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【COGHCC聖書通読】 2018/06/05

2018-06-05 07:55:26 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 14:1-5

ここにイスラエルの長老のうちのある人々が、わたしの所に来て、わたしの前に座した。 時に主の言葉が、わたしに臨んだ、 「人の子よ、これらの人々は、その偶像を心の中に持ち、罪に落しいれるところのつまずきを、その顔の前に置いている。わたしはどうして彼らの願いをいれることができようか。 それゆえ彼らに告げて言え、主なる神は、こう言われる、イスラエルの家の人々で、その偶像を心の中に持ち、その顔の前に罪に落しいれるところのつまずくものを置きながら、預言者のもとに来る者には、その多くの偶像のゆえに、主なるわたしは、みずからこれに答をする。 これはその偶像のために、すべてわたしを離れたイスラエルの家の心を、わたしが捕えるためである。」

エゼキエルの下にイスラエルの長老たちが預言を聞くためにやって来ましたが、神様は彼らを、偶像を心の中に置いていると言われ、彼らの願いを聞き入れることはないと告げられました。神様は二心の者を憎まれます。私たちは神様を信じていると言いながら神様以外のものに心を奪われているとしたら、あるいは主の御言葉を世の中の人生訓や処世術と同列に扱っているとしたら、それは偶像礼拝と何ら変わりありません。いくつかの教えを聞き比べて自分の考えに合うものを選ぶとしたら、それは神に聞き従う姿勢とはほど遠いものです。そのような者を神様は二心の者として厳しく接しなさいます。

http://bible.com/81/ezk.14.1-5.ja1955

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エゼキエル書 14:6-8

「それゆえイスラエルの家に言え、主なる神はこう言われる、あなたがたは悔いて、あなたがたの偶像を捨てよ。あなたがたの顔を、そのすべての憎むべきものからそむけよ。 イスラエルの家の者およびイスラエルに宿る外国人のだれでも、わたしから離れ、その心に偶像を持ち、その顔の前に罪に落しいれるところのつまずきを置きながら、預言者に来て、心のままにわたしに求めるときは、主であるわたしは、みずからこれに答をする。 わたしはわたしの顔を、その人に向け、彼を、しるし、およびことわざとなし、これをわが民のうちから断ち滅ぼす。その時、あなたがたはわたしが主であることを知るようになる。」

今日の箇所の最も中核をなす教えは、この6節の「悔いて偶像を捨てよ」という一言に最も集約されています。もし今は心の中で偶像礼拝を行っているような誤った信仰状態にあっても、悔い改めて心の中の偶像を取り去り、主の憎まれるこの世的な教えから顔を背けて主の下に立ち返ることを、神様は望んでおられます。しかし心の中の偶像を取り去らず、神様の教えよりも自分の考えを優先させる態度を改めずに神様の下に来る者は、神の民から絶ち滅ぼされると主は言われます。中途半端な気持ちで神様に従う者は、まことの祝福を受け継ぐことはできません。

http://bible.com/81/ezk.14.6-8.ja1955

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エゼキエル書 14:9-11

「もし預言者が欺かれて言葉を出すことがあれば、それは主であるわたしが、その預言者を欺いたのである。わたしは手を彼の上に伸べ、わが民イスラエルのうちから彼を滅ぼす。 彼らはその罰を負う。その預言者の罰は、問い求める者の罰と同様である。 これはイスラエルの家が、重ねてわたしを離れて迷わず、重ねてそのもろもろのとがによって、おのれを汚さないため、また彼らがわが民となり、わたしが彼らの神となるためであると、主なる神は言われる」。

神様の御言葉を民に語り告ぐべき預言書が、神様の御心に反する預言を神の言葉だと言って語るならば、その罪は預言者の上に降り注ぎ、神の民から絶ち滅ばされると主は言われました。当時のエルサレムの預言者たちは、王や民の歓心を買うために、人の顔色を見て、神様の御心とは異なる教えを、神の御言葉だと偽って語っていました。御言葉を曲げて語る罪は、多くの人々を誤った道に導くもので、その責任は極めて重いものです。近年のキリスト教界においても、慰めの言葉、癒しの言葉ばかり語って、心の中の罪を鋭く指摘することを避ける風潮がありますが、たとい人々から疎まれようとも、罪は罪とはっきり指摘し、悔い改めに導くのが神の僕のあるべき姿です。

http://bible.com/81/ezk.14.9-11.ja1955

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エゼキエル書 14:12-16

主の言葉が、またわたしに臨んだ、 「人の子よ、もし国がわたしに、もとりそむいて罪を犯し、わたしがその上に手を伸べて、そのつえとたのむパンを砕き、これにききんを送り、人と獣とをそのうちから断つ時、 たといそこにノア、ダニエル、ヨブの三人がいても、彼らはその義によって、ただ自分の命を救いうるのみであると、主なる神は言われる。 もしわたしが野の獣にこの地を通らせ、これを荒させ、これを荒れ地となし、その獣のためにそこを通る者がないようにしたなら、 主なる神は言われる、わたしは生きている、たといこれら三人の者がその中にいても、そのむすこ娘を救うことはできない。ただ自分自身を救いうるのみで、その地は荒れ地となる。」

