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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

生きるとは、言い切ること、命を燃やすとは、いい後(のち)を準備すること

2005-08-30 | 私の考え出した言葉
「生きる」とか「命を燃やす」などという大きなことを一言で言うなんておこがましい、と思われるに違いない。私もそう思う。

ただ、ぐじゃぐじゃ生きていても仕方がないではないか、ということも思う。そうであるならば、きちんと目標を「言い切って」真っ直ぐに生きると言うのは清々しい感じがする。
同様に、命を燃やすとは、孫・子のためにも「いい後(のち)」を準備する心構えで全てに臨むことだ。借金何百兆円は、果たして「いい後」を準備しているのだろうか。
段々先が見えてくると、一言言い方が気になってきている。

私の考え出した言葉(41)スクラップ・アンド・ビルドからメインテイン・アンド・インプルーブへ

2005-08-29 | 私の考え出した言葉
スクラップ・アンド・ビルドからメインテイン・アンド・インプルーブへ、とは私の学位論文の第二章都市集合住宅地管理に関する概念的検討、の最初に述べたことである。(拙著『都市集合住宅地共用空間の共同管理に関する研究』1982年5月)これは、又、新建築学大系『ハウジング』で、住宅・住宅地管理の項の執筆の中でも述べている。英語で言うと、Scrap and BuildとMaintain and Improveである。前半の言い方は、以前からあったが、それを後者のように転換すべき時代ではないか、というのが私の主張であったし、今もそう思っている。何でもとにかく壊して建てれば良いというのではなく、大事に維持管理し不都合なところは改良していく、という精神である。そのためには粗悪なものでなく、しっかりしたものを先ず造る必要があるのは、論を待たないであろう。
あれから20年以上経って世の中もそのことを認めてきたようで、なお一層その具体的あり方を追求しなければ、と思っている昨今である。

私の考え出した言葉(40)基本的生活力

2005-08-23 | 私の考え出した言葉
私は「炊事、洗濯、掃除、お洒落、育児、近所づきあい」が出来ることを、基本的生活力と言っている。(『日本家政学会誌』1998年1月号)阪神・淡路大震災後、仮設住宅等で孤独死した人は、最終的に何人になったのか、知らないが、1998年初頭には200人ほどであった。そして60歳、70歳、50歳の中高年男性が多い。何故か、考えてみると、社会的サポートの面を除くと、それらの人々は「炊事、洗濯、掃除、お洒落、近所づきあい」が十分出来なかったからではないか。インスタント食品ばかり食べ、部屋や下着を不衛生にし、家に閉じ篭って酒びたりになっていれば、栄養が偏り体を壊して、やがて死に至っても不思議ではない。
中高年男性ばかりでなく子供にも基本的生活力をつける必要がある。それらを「家事」ではないか、と馬鹿にしてはいけない。宮大工の斑鳩の小川さんは、弟子入りした子供たちに3年間ほど徹底的に「炊事、洗濯、掃除」をやらせるようだ。何故なら、それらが毎日きちんと出来なければ、大工仕事の複雑な段取りも十分出来ないと考えておられるからだ。誠に尤もなことだ。老若男女とも基本的生活力をつけてこそ、本当の老若男女共同参加社会に近づくだろう。

