生き生き箕面通信

大阪の箕面から政治、経済、環境など「慎ましやかな地球の暮らし」をテーマに、なんとかしましょうと、発信しています。

生き生き箕面通信175 ・今日は五・一五事件から77年

2009-05-15 21:26:15 | 日記
こんばんは。実は今朝、送信したはずですが、夜になって消えていることに気がつきました。仕方がないので、今の時間に再送信します。
生き生き箕面通信175(090515)をお届けします。

・今日は五・一五事件から77年
 この事件を契機に日本の政党政治は終焉し、軍部独裁の政治へ移行しましたので、今日は歴史を振り返ってみます。(ウイキペディアを参考にしました)

 昭和7年(1932)5月15日、海軍の急進派が時の犬養毅首相を襲い、暗殺。その3年前の世界恐慌の影響で日本経済は立ち直れず、特に東北地方の農村では「娘の身売り」が行われるほど疲弊していました。

 犬外首相は、護憲派の旗頭。前年には関東軍が満州事変を引き起こすような世情でした。恐慌勃発以前は、大正デモクラシーの流れで、知識階級やマルクス主義者らは強く軍縮支持・軍部批判をしていました。一般市民も軍人が軍服姿で電車などに乗ってくると罵声を浴びせるほどで、軍人は肩身の狭い思いをしていたと伝えられています。

 犬養首相が暗殺されたのは、彼が日本の版図拡大に反対していたからです。暗殺の前日に、チャールズ・チャップリンが來日していて、チャップリンも標的にされたのですが、犬養首相との会談をキャンセルしたことで、難を逃れたそうです。

 襲われたときの、「まあ待て。話せば分かるじゃないか」「問答無用。撃て」はよく知られたシーンです。

 この事件後、日本の政党政治は終わりを告げ、軍部出身の首相が牛耳る、今の北朝鮮のような独裁政治へ移行してしまいました。

 事件の首謀者への刑は極めて軽かったことも後押しして、4年後の昭和11年には今度は陸軍の若手将校がクーデター「二・ニ六事件」を起こしました。その間も中国大陸では、軍部が戦線を全土に拡大、米英などの介入を招き、アメリカに宣戦布告する太平洋戦争に突入。そして広島、長崎への原爆投下まで無意味な戦争を終える決断はできない無責任体制だったのです。

 その後60数年、日本は戦争をせずに平和を維持してきました。しかし、最近は外国へ軍隊(自衛隊という呼び方で軍隊ではないそうです)を派遣することも重なり、米国からの強い要請もあって、憲法を改定し、堂々と軍隊を持てる国にしようとする動きが加速しています。

 それに対する平和勢力の後退は、危なっかしいものがあります。いわゆる「60年安保」から、来年はちょうど半世紀。あの当時は、原水爆禁止の運動も大きく盛り上がっていました。核の恐怖は増しているのですが、これにも僕を含めて鈍感になっています。

 沖縄の米軍基地。アメリカ軍が、アメリカの世界戦略の拠点として今の今も自由に使いこなしています。日本の自衛隊も直接巻き込みつつあります。日本がアメリカに占領されている実態がこれほどあからさまになっている現実を、どうしなければならないのか。現実の運動としては、まずこの現実に立ち向かうことから始める必要があります。日本の安全保障を考えた上で、この沖縄の基地撤廃から運動を築き直すことが急務になっています。