goo blog サービス終了のお知らせ 

西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

湯川利和先生を偲ぶ会に参加、スピーチ

2010-11-15 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、ランチタイム時に奈良の春日野荘で行われた湯川利和先生(奈良女子大学、私の7年先輩、存命なら76歳)の「13回忌」に際しての「偲ぶ会」に参加し、求めに応じてスピーチをした。

出かける前に、湯川利和さんが現代にどの程度影響を与えているかをみるため、google検索をしてみた。2400ほどの項目とヒットしたが、そのトップは次の『マイカー亡国論』に関するものだった。http://urban-diary.blog.so-net.ne.jp/2009-02-11

で、これをネタにスピーチすることに決めた。

「偲ぶ会」は12時頃から2階の畝傍の間で始まった。30人ほどの参加、奈良女子大の湯川ゼミ出身者20名、湯川さんの大学学生時代(京大・西山卯三研究室)の同輩、後輩、その他友人が10名ほどだった。

湯川ゼミ卒業生の田中智子さん(兵庫県立大学)が司会、奈良女子大で湯川さんの後継者・瀬渡章子さんから「毎年この時期になると思いだす」との思い出と挨拶の後、湯川ゼミ創設初期に教務補佐勤め、都合で参加できなかった新田米子さんからのメッセージが読む上げられた。

湯川さんと京大で同期の住田昌二さん(大阪市大名誉教授)が乾杯(というか献杯)のスピーチ、「若くして(63歳で)亡くなったのは残念、強い煙草、強い酒、肉食グルメ等が食道にダメージを与えたのではないか・・・、もう少し生きて学問体系を大成して欲しかった。」と述べられ、最後にNHKラジオ「深夜便」で聞かれた「般若心経」(現代語訳、誰訳かな?)を唱えられたのにはビックリした。感銘も受けた。住田さんからこういうの聞くのは初めてだ。

ビール、日本酒を飲みつつコースランチを食べ、歓談した。

その後、スピーチに移り、私からスタートした。(以下、思い出し増補修正版)

「私は湯川先生の7年後輩になります。奈良女子大では1年早く赴任し、湯川先生と23年間同僚として働いた立場と、1989年に設立された新建築家技術者集団・奈良支部の初代代表幹事の湯川さんを引き継いで2代目を務めている立場から一言申し上げます。

良く虎は死して皮を残し人は死して名を残す、と言われます。まあ名を残すというのは何ですが、思想や理論がどの程度後世に残り有効に働いているかは重要と思います。そこで今朝、出がけに湯川さんが現代にどの程度影響を与えているか、グーグルで検索してみました。

2400ほどのうちトップに出てくるのはこれです。http://urban-diary.blog.so-net.ne.jp/2009-02-11
2番目に瀬渡章子さんが書かれたものが出てきます。

これをみると湯川さんが34歳の1968年に書かれた『マイカー亡国論』(三一書房刊)がいまだに新鮮な知的衝撃を比較的若い人にも与えていることが分かります。先だっての新建築家技術者集団のシンポジウムでも西山先生の諸著作と並んで湯川さんの『マイカー亡国論』が引かれていました。湯川さんが亡くなって13年経っていますが、いまだに思想、理論が「生きている」ことになります。

『マイカー亡国論』が出た時、私は大学院を出て豊田高専助手をしていて週に一日、湯川さんと大学院同期の名古屋工大・服部千之さん(現・故人)のゼミに出ていて、服部さんから「読んでみたら・・・」と勧められたものです。読み終わったら世の中の風景が違ってみえた記憶があります。

私が院生の時、博士課程に今日もお見えの広原盛明さんがおられ修士の同期に延藤安弘君、梶浦恒男君がいたのですが、私を含めこれらの方達や後輩でも未だに自動車もライセンスも持っていないのは、この本の影響だったと思っています。

折しも今年は平城京遷都1300年、湯川さんの亡くなられてからの13年はこの百分の一ですよね。1300年前の日本が現在の日本に影響を与えているように、湯川さんは今後130年、1300年と影響を与えることでしょう。私は、こういうのを「歴史とのつながり」と言っています。

是非、今日お集まりの特に若い人に言いたいのですが、まあ最近コンパクトシティ、歩いて暮せるまちづくりなどと言われている方向は、湯川さんの主張していたマイカー交通システムを克服する方向です。是非受け継いでいってほしい、ということを訴えて私の話を終わります。」

私の後、片寄俊秀さん(湯川さん京大後輩、長崎総合科学大同僚)、三村浩史さん(湯川さん京大同期、京大名誉教授)、川本雅樹さん(新建築家技術者集団奈良支部)がスピーチをされた。三村さんから頂いた、西山先生、絹谷先生の写っている写真、湯川さん同期の三村さん、住田さん、服部さんの他に井上良蔵さんも写っている写真、西山先生が描かれた「湯川君」のスケッチのコピーは歴史的なものだ。

卒業生スピーチは、1977年卒の金沢美智子さん(湯川ゼミ1回生)、1990年卒の浅尾真奈美さんそして湯川ゼミ最後の卒業生1998年卒の三好祥子さんだった。皆、湯川さんの教えを受け社会で立派に活躍している。