私の考え出した言葉(39)広く、水平に、滑らかに、所々に変化をつけて

2005-08-22 | 私の考え出した言葉
前に「道は未知に満ち満ちている」と言ったが、これは歩道に関する提起だ。道路構造令というのがあって歩道については、第11条に規定されており、その幅員は、歩行者の交通量が多い道路にあつては3.5メートル以上、その他の道路にあつては2メートル以上とするものとする、となっている。しかし、実際には、これ以下の所が圧倒的に多いのではないか。車道の片隅に1メートル幅位の白線を引いて「歩道でござい」という所も多く見られる。やはり、少なくとも2メートル、車椅子の人がすれ違える位の幅がほしい。これが「広く」である。次に、人が歩く所はアップダウンが少なくなるべく「水平に」すべきである。人は歩道橋で上下するのではなく、水平に歩けるべきで、馬力のある自動車の方が上下すべきであろう。この場合、特に「上」の場合、景観に配慮は当然である。また道の表面は、けつまずかないよう「滑らかに」仕上げるべきだろう。最後に真っ直ぐ延々と歩道が続くのも疲れるので、ベンチを置いたり、公園や公衆便所に接続したり、眺望点を配置したりして「所々に変化をつけて」おく必要もあろう。
要は「歩道は、ほどうほどうに造るのではなく、しっかり造るべし」ということだ。

百聞は一見に如かず、同じく一臭、一味、一触、しかし・・

2005-08-20 | 私の考え出した言葉
「百聞は一見に如かず」とは誰もが知っている言い方だが、同じように「百聞は一臭に・・」「百聞は一味に・・」「百聞は一触に・・」とも言いうるだろう。臭いや味や触り具合も、いくら説明しても、それらの一回の実践にかなわないということだ。
確かに、それはそうなのだが、では五感の中で特に言葉を聴覚で受け取ることが、一番「劣っているか」というと、そういうことはあるまい。言葉自体は人間が発明したもので、ある意味で細かい描写(説明)や全体的・概念的把握の伝達に優れていると言える。だから、いくら見ていても、臭っていても、味わっていても、触っていても動物的レベルの認識(納得)を超えるのは、(自分も含め)誰かの一言によるとも言えるわけで、そうなると、「百見は一聞に如かず」等と逆転するのである。

Re-tire

2005-08-19 | 私の考え出した言葉
良く遊園地などに、古いタイヤを半分に切って土中に埋め、その上で遊ぶようにしたのがある。又、今、高校野球を甲子園でやっているが、足腰を鍛える練習に古タイヤを幾つか繋いで、それらを引っ張るのもある。
これらの古タイヤのことを「Re-tire」というのである。一旦引退したと同時に再びタイヤとして活躍しているという訳だ。
我々も、Re-tireでありたい。

私の考え出した言葉(38)旅はたびたび

2005-08-19 | 私の考え出した言葉
これは一般にも流布しているので、誰が一番初めに言ったかが問題となろう。私が初めて言ったのは1987年3月である。その時、囲碁の格言を利用しながら「少なくとも同じところに二度行きたい」と言っている。囲碁の格言とは「二石(にもく)にして捨てよ」というものだ。一石なら後ひとつで取れるところ、二石に伸ばせば、取るのにあと三石も手がかかる、つまりそれだけ強くなる、ということである。同じように、同じ所に二度旅をすると、印象は格段に強くなる。一度目に見落としたことも確認できるのである。
また、旅は元気なうちに遠くへ、ということも言う。生活空間は、足の衰えや意欲の衰えで私の年代では段々縮小する傾向があるからだ。だから、今度、宇宙とまで言わないが「far east」から「far west」へ旅をしようと考えている。

私の考え出した言葉(37)箒の先から居住地改善

2005-08-18 | 私の考え出した言葉
毛沢東の「鉄砲の先から政権獲得」といった物騒な言葉があったが、勿論、現在の日本でそれはあたらない。しかし、その言い方が頭にあって、この言い方が生まれた。居住地管理には維持管理がベースにあるが、毎日の掃除がまた基礎であろう。家の前を箒(ほうき)で掃き清めるのがその中心である。管理の専門家の疋田洋子先生にお聞きすると、道掃除の要諦は、隣や向かいの家との境界より少し先まですることだ、と言う。互いにそうすることで道が綺麗になるわけだ。
そして、その毎日の箒を使いながらの掃除の先に、道や居住地を良くしていくポイントが見えてくるということだ。そういえば前にブログで書いたと思うが、関連して、疋田先生の退官にあたり私は次の575を贈った。
つくりたる家を良くする大掃除 市路

