当する言葉はないようですよ。
今さらながら日本人独特の繊細かつ微妙な気配りに満ちた「社会感覚」に驚かされる・・、やれやれ~(笑)。
ミステリーを読むのも大好きだが、エッセイにも大いに心を魅かれる。
いわば、「虚構」と「リアリティ」の二刀流使いともいえる~(笑)。
このエッセイの著者は作家の「黒川博行」氏、(以下「氏」)。まだ一冊も読んだことがないが、直木賞を受賞されているとのこと。
何の前知識もないまま読む続けていくと、何とまあ、ありとあらゆる博打にのめり込む姿が映し出されている。いやあ、こんなハチャメチャな豪快な人が居るんだと驚きました!
誰かが「氏」を称して「黒い川を渡って博打に行く」(氏名から連想)という言葉に思わず腹を抱えて笑った。
さて、その博打の中でもいちばん熱中し歴史が長いのが「麻雀」だった。
ブログ主も学生の頃は大好きで友達と4人で卓をかこっていたが、概してカモられることが多くて弱かった。そのうち才能が無いことがわかって縁遠くなったが、今でも麻雀が強い人は「仕事が出来る」人が多いように思っている。
なぜなら、麻雀を打たせると性格がよく出ると言われており、「アクセル(攻撃)とブレーキ(防御)の適度な調整」「場の雰囲気の読み方」「運勢を味方にするコツ」などが必要とされている競技だから~。
以前のこと、どこかの会社が入社試験で「麻雀大会」をして、上位者に「特別枠」を設けて入社させていると読んだことがあり、この会社の上層部は非常に分かっていると、思わず膝を叩いたことだった(笑)。
さて、本書である。
氏は「麻雀の達人」である。何しろ、他の賭け事で負けた損失を麻雀で一挙に取り返すんだから恐れおののく~。
本書の中に小節「麻雀は運を予想するゲーム」という下りがある。(126頁)
要所を抜き書きすると、
〇 星占いも血液型診断も信じないし、方角がどうとか干支がどうとかいうゲン担ぎもジンクスもいっさい信じません。ただ、麻雀に関してはその日のツキとか場所のツキといったもは確かにある、と思います。
〇 将棋も大好きだが運が勝負を決めることはほとんどない。でも麻雀はツイてれば勝てる。将棋は初心者が高段者に勝つことは絶対にないが、麻雀ならあり得る。だから面白い。
〇 ただツキはずっと続くわけではない。長時間打ち続けると必ず上級者の方が勝つ。技術の差が出る。麻雀の技術には手牌を切る、止めるといった「手牌の技術」と「運を扱う技術」がある。ツイているときはその波に乗り続けて運を落とさない、ツイていないときは傷を最小限に抑えて運を呼び込む、といった、テクニックです。そこで大事なのが「いかにミスをしないか」
〇 ツイているときにミスをすれば自分のツキが落ちて相手に移ってしまう。ツていないときは傷が深くなる。つまるところ麻雀は運のやり取り、奪い合いです。
〇 麻雀って予想のゲームやと思うんです。この牌がきたからこう打つではなくて、どの牌が来たらどう打つか、どの牌が場に出たらどう対処するかをずっと予想しながら打つ遊びなんですよ。
〇 麻雀は想定した一番いい形になるかどうかが運、ツキですよね。ただ基本的には想定しないことが起きるという前提のもとに打たないといけない。自分が想定した最上ではなく、何番目かの牌が来たときにどうするかを考えて準備しておくのが麻雀における技術です。
という調子で延々と続く。
結局・・、「運」のやり取りって麻雀だけではなくて世の中や人生全般に言えることじゃないかあ~、ブログ主には思い当たることが多いです(笑)。
あっ、そうそう、先日の「ワールドシリーズ」のヤンキースとドジャースの対戦の第5戦目、ヤンキースが5点リードしていたのに、守備のミスを3つ続けたせいで運を手放してしまい、同点に追い付かれ最後には敗戦に追い込まれたことは記憶に新しい。
イチローさんが現役時代に「野球はミスをした方が負け!」と言ってたが、その通りとなった。
ミスをする、しないが運を取り扱うコツのようですね~。
なお、本書の中で、「麻雀仲間」として「鷺沢 萌」(さぎさわ めぐむ、通称「めめ」)という女流作家が登場する。氏を相手に堂々と勝つのだから相当な打ち手である。
「めめは生き急いだ。35年の人生に多くのことを凝縮しすぎた」とあったので、ふと興味を覚えてググってみた。
「最年少で文学賞を受賞するなど注目の作家だった。当初は心臓麻痺との発表だったが、実は縊死だった。長年、うつ病を患っていた。在日韓国人で、祖母の隠しておきたい部分に触れたことを書いたら親族から総攻撃にあった。」
歴史作家の「吉村 昭」さんも、エッセイの中で「親族に触れたことを書いたら、えらく腹を立てられた」というのがあったので、「迷惑をかえりみず、つい筆が走ってしまう・・」これは作家の業というものかもしれないですね。
まったく次元の低い話だがこのブログでは小心翼々として他人の傷口には絶対に触れないように心掛けているが、それが本格的な「物書き」になれない証左のようなものかな~(笑)。
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つい先日のブログ「ミステリーの手練れ」にこう記していたことをご記憶だろうか?