私は、夕方に別用があって、奥さんの湯川聡子さんに挨拶して会場をあとにした。もう一度『マイカー亡国論』を現在の文脈の中で読んでみようと思った。今度は、どういう風景が感じられるだろうか。

奈良女子大学 地域貢献の研究フォーラムに行く

2010-11-08 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日の午後、奈良女子大学 社会連携センター主催 まほろば・けいはんな科学ネットワーク共催の第8回 研究フォーラムに行った。私が「まほろば・けいはんな科学ネットワーク」の外部評価委員(長)をしているためで、今年は2年目である。

コラボレーションセンター(放送大学ガクシュセンターなどが入っている棟、東魚屋キャンパス)3階の教室であった。約30人の参加、久米健次・前学長にも会うので挨拶。

野口誠之学長の挨拶の後、4本の報告が各々30分であった。
(1)「まほろば・けいはんな科学ネットワーク活動について~文化としての科学の普及をめざして~」、小林 毅教授、プrジェクト全体のまとめである。
(2)「サイエンスライブ in 枚方を実施して」、枚方市教育委員会・木場寛典さん
(3)「まほろば・けいはんな科学ネットワークへの期待」、天理市教育委員会・中島彰子さん この二つの報告は、「ネットワーク」を通じての実践で、実験などを子どもたちや保護者の前でやっている。
(4)「科学絵本『奈良の都の木簡』を製作して」、関西文化学術研究都市推進機構・鵜飼雅則さん 立派な絵本を参加者に1部づつ貰った。文章を書かれた舘野和己教授(奈良女子大)も参加しておられた。

この後、隣室でお茶を飲みながら歓談、昔、元・奈良国立文化財研究所長だった田中 啄さん(1961年に第一号木簡の発見に立ち会う)が退官される時、持っておられた資料一式を奈良女子大(図書館)に寄贈されたのを知っていたので、それはどうなったか、舘野和己先生に聞いてみた。幸い舘野さんが「管理」しておられるようで安堵した。

17時頃より中間の「外部評価委員会」があり、相馬芳枝さん(神戸大学特別顧問)と私が評価委員、率直に意見を言った。「今日の絵本は素晴らしかったが、サイエンスカフェやサイエンスライブ等の実践を「花火」に終わらせないために一つ一つデーターを残し、例えば絵本にまとめて将来役立てたら・・・」 「リタイアした小中高の先生方をもう少し組織化したらどうか・・・」 相馬先生も女性研究者の立場から意見を言われた。

「けいはんな市民雑学大学」として、どういうスタンスで協力できるか考えていく必要がある。

『奈良女子大学百年史』受け取る

2010-06-11 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日、『奈良女子大学百年史』を受け取った。本来なら昨年2009年が奈良女子高等師範学校創立から数えて百年だったので去年に発行すべきものだったのに色々な事情があったようで今になった。

千ページを越えるものである。20年(正確には21年)前に発行された『奈良女子大学八十年史』に続くものである。

私は1974年(昭和49年)に奈良女子大学・家政学部・住居学科に赴任し、2005年(平成17年)に同・生活環境学部・住環境学講座を63歳の定年で退職したので31年間勤めたことになる。人生の半分近く、百年史の三分の一近く勤めた勘定だ。

自分史が、その時代に及ぶときには『百年史』を『八十年史』とともに「下敷き」の一つにする積もりだ。私は、「八十年」から「百年」に向けては、管理職の一翼として(学生部長、副学長、生活環境学部長として)大学の四つの理念をまとめる委員会を主宰し、生活環境学部に管理栄養士養成課程をつくり、学部自己評価、外部評価を実施、学科再改組に「道」をつけたことが「仕事」の主なものである。

こう書くと、運の良い時期に当たりましたね、となるかもしれないが、当時は、毎日がストレスで「ウツ」状態の連続だった。それまで、大学って「ゆったりモノが考えられる」いい所と思っていたのに、1990年ころより「自転車操業」になってきたのではないか。

百年後、確認しようもないが、どうなっているだろうか。

(この本に関心のある人は、大学事務局にお問い合わせ下さい。)

奈良女大生活環境学部「親和会」に行く

2010-05-27 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日は、奈良女子大生活環境学部の「親和会」に行った。学部教員の懇親会だ。春(5月)と冬(12月)にあり、現役の先生方は「積み立て会費」制、我々「卒業生」(名誉教授)は「参加会費」制である。今、「我々」と言ったが、昨日は石川 実さんと私の二人だった。会場は、奈良市内の一寸した「料亭」であるが、立ち働いているのは全部「学生」、現役の先生方は、やりにくそう・・・。

石川さんは5歳年上、退職(当時は退官)して10年目、私は5年目である。年長の石川さんが乾杯の音頭をとられたが、近況も言われた。3年前、退官後7年にして単著(社会学あるいは社会心理学的著書、「嫉妬論」だったと思う。)を上梓され、今はホッとしているとのこと、いかにも晴れ晴れしていて喜ばしい。私としても自分の「残り時間」が気になり出している。