私の考え出した言葉(36)視線深度

2005-08-17 | 私の考え出した言葉
英語でもseeは「見えている」で、look atは「(ピンポイントで)見る」であろう。前に「心そこにあらざれば見れども見えず」という言葉もブログに書いた。物を見る場合、見えている、見る、見つめるでは対象に対する「感情移入」の度合いが違う、それが「視線深度」ではなかろうか。対象にどの程度深く食い込んでいるかだ。ぼーと見ていて、はっと気付くのは「視線深度」の急変である。でも、絶えず「深く」は疲れるので、夏はぼーとしていたい。
(2004年1月31日の日記にある。)

私の考え出した言葉(35)開発御殿

2005-08-16 | 私の考え出した言葉
水俣病患者のための住宅改善に関する論考でも使った。当時、補償金による患者の住宅改善について一部「華美」なものがあり、一部の市民から「奇病御殿」と揶揄されることがあった。それに対して、私達は実質的で着実な改善策を提案した。
何故なら、「御殿」は市民から不当に批判される恐れと共に、一般的に長続きしないからである。住宅には、初期投資のほか長期的にランニング・コスト、メンテナンス・コストがかかり、「御殿」はそれらが高くついて長続きしないのである。
私は、別に鹿島コンビナートに視察に行ったことがある。補償金を手にした元漁民が「御殿」を建てていた。訪問すると、高級外車が止まり、室内は豪華なシャンデリアで飾られ、マントルピースには高級洋酒が並んでいた。数年後の再訪:セコハン車、シャンデリアは切れ、絨毯は擦り切れ、安酒にかわっていた。一旦「華美」になった生活は、「下方硬直性」をもっていて「破綻」するのである。私は、ダム水没補償、道路開発補償等によるものを含め、これらを「開発御殿」と呼ぶことにした。
「御殿」の淵源は、北海道の「鰊御殿」である。

私の考え出した言葉(34)集住生活の礼法

2005-08-15 | 私の考え出した言葉
1974年に京大から奈良女子大に移ってから居住地管理に関する研究を行い、1982年に学位論文にまとめた。その過程で色々の言葉が「生まれた」が、この集住生活の礼法という言い方は初期のものである。一寸前に京大の先輩・広原盛明さんが西山先生の示唆で「礼法の研究」をしておられた。小笠原礼法というのが有名であるが、現代の住生活に特有な礼法が新たに考えられるべきでは・・という問題意識だったと思う。私も、居住地管理の研究では、当時は維持管理、生活管理、経営管理という三つの言葉を関連付けて進めていたが、生活管理の面で「集住生活の礼法」が必要では、と述べたことがある。礼法というのは、やや古臭い言い方なので、やがて「住み方マナー、ルール」という言葉に変化していくことになった。
生活時間のコントロールや生活の仕方の自制等である。

私の考え出した言葉(33)居住地管理は、人の目、人の声そして人の足音

2005-08-14 | 私の考え出した言葉
私の学位論文は、居住地管理に関するものだった。だから、これに関して色々考え出した言葉がある。今回は、上記のものをあげてみた。
 東北の農村に次のような言葉が伝わっている。「田圃(たんぼ)の肥やしは、人の足音」(NHKラジオ「伝えてゆきたい言葉」より)これは、田圃で良い稲をつくるには単に肥やしを施すだけでは駄目で、人間が足しげく田圃を訪れる要があるということだ。つまり、そうして雑草を抜き、害虫を駆除し、肥やしを施し、水の管理を丁寧にする、ということが豊作に通じるということだ。この言い方にヒントをえたものだ。つまり、「人」による視覚的管理、「人」による居住者への話しかけ、そして「人」の足しげき訪問による総合チェックが居住地管理の要諦ではないか。そして、その「人」こそが居住地管理専門家なのだ。
歴史的には、イギリスのオクタビア・ヒルもこの考えではなかったか。
(巽和夫編『現代社会とハウジング』の拙稿より、1993年6月)