「本書の中で冒頭に「押さえておきたい古典10選」というのがあった。
秋の夜長にミステリーに読み耽るのも一興です。未読の方はぜひ~。
ヴァン・ダイン「グリーン家殺人事件」、アガサ・クリスティー「ABC殺人事件」「杉の柩(ひつぎ)」、エラリー・クイーン「エジプト十字架の謎」「Yの悲劇」、ウィリアム・L・デアンドリア「ホッグ連続殺人」、ドロシー・L・セイヤーズ「ナイン・テーラーズ」、横溝正史「獄門島」、高木彬光「刺青殺人事件」、島田荘司「奇想、天を動かす」
このなかでブログ主の未読は「杉の柩」「ナイン・テーラーズ」「奇想、天を動かす」の3冊です。
というわけで、「善は急げ」とばかり図書館に駆けつけて、ようやく未読の内の2冊をゲットしました。
そして、2日がかりでまず「奇想、天を動かす」の方を読破しました。いやあ、実に面白かった。読者レヴューから引用させてもらおう。
「奇想天外・驚天動地・天変地異 不可能犯罪ここに極まれりですね。 今まで密室殺人、死者の亡霊、人間消失、列車消失と数々の不可能状況を演出してきた作者はシリーズ10作目で「もうこれ流石にオカルトに頼らないと解決不可能だろ」ってレベルの謎を提示してきます。
特に"トイレからの人間消失"の不可能っぷりには蟻の這い出る隙間もありません。あるけど。 遊郭の情景描写や社会的背景の蘊蓄、『冤罪』や『日本人の罪』をテーマにした社会派要素、最後の吉敷竹史(刑事)の信念など島荘ベストに上げる方がいるのも納得です。」
たしかに奇想天外、壮大なトリックの展開に著者がいったいどういう「落とし前」を付けていくのか、興味津々のまま夢中で読み耽りました。
さすがに「中山七里」さん推しの「ミステリーの古典ベスト10」に入るほどの傑作です。否応(いやおう)なく納得させられました。
やはり「読書の秋」には良質のミステリーが似合っている。きっと「杉の柩」(クリスティー)も面白いことだろう。
そして、読書の最中に聴き耽っていたのが「レグラ・ミューレマン」のソプラノ特集。「You Tube」はメチャ便利がいいです。放っておいても次々に歌ってくれます。安定した音程、美しい声・・、まったく非の打ちどころのない歌手ですね。
そして、肝心のオーディオ~。
久しぶりに「薄板バッフル」から解き放されて大型システムに回帰しました。
ウェストミンスターを「ムンドルフ」(ドイツ)のコイルで100ヘルツあたりでハイカットして超低音域だけを受け持たせる。
その上の周波数は「コーラル」の「ドライバーM103」と「マルチ・セルラー・ウッドホーン」で受け持たせる作戦が見事に功を奏した。(と、思う~笑~)
金属のダイヤフラムの音はせいぜい1000ヘルツ以上で受け持たせるべきだと思っていたが、それは間違いでしたね。
実に、スッキリ爽やかな音で懸念していた弦楽器も十分こなしてくれるのには驚いた。
これは駆動するアンプのせいかもしれない。
右側が「100ヘルツ以下」を受け持つ「TRアンプ」。
左側が「600ヘルツ以上」を受け持つ小出力の真空管アンプで「オールなす管」仕様。
左から「AC/HL」(英国:エジソン・マツダ)、出力管「LS7」(英国:GEC)、整流管「OKーX213」(メッシュ・プレート)
知る人ぞ知る「古典管」のオンパレードで、佇まいが良くて上品な雰囲気の再現に秀でたアンプです。高能率の「100db」クラスのドライバーにはもってこいですね。
オーディオ仲間の「Y」さんが「高音域の鮮度がいちばん素晴らしい」と、一押ししてくれたアンプです。
いい音、いい音楽、そして良質のミステリーが「三位一体」(さんみいったい)となった「至福のひと時」を過ごせました。
晩年になって こういう幸せ に恵まれるなんて実に運がいい人生だと、ようやく思えてきましたぞ・・(笑)。
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「読書の秋」にふさわしく3か所の図書館、つまり県立図書館、地元の別府市図書館、そして隣町の日出(ひじ)町図書館を巡回しながらほとんど目いっぱいの借り入れ限度(1館あたり10冊)近く借りてくる。
タダだと思って多少意地汚いところがありますな~(笑)。
で、隔週、30冊近く新刊本を中心に目を通しているが、実は最初の1/3ほど読んで「これはダメだな」あるいは「相性が悪い」とそのまま読み捨てにする本がほとんどである。