教務補佐、助教、准教授、教授(専任、特任)6人の自己紹介があった。今年の3月に退職の先生方は4人だったが、昨日は一人も来ておられないので少しさみしかった。退職1回目の「親和会」のみタダだったはずなのに・・・。いつも顔を出しておられた近藤公夫先生が見えないのもさみしい。8月の例の「卆後30周年同窓会」には見えるだろうか。石川さんはここにいる先生方の1/3位しか分からない、と言われたが私は半分位はなんとかわかる。

途中、指名されて私は近況を話した。
「退職すると、一緒に議論したり調査したり(あるいは実験したり)する院生、学生もいなくなり、装置もなくなる。あるのは、目と口と足と考える頭である。よく見、よく話し、よく歩き、よく考えることが日課である。特に考えることは無料(無量)の楽しみと思ってやっている。よく話し、よく歩くことは健康にも良いと思う。

まあ、職場人間から地域人間に「変身」したと思い、地域に馴染み地域をよくする諸活動にも参加している。特にボランティアでやっている「けいはんな市民雑学大学」は、はじめて2年以上25回ほど月一でボランティアで運営委員の一人で運営している。又、皆さんにも参加お願いしたいと思っている。他にも色々あるが今日はふれない。

家庭においては、基礎的生活力(炊事、洗濯、掃除、育児・介護、お洒落、買い物、近所付き合い)をつけるようやっている。炊事では朝食定番を担当している。(で、具体的説明に入る)他のことについても報告したいが今日はここまで。」

司会の今岡春樹教授に「今日は、西村先生は珍しく一つも駄洒落が入りませんでしたね」と言われた。隣で聞いておられた石川先生も「(僕は)夕食は良くつくりますよ」とのことで、調理論議も少しした。参加者の1/4以上は食物学関係の先生方だったので、後で回って色々話が出来てよかった。そこでは「駄洒落」も少し披露、初顔の先生方には「新鮮」のようだった。

大遣唐使展に行く(2010年4月20日)

2010-04-21 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、奈良国立博物館の「大遣唐使展」に行った。この遣唐使は、それ以前の遣隋使の伝統を受け継いで主に奈良時代に唐の国に派遣された「使節団」である。これは、平安時代に入っても継続し、最後は菅原道真が「中止」を進言して終わった。

まあ、律令国家を立ち上げた日本が、当時の「先進国」「中華」の唐に対して大使節団を派遣して政治制度、都のあり方、仏教をはじめ文化の様々などあらゆることを学んだのである。まあ1世紀有余にわたった正に「世紀の大事業」だった。日本からは5千人とも6千人ともいえる人々が唐に赴いたのだ。

これとは、規模や時期の点で問題にならないが、「遣唐使」というと、明治になって新政府が欧米に1年10ヶ月にわたり派遣した50人ほどの「岩倉使節団」(岩倉具視特命全権大使)とその記録(『米欧回覧実記』)が思い浮かぶ。

これらは、日本人が昔も最近も「先進国」にキャッチ・アップ(追いつこうと)するという姿勢の歴史的証拠である。

で、この「大遣唐使展」をざっと見てみて、「岩倉使節団」の報告書(岩波の『米欧回覧実記』全5巻による)に類する「報告書」があったのかなかったのか、はっきりしないことが気になる。

実際には、唐の制度の知識とか、都の作り方の知識とか、仏教の仏典だとかは、入ってきて日本の制度に取り入れられたことは確かだが、では当時の「長安の都市計画」の図面があるのか、と言えば全体的なものは見当たらないのである。

まあ、時代が違うが『米欧回覧実記』のような記録、報告書は残す、という意識や習慣が未だなかったのだ、と言わざるをえないのだろうか。

昨日、別に平城宮跡で、遣唐使の乗った船の復元を見たが、これもしっかりした資料が残されている訳ではなく、600人ほどの「派遣団」が四隻の船で行ったことは記録にあるので、一隻なら150人ほどになる。50人が船を動かしたり操作し、後の100人が夜寝ていたとすると、100人が寝られる空間を割り出して大体の船の大きさを決める、と言った方法での復元と説明されていた。これだと、まあワンノブゼムの「復元」といわざるを得ない。

まあ、しかし国際交流史の大きな一こまが「細かく」注目されたのは良いことだろう。

磯田憲生(則生)教授の最終講義

2010-02-21 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
2月19日(金)に奈良女子大学・生活環境学部の磯田憲生(則生)教授の定年退職前の最終講義「住まいの快適環境」が記念館講堂で行われ、私も聴講してきた。評議員や学部長もされたので、野口学長や久米前学長も来ておられた。

磯田さんは、私より6年後に奈良女子大学家政学部に赴任され30年間勤められた。環境工学分野の温熱環境(暖冷房の基礎的な)研究に取り組まれてこられた。

日本の北海道から沖縄までの伝統民家の温熱環境の調査研究、人工気候室における実験的研究、最後の方では「環境共生的住まい方の意識と省エネルギーとの関わり」の調査研究をされた。また大学研究室や教室を使って窓外に緑を置くと、夏場の暑熱緩和効果があるのかどうかも実践的に研究された。