ここから20節までの箇所は、これからエルサレムに臨もうとする神様の裁きに対して、自分自身の信仰が自らを救うことを指し示しています。ここにノア、ダニエル、ヨブという3人の偉大な信仰者の名前が具体的に示されていますが、ダニエルはエゼキエルと同じ時代に生きた、第一期バビロン捕囚の一人です。彼らに共通するものは、たとい人々から嘲られても愚直に神様に聞き従った信仰の姿勢です。これら神様が最も喜ばれる信仰者が執り為したとしても、人は彼らの信仰によってではなく、自らの信仰によってのみ義とされ、滅びを免れ、救いに至ることを、神様は改めて示されました。人に依存する信仰ではなく、自らの信仰を確立する私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.14.12-16.ja1955

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エゼキエル書 14:17-20

「あるいは、わたしがもし、つるぎをその地に臨ませ、つるぎよ、この地を行きめぐれと言って、人と獣とをそこから断つならば、 主なる神は言われる、わたしは生きている、たといこれら三人の者がその中にいても、そのむすこ娘を救うことはできない。ただ自分自身を救いうるのみである。 あるいは、わたしがもし、この地に疫病を送り、血をもってわが憤りをその上に注ぎ、人と獣とをそこから断つならば、 主なる神は言われる、わたしは生きている、たといノア、ダニエル、ヨブがそこにいても、彼らはそのむすこ娘を救うことができない。ただその義によって自分の命を救いうるのみである。」

飢饉、破壊、虐殺、疫病、これらはエゼキエルが預言を語った数年後に、実際にエルサレムに臨んだ神様の裁きでした。なぜ神様はノア、ダニエル、ヨブを引き合いに出して預言されたのか、それは当時のエルサレムの人々が頼みとしていたものは、エルサレムを守られる神様ではなく、神殿のあるエルサレムは不滅であるという神話を盲信していたからです。日本で言うところの神風神話のようなものです。過去の栄光の歴史や偉大な信仰者が経験した守りを、そのまま自分にも当てはまると、安直に解釈して安心してはなりません。神様が人を救われるのは、ただその人の信仰により義と認められるからです。

http://bible.com/81/ezk.14.17-20.ja1955

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エゼキエル書 14:21-23

「主なる神はこう言われる、わたしが人と獣とを地から断つために、つるぎと、ききんと、悪しき獣と、疫病との四つのきびしい罰をエルサレムに送る時はどうであろうか。 しかし、もしそれがあなたがたに来るとき、むすこ娘たちを助け出す者が、その中に残っていて、あなたがたがその行いと、わざとを見るならば、わたしがエルサレムの上に与えたすべての災について慰められるであろう。 すなわち、あなたがたが、その行いと、わざとを見る時、彼らはあなたがたを慰め、あなたがたはわたしがこれに行った事は、すべてゆえなくしたのではないことを知るようになると、主なる神は言われる」。

神様のなさることには必ず理由があります。その理由が私たち人間の側にかかっていると悟るならば、厳しい裁きも後の人々の教訓となり、災いを逃れた人々の信仰は私たちの慰めとなります。イエス様もルカの福音書で「シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と教えられたように、災難に遭った人たちだけが罪深かったのだと他人事のように考えるのではなく、私たち一人一人が自らの罪と真摯に向き合い、悔い改めなければ、同じように裁かれるのだと、自らの信仰の襟を正す私たちでありますように。

http://bible.com/81/ezk.14.21-23.ja1955
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【今日の聖句】 2018/06/05

2018-06-05 06:35:01 | 今日の聖句
詩編 33:18 新共同訳
「見よ、主は御目を注がれる
 主を畏れる人、
 主の慈しみを待ち望む人に。」

この世を統べ治められる神様は、主を畏れ、その慈しみを待ち望む者を特別に目を掛けてくださり、勝利を与え、永遠のいのちに与らせてくださいます。万軍の主に絶対的信頼を置き、主の御心に適う者となり、栄光の神の民としていただく恵みに与る私たちでありますように。

http://bible.com/1819/psa.33.18.新共同訳
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