伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/06/11

2018-06-11 08:00:15 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 20:1-3

第七年の五月十日に、イスラエルの長老たちのある人々が、主に尋ねるためにきて、わたしの前に座した。 時に主の言葉がわたしに臨んだ、 「人の子よ、イスラエルの長老たちに告げて言え。主なる神はこう言われる、あなたがたがわたしのもとに来たのは、わたしに何か尋ねるためであるか。主なる神は言われる、わたしは生きている、わたしはあなたがたの尋ねに答えない。」

第7年というのはエルサレム陥落の4年前になります。先に捕囚としてバビロンの地に連行された人々の長老の一部の者が、主に尋ねるためにエゼキエルの元に来ましたが、神様は彼らの問いかけには答えないと言われました。私たちは神様は何でも自分の問いに応えてくださると信じていますが、神様は答えられないときがあることを知らなければなりません。それは、純粋に神様に問いかけるのではなく、自分の願望を認めてもらうため、神様に聞き従うつもりではなく、同意を求めるための問いかけの場合です。祈りは神様との対話であって、一方通行の押しつけであってはなりません。

http://bible.com/81/ezk.20.1-3‬.ja1955

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エゼキエル書 20:4-7‬

「あなたは彼らをさばこうとするのか。人の子よ、あなたは彼らをさばこうとするのか。それなら彼らの先祖たちのした憎むべき事を彼らに知らせ、 かつ彼らに言え。主なる神はこう言われる、わたしがイスラエルを選び、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地でわたし自身を彼らに知らせ彼らに誓って、わたしはあなたがたの神、主であると言った日、 その日にわたしは彼らに誓って、エジプトの地から彼らを導き出し、わたしが彼らのために探り求めた乳と蜜との流れる地、全地の中で最もすばらしい所へ行かせると言った。 わたしは彼らに言った、あなたがたは、おのおのその目を楽しませる憎むべきものを捨てよ。エジプトの偶像をもって、その身を汚すな。わたしはあなたがたの神、主であると。」

ここから神様は、出エジプト以降のイスラエルの歴史を振り返らせます。私たちは過去の歴史を知識として知っておくだけでなく、神様の視点で見たその意味を深堀りして悟り、他人事のように考えるのではなく、自らに適応して顧みることが重要です。私たちは単なる歴史評論家であってはならないのです。エゼキエルはイスラエルの長老たちに、神様がイスラエルを神の民として選ばれた原点と、その約束を思い起こさせます。私たちもまた神様をなぜ信じているのか、信仰の原点を忘れずに思い起こす必要があります。

http://bible.com/81/ezk.20.4-7‬.ja1955

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エゼキエル書 20:8-12

「ところが彼らはわたしにそむき、わたしの言うことを聞こうともしなかった。彼らは、おのおのその目を楽しませた憎むべきものを捨てず、またエジプトの偶像を捨てなかった。それで、わたしはエジプトの地のうちで、わたしの憤りを彼らに注ぎ、わたしの怒りを彼らに漏らそうと思った。 しかしわたしはわたしの名のために行動した。それはエジプトの地から彼らを導き出して、周囲に住んでいた異邦人たちに、わたしのことを知らせ、わたしの名が彼らの目の前に、はずかしめられないためである。 すなわち、わたしはエジプトの地から彼らを導き出して、荒野に連れて行き、 わたしの定めを彼らに授け、わたしのおきてを彼らに示した。これは人がこれを行うことによって生きるものである。 わたしはまた彼らに安息日を与えて、わたしと彼らとの間のしるしとした。これは主なるわたしが彼らを聖別したことを、彼らに知らせるためである。」

神様の一方的な憐れみにより偉大な神の民とされ、エジプトでの過酷な奴隷生活から解放されたにもかかわらず、イスラエルの民は荒野の旅路で何度も主に背き、エジプトでの生活を恋い慕って戻ろうとさえしました。神様はそんな身勝手なイスラエル人を荒野で絶ち滅ぼそうとされましたが、モーセの必死の取りなしにより、その都度、思い直されました。その理由が「わたしの名のために」というキーワードです。義なる神様は罪を憎まれ悪に報いられるお方ですが、同時に真実なお方であり、ご自身の名誉に掛けて約束を破ることのできないお方です。そのため聖書の御言葉、当時はモーセの律法を通して、神様に聞き従う者は祝福され、神様に聞き従わない者は滅ぼされると、イスラエルの民と契約を交わしました。その契約を守っている証が安息日の礼拝です。私たちが神様を礼拝するのは、神様に聞き従う信仰の表明です。だからこそ礼拝は決して義務でもお勤めでもない、自発的なものであるべきなのです。

http://bible.com/81/ezk.20.8-12.ja1955

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エゼキエル書 20:33-38

「主なる神は言われる、わたしは生きている、わたしは必ず強い手と伸べた腕と注がれた憤りとをもって、あなたがたを治める。 わたしはわが強い手と伸べた腕と注がれた憤りとをもって、あなたがたをもろもろの民の中から導き出し、その散らされた国々から集め、 もろもろの民の荒野に導き入れ、その所で顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。 すなわち、エジプトの地の荒野で、あなたがたの先祖をさばいたように、わたしはあなたがたをさばくと、主なる神は言われる。 わたしはあなたがたに、むちの下を通らせ、数えてはいらせ、 あなたがたのうちから、従わぬ者と、わたしにそむいた者とを分かち、その寄留した地から、彼らを導き出す。しかし彼らはイスラエルの地に入ることはできない。こうしてあなたがたはわたしが主であることを知るようになる。」

途中、何度も主を裏切り続けたイスラエルの歴史が繰り返し語られた後、最終的に神様が私たちに望んでおられることがこの箇所に要約されています。生ける神様は神の民たちを集め、荒野の試練のように私たちの信仰を試み、神様の御言葉に聞き従う者と、聞き従わない者を選別し、寄留地から導き出しても、神様に背く者は神の国イスラエルには入らせないと言われます。神様の存在を認める者は多くいても、日々の生活の中で御言葉に聞き従う者は実に少ないものです。ただ単に頭の中で神様の概念を理解し、口先だけで信じたと言うばかりではなく、忠実に聖書の御言葉に聞き従い、永遠の神の御国に入らせていただく、真の救いに与る私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.20.33-38.ja1955
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【今日の聖句】 2018/06/11

2018-06-11 06:35:14 | 今日の聖句
ローマの信徒への手紙 5:3-4 新共同訳
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

ほとんどの人は苦しみを避けて通ろうとしますが、苦難を通して人は成長し、忍耐と共に練りきよめられた品性を身に付け、永遠の希望を生み出す原動力となります。安易な現実逃避に走ることなく、置かれた環境のありのままを受け入れて逆境に立ち向かう信仰の力をいただく私たちでありますように。

http://bible.com/1819/rom.5.3-4.新共同訳
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