15年ほど前に拙宅に「OMソーラー方式(太陽熱利用の空気床暖房方式)」を取り入れた時に、冬場にデーターを取ってもらったこともある。省エネルギーの研究のデータの一部になっていると思う。

暖房や冷房の最適温度の研究も興味深いものだが当然個人差があり、一定の幅があることが明らかになっている。私は、暖房では低め、冷房では高めにして後は「慣れ」や「被服」等でおぎなったら、との考えを持っているが、その温度の目処もまあ分かったかなと思う。

講義の後、生協食堂で懇親会があり、磯田さん本人に連なる卒業生や修了生、旧・現同僚(私は旧同僚の一人)、学界関係者などが参集していて、久し振りに卒業・修了生にも会えてよかった。二次会は、磯田先生共々「GENTRY」に行った。わいわいがやがやだった。

磯田先生、長い間ご苦労さん、3月27日(土)の奈良ホテルでの「退職記念パーティ」には「けいはんな市民雑学大学」とバッティングして出れませんが、5月の「会」には行きますし、今後は機会をみて「市民雑学大学」でも話してくださいね。

「末広会」で歓談ー伏見の「魚三楼」-

2009-12-13 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、奈良女子大時代に一緒に家政学部、生活環境学部で教師として過ごした8人が数年前から行っている年一回集っての「忘年会」をした。今年は、近藤公夫先生(造園学、住居学)、遠藤金次先生(水産学、食物学)が叙勲されたのでその「お祝いの会」も兼ねていた。13時からの「午餐会」風だ。

場所は、京都・伏見の「魚三楼」である。今年発表された「ミシュラン」の☆では☆☆だったようだが、五条以南で☆を貰ったのは、ここだけとのことだ。近鉄・桃山御陵前から歩いて直ぐの所にある。同じく参加されたM.先生が、ここの主人と懇意だったのでここですることになった。

私は、年齢的に下から3人目、3人が60歳台、5人が70歳台から80歳だ。先輩のK.先生が、「何かこの会に名前を付けたらどうか」と言われ、私に振られたので、一寸考えて「末広会はどうか」と提案した。まあ、現在の8人でスタートしていること、八は「末広がりの字である」、又今後、参加者は少しづつ増えると思うので、その意味でも「末広がり」、更に「80歳以降も元気で!」という含意もある。皆も異議なく、当面これでいくことになった。

当日の料理は「沖好き(魚の水炊き)」だった。飲み物は、ビール、日本酒と焼酎だが、私は最初の乾杯だけビール、後は芋焼酎の湯割りとした。話のついでに「焼酎の湯割りに生姜のすったのを少し入れて飲むと微妙な味付けとなりいいよ」と推奨しておいた。

当日の話題は当然、両先生が勲章を貰いに行かれた皇居の様子について、最近の政治の問題ー公務員時代は「政治的中立性」とやらで言いにくかった「党派性」ある意見も自由に言う立場を謳歌している風ー、健康のこと(メタボ系の先生が若干名、心臓手術をした先生がお一人等のお話や皆の健康法など)、日本語の字のこと、スポーツのこと等など縦横だった。

又一年後、元気で会うことを約して伏見の大手筋の喫茶店経由で16時頃に解散した。

ベルリンの壁崩壊二十年

2009-11-10 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日11月9日は、ベルリンの壁が崩壊して満20年だった。

20年前、ブランデンブルグ門の前からの中継を固唾を飲んで見守ったものだ。

その時、私の心に浮かんだフレーズは「This is the Spring in the Fall!」というものだ。

心は、「秋における春!」そして「没落における跳躍!」である。

次の年の年賀状に、このフレーズを書いたのを思いだす。

それから20年、ソ連は崩壊し「偽の社会主義」に終焉がおとづれ、アメリカ一極になったかに見えた。しかし、EUが成長して、アメリカの言いなりにならなくなり、発展途上国も、正に発展してBrics(ブラジル、ロシア、インド、中国)を形成し、中国はGDPでは日本を抜いてアメリカに次ごうとしている。G8はG20に移行しつつある。

それなのに、日本(政府)は、政権が替わったにもかかわらず、未だ「アメリカ一辺倒」に見える。一時の「跳躍(spring)」願望ではなく地道な前進を続けたい。


武内哲夫先生との出会いと付き合い(1993年春)-5最終回

2009-07-08 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日は1993年春に書いた「武内哲夫先生との出会いと付き合い」の最終回である。
4回以前の様子は、以下から順に遡って見てほしい。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/51d6fad3e604fdde122e14d73cf0a8a4