否定形のライフスタイル(=私の考え出した言葉(32))

2005-08-13 | 私の考え出した言葉
私がイギリスにいた頃(1982年~1983年)、隣に住むイギリス人のおじいさんに「お前は本当に日本人か」と言われたことがある。何故なら「お前は自動車を持っていない、ゴルフをやらない、朝早く出て夜遅く帰ることもない。そんなの日本人か?」と言うのである。そう言えばそうだな、と思った。そうして考えてみると、他に(最近は)煙草を吸わない、万博というものに行ったことはない(ついでにディズニーランドにも行ったことがない)、アメリカに行ったことがない等と言う「ない」も「ある」ことに気付いた。
これを、どんどん「増やして」否定形のライフスタイルを確立すれば、恐らく「シンプル・リッチ・ライフ」となるであろう。しかし、まあそんなに突っ張らなくても良いとは思っている。アメリカには是非行ってみたいし(今は見合わせたほうが良さそうだが・・)、孫にせがまれればディズニーランドにも行くかもしれない。でも、多分、煙草を吸わない、自動車を持たない、ゴルフをしない、の「ない」は一生「ある」のでは、と思っている。

私の考え出した言葉(31)弁創士

2005-08-13 | 私の考え出した言葉
昨日、焼肉屋での駄弁り合いで、テレビの影響もあり、最近は弁護士に、やはり人気があるのではないか、という話になった。専門の大学院も出来たが、進学者もまずまずのようだ。私は、このように弁護士をアメリカ並みにどんどん増やすことには一寸異論を持っている。アメリカは混合民族社会だから、考え方は様々で紛争は法律でさばかないと止むを得ないかもしれない。ところが、日本は昔から(聖徳太子の頃から)「以和為貴(わをもってとおとしとなす)」のがベースの社会ではなかろうか。無理に紛争を増やして対応する弁護士を増やす必要もない、と言うのが私の意見である。
しかし、しっかりした弁護士が必要というのは当然のことである。私は、以前、水俣病の患者さんの住宅改善に取り組んだとき、現地の馬奈木昭雄弁護士と知り合った。若い(当時)けれど、しっかりした、「チッソ」を相手に度胸もすわった弁護士さんだった。馬奈木さん達と話していて私は「弁護士は、法律に基づいて弁じて護る人、我々はある意味で弁じて生活空間を創る人という意味で弁創士かな」と言ったのである。誰かの弁じているだけでは駄目、との声は聞こえたが・・。
ただ、勿論、弁護士さん達にも「国民生活基本法」などは弁じて創ってほしいと念じている。

私の考え出した言葉(30)道は未知に満ち満ちている

2005-08-10 | 私の考え出した言葉
この言葉集もついに30まで来た。人生60数年生きてきたので年に一つとして、この倍位はあるのでは・・と思っているが・・。
今日は「道の日」なので、これを選んだ。これは、私の「地域居住学」の講義で、道のことについて話す時に言っている。道は、土木工学の対象だけではなく、庶民の生活空間として大切なものだ。だって家から出れば必ず道(歩道)ではないか。
みちの機能として、一応八つ挙げている。(『住環境の計画Ⅰ 住まいを考える』彰国社1992年12月刊、拙稿より)(1)とおる(歩く、走る)(2)つきあう(あいさつ、話し)(3)あそぶ(4)車にのる(自転車、自動車)(5)植物でかざる(6)ものを置く(7)空間をあける(8)きれいにする(掃除)
この他にも色々あるだろう。芭蕉のように「この道や行く人なしに秋の暮れ」などと言えば「吟行の場」、アリストテレスのような逍遥学派の哲学徒にとっては「哲学の場」と言えるであろう。
だから「道は未知に満ち満ちている」のだ。掘り起こし開発し豊かにしていこうではないか。