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西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

隔世紀遺伝

2007-04-05 | 私の考え出した言葉
昨日、平安女学院大学生活福祉学部の新入生オリエンテーションがあった。行なわれた場所は琵琶湖岸の38階の大津プリンスホテルである。生活福祉学部の福祉は「幸福」を意味する。その学部は、幸福の象徴の四葉のクローバーのように四つの出口コースを持っている。保育コース、これはそのまま保育学士課程である。もう一つは生活福祉学士課程であり、そこには三つ、臨床福祉コース、健康福祉セラピーコースそして建築インテリアコースである。最後の建築インテリアコースを中林 浩教授が説明した。建築インテリアは、空間的には正にインテリアから建築を経て町づくりまであること、時間的には建築インテリアの歴史が重要であって、それぞれの分野で学習の要がある。福祉臨床でもイギリスの19世紀が大切と言われるように、建築~町づくりでも19世紀のイギリスに近代の原点がある・・・、と言ったことを説明された。
私も、勿論、そのように思う。住宅管理の母オクタヴィア・ヒルも、田園都市のイベネザー・ハワードも、建築・芸術運動のラスキンやモリスも19世紀のイギリス人だ。1836年~1901年まで女王のヴィクトリア時代だからという訳でもないが社会的に女性も活躍した。先のオクタヴィア・ヒル以外にもナイチンゲール、ベアトリス・ウェッブも19世紀のイギリス女性だ。マルクスやエンゲルスが科学的社会主義思想・理論を提起したのも19世紀のイギリス。「社会政策法」の嚆矢(始まり)とも言える工場法や公衆衛生法が世界で初めて出来たのも19世紀のイギリスである。翻って日本を見ると、江戸から明治の時代が19世紀である。我々現代を生きている者は殆どが20世紀に生まれたので、実際に19世紀を経験していない。
経験せず「知らない」から「憧れる」面もあるが、人間に隔世遺伝があるように、少し大きい世の中には「隔世紀遺伝」があるかもしれない。現代(21世紀)と対比して19世紀も鋭意研究していこう!

Intellity (cf.Vitalligence )

2006-09-24 | 私の考え出した言葉
mixi社会の最近の話、私の友人のFUTANさんのお友達「アトムさん」らがmixi使ってやりだしたVitalligence(ヴァイテリジェンス)活動というのがある。それはVitality × Intelligenceと言う。ヴァイタリティのある知的活動ということだろう。非常に積極的イメージだ。こういう造語を見ると、あまのじゃくがムラムラと頭をもたげる。そういう半々をくっつける造語なら、Intellity (インテリティ)というのまあありうると思った。Intelligence×Vitality なのである。Intellitalityとしても良い。(こちらの方が「インテリが足りている」という洒落になるかな)これは、静的イメージ、静かに知的に活動し、そのうち動き出そうか、と言ったやや傍観者的とも言えるが、ヴァイタリジェンスとも「つながり」を保とうという態度を言う。
ヴァイタリジェンスに関心のある方は次へ:http://www.vitalligence.com/

観光は「五感行」そして「観陰」

2006-07-31 | 私の考え出した言葉
観光は「国の光を観る」ということのようだ。私は、前に、確かに「観る」のは、五感のなかでは最も情報量の多い「感覚作用」なので、良く分るが、やはり本当は「五感」全てを働かせて、それらを活性化する「五感行」ではないか、と言ったことがある。(本年6月15日ブログ参照)そこでは、五感道(ごかんどう)という言い方もしている。
さて、今日は、付け加えて、何事にも「光あれば陰あり」なので、薄っぺらに「光」だけ観るのではなく「陰」も観て(いわば「観陰」して)立体的に奥深く捉えることが、観光の本意ではないのか、と考えてみた。都市でも表通りだけ見るのではなく裏通りも見る必要があるし、高級住宅地とともにスラムも見れるなら見て総合的に把握することが必要だろう。