「最後」の旧制高校卒業生と色々と文化的会話をさせて頂く
 武内先生は、旧制高校の最後の学生である。本年(1993年・・・私注)、奈良女子大学を定年退官される四人(武内先生の他、文学部の中塚、中村先生、理学部の菅江先生を含む)は、いずれも旧制高校の「臭い」を嗅いでおられる。さらに武内先生はじめ中塚先生、菅江先生は戦前の「海軍兵学校」に進んだ最後の世代でもある。(戦後)、武内先生は、「科学方法論」を修めたくて旧制・三高の理科に進まれたとのことである。しかし、どういう風の吹きまわしか武内先生は京都大学農学部農林経済学科に進学されたのだった。京大学生時代は、総合大学の良さを活用して経済学部その他の講義にも出られたり、他学部の学生とも交流されたと伺っている。そのため、話をしていて、実に広い学問領域に精通しておられて大変勉強になるのだった。丁度、ソ連社会が「崩壊」した後の、新年互礼会(1991年1月4日か・・・私注)の後で、いつものように家政学部旧会議室で飲みながら駄弁っていて「これからは、コーポラティズムも重要になるのでは・・」と言われ、「なるほど、生協研究者にして言わせる言葉だな」と感心したこと等もその一つである。
 ところで、武内先生は、お酒は大変お好きなのだが、ここ数年ひかえておられた。ドクターストップがかかっているからだった。若い頃は「斗酒なお辞せず」といった飲みっぷりだったようだ。ある研究費を貰って「地酒に関する研究」をされた時には、全国各地の造り酒屋に調査に行って、地酒を大いに飲まれたけれども、ついに報告書は出ずじまいだった、というエピソードを聞いたことがある。だから酒そのものについても造詣が深く聞いているだけで勉強になった。

終りにー戸坂 潤、マルクス・エンゲルス全集のある部屋ー
 武内先生の教官室は、奈良女子大学E棟2階の一番奥まった部屋であった。一代前に小国(弘司)先生がおられた部屋である。その隣の部屋には、学部長補佐の事務補佐員の田中さんがいて、雑誌『家政学研究』の編集事務に携わっていた。だから、査読原稿を持ってしばしばその部屋を訪れた。その時、壁際の武内先生の書棚を眺めて「ほ~」と思ったことがある。
何故なら、そこに大月書店刊の『マルクス・エンゲルス全集』、勁草書房刊の『戸坂 潤全集』も並んでいたからである。私は、それらを見た時に、武内先生の「学問的心意気」を瞬時に感じたのである。何故なら、私も学問的先達として、その三人(マルクス、エンゲルス、戸坂 潤)は尊敬に値する人々の何人かの中に確かに入ると思っていたからである。
 最後に、その武内先生が若かりし学生時代に「科学方法論」を修められようとしていた時に、恐らく念頭にあった一人と思われる哲学者・戸坂 潤の次の言葉を引用し、「武内哲夫先生を送る言葉」としたい。
「空疎な興奮でもなく、平板な執務でもなくして、生活は一つの計画ある営みである」(戸坂 潤『科学方法論』冒頭より)
是非、今後自ら「計画ある営み」を実行され、健康をすっかり回復されて、ゆっくりとお互いに好きな酒を飲みながら、また、文化的談論風発を楽しませていただきたいものと思っている。(1993年 春)(完)

この5編は、個人的な武内哲夫先生への「思い出」を語っているが、同時に1990年から1993年頃までの奈良女子大学の、同家政学部の様子も反映している。

武内先生にとっては、奈良女子大学が最後に勤めた大学だが、京都工芸繊維大学により長く教授として勤められたので京都工芸繊維大学名誉教授であった。

武内哲夫先生との出会いと付き合い(1993年春)-4

2009-07-07 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
-3のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/040e9ac7fc555072c49126eeb624a2d7

奈良女子大学学長選挙の「改革」への役割
 2年前(1991年・・・私注)、今回、武内先生と一緒に退官される出口先生が学長に再選されたのだが、それ以前に、武内先生は「学長候補推薦委員会」の議長として一定の役割を果たされたと私は思っている。その時、何故か私も家政学部から「推薦委員会」の委員の一人に選ばれていた。家政学部からは武内先生、私の他、遠藤金次先生、辻井康子先生(残念ながら故人)が選ばれていた。そして、私は、学長に誰を選ぶかも重要だが、「選び方」や発表の仕方についても「改革すべし」と思っていた。「推薦委員会」では、年長者が議長になるという規定だった。武内先生と同年では文学部の中塚 明先生、家政学部の辻井康子先生が推薦委員では最年長であったが、生年月日の早さで武内先生が議長になられたのである。
その「推薦委員会」で、私は前に述べたような気持で「一次投票の結果が投票者に知らされないのはおかしい」と発言したのである。これをめぐって議論されたが、議長の武内先生は「今回は間に合わないが次回に何らかの改革をするよう学長に進言する」とまとめられ、事実、その結果は、なお色々問題があるが、今回(1993年)の多段階投票の「ガラス張り」になったのではないか、と思っている。そして武内先生自身、その選挙方法に基づく今回の学長選挙で学長候補の一人に選ばれた。残念ながら当選まで行かなかったが、私は、もう少し長く奈良女子大に勤務され、他学部の先生方にも、そのパーソナリティが知られていたならば、家政学部出身の初の学長になられていたかもしれない、と秘かに思った。(続く)

武内哲夫先生との出会いと付き合い(1993年春)-3

2009-07-06 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
-2のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/80999a63e4e85baf7e0c45d809638aa5