特に、若手のミステリー作家にはガッカリすることが多い。
導入部の書き出しがいかにも堅苦しい印象を受ける。おそらく、会社勤めなどの組織に縛られたくない自由人を目指して、机に張り付いて一生懸命に頭を絞って書き下ろしたのだろう・・、そういう熱意は感じ取れるものの残念なことに筆力が追い付いていない。
モーツァルトのように自由奔放で自然な楽想みたいなものが欲しいなあ~(笑)。
ま、「未完の大器」なんだろうが、現代は皆、気が立って忙しい世の中になっているので時間が悠長には待ってくれない、デビュー作で(売れ行きが悪くて)脚光を浴びないとそのまま埋もれていく可能性が高いだろう。
その点、ベテラン作家の作品には安心して目を通せる。
日本のミステリ―作家では、「東野圭吾」さんに次いで「中山七里」さんにも大いに注目している。とにかく多作なのに余りハズレがないのには感心する~。
つい最近、これら3冊の本に目を通したがいずれも読み応えがあって、まさに「手練れ」(てだれ)という表現がピッタリ~。
まずは「ネメシスの使者」から「ネットレヴュー」を引用、
「極刑とは果たして死刑なのか…無残に殺された被害者とその家族が犯人に求めるものは何なのか…復讐が認められない法治国家で、死刑を回避した犯罪者に対する憎悪の気持ちをどうすればよいのか… 塀の中で守られている犯罪者に代わって、その家族を同罪とみなし仇討ちを行う行為に世間は同調する。
ネメシスの使者の正体に驚くが、本当の目的は別にあった…うーん、やはり中山作品は一筋縄では終わらない。重たいテーマだけど、読む手が止まらず一気読み。復讐する側の執念と計画の緻密さにため息がでる秀逸な作品だと思った。」
刑務所に収監されている凶悪な殺人犯の家族が次々に残忍な殺され方で復讐されていく、はたして「犯人は?」「共通の動機は?」・・。
単なるミステリーに終わらず、「死刑制度」を真剣に考えさせる社会派作品である。
続いて「アポロンの嘲笑」の「ネットレヴュー」を、
「東日本大震災から5日後に発生した殺人事件。被疑者が移送中に余震の混乱に乗じて逃走。失態を演じた刑事が被疑者の行方を追うが、原発の下請けで働いている被疑者は避難指示が出ている福島第一原発に向かって逃走する。そして追跡する刑事の前になぜか公安の影が。
放射能に曝されるリスクを冒してまで被疑者が守ろうとしたものは何か。被疑者には阪神淡路大震災で建屋の下敷きになり両親が命を賭して守ってくれたことにより自分だけが命をつなげたという過去があった。今度は自分が命をかけて大事な人を守る。その決意を秘めた逃避行が日本を救う。」
これも、社会的なテーマとミステリーを上手く溶け合わせた作品でした。
そして、最後に「超合理的!ミステリ―の書き方」がとても面白かった。
要諦は「結末を考えずに書き記していくと、自然にアイデアが浮かんでくる」というもので、先年亡くなられた「内田康夫」さんが「浅見光彦シリ~ズ」でも同じことを述べられていた。
人間の頭はそれほどヤワでなく、追い詰められば追い詰められるほど順応性が出てくるそうだ。
引き合いに出すのはまことに恐れ多いが、この拙ブログだって書いていくうちに何とか恰好がついていく感じ~(笑)。
なお、本書の中で冒頭に「押さえておきたい古典10選」というのがあった。
秋の夜長にミステリーに読み耽るのも一興です。未読の方はぜひ~。
ヴァン・ダイン「グリーン家殺人事件」、アガサ・クリスティー「ABC殺人事件」「杉の柩(ひつぎ)」、エラリー・クイーン「エジプト十字架の謎」「Yの悲劇」、ウィリアム・L・デアンドリア「ホッグ連続殺人」、ドロシー・L・セイヤーズ「ナイン・テーラーズ」、横溝正史「獄門島」、高木彬光「刺青殺人事件」、島田荘司「奇想、天を動かす」
このなかでブログ主の未読は「杉の柩」「ナイン・テーラーズ」「奇想、天を動かす」の3冊です。
で、古今東西の「ミステリー・ベスト1」は誰が何と言っても「Yの悲劇」でしょう。
「ありあえない犯人」の意外性にビックリ仰天!(笑)。
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メチャ暑かった今年の夏もどうやら一段落して・・、と書きたいところだが日中はまだ暑さが残っている様子、昔と比べて季節が明らかに1か月ほど ずれて いる感じがするのは自分だけだろうか。
