伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2018/06/06

2018-06-06 07:40:07 | 一日一章・聖書通読日記
エゼキエル書 15:1-3

主の言葉がわたしに臨んだ、 「人の子よ、ぶどうの木、森の木のうちにあるぶどうの枝は、ほかの木になんのまさる所があるか。 その木は何かを造るために用いられるか。また人はこれを用いて、器物を掛ける木釘を造るだろうか。」

聖書の中ではしばしば私たち人間を葡萄の木にたとえています。葡萄はつる性の植物で、ほかの木や岩壁に支えられなければ成長することも実を結ぶこともできません。またその茎は細く、他の樹木のように太い幹がありませんから、木材として利用することもできません。葡萄の価値は、豊かな実を結ぶことだけにあるのです。そのように私たち人間も、神様に支えられ、御霊の実を結ぶことなしには何の価値もない存在であることを、私たちは深く認識しなければなりません。

http://bible.com/81/ezk.15.1-3.ja1955

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エゼキエル書 15:4-5

「見よ、これは火に投げ入れられて燃える。火がその両端を焼いたとき、またその中ほどがこげたとき、それはなんの役に立つだろうか。 見よ、これは完全な時でも、なんの用をもなさない。まして火がこれを焼き、これをこがした時には、なんの役に立つだろうか。」

火が両端を焼いたときとは、北イスラエル王国の滅亡と、南ユダ王国での第二期までのバビロン捕囚を意味し、中程が焦げたときとは、まさにエルサレムがバビロン軍に包囲され陥落しようとしている様子を描いたものです。神様に頼らなくなったイスラエル民族は、近隣諸国から憎まれ蔑まれ、神様からも見捨てられて、ついには切り捨てられて火で燃やされようとしています。主に聞き従わないならば神の民は神の民たる所以を失い、滅びが待ち受けていることを、私たちは忘れてはなりません。

http://bible.com/81/ezk.15.4-5.ja1955

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エゼキエル書 15:6-8

「それゆえ主なる神はこう言われる、わたしが森の木の中のぶどうの木を、火に投げ入れて焼くように、エルサレムの住民をそのようにする。 わたしはわたしの顔を彼らに向けて攻める。彼らがその火からのがれても、火は彼らを焼き尽す。わたしが顔を彼らに向けて攻める時、あなたがたはわたしが主であることを知る。 彼らが、もとりそむいたゆえに、わたしはこの地を荒れ地とすると、主なる神は言われる」。

森に育った葡萄のつるは、ほかの木々にとっては単なる邪魔者に過ぎず、引き剥がされ、切り捨てられて燃やされます。神様はここでイスラエルを葡萄の木、近隣諸国を森の木々にたとえて、神様に頼らず周囲の国々に頼ったイスラエルが主に捨てられ、火で燃やされてゆく様子を告げられました。注目すべき点は、それは他の国々が自発的に行ったことではなく、神様ご自身の意志でなさったことだということです。異国の人々に攻められたのならばまだ救いを求める望みがありますが、神様に責められたならば、私たちには滅びの道しか残されていません。それはひとえに私たち自身の背きの罪の故、私たちを守り、育て、祝福してくださる神様を捨て、偶像礼拝とあらゆる悪しき行為に走った私たち自身のもたらした結末です。私たちはこの事実を真摯に受け止め、罪を認め、心から悔い改めて主に立ち返らなければなりません。

http://bible.com/81/ezk.15.6-8.ja1955
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【今日の聖句】 2018/06/06

2018-06-06 06:40:54 | 今日の聖句
マタイによる福音書 6:33
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

世の人々が切に求めるこの世の富や名誉や幸福などは、神の国と神の義を求めるときに添えて与えられるおまけのようなものだと神様は言われます。一時的な楽しみのために労苦するよりも、永遠に残る栄光のために心血を注ぐ私たちでありますように。

http://bible.com/1819/mat.6.33.新共同訳
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