奈良女子大学家政学部より生活環境学部の設立へ
 家政学部より生活環境学部へと学部名称の転換を決めたのは1992年4月22日の教授会であった。この日の教授会は正に歴史的教授会の一つと言えるであろう。実は、それ(教授会)以前の「将来計画検討委員会」では、色々議論はあったけれども、奈良女子大より1年前に「改組」を決めたお茶の水女子大家政学部と同じ「生活科学部」を新しい学部名として決めて、教授会に提案することになっていた。
実は、私もその(委員会の)委員の一人であったが、教授会では、「委員会」決定と別の意見を述べ「生活環境学部が良い」と発言したのである。私は、新二学科のどちらも生活環境という名称を(学科に)冠しがっていたこともあり「それなら、いっそ学部名に持ち上げたら」と言ったのである。私以外でも多くの「若手教官」が立って「お茶の水と違うアイデンティティの確立」を中心に意見を述べた。
最後に武内先生は「こんなに委員会と違う意見が出たのでは、もう一度委員会に戻して審議しますか」と委員の一人の石川(実)先生(武内先生の後の学部長・・・私注)に意見を求められたが、石川先生は「もうここで決めたら良いのでは・・」と言われ、武内学部長が「断」を下されて「生活環境学部」に決まったのである。決まった時、期せずして拍手が起こったのも印象的だった。
その後、私は武内先生から「委員会で決まったのと違う意見を言って・・・」とお叱りを受けるかと思っていたが、一切言われなかった。武内先生は、しばしば「教授会で皆、余り意見を言わないなあ、もっと活発に討議した方が良い(裏の根回しのみで決まるのは良くない・・)」と言っておられたので、「最高決定機関」の教授会での議論と決定をむしろ好ましいものと思っていただけたのでは、とも思っている。

大阪国際空港より「だめおし」の手紙を出す
 家政学部を生活環境学部にする、と教授会で決めて、武内先生が、丹羽雅子先生(被服学科教授、後に学長=日本初の女性国立大学学長・・・私注)と共にその決定を持って文部省に「交渉」に行かれようとしていた1992年の4月下旬、私は別に日本建築学会建築経済委員会「住宅地方性部会」から中国に出かけようとしていた。その時に私は大阪国際空港より武内先生に「だめおし」の手紙を書いた。それは、次の通り。(コピーによる、括弧の形式は変えてある)
 「前略 24日の「改組」会議後にもう一度お話ししておきたい、と思っていましたが、お会いする機会を逃し、本日、25日に中国に旅立って5月6日まで戻りませんので書面にて微意を伝えたいと思います。それは、1日(5月1日のこと・・・私注)に武内先生と丹羽先生とで御足労される文部省との話し合いにおける学部学科名のことです。ぜひ「生活環境学部」を全知を傾けて実現の方にもっていかれるよう切に望みます。それは、第一に、最初に構想した人間環境学部の流れに位置付けられ、それは、以前、武内先生ご自身が臨時教授会を開いて決められようとしたのに、「大学院の人間文化研究科に近い名称云々」で立ち消えそうになった名称なのです。第二に、教授会で多数で特に”若手”では圧倒的多数で支持されたもので、最後に期せずして拍手までおこったものであることです。若手の諸先生方は、やる気満々でお茶大にはない奈良のアイデンティティを確立する意気にもえています。将来の奈良女を担う人達の”失望”を買うようなことは、是非、避けて下さい。第三に、もし「文部省に強く言われた云々」で「生活科学」に”後退”するならば「それなら家政学の方がまだ良い・・、”手垢”のついたものを何故いまさら・・」と、次の教授会はすったもんだするでしょう。そうなったら、私自身は先日の「委員会」でちょっと示唆した例えば「生活学」を提唱するつもりで理論学習しています。「生活科学」は対象がはっきりイメージしにくく、”自然科学”に傾きすぎた名称だと言えるからです。それに対し「生活学」は”人文科学”的ではありますが、学科名称に”科学”をつければ自然科学的分野をカバー出来、より広い概念だと思うからです。以上のような次第で、現在ベストと思われる「生活環境学」を是非おしすすめられますよう心よりお願い申し上げます。
以上、急いでしたためましたので十分意の伝わらないところもあるやに思いますが、そして先生ご自身「何を言うんだ、当たり前ではないか」とお叱りになるかもしれませんが、真意をおくみとりの上、対処されますよう切に望みます。では、5月6日に帰国したら吉報が聞けることを楽しみにして、日中建築学会シンポジュウムその他で中国に行ってまいります。先生におかれましても、お体ご自愛の上、このむつかしい時期のカジ取りをよろしくお願い申し上げます。敬具(ママ) 4月25日 西村一朗 大阪国際空港にて 武内哲夫先生」
 この手紙が武内先生のお気持ちにどの程度「食い込んだか」分からないが、いずれにせよ、その後、事実の推移は、家政学部から生活環境学部になったのである。(続く)

 ここでは、学部の名称のことばかり述べているが、これは学部改組であって、下部組織というか基礎組織は二学科六講座となり、家政学部時代の「安定した」四学科体制から一歩踏み出したのである。
 しかし、その後、その二学科が生活環境学科、人間環境学科となったため、どちらがどちらか講座まで下りていかないと内容がはっきりしない、しかし受験情報では主に学科までしか見えない。そこで、私が退職する間際の数年は、「再改組」に取り組んだのである。又、国立大学に「管理栄養士」コースをつくる話も絡んできて大変だった。そのいきさつについては、別の機会に明らかにしたい。

