西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

江戸時代の美濃平野部の特徴

2007-05-13 | 訪問場所・調査地
今度の家政学会は、美濃の中心のまちである岐阜で行われたので、講演で岐阜市立女子短大学長の松田之利さんの「江戸時代の美濃」という話を聞いた。ある意味では現在の美濃(岐阜県南部)を理解するベースの一つであろう。松田さんは1941年生まれで私と同年、長野市出身、東京教育大学で近世史を専攻、岐阜大学に長年勤められ最近、現職。夕べの家政学会の懇親会でお聞きすると奥さんは奈良女子大学の地理学出身とのことで「地歴夫婦」である。
で、松田さんの講演で私の脳裏に引っかかった要点を記す。まず初っ端に「皆さんは金華山の頂上のお城を見上げて、岐阜は城下町と思うかもしれないが、あれは織田信長時代にあったものの「復元」で、江戸時代は廃城、岐阜町は尾張徳川家の(飛び)所領で商工業の町・川湊のあった町、城下町と言えば、南の加納であった」と言われ、そうなのか、と思った。(最近、まとめて三人の岐阜高校出身者を知り、彼らの会話に良く加納が出て来ていたが、さっぱり土地勘がなかった。松田さんの話を聞き、帰りにJR岐阜駅で南に「加納口」、北に「長良口」と書いてあり、良く分かった。)私自身、長く岐阜は私の郷里の金沢と同じく城下町と思っていた。ところで尾張藩、加納藩といった言い方は明治以降の言い方で、江戸時代は「○○家所領」と言っていたとのことだ。そこで,「家老」「家臣」と言うとのことだ。関連で「家政」は、従って「○○家のまつりごと」ということではないか、というのが松田さんの解釈である。さて、次に言われたのは、木曽三川、木曽川、長良川そして揖斐川は江戸時代にも絶えず洪水で流路を変え、入り乱れて流れていたため、住む場所を確保するため住民自ら築いた堤防で中の集落を守った。それを「輪中(わじゅう)」と言う。そういう小単位のまとまりのよい集落が美濃平野部の特徴となり、現在でも例えば外来の岐阜県知事などは「地域全体のまとまりが悪い」と言うが、これが伝統と松田さんは言う。そういう輪中の開発を率先して行った百姓は地侍の系譜を引く「頭百姓」と言われ、それなりの格と文化を持っていたという。長屋門、白壁、羽織袴、詩歌や武芸等で、武士的色合いも持つ。工業では木綿、絹ともあり、美濃焼きは瀬戸物と一線を画していた、と言う。(そういえば、美濃紙というのもあるな、と思った)最後に印象に残った美濃の特徴は、東西文化の混在地域ということだ。「しちや」と「ひちや」、「名主と庄屋」、(うどん汁の濃いと薄い・・これは的場輝佳さんの研究)等々という。で、これらが現在までも「残っており」、いなか的まち、実質的豊かさを持っているが、固有性がやや希薄では、と言われた。さて、現代の「美濃人」はどう言われるだろうか。
(写真は、松田之利さん)
木曽三川の覚え方:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/8566fe66e89c28b28f3b91632921b0b4

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