そういう中、MLB(プレーオフ)の「大谷選手」の活躍に一喜一憂しながら、ホームランのビデオ映像を飽きもせず繰り返して観る・・、そして音楽、オーディオ、そして読書と、もう忙しくてかなわん~(笑)。
今回は興味を惹かれた2冊を忘れないように記録しておこう。
☆ 「音の大研究」(PHP研究所)
小学生向けに書かれた本のようで別に目新しいことはなかったが、33頁に「周波数と(音の)大きさの感じ方」というのがあった。
人間の音の感じ方が「周波数と音圧レベルの相関関係」によって左右されるという内容である。「そんなことは、もうとっくの昔に知ってるよ」という方も多いだろうが改めてメモしておこう。
たとえば、上図の「緑の線」のように「周波数1000ヘルツで音圧60デシベルの音」と「250ヘルツで70ベシデルの音」はどちらも同じ線上にあるので同じ大きさの音に聴こえるそうだ。
つまり、周波数によって求められる音圧が違うというわけで、この図によれば200ヘルツあたりから下方がやたらに音圧を欲しがっているのがわかるし、その一方4000ヘルツ前後の音が一番音圧が小さくて済む。したがって、人間にとって(4000ヘルツ前後が)一番敏感な周波数ということを示している。
「低音域がもっと欲しいけどボリュームを上げると中高音域が出すぎて うるさくて かなわん。」にもこれで説明がつく。大きな音圧で聴けば聴くほど中高音域が歪むのだ。
逆にいえば、200ヘルツ以下にそれほど拘らなければアンプの負担は飛躍的に少なくなるのでむやみに低音域にこだわるのは考えものだという考え方も成り立つ・・、皆様はどちら派ですか?
ちなみに、我が家では音楽ソースによって再生の自由度を確保するために150ヘルツ以下は別のアンプとスピーカーで再生するようにしています。
つまり、「低音重視派」です・・、というわけで、どちらかといえば「永遠に成仏できない人間」に属していますね(笑)。
電気回路を通じての音楽再生そのものに「隘路」(あいろ)があるようで、家庭で本格的に音楽を聴こうとなると、とても一筋縄ではいかないことを改めて銘記しておかねばならないようです。
☆ ミステリー「骨を弔う」(小学館)
「巻(かん)を措(お)く能(あた)わず」という言葉がある。
ご存知の方も多いと思うが、巻とは書物のことで「非常に面白くて一気に最後まで本を読んでしまう」という意味。
近年、図書館から本を借りてくるのはいいものの、昔と違ってどうも一気呵成に読むことが困難になっている。
途中まで読みかけのまま、他の本に目移りすることが再々でやはり寄る年波には勝てない(笑)、己の集中力の欠如が一番の原因だろうと諦めていたところ、久しぶりに面白い本に出会った。
読みだしてみると、まさに「巻を措く能わず」で、ほんとうに面白い本ならこの歳でも「一気読みできるんだ。」と大いに自信がついた。
話の骨格はこうである。
「骨格標本が発掘されたことを報じる地元紙の小さな記事を見つけた家具職人・豊は、数十年前の小学生時代、仲間数人で山中に骨格標本を埋めたことを思い出す。
しかし、それは記事の発掘場所とは明らかに異なっていた。同時に、ある確かな手がかりから「あれは本当に標本だったのか」との思いを抱いた豊は、今は都内で広告代理店に勤務する哲平に会いに行く。
最初は訝しがっていた哲平も、ふと、記憶の底に淀んでいたあることを口にする。リーダー的存在だった骨格標本埋葬の発案者・真実子の消息はわからないまま、謎は思いも寄らぬ方向に傾斜していく。」
以上のとおりだが、誰にでもある小学校時代の懐かしい思い出が実は後になっておぞましい殺人事件の片棒を担いだことが判明する。
大人になって失ったものを子供の頃の懐かしい冒険の想い出を辿りつつ「真犯人と殺人の動機」の謎解きを絡めながら「今を生きる力」に代えていく筆力はなかなかのものだった。
作者の「宇佐美まこと」さんは、はじめは男性かと思っていたが読了すると女性ということが分かった。そういえば登場人物の心理描写に女性独特のきめ細かさがあったのも道理~。
ブログ主の読解力の方は別にして、これまで内外のミステリーを読んだ冊数だけは人後に落ちないことを自負しているが、その経験から言わせてもらうと僭越ながらこの作家は明らかに才能があります・・、他の本も読んでみるとしよう。
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✰ 「音響・音楽心理学」