武内哲夫先生との出会いと付き合い(1993年春)-2

2009-07-05 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
-1のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/cdc64214884be5626fb3a5da28d357f6

その続き一節

奈良女子大学家政学部住居学科に地域居住学講座をつくる
 武内学部長の、(1991年4月からの)いわば「初仕事」が住居学科に地域居住学講座をつくることではなかったか。この講座は、住居学科の第五講座であるが、食物、被服学科の第五講座に続いて、もっと早く出来ている筈だった。しかし、それを要求した時期が独立大学院(博士課程)である人間文化研究科設立の時期と重なり、独立大学院優先ということで見送られ(てき)たのである。ところが、家政学部改組が具体的日程にのぼる過程で、全国的に講座増など殆ど認められていなかった雰囲気の中で、いわば新学部(設立)の「前倒し」の形で地域居住学講座の増設が決まったのである。前述のようにたまたま私は、1991年度に住居学科の「主任」に当たっていたので、武内先生と色々と打ち合わせて資料をつくって事務局の脇坂事務局長、森(豊吉)会計課長、窪田家政学部事務長等と何回となく協議した記憶がある。
 私は、住居学の「外延的」発展として地域居住学があり、次に要求したいと思っていた「内包的」発展として住居装備学がある、と理論的に位置付けて事務局に説明したことを覚えている。その過程で武内先生は「社会科学者」らしく全体の位置づけ等に関して色々示唆して頂いたが、別に武内先生の話に出る京都工繊大時代の知り合い(例えば池田有隣・造形学部長)や旧制・三高時代の知り合い(例えば西川幸治京大教授)に私の出た建築学科(京大)の多くの先輩がおられたので、親しみを覚えたのも事実である。そして、「地域居住学」講座は、無事1993年度から発足することになったのである。私自身が、その講座担当となったのも何かの因縁であろう。(続く)

武内哲夫先生との出会いと付き合い(1993年春)-1

2009-07-03 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
既に過去ブログで武内哲夫先生の訃報記事を書いている。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/a9936cb39f254088e6994aaa5b259f3f

ここでは、私の自分史の一コマとして小文を記録しておきたい。これは、武内先生が1993年3月に奈良女子大学を63歳の定年で退官される折り、私が書いて武内先生に差し上げたものである。それから15年以上経ったし、先生も亡くなられたので、奈良女子大も今年創立百周年を迎えたのを機会に、「一歴史資料」として公表しても良いのではと考え、ここに書いておく。

はじめに
 奈良女子大学家政学部長の武内哲夫先生は1993年(平成5年・・私注)3月末で定年退官される。誠に御苦労様と申し上げたい。この機会に、私の「自分史」の一コマとして武内先生との「出会いと付き合い」を思い出しつつ述べておきたい。
武内先生の本籍は東京都だが、千葉の木更津で小さい頃育ったという。その後、お父様が天理大学に来られたこともあって奈良に引っ越され、小学校は奈良女子高等師範学校付属小学校に入られた。そのことが、(後に)奈良女子大に赴任された理由の一つであったようだ。そして、1944年に旧制・奈良中を出て海軍兵学校の最後の頃に入られ、そのまま敗戦、戦後、旧制の三高から京大農学部農林経済学科に進まれたとのことである。そして、その後、島根農科大学、島根大学法文学部、京都工芸繊維大学工芸学部を経て6年半ほど前に奈良女子大学家政学部(家庭経営学講座)に来られたのである。7ヶ月は併任、その後6年間が専任であった。奈良女子大学家政学部に来られた時に、私は先生の業績リストを見る機会があったが、、それによると「農協の研究」は多いけれども「生協の研究」は、そんなに多いとは思われなかった。しかし、「最近は生協の研究も鋭意やっておられる」とのことだった。事実、その後、生協に関する学会の役員となられ国際シンポジュームを日本で開催する推進役をされてきたのである。

奈良女子大家政学部長にかつぐ
 武内先生が家政学部長を辞められる矢先に、先生を2年前にその学部長にかついだ一端を述べるのは、あるいは歴史的に早すぎる、色々物議をおこすことになる、と批判されるかもしれない。しかし、「いわば新参の武内先生が何故、家政学部長に選ばれたか」を述べることは民主主義の前進の上でも大切と思うので、あえて述べておきたい。事実誤認があれば私の責任である。武内学部長の前任者は女性の堀川蘭子先生である。(全国国立大学で初の女性学部長・・私注)堀川先生の頃から家政学部の改組問題が起こってきていた。それを、その後、武内先生が引き継いで生活環境学部に転換させ実らせたのである。その評価は少し長い目で見る要があるが、とにかく一つの「変化」をもたらしたのは「業績」の一つに違いない。
ところで2年前、堀川先生の後、誰に家政学部長になって貰うか問題となっていた。いわゆる「禅譲」も考えられたが、多分、若手教官や女性教官の中には「気分一新するには、それではまずい」との気持ちもあったと思う。それを受けて、色々の人の間で、「では誰が良いのか」の話がアレコレ話し合われたり、噂されたりしていた。私も個人的に、ある先生と相談して、教授会での発言等を基に武内先生が良いと心に決めた訳である。
 そこで、武内先生には、個人的に、あるいは何人かで会って意志を確かめつつ「お願いした」記憶がある。先生は表面的には強く固辞されたが「選ばれれば、やられる」と私はふんでいた。1991年1月末の家政学部長選挙では、最初の助手以上の投票でも圧倒的にリードし、講師以上の投票でも一度で決まったのである。武内先生は、それまで評議員を歴任しておられない。そのような経歴の(家政)学部長は、あるいは初めてではなかろうか。実は、その「伝統」は、武内先生の次の石川実・次期学部長にも引き継がれていると言えよう。私は、民主主義の進んだ形態は、誰でも「管理職」になれる、ということではないか、とも思う。もちろん「武内先生が誰でも良い一人」といった意味ではない。適当な人であるのに評議員を歴任していなければ「駄目」というのは、おかしいという逆の意味である。
 もちろん、家政学部の多くのメンバーは、バランス感覚も持っていて「落選した一部では本命と思われた先生」に対し、しかるべき別のポスト(管理職・・・私注)に推挙しているのである。