脱亜入欧が続いているのかー「半亜半欧」の提案

2006-07-11 | 私の考え出した言葉
北朝鮮のミサイル発射に対して日本はアメリカとも相談して「北朝鮮非難決議」ともいうべき国連決議案を提出した。イギリス、フランスの国連安全保障会議常任理事国も賛成している。しかし、同じ常任理事国の中国は反対、ロシア、韓国も反対の意向だ。この構図を見ると明治以降の福沢諭吉が言った「脱亜入欧(アジアを脱して欧州に入る)」が続いている感じである。私はあえて「脱欧入亜」とは言わないが「半亜半欧」を独自に目指して欲しいと思う今日この頃ですが、皆様、如何でしょうか。

私の考え出した言葉(52)でも暮らしいい(Democracy)

2006-07-02 | 私の考え出した言葉
民主主義は普通「多数決の原理」と言われる、多数で決めたことは実行する、ということだ。しかし、民主主義には「少数意見の尊重」ということもあるのだ。多数決で決めて実行しようとして拙いと気づいたり、実行して拙いとわかったら再度協議して、前の少数意見が良いとなれば新たな多数決でそれを決めて実行する。しかし、その場合でもなお少数意見があるとすれば、それらも留保される。とにかく民主主義には良識と忍耐もいる。「でも暮らしいい(Democracy)」のである。

私の考え出した言葉(51)ご観光とご感動ー平安女学院大学の来年の改組でー

2006-06-15 | 私の考え出した言葉
ご観光は五感行(考)とは05年7月17日のブログで書いたことだ。
同じように、ここでは、ご感動は五感道である、と言ってみたい。ある意味では「言語遊戯」である。前の「ご観光は五感行」というのは、「ご観光は、即ち五感全体を楽しませ活性化するための旅行に他ならない」ということだ。で、「ご感動とは、五感それぞれの道を究めたところに生まれるのではないか」ということだ。
来年、平安女学院大学では、国際観光学部と生活福祉学部を立ち上げるが、そこでは正に「五感道(ごかんどう)」の追求が必要だ。嗅覚については「香道」という道があるが、「視覚道」「聴覚道」「味覚道」「触覚道」というのは、まだはっきりしていないのでは、と思う。まあ華道は視覚が中心、茶道は味覚が中心だが、それだけではなく複合している。それらも整理する要がある。とにかく世界中を旅しながら、また地域に密着しながら「五感道」を究めていきたいものだ。

私の考え出した言葉(50)リエゾン・リサーチャー

2006-05-10 | 私の考え出した言葉
リエゾン・リサーチャーとは、「学際連絡研究者」とでも言えようか。奈良女子大学大学院人間文化研究科で新 睦人先生が科長の時、学際的な研究科を構想し、どういう修了生を育てるのか、で私は「リエゾン・リサーチャー即ち学際連絡研究者を養成すべし」と発言し、文部科学省提出書類にその言葉が書き込まれたことがある。この言葉は、元々は、リエゾン・オフィサー即ち連絡将校という言葉からきている。(フランス語か)連絡将校とは、陸軍と海軍、前線と参謀等々との連絡を緊密に行いうる将校(少尉以上)である。連絡する両方の実情に通じていないといけない。
同じようにリエゾン・リサーチャーは、理科系と文科系、理科系でも基礎科学と応用科学の両方にある程度通じていないといけない。そのことで、両方で「ブレーク・スルー」の可能性が出てくるのだ。でも、こういう人って大学院で育てうるか一寸疑問だな、とも率直思った。

私の考え出した言葉(49)塀画(へいが)

2006-04-24 | 私の考え出した言葉
世に壁画、障壁画、天井画等はあるが、恐らく「塀画」は私の造語ではないか。『キラッと輝くいい住まい』(拙著、家内と共著、彰国社)の最初の玄関の話の辺りにでてくる。まあブロックやコンクリートの塀は無粋なので、どうしてもそれらでやらねばならない場合、表面に粋な「塀画」を描いたらどうか、の提案である。まあ工事現場の囲い塀に最近描かれている絵も「塀画」に含まれるかもしれない。今日の平安女学院大学生活環境学部2回生対象の「基礎ゼミ」の時の本の読みあわせで出てきたので、「そうだったな」と思い出した。「へ~」と言わないでね。