「音楽は好きだけど、大がかりなシステムで聴くのは億劫だ」という若者が増えているように思う。
マンションや間借りなどの住宅事情もあるのだろうが、魅力あふれるオーディオを楽しむ層が減少していくのはやはり寂しい。
一介の「市井の徒」がそんな ご大層な ことを心配しても何の役にも立たないけれど、いずれ自宅のSPユニットや真空管などがオークション市場に出回ることになるだろうから、そのときに少しでも活気を帯びていて欲しいので満更無関係でもないかもねえ(笑)。
さて、このほど「音響・音楽心理学」に目を通していたら、今どきの「大学生」(平均年齢20歳)182名に対するアンケート調査の結果が記載されていた(P156頁)。
「音楽を毎日聴く」「ときどき聴く」を合わせて83%に上るほど、音楽の人気は高い。
その一方、「利用するオーディオ機器」の割合となるといささか寂しい結果が明らかとなった。
割合の多い順に羅列すると次のとおり。
「コンポ:34%」「カーステレオ:19%」「携帯電話15%」「パソコン:14%」「ウォークマン:11%」「iPod:5%」「その他:2%」と、いった具合。
興味深いのは「カー・・」「携帯・・」「パソコン」で48%とほぼ半分を占めていること。
これらの層をいかに「コンポ」へ引きずり込むかが、オーディオ振興の課題かな~。
たとえば性能が良くてコスパに優れた「コンポ」をいかに普及させるか。
となると、低価格でも設計次第で比較的簡単にいい音が出せる真空管アンプの出番でしょうよ、いや我田引水じゃなくて~(笑)。
ただし、若者たちから「なぜそんなにシステムに拘るんですか?」と、問われる可能性が高い。
そこで「システム次第で音楽から受ける印象はまるっきり違ってきますよ、それにデジタル社会に潤いをもたらす音楽の役割は増えることはあっても減ることはないんだから~」と答えるとしよう。
ま、結局は要らん世話ですけどね~(笑)。
✰ 「日々翻訳ざんげ~エンタメ翻訳この40年~」
たいへん興味深く読ませてもらったが、31頁に次のような叙述があったのでご紹介しよう。
「”は”と”が”の問題というのは日本語表現の永遠のテーマのように思うが、その使い分けについては私は次の二つの定義を一番のよりどころにしている。
ひとつは国語学者、大野普先生の有名な定義、未知の主語には”が”つき、既知の主語には”は”がつくというやつ。
<昔々、あるところにお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さんは山へ芝刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました>
という説明を初めて知ったときには軽く感動した。最初のお爺さんとお婆さんはまだ未知の存在だから”が”で、二番目のお爺さんとお婆さんは既に分かっている既知の主語だから”は”になるというわけだ。何とも明快である。
もうひとつは作家の井上ひさし氏の”は”はやさしく提示し、”が”は鋭く提示するというものだ。大作家の感性が光るこれも明解な定義である。
”は”と”が”の使い分けに迷ったときには、この二つの定義を思い出せばだいたい解決できるはずである。
ついでにもうひとつ言っておくと、”は”と”が”の使い分けに迷うのはたいてい言いたいことがハッキリしていないときである。
ということだった。
自分のケースで言わせてもらうと、たかがブログにしろ15年もやっていると、これまで「は」と「が」の使い分けについては「何となく」というカンに頼ってきたものの、こうして明解に指針を提示していただくと非常に分かりやすいし、頭の訓練にもなる。
これだから、ブログは(が)止められない(笑)。
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今朝(10日)の起床時の室内温度は22℃・・、ようやく本格的な秋の到来といった感じです。
「芸術の秋」なので「音楽&オーディオ」や「読書」に一層磨きがかかってやたらに忙しくなり、そして楽しくなります(笑)。
「死ぬのは痛くてつらいのか」「人間の肉を切るときは匂いがするのか」「医師でも受けたくない検査は何か」「血管が破裂することはあるのか」「もしものときは自分や家族の延命措置は選択するのか」「医者は袖の下をもらっているのか」「心臓に毛が生えた人は本当にいるのか」……etc.