奈良女子大学家政学部長としての「第一声」を聞く
 武内先生の奈良女子大学家政学部長としての「第一声」を、1991年4月の新入生ガイダンスの時に私は聞いた。私は、たまたま住居学科主任として、その場にいたからである。先生は、世界の大学の起源から説き起こされ、大学では教官と学生の対話により学問が進むのであって、そうするためには主体的に学ばなければならない、最近「活字離れ」が言われるが、大学4年間の約200週に毎週1冊、それが無理なら2週に1冊よんでも100冊の本は読める、計画的に古典に挑戦してほしい、といったことを言われたのである。そのことを、私は私自身に言われたとも思って聞いていた。(続く)

的場輝佳さんとの駄弁りング

2009-07-02 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
昨日、奈良女時代の友人、的場輝佳さん(奈良女子大名誉教授、関西福祉科学大学教授、日本調理科学会会長)と久しぶりに駄弁った。面白い話題・・・。

(1)「調理師は、美味しい料理を作るが、往々にして栄養バランスを軽視している。管理栄養士は、栄養バランスは考えているが、出来たものは往々にして美味しくない」とのこと、「なーるほど、上手い言い方だな」と思った。

(2)京大OB合唱団in柳川・・・九州の柳川でやられた京大OB合唱団公演関係の写真をパソコンで見せてくれた。柳川は京大OB合唱団の鳥越俊太郎さん(ジャーナリスト)の故郷らしい。鳥越さんは、ガンを患いながら「ガンは一時(いっとき)、歌は永遠」と明るく歌に取り組んでおられる。歌を俊太郎さんに印象づけたお母さんの写真もあった。

(3)最近、墓の計画を考えていると、パソコンで色々な墓の事例を見せてくれた。私は、「今のところ、下方上円墓(中にピラミッド=△を持つ)かな、デザインは未だ」と言っておいた。

二次会で、一曲づつ、童謡を歌った。聴衆は10人ほど。

奈良女・生活環境学部の懇親会に行く

2009-07-01 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日、夕方、奈良ホテルで行なわれた奈良女子大学・生活環境学部の懇親会(親和会)に招かれて行った。久しぶりに50人ほど集まったようだ。

私は時間を間違えて18時過ぎに行った。17時半から始まっており、先輩の近藤公夫・名誉教授、後輩(と言っても同世代)の的場輝佳・名誉教授も来ておられた。

私の近況報告:

「私は4年ほどまえに定年退職した西村一朗です。当時は奈良女のイチローと言っていました。心は、記録を残しても努力を怠らず日々前進していきたい、ということです。その後、平安女学院大学に移って、平女のイチローになりました。まあ平城京から平安京に移ってきました、と言っていました。

今回、平女も常勤を辞めて職場人間から地域人間になりました。で、最近は、けいはんな市民雑学大学のイチローと言っています。先日も記念館講堂で、ピアノコンサートの講座があり、320名ほどの参加があり大盛況で、共催の野口哲子副学長にも挨拶してもらいました。

次回は、7月25日で「奈良にうまいものあり」です。餅飯殿通りの「奈良マーチャントシードセンター」で午後14時からです。是非、ご参加ください。

けいはんな市民雑学大学をやって気付いたのですが、地域人間ー定年退職者や子育てお母さんーに必要なのは、自立して生活できるための「知」や「技」に関する生活学だということです。これは、正に「生活環境学」の応用ではないでしょうか。家政学会にも提案して良いと思うのですが、各地で「家政学会立」で、・・・地域生活大学(学校)を立ち上げたらどうか、と思います。

まあ、先輩近藤先生は80歳代、70歳代は今日は来ていませんが、的場さん、私は60歳代、皆さんの「先行きモデル」として頑張りたいと思いますので、応援して頂けたら、と思います。では、皆さん元気で楽しくやっていきましょう。」

参加者から「今日は、洒落が出ませんでしたね」と言われた。

二次会にも行った。今日は、「昔の仲間」と「ニューフェース」に会えて愉快だった。