ついでに、玄関:玄妙なる関門、禅宗の言葉。台所:台盤所、平安の昔から。

私の考え出した言葉(48)Simplidancy

2006-03-09 | 私の考え出した言葉
昨年7月14日のブログで、「私の考え出した言葉(5)commuvacyとprivunity」を書いた。これらも英語の単語の合成(smokeとfogの合成でsmogという如し)であるが(communityとprivacy)、今回のもsimplicity とredundancyの合成である。「単純である」というのと「冗長である(余裕がある)」というのとの、ある意味で矛盾語の合成である。その意味するところは、生活でも空間でも、Simpleに越した事はないと同時にRedundant(余裕がある)であって欲しいということだ。
用のある部屋だけがあるのがsimpleな住宅だが、縁側や庭がredundantにあるのが本当にrichなのではないか。町もsimpleであっていいが、いざという時のため、必要以上の空地、公園緑地や体育館等の一見無駄とも言える空間が巧みに配置されているのが、Simplidancy(シンプリダンシー)と言えよう。

私の考え出した言葉(47)臭い付け・臭い消し空間論

2006-02-15 | 私の考え出した言葉
私の考え出した言葉(46)の「思い出し・思い入れ生活空間論」(『建築雑誌』1990年12月号、日本建築学会、ブログ06年2月11日)論文には、「臭い付け=刻印」のことも書いた。最初に、このアイデアを思いついたのは、1990年5月の日本家政学会住居部会での秋山俊夫先生(当時、福岡教育大学教授・心理学)の講演による。(05年7月6日ブログ参照)我々人間が造る空間を「親しく」感じる一つの方法として、その空間に自分の「臭い」を付けることではないだろうか。犬が自分の領域を主張するのに「臭い」を付けるのに似ている。「臭い」をつければ、そこに「引力」が働くと言って良い。小学校の卒業時に記念植樹をすれば、そこに卒業生は引き付けられる。サラリーマンのスナックへの「ボトルキープ」も「引力」である。逆に影響を消そうとするのが「臭い消し」であり、刻印に対して削印とでも言えよう。新しい権力者は古い権力者の「臭い」を消そうとするし、新たな居住者は一般に前の居住者の「臭い」を消そうとするのである。(ブログ05年9月30日でのロンドン・ハムステッド田園郊外の「臭い付け」事例参照)(写真は、植樹)

私の考え出した言葉(46)思い出し・思い入れ住居論、二重富士山構造

2006-02-11 | 私の考え出した言葉
住居や生活空間の「歴史的つながり」の重要性は前から論じている。「歴史」には色々な時間的スパンがあるが、その身近なあり方として、自分史的に「思い出し・思い入れ」住居論(生活空間論)があると思っている。そのことは、詳しくは『建築雑誌』(日本建築学会、1990年12月号)に「思い出し・思い入れの生活空間論」として書いている。そこにも書いているが、「思い出し・思い入れ」は、二重富士山構造ではないかとの仮説図式も提示している。それらの「富士山」は、縦に二重に重なっていて、下の富士山が、思い出し部分、上の富士山が思いい入れ部分としている。思い入れの中心は思い出しが支えているが、思い入れの裾野には、他の見聞体験も効いてくる。思い出しも思い入れも裾野は広いが、上昇するプロセスで精選され高嶺の白雪のようになる。その「白雪」を実現するのが、一つの理想である。この仮説は、クライアント(施主)に要望を聞いて行くときの枠組みにもなると思っている。