怖くも、知りたいことが詰まった医学の教養書。読めば読むほど探求心が止まらなくなる大ボリュームの1冊。
世界最高峰のシカゴ大学心臓外科で働く「本物の外科医」が手術、医療の裏側をすべて公開する。」
という触れ込みの新刊書でした。質疑応答形式のスタイルなので比較的読みやすかった。211頁にこういうテーマがあった。
「頭が悪くても医者になれるのか」に対して著者の答えはこうだ。
「なれる。医者になるために必要なものは賢い頭でもお金でもカッコいい顔でもなく医師免許だけである。
日本で医師免許を取るためには、毎年2月に行われる医師国家試験に合格する必要がある。1日あたり約200問の問題を約7時間かけて解いていき、それを2日間も行う地獄の試験だ。合格率は約90%。また、医師国家試験を受けるためには医学部に入学する必要があるので、医学部の受験も必要である。
さらには、医学部に入ってからも毎年進級のための試験がある。医師になるためにはこのようにたくさんの試験に合格することが必要なのだ。つまり、試験に合格する能力に長けている人が、医者になりやすい人だといえるだろう。逆に言えば、頭が悪くてもこの能力に長けていれば医者になれるということだ。
そもそも頭がいい悪いとは何か? それをなんで評価するのか、というのも非常に曖昧(あいまい)である。試験に受かる人を頭がいいとしたら、医者はみんな頭がいいことになるが、そんなこともない。
頭の良し悪しは単純に試験だけでは測れないものだと思う。読者の皆さんもくれぐれも頭の悪い医者には気を付けて欲しい。」
ハイ、その通りだと思います。現在、まさに進行形なので非常に困っています(笑)。
次いで、この本はいかがかな~。
本書の146頁に「ラピダス」社長の「小池 淳義」氏のインタビュー記事があった。
「小池社長は人間の豊かさを想像したうえでものづくりをすべきだ、と何度も発言していらっしゃいます。AIによって人間はどう豊かになるのでしょうか」この問いかけに対して、小池氏は次のように答えている。
「テクノロジーによって人間は便利さを手に入れました。これは間違いないでしょう。ただ、いつも疑問に思っているのは、便利にはなったが幸せになっただろうか、ということなんです。
人類が何千年も議論してきたことですよね。哲学的な問いかもしれません。人間の幸せとは何だろうか、AIという道具を手に入れたときに考えなければならないのも同じなんだと思います。AIがどう人間を幸せにするかを突き詰めて考えなくちゃいけない。
世の中の多くの経営者が従業員を豊かにすることが目的だと言う。半導体関連の企業であれば、半導体産業の発展がゴールだと口にする。でも、それは経営者の最終的なゴールではないと思うんです。我々がつくるモノが人々を幸せにするのか、経営者であればそれをより深くより真剣に考えなくちゃいけない。
私は幸せっていうのは、 今日は本当に素晴らしいことをやり遂げた と感じ、さらに 明日もっと素晴らしいことができるかもしれない と思えることだと思っています。
サグラダ・ファミリアの設計者であるアントニ・ガウディは毎日、世界中から集まった職人をまえに 明日はもっと良いものをつくろう と言ったそうです。それが幸せであり、機械には表現できない領域だと思うんです」
以上のような問答だったが、この「幸せ」をブログ主に置き換えてみると次の通り「充足感と希望」に尽きる~。
「今日はほんとうに 素晴らしい音で素晴らしい音楽を楽しめた、 明日は もっと素晴らしい音で素晴らしい音楽を楽しめるかもしれない」・・(笑)。
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つい先日のブログで述べた「人心は測り難し」(史記)の言葉をご記憶だろうか?
超イケメンの「三浦春馬」さんに関する記事でしたね。天が「二物も三物」も与えた前途洋々たる若者がなぜ自殺しなければならなかったのか・・。
「人心は測り難し」というわけだが、このほど「測る技術」(ナツメ社刊)、そして「ものをはかるしくみ」(新星出版社)と相次いで、「測る」という事柄に焦点を当てた著書に巡りあった。
以下、受け売りで述べてみよう。
「測る」作業は縁の下の力持ちのようなもので、日常ではあまり人の意識に登場することはないが「文明は測ることから始まった」という。
これは、はるか昔に住まいを建てたり農作物などを交換し始めた頃から発達してきた人間の知恵であり、現代の科学的計測技術も人類の永年にわたる叡智の結晶の一つ。
近年では、スーパーなどで包装されたパック販売がほとんどのため「測る」という作業を具体的に目にすることが減ってきたが、「測る」ことを抜きにして現代の文明は成り立たないそう。
それに「必要は発明の母」という言葉があるが、これまで測ることのできなかったものを測る方法が次々に考え出されている。
これは長さ、質量、密度、体積など全ての量にいえることで、化学、物理学、電気工学など様々な分野の研究を広げ、進歩の速さもさらに加速している。
おかげで最近では「人の心」を測ることさえ、少しずつではあるが現実のものとなりつつあるという。
心を読み取る鍵を握るのは、「人間の脳波」だそうだ。
脳には多くの神経細胞が存在し、細かな網のようなネットワークをつくりあげているのだが、脳が何らかの働きをすると、この神経細胞に電気信号が流れ、頭皮上に電位変化があらわれる。
これが「脳波」である。
人間がリラックスしているときに脳が「α波」を出すことはよく知られているが、脳波は人間の精神状態や喜怒哀楽といった感情によってある一定の変化を起こす。
こうした脳波の変化を類型化していくと、脳波から感情の変化がわかり、その人の心の変化でさえも読み取れるようになるという。
この、技術については、犯罪捜査やメンタルケアなどでの活用が期待されているようだが、使い方を間違えると、人の心の中に土足で踏み入る危険性を孕んでいる。
古来、人の心の奥底は解明できない深い闇の部分として、人類が限りなく繰り返してきたドラマや芸術の主要なテーマともなっており、いわば数値では計測できない最後のミステリー・ゾーンだと思う。
たとえば「ブルータス、お前もか」といって殺されたシーザー、日本の戦国時代なんて部下が主君を裏切る話がごまんとある。
織田信長は本能寺で明智光秀に討たれたし、徳川家康の父親だって部下から殺されている。天下分け目の「関が原の戦い」では小早川秀秋の寝返りが一因となって東軍の勝利となった。
また、次元はやや異なるが、自分の心の奥底を隠して「本音と建前」を使い分けることにしても、人とのコミュニケーションにおいて周囲との不必要な軋轢(あつれき)を避けるための高度な人間の知恵ともいえる。
この辺はコンピューターがいずれ人間の知性を凌駕できたとしても、最後まで及びそうもない分野ではなかろうか。
したがって、「人の心」はできるだけそっとしておきたい領域であり、あまり「進歩して欲しくない技術」のような気がする
脳波の計測器をつけて上司と部下が、あるいは男性と女性が会話をするなどということはあまり想像したくない光景だと思いませんか(笑)。
従来どおり、表情や素振り、声音などによって相手の心理を洞察するほうがずっと豊かな人間生活のように思えて仕方がない。
とはいえ、人の心を読み取るのが不得手で、いつも家族から「お父さんは疎いからね~」と言われるほど鈍感な自分がそんな偉そうなことを言う資格はさらさら無いけどね(笑)。
あっ、そういえばオーディオでも部屋の一定の聴取位置で周波数の測定ができる機器があるようで、もちろん参考にはなるが最後の決断の拠り所は長年聴き馴染んだ「耳の記憶」に頼るしかないと思っている。
「機械よりもおいらの耳の方が正しい!」(笑)
最後に「本書」による豆知識をひとつ。
☆ マラソンの「距離」「タイム」はどのように測るのか
まず距離の42.195kmの方は「自転車計測」が主流の計測方法になっている。
その方法は、検定を受けた3台のメーター付き自転車に「自転車計測員」という人が乗り、道路の縁石から一定の距離の場所を走っていく。
そして、この3台の計測結果の平均値を使用する。その誤差が、0.1%以内(つまり42m以内)であれば、公式のコースとして認められる。
次に、タイムだが靴にあらかじめ取り付けられた「チャンピオンチップ」というICタグによって行う。