私の考え出した言葉(45)発信住宅、受信住宅

2006-01-20 | 私の考え出した言葉
今度、現在住んでいる住宅を改修するに当たり、色々他所の例も参考にしようと思っている。いわば、他の「先進事例」の情報を受信しようと思っている。で、改修が終ったら、経験をまとめて発信したいものだ。こういう具合に、どういう住宅でも、受信と発信があると思うが、世に「有名な」住宅は、発信だけ(後はどうなっているか・・)、他の一般住宅は受信だけ、とならないような受信、発信しつつ成長、成熟していく住宅像を持ちたい。一連の時間的流れを、企画から管理まで一貫してサイクルとして捉える考え方でもある。

私の考え出した言葉(44)三つのSB

2006-01-05 | 私の考え出した言葉
年頭に当たって最近考えていることをまとめるような言葉として、「三つのSB」というのをJRに乗っていて思いついたので報告する。SBと言っても「カレー粉」のことではない。前に岐阜大学の渡辺光雄さんの理論として「S.B.理論」を紹介した。(8月23日ブログ)それとも関係がない。要するに、次の如し。
Small is Beautiful!
Slow is Brilliant!
Simple is Best!
ということである。(それぞれは、誰かが言っているかもしれない。三つまとめて3SBと言うのは私だ。今後、ライフスタイルもこれに沿って再構成したい。)

私の考え出した言葉(43)方向性のある窓

2005-11-22 | 私の考え出した言葉
久しぶりに「私の考え出した言葉」だが、「言葉」というか「設計のアイデア」である。これは、奈良女子大学の「学園だより」に2000年の2月に書いたものだが、今年の最終講義でも説明した。「方向性のある窓」とは、部屋の方向、建物の方向にとらわれず、見たいものがある方向に向けた窓である。建物(土台)の方向が一段目、部屋の方向が二段目とすると窓の方向が三段目で、それぞれを自由な方向に向ければ面白い立面となる、というやり方だ。三段構成は、人間自体の体の方向、顔の方向、そして目の方向であり、物では「ルービック・キューブ」の三段をイメージしたらよい、と私は言っている。
(写真は、ルービック・キューブ、上段が窓、中断が部屋、下段が建物(土台)の方向のイメージ)

私の考え出した言葉(42)バリア・フリーからバリア・リベラルへ

2005-09-04 | 私の考え出した言葉
これは、水俣病患者の改善住宅を調べた後で考えた言葉であるが、未だ公表はしていない。ある水俣病患者住宅を調べた時、いわゆる座式の腰掛便器と伝統的なしゃがんで踏ん張る便器と両方設置している家があった。「どうしてですか、腰掛便器だけで良いのでは・・」とお聞きすると「いや、つらい時は、腰掛式でトイレをするが、元気な時はリハビリも兼ねてしゃがんで踏ん張りますよ」との答えが返ってきた。なるほど、と思った。それ以来、バリア・フリー(バリアなし)からバリア・リベラル(バリア自由、色々なバリアあり)へ、と言っている。
今度来た『学士会会報』2005-Ⅴ号を見ると、武藤芳照さん(東大教授、名大医学部卒)が「バリアフリーかバリアアリーか」と言っています。一寸引用します。「バリアフリー施設というのは、手すりがついていたり、段差がない自宅や公共施設でありますが、私どもの仲間が調べたところによりますと、バリアフリー施設に長年いればいるほど、足腰が弱って、かえってころびやすくなることがわかりました。(中略)足腰の弱くならない住宅の開発を早急に、産学連携でやろうと。バリアアリー施設にしたいと言っていました。究極のバリアアリー住宅は日本家屋です。玄関に上がりがまちがあって、履物を脱いで上がったり下りたりしなければ暮らせないので、日本家屋でしっかり暮らせるというのは、大変足腰がしかりしているという象徴であります。・・」と。
折りしも10月10日は「転(テン10)倒(とう10)予防の日」と言う。今後、ユニバーサルとも言ってよいが、バリア・リベラルを推進したいものだ。