これは500円硬貨大のプラスチックで作られている、重さ数グラムの小型発信器チップで、靴にチップを装着したランナーがカーペット状のアンテナを通過すると、アンテナから発射された電波によってチップのナンバーをすばやく読み取り、その瞬間の時間をコンピューターに記録する。
このシステムの登場によって、従来計測されていなかったスタートラインの通過時間や5キロメートル、10キロメートルなど各地点の通過タイム(スプリットタイム)、フィニッシュタイムが瞬時に計測されるようになった。
東京マラソンでは大会事務局から貸し出されたICタグを選手が靴につけて走ることで3万人のタイムが精確に計測されている。
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このところ敬遠しがちなのが「文庫本」、なぜかといえば字が小さいので目が疲れて困る~。
それでも作者が「東野圭吾」さんとくれば、どうしても読みたくなる。
手前に置いてある「老眼鏡」にお気付きだろうか。そう、文庫本を読むために「100均」で購入しました(笑)。
この3冊の中でいちばん面白かったのは「ダイイング・アイ」だった。
東野さんにしては珍しく濃厚な「性描写」があったが、それが気にならないほど謎解きのストーリーに嵌ってしまった。
「犯人のいない殺人の夜」は短編集だったが出色はそのうちの一編「小さな故意(恋)の物語」で最後に明かされるのがあっと驚く真相・・、これはドラマ化されており「甘酸っぱい青春の香り」がいっぱいに漂ってたいへん秀逸でした。録画して、いまだに消さないまま保存しています。
主演は「三浦春馬」で、4年ほど前に自殺しましたね。超イケメンでカッコよくて前途洋々だったのになぜ?
「人心は測り難し」(史記)
そして、「老眼鏡」は疑いようがなく効果あり・・、目が疲れなかったのはありがたい。
そして、もう一冊。
☆ 「最高齢プロフェッショナルの教え」
漫画家、パイロット、ギター職人など、「その道」を極めた最高齢のプロフェッショナルたち15名の人生哲学を収録した本だった。
最高齢というだけあって、年齢的にも最高が103歳、90歳代が5名、80歳代が7名と後期高齢者が大半を占めるが、さすがに、並外れた苦労を実際に積み重ねて来られた方々だけに、その人生観も浮ついたものがなくズシリと胸に響いてくるものがある。
いずれの方々ともに、若い頃に人生設計とかの細かい計算をせずに、ただ「無我夢中になって打ち込む」、「人との出会いを大切にする」、「破天荒とも思える冒険をする」、そして「結果なんて後からついてくる」という前向き思考が共通点だった。
ブログ主には、たいへん身につまされます~(笑)。
また男性陣は年齢からして若い頃に「兵隊」にとられた方が多くて、あのときの理不尽な鍛われ方に比べると、どんな苦労だって ”へっちゃら” という言い方が目に付いた。
こういう「たくましい」人たちの話に触れると「自分はマダマダ甘い」とツイ反省してしまう(笑)。
一番興味を惹かれたのは「ギター職人」の「矢入 一男」氏。
「ヤイリギター」の創設者で、これまでギターのブランドには疎くて「ギブソン」ぐらいしか知らなかったが、「ヤイリギター」は海外の著名人も使っているブランドと初めて知った。
コメントの中にこういう行(くだり)があった。
「そのへんの安いギターは丈夫な合板でできています。でもヤイリギターのもとになるのは、天然の木そのままの無垢材です。そうなると、いい音で鳴るギターを作る以前に、壊れないギターをつくることが問題になります。」
「壊れないということは丈夫だということだ。しかし、丈夫だということは、ギターがよく鳴らんということでもあります。そこで試行錯誤しなけりゃならない。いい音で鳴る繊細な”つくり”をしていて、しかも壊れないギターが目標です。」
ポイントは「丈夫さ」と「いい音」とは基本的に両立しないことが当たり前のこととして実体験的に述べられていること。
楽器とスピーカーは似たようなものなので、これは何だかオーディオにも通じるような話。
たとえば許容入力が大きくて、まるで工業製品みたいな頑丈なユニットからは大味な音しか出てこない。
したがって「丈夫さ」と「繊細な音」の両方が簡単に手に入ると考えるのは間違いで、このあたりは「オーディオの盲点」ではなかろうか、とさえ思う。
その点、「我がAXIOM80は・・」、なんて書き出すと「我田引水」となって読者から嫌われるだけなのでこの辺で打ち切り~(笑)。